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2008/10/23

屈服の論理 1

 「琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外を受け、そのうえ「だが、琉球にもなれ、大和にもなれ」と、その隠蔽まで強いられた奄美は、それにどう応えたでしょう。それを知る手がかりになるものに、奄美の人の残した文章があります。それは、「大島代官記」の序文で、奄美の最初の知識人が書いたと言われているものです。『しまぬゆ』(二〇〇七年)が書いている大意を参照しながらもとの書き下し文に近づけてみます。

一、述べて言うが、小が大を敵にすべきではない。殊に小島の琉球王国には武器の備え無く、何によって永く国を守るべきか、最も危うきことなり。
一、琉球国は元来日本の属島である。御当家島津忠国公の時代、永享四年(一四三二)忠勤の褒美として尊氏卿六代の将軍足利義教より拝領したものである。中山王(琉球国王)はその礼を守り、綾船に在島の珍物を毎年二船ずつ捧げるよう二心無き旨誓い通い来ていた。
ところが、琉球国一司官の内の一人蛇名親方が、短慮愚蒙の計略によって逆心を企て、当家島津氏に背き、両艘の綾船を止め、往来無さ事二年に及び、当時の中納言家久公がこれを将軍家康に言上し、薩隅旦二州の軍勢を催し、琉球国を成敗するため差し向けた。大将軍樺山権左衛門肘、同平田太郎左衛門尉両将数千噺の軍士を差し渡し、慶長十五年酉四月速やかに退治した。
一、この時より初めて琉球を治める在番を定め、離島には守護代官をおき、そして領地を割譲して年貢を納めさせた。
一、嘆かわしきは、禍は自ら招くというのは疑いなく、故に天のなせる禍は避けられるが、自らなせる災いは避けられない。蛇名一人の考えの足りなさから、永く王国の支配下にあった島までも侵略され、今では昔を慕うことは無益というものであろう。

 不思議な文章でしょう。ぼくは、薩摩の役人が書いたものと思って読み進めてみたら、奄美の島役人が書いたものと解説されていて心底、驚きました。何度確認しても、奄美の島人が書いたということはなかなか納得できませんでした。どう見てもこれは薩摩の役人が薩摩のために書いたとしか思えないものだったからです。一体、何が起きているのでしょう。

 「小が大を敵にすべきではない」という冒頭の宣言の情けなさは時代的な制約を考えて置くとしても、「琉球国は元来日本の属島である」という認識はもう薩摩が琉球に強いた史観です。そして「蛇名親方」が浅はかで愚かな計略を立てたために「琉球国を成敗」したというのは、ますます薩摩の都合のいい口実です。しかも「蛇名親方」という文字は正確ではなく、本当は「謝名親方」といいます。「謝名」を「蛇名」としているのは、悪事を責めるための筆誅だというのです。「蛇名」の他にも「邪名」、「若那」という字を使っている文書もあります。こんな幼稚な責苦までされて謝名親方は貶められているのです。

 謝名は果たしてここまで責を負う謂れがあるのでしょうか。

「奄美自立論」8-1

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