二重の疎外とその隠蔽の核心
ぼくたちはこうして、奄美の失語が、右を向いても左を向いても「違う」と言われてしまうような、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外に由来していることを知ります。しかしことはそれで終わらず、「奄美は琉球ではない、大和でもない。だが琉球にもなれ、大和にもなれ」という二重の疎外を隠ぺいしなければならなかったのです。それは奄美の失語を深くし、人形のような空っぽな存在のように自身をみなす刻印を押されたのです。
ぼくはここで、もうひとつ付け加えなければなりません。
守衛方の物頭として大島に来島したことのある扮陽光遠は『租税問答』で、次のように書くのです。
問て日、右判物の趣を以ては道之島は中山王領地の筋なり、然れば慶長より琉球を離れ吾に内附せしは内證のことなるや、答て日、然り、内地の附属と云うこと、別段御届になりたる覚へなし、故に代々の判物皆替ることなく拾二万三千七百石余なり、道之島人今に至り容貌を改めざるも是が為なるべし、琉球へ封王使渡来は中山国第一の大礼なり、此時には道の島より鶏、玉子、豚、薪の類を米にて調納する遺例ありて五島皆然り、島の大小に因て其品多寡ありとぞ、此時も外には何も交際あることなしと琉人より聞けり。
このひそひそ話のようなやりとりを意訳してみよう。
問うて言う。奄美の生産高が琉球高とされていることからすると、奄美は琉球王朝の領地なのが筋だが、慶長から琉球を離れて薩摩のものになっているのは内証のことなのか。答えて言う。そうだ、内地(薩摩藩)に付属しているということは別段、届け出た覚えはない。だから、代々の生産高は変わることなく一二万三七〇〇石余りである。奄美の島人が今に至るも容貌を改めていないのもそのためである。琉球へ冊封使が渡来するときは、琉球王朝の第一の儀礼になるが、このときは、奄美の島々から鶏、玉子、豚、薪の類を米で納める慣わしがあって五島皆そうだ。島の大小によって多い少ないはある。このときも他にも何も交際はないと琉球の人から聞いた。
こういう内容だと思う。琉球王朝の祭儀に間接的ながら奄美の島も参加していたことがここでも分かるが、ここで注視するのは、「慶長より琉球を離れ吾に内附せしは内證のこと」ということです。
奄美だけでなく琉球全体に「大和ではない」という規定を強制したのは、明に対して、琉球王朝の存在を見せる必要があったからだった。ということは、明に対して琉球侵略は「内証」のことでした。
しかし、この『租税問答』によると、それだけではない、奄美に対して「琉球でもない」と規定した奄美の直接支配のことは、幕府に対して「内証」のことだったのです。薩摩は、琉球侵略を幕府とともに明に対して秘密にしますが、それだけではなく、こんどは幕府に対して奄美の直接支配を秘密にするのです。ぼくは驚くと同時に、この政治行動はきわめて薩摩的だとも感じます。
奄美の失語を決定的にしたのは、二重の疎外とその隠ぺいのなかでも、奄美を直接支配しているということを、明、清に対してだけでなく、幕府に対して「内証」にしたことにあります。それは、対外的にも対内的にも知られざることだった。ということは、奄美の困難は誰にも知られることなく、二六〇年を過ごしたということになるからです。ここに、知られなくても当たり前、不合理な困難があっても知られることはないという奄美の宿命が明瞭に刻まれているのを見ないでしょうか。ここに、解除しなければならないことの核があります。
「奄美自立論」7
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