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2008/10/31

食糧自給力の収奪

 換糖上納制とは、モノの収奪のなかで歩みを止めずに深化したコトの収奪でした。それなら、モノの収奪の中身はどう捉えることができるでしょうか。それは黒糖を収奪されたとそれだけ言えばいいのでしょうか。

 それにはぼくたちはもう一度、換糖上納制に立ち止まり、そのモノとしての側面を見なければなりません。

 主な生産物が米ではなく黒糖になるということは、まず、主たる生産物が「食糧」ではなく、「菓子・調味料」になってしまったことを意味します。考えてみください。食糧としての市場流通が充分に行き届いていない環境で、「食糧」ではないものが主たる生産物になるのは生存を脅かす不安が生まれます。奄美は、島嶼でありかつ薩摩の支配下にあるという二重の障壁のなかにあり、食糧市場は身近には全く感じられなかったはずです。これは、たとえ年貢が米であったとしても、祝祭のときの供儀にはなっても農民の口に入ることはなかったという別の事実とは異なることとして言えます。いざというとき、口にできるものを生産しているのとしていないのとでは農作業の実質がまるで変わってしまったでしょう。空っぽなモノとしての砂糖きびは食糧ですらなかったのです。

 ここから見たとき、一八三〇年の第二次惣買入制は、できた黒糖をすべて貢納させるという方法で砂糖きび畑を最大化し、ひいては黒糖の生産を最大化せんと図ったものでした。これが、ふつう言われる、あの調所広郷の天保の改革であり、この収奪の激化のなかで薩摩は五〇〇万両を越える借財を返済したばかりか明治維新の動力源となる資金をも手にしたと言われています。

 もちろんこのことは奄美の疲弊を大きく招いたものに違いありませんが、単に収奪量の増加を見るだけでは、モノの収奪の本質を見損ねてしまいます。この黒糖の収奪のなかで、そのうえに薩摩は黒糖の売買と貨幣の流通を禁止しました。思い出せば、一六二三年の「大島置目の条々」では、「楷船は作らないこと」と命じられましたが、これは奄美にとって足を奪われるようなものでした。同じように言えば、黒糖の売買と貨幣の流通の禁止は手を奪われるようなものだったでしょう。この黒糖売買の禁止と貨幣の禁止がモノの収奪の完成を意味したのです。「食糧」ではないものが主たる生産物となれるのは、そこに食糧が得られる市場が存在していることが必須のはずですが、黒糖売買と貨幣の禁止は、それは無いと言われたことになります。その市場はない。その代わり、米や日用品を藩が交換するというのです。それでは、モノカルチャーの強みを奄美は主体的に打ち出せないばかりか、薩摩に奄美生存を全く依存してしまうことになります。かつそれは薩摩にとっては搾取のネタの増殖を意味しており、ことは薩摩の胸先三寸の様相を呈していきました。

 第二次惣買入制が、食糧自給の土地を追いやって砂糖きび畑化を促進するに及んで、奄美のモノの収奪は完成していきました。つまり、モノとしての黒糖収奪は、食糧自給力の収奪を意味したのです。

 一八五三年には沖永良部島、一八五八年には与論島でも惣買入制が始まり、ここに奄美全体の黒糖工場化が完成します。

 たとえば、一八六三年の砂糖きび畑の面積と黒糖の生産量は次のようでした。

 島名    砂糖きび畑の面積(町) 黒糖の生産量(万斤)

 大島    二二九七町        八八〇万斤  
 喜界島    八〇〇         二二八
 徳之島   一〇八五         三六三 
 沖永良部島  七四七         一四八
 与論島    一一一          二三
 計     五〇四〇        一六二一

 こうして奄美全体では大島の二倍以上の面積、二倍近い一六二一万斤の生産を可能にしたのです。


「奄美自立論」 14

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2008/10/30

空っぽな共同体と空っぽなモノ

 薩摩によるモノの収奪は、一七四五年の換糖上納制と一八三〇年の第二次惣買入制を主要な契機にして激化していきました。換糖上納制とは、米に換えて黒糖を貢納させる制度で、第一次定式買入制の時期に導入されています。第一次定式買入制下にあっても、黒糖より米の貢納が多かったのが、換糖上納制により、黒糖での貢納一色になったのです。

 換糖上納制とは何でしょうか。

 換糖上納制は必然的に主な生産物が米から黒糖に変わることを意味します。米ではなく、黒糖を主に作るとはどういうことでしょうか。

 徳之島の民俗研究家、松山光秀は、砂糖きび畑の風景を「なんと殺風景な眺めだろう」(『徳之島の民俗(1)シマのこころ』)と言います。松山は、「水稲は祖霊と人間社会をとりもつ神聖で、しかも不可思議な作物であった」として、その水稲が、シマの祖霊信仰を強固なものにしてくれたのだと考えます。ところが、砂糖きびは、稲のように「心づかい」が要らないので、「さとうきび作はついに農民の心の反映としての儀礼も芸能も生み出すことがなかった」と言うのです。

 松山の言うことに耳を傾ければ、生産するものが米から黒糖に変わるということは、生産する営みから「心づかい」を奪い、「心の反映」としての儀礼や芸能から遠ざかることを意味していました。

 同様のことを吉本隆明も書いています。吉本は『柳田國男論』のなかで、柳田の『海上の道』に触れながら、「宝貝」の採取も「稲」の耕作も、柳田のいう「日本人」にとっては「魂の自己表現」に当たっていたと考えています。「魂の自己表現」であったからこそ、食糧として不可欠のものではなくても、祭儀や信仰の対象になったのだ、と。

 稲作には「心づかい」が必要であり、かつ、それは「魂の自己表現」であったので、祭儀や信仰の対象でもありました。しかし、砂糖きびは、「心づかい」が要らず、「魂の自己表現」にもならない。それで松山にとって砂糖きび畑は「殺風景」であり、淋しく思うのです。

 ここからみると、主たる生産物が米から黒糖に変わるということは、「魂の自己表現」の場が奪われることを意味していました。砂糖きび畑に向かず水田のままであった土地もあれば、「魂の自己表現」は稲作だけに限るわけではないので、「魂の自己表現」を奄美は喪失したわけではありませんでした。しかし、主な生産物が黒糖になり、それ以降さらに黒糖の度合いが高まる流れを踏まえると、換糖上納制は、「魂の自己表現」の場の極小化を意味したはずです。この意味では、砂糖きびは「魂の自己表現」にはならない空っぽな作物、モノでした。

 奄美はそれまで二重の疎外とその隠蔽を強いられ、空虚を抱え込んでいました。いわば空っぽな共同体になっていました。そして次にやってきたのは、空っぽなモノとしての砂糖きびだったのです。換糖上納制とは、空っぽな共同体にはめ込まれた空っぽなモノでした。

 ぼくたちは、二重の疎外とその隠蔽をコトの収奪と考え、黒糖収奪をモノの収奪と捉えてきましたが、コトの収奪は二重の疎外とその隠蔽で終わったわけではない、むしろ、黒糖というモノの収奪のなかで、空っぽなモノとしての砂糖きび作になることにより、コトの収奪も深化していったのを知るのです。


「奄美自立論」 13

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66件中19件が「縁もゆかりもない人たちから」。

 去年の「アイランダー2007」で異彩を放っていたのは、隠岐だったが、

 「島じゃ常識」

 こんどは、「ふるさと納税」でがんばっている姿を知った。

 日本海に浮かぶ隠岐諸島の島根県海士町は、人口約2400人。ホームページなどで呼びかけ、24日までに66件、計約320万円が集まった。うち19件は町とは縁もゆかりもない人たちからだった。
 同町は財政難だが、町村合併をせず、イカなど水産物加工の新技術で生き残りを図る。そんな奮闘ぶりを知った寄付者からは「がんばれ海士町」「地方のモデルになるよう期待します」といった声も届いた。沢田恭一・副町長は「全国に応援団がいると思うと、心強い」と話す。(「読売新聞」2008年10月27日)

 66件中19件といえば、約29%。3割が、「縁もゆかりもない人たち」からだというのは、すごいことだ。出身者や愛好者という以外の動機が3割もあることを教えてくれているのである。

 がんばれ、与論町。


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奄美大島の大画像

 写真家、吉住志穂さんが撮った奄美大島の画像。

 「α900スペシャルギャラリー」―奄美大島

 ソニー「α900」の広告に比重を置いた記事なので、大島のどこで撮ったのか、記されてないのは残念。海岸の写真は大島の人なら場所が分かるのかもしれない。

※サムネイルをクリックすると、リサイズなし・補正なしの撮影画像を別ウインドウで表示します。

 とあるように、別ウィンドウに開かれる画像はすごい迫力です。画面に収まりきれない奄美大島が味わえます。



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2008/10/29

黒糖の硬さと甘さは珊瑚が決め手 2

 島に行けば、琉球弧の普遍的風景のように、今も砂糖きび畑は目の前に広がっています。だから、きびの植え付けから収穫までは身近に感じることができます。けれど、砂糖きびから黒糖をつくる製糖の過程は、機械化され工場で行われるので、島人が黒糖をどのように作ったのか、もう少し接近してみます。

 まず、黒糖を出荷するのに砂糖樽を作らなければなりません。さきほどの想定では、一二個の樽を用意する必要があります。それには、樽の胴部のクレ木と蓋と底になるシシロ、樽を締め付けるタガになる真竹を切りだしてきます。クレ木は山から採れるので、山のない喜界島は大島から、与論島は山原(沖縄島)から取り寄せたといいます。そして技術者に依頼して樽結いをして砂糖樽をつくります。また、船積みしたときの荷痛みを防ぐためだと思われますが、砂糖樽の上部に被せるわら製の蓋であるシフタと、シフタをかぶせた後の樽を縛り上げる網も作ります。黒糖はきび汁を煮詰めてできるので、多量の薪を用意します。

 収穫した砂糖きびは、車場(クンマンド)で圧搾します。曳き棒を牛馬に引かせて三基のクンマ(圧搾車)を回転させ、車の間に砂糖きびを差し込み圧搾します。圧搾したきび汁を砂糖炊きしますが、それは砂糖小屋(サタヤドリ)で行います。砂糖小屋(サタヤドリ)の中央の砂糖炊き窯できび汁を煮詰めるのです。

 この炊きあげのなかで、砂糖の甘さと硬さが決まるのですが、そこに使われるのが、珊瑚なのです。硬さと甘さを決めるのに必要なのは石灰ですが、石灰が市販される前のこの時期、石灰は珊瑚を使っていたのでした。枝珊瑚を竹かご二杯分ほど採り、焼窯で焼き、珊瑚(ウル)を真っ白な石灰にするのです。

 『黒糖悲歌の奄美』によれば、「石灰が多すぎると極端に硬く、にがい砂糖となり、少なければ糖汁は固まりません」ので、このウルを入れる量は、料理の調味料のように、黒糖の出来を大きく左右したはずです。島人はここで繊細にウルを入れていったに違いありません。黒糖といえば、亜熱帯の陸の産物ともっぱら思われていますが、そこに、その質を左右する大切な要素として、珊瑚という海の幸が埋め込まれているのを知り、なお一層、黒糖は琉球弧らしい産物だと分かってきます。今、珊瑚が消滅の危機にありますが、黒糖とは、豊かな亜熱帯自然の賜物に他なりませんでした。


「奄美自立論」 12-2

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2008/10/28

黒糖の硬さと甘さは珊瑚が決め手 1

 第二次惣買入制のもと、幕末から維新にかけての時期、奄美大島では九〇〇万斤の黒糖が生産されましたが、それがどのくらいの規模なのか、一人の島人からみたとき、どのくらいの量だったのか。そして、黒糖を生産する作業の中身はどのようなものだったのか。砂糖きびを植えて育てて刈るところまでは現在も続いているので分かりますが、それ以外にはどんなことが行われたのか。身近になるように引き寄せてみたい。

 まず、一斤は六〇〇グラムだから、九〇〇万斤の黒糖は五四〇〇トンになります。これはどのくらいの量でしょう。

 出来上がった黒糖は、砂糖樽に入れて運搬しました。この砂糖樽は、高さが一尺五寸ですから、約四五センチメートルの高さのものです。一樽の砂糖量は一二六斤で、空樽の重さは一六斤なので、黒糖を詰めた砂糖樽の重さは、一四二斤、八五・二キロにもなります。『南島雑話』では、男性が肩に担いで運んでいる絵もありますが、相当重かったはずです。実際、『徳之島事情』では、牛に引かせたり、棒で渡して男性二人で運んでいる絵がありますが、実際そうしないと遠距離は運べなかったはずです。

 九〇〇万斤の(五四〇〇トン)の黒糖は、砂糖樽に詰めると、約七万一四二九個になります。七万個の砂糖樽の量もなかなか想像できませんが、単純に積み上げたとしたら、三二キロメートルの長さになります。奄美大島の島人は、約八五キロの重さの砂糖樽を七万個余り、作っていたわけです。奄美大島だけでも巨大な量の黒糖が生産させていたのが分かります。

 次に、砂糖きびから黒糖はどのくらいできるでしょう。前田長英の『黒糖悲歌の奄美』によれば、砂糖きび百斤から黒糖六斤ができる「百六砂糖」という言葉があります。砂糖きびから黒糖は六%の抽出率になります。すると、九〇〇万斤の(五四〇〇トン)の黒糖に必要な砂糖きびは、一億五〇〇〇万斤、九万トンです。

 また、黒糖を作るのに必要な畑の面積は、『名瀬市誌』では、「一畝四〇斤」と換算しています。これを用いると、一町で四〇〇〇斤になるので、九〇〇万斤の砂糖きびを生産するには、二二五〇町の面積の畑が要ります。実際、第二次惣買入制での奄美大島の砂糖きび畑面積は、二四二〇町だといいます。二四二〇町は、約二四平方キロメートルの大きさですが、与論島の面積が二〇・八キロメートルですから、奄美大島の砂糖きび畑は与論島より大きかったのです。

 奄美大島
 砂糖きび畑 二四二〇町(二四平方キロメートル)
 砂糖きび  一億五〇〇〇万斤(九万トン)
 黒糖    九〇〇万斤(五四〇〇トン)
 砂糖樽   七万一〇〇〇余個

 さて、これだけの量の黒糖を生産するのに、個々の島人はどれくらいの量の生産を担っていたのでしょうか。惣買入制は、砂糖きび畑の面積を規定する方法ですが、男子は一五歳から六〇歳、女子は一三歳から六〇歳までの島人ひとりひとりに砂糖きび畑が割り当てられました。その割り当ては地域により幅がありますが、住用村では、男性に二反五畝、女性に一反二畝五歩で、女性は男性の半分になっています。

 二反五畝は、七五〇坪、約五〇メートル四方の砂糖きび畑です。そこから一〇トンの砂糖きびを収穫し、その砂糖きびから一〇〇〇斤、六〇〇キログラムの黒糖を生産します。これは、高さ四五センチメートル、重さ約八五キログラムの砂糖樽約八個分になります。砂糖きびだけでなく黒糖も製造することを考えると、相当な量ですが、実際には、子ども二人の家族を想定すれば、女性の分も合わせた三反七畝五歩が、割り当てられた砂糖きび畑になります。これは一一二五坪、約六一メートル四方の面積で、そこから一五トンの砂糖きびを収穫、そして、一五〇〇斤、九〇〇キログラムの黒糖を製造します。これは砂糖樽約一二個分です。

 一家族(夫婦と子どもたちとして)
 砂糖きび畑 三反七畝五歩(一一二五坪、約二五〇〇平方メートル)
 砂糖きび  二万五〇〇〇斤(一五トン)
 黒糖    一五〇〇斤(九〇〇キログラム)
 砂糖樽   約一二個


「奄美自立論」 12-1

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2008/10/27

「芸術言語論 その2」

 今夜は前から楽しみにしていた、吉本隆明の「芸術言語論 その2」を聞きに、新宿紀伊国屋まで出かけてきた。7月の「芸術言語論」の続きだ。

 といっても今回は、会場に吉本さんも糸井さんもいない。お二人は、吉本宅。XVDという技術を使って、吉本宅から新宿の会場へリアルタイムに映像を送るという試みの中、行われた。

 今日開催する講演会 「芸術言語論 その2」は。

 吉本の語り口はたどたどしい。老齢になってますます盛ん?だ。この語りは日常生活の時間の流れと隔たりが大きい。で、ちょっと苛立ってくる。するときっとぼくは途中、内容の進度が遅いと決め込んであなどってしまう。心ここにあらずの間を挟みながら聞いてしまう。

 でもふと気づくと大波がやってきている。はっとするなんてものじゃない。度肝を抜かれるような感じになる。今日でいえば、日本語圏の起源の詩は、古事記にある問答歌と見なすことができるが、それは、五七五七七の短歌になり、さらに短くなった俳句でも、主観と客観あるいは受動と積極性の対位のなかに貫徹されていて、芭蕉も松岡子規も、優れた歌人はそのことを踏まえて作品を作っているというのだ。気づけば、千数百年の時間をものすごくシンプルな整理で横断している。遅々として進まないどころの話じゃない。千数百年を二時間で横断する高速度な話だったのだ。

 そして朔太郎を経て、吉岡実、吉増剛造、岡井隆などの現代詩に接続する。そして起源から辿ると、現代詩が何と格闘しているのかが見えてくる。そんな無類な興奮を味わうことになる。今回もまたそんな興奮を味わいたくて足を運んだようなものだ。


 三木露風をぼくは知らず、ミキロフと聞こえるのが、ロシアの詩人なのだろうかと途中まで思ってしまったのは苦笑だけれど。三木露風、夕焼け小焼けの赤とんぼ、の作詞者だった。


 Geizyutugengo2



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反復する定式買入と惣買入

 薩摩が奄美の黒糖をいつから上納の対象としたのかはっきりしていません。薩摩の黒糖収奪を丁寧に追った松下志朗の『近世奄美の支配と社会』によれば、代官の日記に「近年は砂糖百拾万斤ツヽ、年々買入あり」(「大島私考」)とあることから、日記の記された一七一三年前後からだろうと推察しています。一七一三年、それは、あの 「奄美は大和ではない」と規定した一七二八年の「大島規模帳」の直前のことでした。

 薩摩は黒糖を、「定式買入」と「惣買入」という二つの方法で買い入れました。「定式買入」とは、量を決めて買い入れる方法であり、「惣買入」とは、砂糖きび畑の土地を決め、そこから製造される黒糖を全て買い入れる方法でした。「定式買入」は、黒糖の量に着目し、「惣買入」は黒糖のもとになる砂糖きび畑の面積に着目したものです。言い換えると、「定式買入」は砂糖きびから黒糖という製造の過程に基準を置き、「惣買入」は砂糖きび作という農の過程に基準を置きました。

 ここで、薩摩は、「定式買入」の次に「惣買入」を採用しており、そこで収奪の度合いを高めているのを見ると、製造の過程より川上の農の過程を押さえることで黒糖量の増加を見込んだ意図が伺えます。しかも、「定式買入」と「惣買入」は、二回反復され、そのつど、生産量は増加しています。

 その段階は、二重の疎外の構造化を踏まえるように、一九世紀以降に展開されています。

 第一次定式買入制 (一七一三年)~  約六四年
 第一次惣買入制   一七七七年~    一〇年
 第二次定式買入制  一七八七年~    四三年
 第二次惣買入制   一八三〇年~    四二年

 記録もほとんど残っていない第一次惣買入制を別にすれば、どれも半世紀前後の期間、ひとつの方法が採られています。この時間は、ひとつの買入制のなかで生涯を費やした島人もいた、そういう長さだったのではないでしょうか。それは運命のように生涯に覆いかぶさってきたでしょう。

 この反復する定式買入と惣買入は、収奪の高度化を意味していました。

 第一次定式買入制  三五〇万斤(定式糖 二五〇万斤、買重糖 一〇〇万斤)
 第一次惣買入制   ?
 第二次定式買入制  五六〇万斤(定式糖 四六〇万斤、買重糖 一〇〇万斤)
 第二次惣買入制   九〇〇万斤(後期の平均)

 第一次定式買入は、一一三万から一二五万斤で始まったものが、最終的には三五〇万斤まで課せられました。不明な第一次惣買入を飛んで、第二次定式買入は、四六〇万斤から開始され最終的には、五六〇万斤まで増加しています。それが第二次惣買入では、その後後期の平均を『近世奄美の支配と社会』から引くと、九〇〇万斤まで増加するのです。第一次定式買入の最終値から第二次定式買入の最終値が一六〇%の増加、第二次定式買入の最終値から、第二次惣買入の後期の平均値まで一六〇%の増加です。第一次定式買入の開始を一一三万斤と想定すると、九〇〇万斤まで七八七万斤の増加。第二次定式買入の最終値五六〇万斤から第二次惣買入後期の九〇〇万斤の差は、四四〇万斤なので、第二次惣買入の増加規模は、それまで一世紀をかけて行って増加をその半分以下の四ニ年で果たしたことになります。

 また、「定式買入」とは、量を決めて買い入れる方法ですが、この間、買い入れ量は一定だったわけではありません。薩摩は基準量の黒糖以上を「買重糖」(かいがさみとう)と呼び、上納を付加させていきました。たとえば、それが常態化した第二次定式買入制での推移はそれを物語っています。

 一七八七年 定式糖 三五〇万、買重糖 一一〇万 計 四六〇万 
 一七九九年     四六〇万、           四六〇万
 一八〇一年     四六〇万、     二〇万   四八〇万 
 一八〇四年     四六〇万、     四〇万   五〇〇万
 一八〇五年     四六〇万、     九〇万   五五〇万
 一八〇六年     四六〇万、    一〇〇万   五六〇万

 これを見ると、四六〇万斤という定式糖を基準にしながら、買重糖を増加させることによって、上納量の増加を図ったのが分かります。

 このように、黒糖の収奪は絶えず増加の一途をたどり、しかも後半の第二次惣買入で増加の勢いは加速されたのです。それは奄美では「黒糖地獄」と呼ばれてきました。


「奄美自立論」 11

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首里城祭

 いま、沖縄島では首里城祭が開かれていますね。

 首里城

 土曜には、冊封儀式も再現されています。冊封の際には、奄美の島役人も沖縄島に赴いていますが、儀礼にも列席していたのでしょうか。

 冊封儀式:首里城公園御庭で再現

 首里城祭:宮廷文化を再現、荘厳に王朝の舞

 金曜の午後には、組踊「護佐丸敵討」もやったそうです。泣く子も黙るあの護佐丸です。奄美の島人も食い入るようにみたことでしょう。

 このお祭り、一度、観てみたいですね。


 琉球新報からは動画も出ています
 王朝絵巻行列華麗に 国際通り
 


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2008/10/26

シュガーロードは琉球発

 森山良子の『さとうきび畑』は、戦争の鎮魂の背景として砂糖きび畑を見、ザ・ブームの『島唄』は、戦争中の別離の場として砂糖きび畑を取り上げていました。その一方、徳之島の郷土研究家、松山光秀は、自然を損ない風景を破壊し信仰を育てないものとして、砂糖きび畑を、「なんと殺風景な眺めだろう」と言います。

 どちらにしても砂糖きび畑を眺める視線として、よく分かるものです。ところが、二〇〇一年のTV番組『ちゅらさん』が、小浜島の砂糖きび畑の間を通る道を「シュガーロード」と呼んだときは、違和感を催さずにいられませんでした。

 小浜島の砂糖きび畑の道は、与論島だったらあそこと同じだとすぐに思い出せるくらい、琉球弧に普遍的な風景ですが、そこは貧困と圧政の象徴に見えます。砂糖きび畑を貧困と圧政と見る眼差しにとって、砂糖きび畑は、黒糖にまつわる近代奄美の困難を描いた原井一郎が、書名を『苦い砂糖』と付けるように、それはビターロードではあってもスイートロードではない。ビターよりはスイートを連想させるようにシュガーロードと呼んでしまうのは、暗く重いものを明るく軽くしてしまうことで、大切で忘れてはいけないものを捨てることになるのではないか。そんな不安が、シュガーロードという名称で喚起されるのです。

 けれど一方で、砂糖きび畑は貧困と圧政の象徴であることにこだわり過ぎると、シュガーロードという語感の持つ良さを損ねてしまうことになりかねないとも思えてきます。

 たとえば、砂糖きび畑は貧困と圧政の象徴と見なすと、黒糖の生産を薩摩に強要されたという思いに囚われるあまり、砂糖きびの栽培そのものも薩摩にもたらされたと思い込んでしまいそうになります。しかし事実はそうではなく、一七世紀の初期に、琉球人が中国で学びその技術を移入して砂糖きび栽培と黒糖生産は始まりました。それは琉球の亜熱帯の自然と島人にも合っていました。薩摩はそこに目をつけたのです。

 砂糖きび畑は琉球発の光景なのです。すると、もし薩摩が琉球を侵略することがなかったら、琉球は黒糖を楷船に積み貿易し、琉球弧らしい豊かな島嶼を築くことができたでしょう。ぼくたちは、そんな像を荒唐無稽ではない仮定として思い描くことができます。

 そしてそうだとしたら、砂糖きび畑を貧困と圧政の象徴ではなく、琉球が自前で自分たちに適した作物を見出したものとして受け取れば、それをシュガーロードと呼ぶ、その権利は少なくとも、琉球弧の島人は持っていると言うことができます。そう受け止めれば、砂糖きび畑を琉球弧の島人は今も手放さない、それが亜熱帯の気候に適応したものだからという理由も見出すことができます。

 『苦い砂糖』で原井は、「サトウキビ畑の歴史の重みを内包した光景を、二一世紀に生きる島人たちの中で感慨を持って見返るものが稀なのを、嘆くことはない」と、島人を常民的に捉えて言うのですが、それに添えて、砂糖きび畑の道をシュガーロードと言うことで、あの道を自転車で疾走する爽快感や、砂糖きび畑は恋路の場や少年の秘密基地であったことも思い出せるようにあってもいい、そう加えたくなります。

「奄美自立論」10


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2008/10/25

『海南小記』を読む。第30回

 福さんのお誘いを受けて、酒井卯作さんの沖縄民俗懇話会「『海南小記』を読む」に参加させてもらった。

 今回はもう第30回目だそうで、テーマは『海南小記』の終盤、といっても実際は「海南小記」の連載とは別に雑誌に寄稿された「与那国の女たち」だった。

 吉本隆明は、柳田國男の文章について、一行のなかに後世の研究者が生涯を費やすような見識が詰まっているという評言をしたことがあるが、酒井さんは「与那国島の女」の小文をゆっくり辿りながら、柳田がどんな想いでどんな考えでこれを書いたかを解説してくれて、短い文章のなかに宿っている思考や感情がたちのぼってくるのを味わうことができた。

 こんな芸当は、解説する人にそれだけの蓄積があってできることだ。話をお聞きしながら、ぼくは与那国島の人の姿が彷彿としてくるいような気がしてきた。それは、与論の島人に似ているようでもあり、またどこかで異貌を放っているようでもあった。

 でも、いちばん印象に残ったのは、柳田は男性の来客にはつっけんどんだったが、女性の来客にはすこぶる丁寧に対応したというエピソードだった。それと、日常の小さな出来事を離れて民俗学はありえないという酒井さんの主張と。その通りですね、と思う。

 学問だって人の想いが生かしいてる。そうなんだなあと感じ入るひとときだった。世知辛く冷たい風が吹く世間のなかで、よいひとときをいただきました。福さん、ありがとうございます。


Okibunken

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コトの収奪とモノの収奪

 「琉球ではない、大和でもない。だが、琉球にもなれ、大和にもなれ」という二重の疎外とその隠蔽を一身で引き受けるには、自分を人形のような空っぽの器のように見なさなければなりませんが、事実、その結果、「大島代官記」の序文に見られるような、薩摩史観をそのまま移植されたような思考の収奪を生んだことを、ぼくたちは目撃しました。

 この二重の疎外とその隠蔽は、一六二三年の「大島置目の条々」によって「琉球ではない」と規定され、その約一世紀後の一七二八年の「大島規模帳」では、「琉球ではない」が改めて強調されると同時に、「大和でもない」と規定されたのです。

 そしてそこに覆いかぶさるように、冊封使が訪れた機会や漂着の時に、「だが、琉球にもなれ、大和にもなれ」という隠蔽を強いられたのでした。

 ところで、「大島置目の条々」の時には、もうひとつ重要な規定がなされています。それは、「楷船は作らないこと」を命じられたことです。「楷船」は「大型船」のことで、奄美の島人は大型船建造を禁じられたのです。これは、海を道と見なす海洋の民としての奄美の島人の自由を著しく奪うことになったでしょう。奄美の島人はこの規定により、各島々に封じ込められました。ぼくたちは、この「楷船は作らないこと」という規定が、「琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外を強化するように働くだろうと予想することができます。大型船により、疎外のもたらす境界を越えて行けるなら、疎外はいつも緩和される契機を持っただろうからです。

 こうして、奄美の固有の困難である二重の疎外とその隠蔽は、薩摩侵略後一世紀余の時間をかけて構造化されていきました。

 そしてその後、奄美を待っていたのは、よく知られた黒糖収奪です。

 黒糖収奪は二つのメルクマールで押さえることができます。それは、一七四五年の換糖上納制であり、次に一八三〇年の第二次惣買入制です。換糖上納制は、年貢を「米」ではなく、「黒糖」で納めることを定めたものですが、これによって奄美の主たる生産物が黒糖になります。そして、第二次惣買入制は、割り当てられた土地で生産される黒糖を全て納めることを定めたものですが、これによって黒糖生産は絶対化されていきます。

 奄美の黒糖収奪というモノの収奪は、黒糖地獄と呼ばれるなどして、よく知られています。しかし、ぼくたちは付け加えておかなければならないのは、黒糖というモノの収奪の前に、二重の疎外とその隠蔽というコトの収奪が行われていたことです。そしてことによれば、モノの収奪は、コトの収奪の延長にあればこそ、首尾よくことを運んだと言えるのです。コトの収奪の結果、薩摩史観に思考を収奪された島役人が生み出されたとすれば、それによってモノの収奪は容易になったと言えるからです。モノの収奪の際、島役人は、奄美内薩摩として島人からの収奪に大いに預かったのでした。

コトの収奪
 一六二三年 「大島置目の条々」 「琉球ではない」
 一七二八年 「大島規模帳」    「大和ではない」

モノの収奪
 一七四五年 換糖上納制      黒糖の主生産物化
 一八三〇年 第二次惣買入制   黒糖の絶対化


「奄美自立論」9


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2008/10/24

「琉球侵攻を心からお詫びし、政治家として罪を償わなければならない」

 『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』は、時の思潮の流行が乱舞するではなく、基地と経済、うちなーんちゅ対やまとぅんちゅの二項対立が再生産されるというのでもなく、生々しい沖縄の実像が迫ってくる。それに関する限り、沖縄言説を覆うという「過剰な空虚」からは一線を画した中味だ。

 その生々しさは、「歴史は夜、作られる」として、その「夜」が語られていることから来るようだ。そして「夜」語られることだけあって、池澤の言う通り、居酒屋で聞くような話だ。居酒屋の夜の話は、過剰な記号が飛び交わない代わりに、虚実が織り交ぜられてくる。佐野の話が眉唾ものだと言うのではない。佐野の浴びる言葉が虚実混淆になるしかない。そういうことだ。

 なにか、久しぶりに大柄な線の太い人物像を読んだ気がする。ある意味で、昭和の読み物を読んでいるような。言い換えれば、切った張ったの、この手の読み物を作ろうとすれば、いまでは沖縄を舞台に設定するほかなくなったということかもしれない。

 しかし、ぼくたちは紛れもなく、昭和以降の世界に生きている。

 沖縄をめぐる言説で、すっかり色槌せてしまったのは、〝沖縄独立論〟である。
 左派沖縄耽溺者のパイオニアともいうべき竹中労が、政府なき国家と党派なき議会と官僚なき行政を、すなわち幻の人民共和国を琉球弧の上に夢想して、冒頭に挙げたように情熱的かつ純情に語ったのは、沖縄の本土復帰一カ月の一九七二(昭和四十七)年四月である。
 それから三十有余年。沖縄人は本土人の慣習に完全に同化した。いま沖縄一の盛り場の那覇・国際通りを歩いても、浅黒い肌、濃い眉、つぶらな目、ゆたかで粗く剛い髪の毛をなびかせた南国風美少女に会うことは、めったになくなった。
 若い男女がツクダ煮にしたくなるほどごった返す国際通りの風景は、まだオムツくさい小中学生が色とりどりのファッションで着飾って昼も夜もあふれる東京・渋谷のセンター街に紛れ込んだようで、〝異国情緒〟を感じることは困難である。
 「国家」の思想的〝立ち位置″を決定するのは、そこで暮らす若者たちの風貌姿勢と、彼らをつき動かす風俗流行である。
 沖縄でそれを象徴するのが、すっかり〝脱琉球化〃した面立ちの若者たちが行き来する国際通りのたたずまいである。特徴的だった彼らの顔だちから、男も女もくっきりと濃い輪郭線が消え、どこにでもあるつまらない風景のなかにぼやけはじめた。
 本土復帰に伴う日本馴化の急速な進行は、かつて竹中労が熱っぽく語った琉球讃歌を時代遅れの言辞と化し、〝沖縄独立論″をほとんど世迷い言同然の死語とさせた。

 しかし沖縄、特に那覇の「脱琉球化」は、「日本馴化」ではない。都市化である。仮に沖縄独立で那覇が都市化していったとしても、異国情緒は失われるだろう。「浅黒い肌、濃い眉、つぶらな目、ゆたかで粗く剛い髪の毛をなびかせた南国風美少女」は、日本化ではなく都市化の賜物であり、都市化だから世界普遍性を持つ。変なたとえだが、都市化だからこそ、知花くららはミス・ユニバースの舞台に立つのである。

 解釈、理解ではない。この本からは、沖縄の骨太な事実を、事実そのままに受け取るのがいい。

Okinawasano

















   『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』

 ◇◆◇ 

 ところで、奄美という視点からみた瞠目すべき記述があった。

すでに四百年も昔の歴史であるとはいえ、過ちは過ちである。政治家として、また島津の血をひく鹿児島の人間として、知らぬ顔で過ごすことはできない。そういう気持ちが強かったから半世紀前、衆議院議員として国会に登院して以来、沖縄の人たちに琉球侵攻を心からお詫びし、政治家として罪を償わなければならないと考えてきたのである。

 にわかには信じられない言葉だった。これは鹿児島出身の政治家、山中貞則のものだ。

 信じられない。琉球侵略について、薩摩の政治家の口から謝罪が飛び出しているのである。よく知られたことなのだろうか。薩摩の共同意思の代表者を任じる者たち、あるいは彼の地の知識人の口から、薩摩の琉球侵略を内省した言葉を聞くことはなかったのではないだろうか。少なくともぼくは皆無だった。皆無のケロリだった。

 本当だとしたら、この山中の言葉は巨大な意味を持つ。
 ただ、奄美の視点からして、気になるのは、ここにいう「お詫び」が沖縄に向かっているとして、それなら山中は奄美に対しどういう態度を採ってきたのだろう。それがひどく気になる。残念ながら、ぼくは山中の述懐した手記の全部を知らない。山中が、仮に奄美にも同じことを言えたとしたら歴史の画期だと思える。それを知りたいと切に思う。

 奄美の視点からしたら、この山中の言葉と出会えただけで、もう充分に価値があった。書物は、何を書くかが重要だけれど、何を引用するかも重要な意味を持つらしい。


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屈服の論理 2

 紙屋敦之の「薩摩の琉球侵入」(『新・琉球史 近世編』一九八九年)によれば、謝名は、幕府が琉球の属国化を目論んで、大和に漂着した琉球船を琉球に無事送り届けたお礼の使者を送れという「聘礼(へいれい)」の要求を拒否し、また薩摩が大島の割譲を要求したのも拒否しています。薩摩の侵略に際しては、娘婿を徳之島の守備隊長として派遣し、自身も薩摩の軍勢の人数に匹敵する三千人を率いて出動しています。また、尚寧と他の三司官とともに、薩摩に連行された際も、秘かに明へ救援を要請しようと試みます。
 
 その後、尚寧と三司官は起請文を提出させられます。起請文は、琉球は古くから薩摩・島津氏の属国だったとこと、琉球は豊臣秀吉時代の朝鮮出兵の義務を果たさなかったから壊されたが、恩により再興されたと認めさせたものでした。謝名は起請文を拒否してその当日、斬首されてしまうのです。

 ちなみにこの起請文、誓う内容より誓う対象である神仏の列記の方が長く、優に二百は超える神仏を書き連ねています。ぼくたちにも耳馴染んでいるものでは、「藥師如來」や「三藏法師」などもありますが、およそ琉球の王にとっては初耳のものも多いに違いなく、これらを書かされた揚句、背いた場合はライ病にかかり日々夜々病苦が止むことはなく、八寒八熱の阿鼻叫喚の地獄に落ち、未来永劫、浮かび上がることはないなどと書かされているからおぞましいものです。

 とはいえぼくは謝名の態度が尚寧や他の三司官に比べて誇るべきものだと言うのではありません。生き残ってこそ後世に伝えられるものもあれば抵抗できることもあります。けれど謝名の、一貫した薩摩抵抗の態度は心を動かされます。大島割譲を拒否した点など、ぼくは恩義すら感じます。謝名はスケープゴートにされたに過ぎません。ぼくたちは、謝名の筆誅を解くべきではないでしょうか。

 「嘆かわしきは、禍は自ら招くというのは疑いなく、故に天のなせる禍は避けられるが、自らなせる災いは避けられない」と、「大島代官記」の序文はありますが、真に嘆かわしいのは、完璧に思考を薩摩史観に収奪された島役人のほうだと言わなければなりません。やられちまったんだなあと、つくづく思います。

 序文のなかで、この書き手が奄美の人間であることを教えてくれるのは、「今では昔を慕うことは無益というものであろう」という末尾の箇所です。もともとの書き下し文では、「今に於いて往古を慕うは無益と云々」となるところです。そして、「大島代官記」の序文において、最も重要なのもこの末尾の部分です。この島役人は、仮にも奄美の知識人をもって任じるのであれば、ここで「云々」と口ごもるべきではなかったのです。彼はここで、「往古を慕う」記述を書くべきでした。もちろんこれは「大島代官記」であり薩摩の役人も目を通すものであれば、自由な記述が可能であったということはありません。琉球王朝を慕う記述が可能ではないでしょうし、またぼくはそれを書くべきだと思うわけでもありません。

 この島役人ができたことは、奄美の記憶を書くことでした。「云々」で終わらせずに、「大島代官記」の許容する範囲内で、奄美のことを知恵を振り絞って書くべきだったのです。そうすることが、どれだけ後世の奄美の島人を励まし、時勢へ抵抗する力を生み出したかしれません。この序文が書かれたとする一六六九年から一七〇九年の間は、ときあたかも、旧家の文書を写しに至るまで提出させられた時期と重なります。つまり、文字としての奄美の記憶が収奪されたのがこの時期なのです。無くなるものと踵を接して新しく書く、それがこの序文の記述としての背景でした。それであればなおさら、この島役人は、「云々」で終えてはいけなかったのです。

 そうできなかったところで、奄美の屈服は決定的になりました。この、奄美の島役人の思考収奪は、二重の疎外とその隠蔽が生んだものであり、ここからぼくたちは、いずれ島役人と家人という階級分化が起こるだろうことも見通すことができます。また、薩摩批判に向かうべきところでそれができずにその分も過剰に琉球を批判するという思考の型は、近代以降も奄美に残る屈折として長くぼくたちを煩わせることになったのです。ここに、奄美知識人の屈服と屈折があります。


「奄美自立論」8-2

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アサキマダラ、阿南から与論へ

 徳島の阿南の子どもたちがマーキングしたアサキマダラが、喜界島、与論島から「飛来した」という。

 アサギマダラ飛来確認 阿南

 こういう記事をみると、アサキマダラの目になって黒潮の上空を飛び、与論島までたどり着いてみたいと空想してしまう。

 きょうのブログで、与論の盛窪さんが「アサキマダラが来ています」(ハキビナ海岸防災基本計画策定委員会委員の委嘱について)と書いている。(記事は別の内容ですが、面白い)

 つながる話は気持ちいいですね。

 
 沖永良部島の小学校でも確認されたようです。(アサギマダラの渡り



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2008/10/23

「琉球・薩摩・アメリカ支配」の文脈 メモ

 奄美のコメントを読んでいると、よく、「奄美は、琉球、薩摩、アメリカに支配されてきた」という表現が出てくる。
 いつも違和感を抱いてしまうのだが、それはどうしてなのか。
 気づくことからメモしておく。

琉球
・琉球弧内の国家造山運動によるもの

薩摩
・大和による本格的な琉球支配によるもの

アメリカ
・日米戦争の戦後統治によるもの

 違和感のひとつは、これら三つが全く位相を異にしていることに由来する気がする。



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屈服の論理 1

 「琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外を受け、そのうえ「だが、琉球にもなれ、大和にもなれ」と、その隠蔽まで強いられた奄美は、それにどう応えたでしょう。それを知る手がかりになるものに、奄美の人の残した文章があります。それは、「大島代官記」の序文で、奄美の最初の知識人が書いたと言われているものです。『しまぬゆ』(二〇〇七年)が書いている大意を参照しながらもとの書き下し文に近づけてみます。

一、述べて言うが、小が大を敵にすべきではない。殊に小島の琉球王国には武器の備え無く、何によって永く国を守るべきか、最も危うきことなり。
一、琉球国は元来日本の属島である。御当家島津忠国公の時代、永享四年(一四三二)忠勤の褒美として尊氏卿六代の将軍足利義教より拝領したものである。中山王(琉球国王)はその礼を守り、綾船に在島の珍物を毎年二船ずつ捧げるよう二心無き旨誓い通い来ていた。
ところが、琉球国一司官の内の一人蛇名親方が、短慮愚蒙の計略によって逆心を企て、当家島津氏に背き、両艘の綾船を止め、往来無さ事二年に及び、当時の中納言家久公がこれを将軍家康に言上し、薩隅旦二州の軍勢を催し、琉球国を成敗するため差し向けた。大将軍樺山権左衛門肘、同平田太郎左衛門尉両将数千噺の軍士を差し渡し、慶長十五年酉四月速やかに退治した。
一、この時より初めて琉球を治める在番を定め、離島には守護代官をおき、そして領地を割譲して年貢を納めさせた。
一、嘆かわしきは、禍は自ら招くというのは疑いなく、故に天のなせる禍は避けられるが、自らなせる災いは避けられない。蛇名一人の考えの足りなさから、永く王国の支配下にあった島までも侵略され、今では昔を慕うことは無益というものであろう。

 不思議な文章でしょう。ぼくは、薩摩の役人が書いたものと思って読み進めてみたら、奄美の島役人が書いたものと解説されていて心底、驚きました。何度確認しても、奄美の島人が書いたということはなかなか納得できませんでした。どう見てもこれは薩摩の役人が薩摩のために書いたとしか思えないものだったからです。一体、何が起きているのでしょう。

 「小が大を敵にすべきではない」という冒頭の宣言の情けなさは時代的な制約を考えて置くとしても、「琉球国は元来日本の属島である」という認識はもう薩摩が琉球に強いた史観です。そして「蛇名親方」が浅はかで愚かな計略を立てたために「琉球国を成敗」したというのは、ますます薩摩の都合のいい口実です。しかも「蛇名親方」という文字は正確ではなく、本当は「謝名親方」といいます。「謝名」を「蛇名」としているのは、悪事を責めるための筆誅だというのです。「蛇名」の他にも「邪名」、「若那」という字を使っている文書もあります。こんな幼稚な責苦までされて謝名親方は貶められているのです。

 謝名は果たしてここまで責を負う謂れがあるのでしょうか。

「奄美自立論」8-1

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2008/10/22

奄美大島と沖縄島

 『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』の末尾の地図。やっぱりみんなで見たい。


Okinawazimatoamamiooshima1_3



















 ふたつの島を比べると、ぼくはいつも、奄美大島って大きいんだなと感心する。そう思いませんか?
 細くてしなやかな沖縄島と末広がりにどっしりした奄美大島。琉球弧の二巨島だ。
 琉球弧の地図が嬉しい。与論島が、「点」ではなく「面積」ある島として載っているのが嬉しい。かろうじてだけど。(^^;)

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沖縄による奄美差別-その了解の構造

 先日、高名な奄美知識人の講演のあと、「先生はなぜ『南島』という言葉を使われるのですか?」という質問があった。この質問は学者の世界内部だけで意味を持つもので、問いには関心はないのだが、答え方には関心があった。

 彼は、自分は(確か中学だったと思う)、鹿児島の加世田にいたことがあるが、そこは島津の城下町でそこでみっちり鍛えられてしまった、と話した。ぼくは当然、鹿児島批判をするかと思いきや、突然(とぼくには思えた)、沖縄は奄美を差別したと批判しだした。沖縄は「ウーシマ、ウーシマ」と言って差別する、と。ぼくは、なぜ突然、沖縄に飛ぶんだろうと思って驚いたが、「わたしは奄美ナショナリズムなんです」と続けたのでまた驚き、言わんとすることが分からなくなってしまった。ただ思わず、それは「奄美ナショナリズムではなく奄美大島ナショナリズムでしょう」と思った。

 質問に対する回答としては、「沖縄」という言葉を使いたくないから、ということなのだろうか?

 「島津氏の琉球入りと奄美」を読んで、鹿児島批判になるべき文脈で沖縄批判に急転するのは、ある奄美知識人の屈折の型だと思ってきたが、その例を目の当たりにするようだった。現在もこれほど強いのかと驚いた。

 と同時に、彼をしてあんなに激昂させた、奄美を差別する沖縄とはどういうものか。『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』への関心は、それもあった。

  『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』
Okinawasano

 一九五〇年の沖縄の人口は約七十万人だから、もし在沖奄美出身者が七万人いたとすれば、復帰前、奄美から沖縄への流入者は沖縄の全人口の約一割を占めていたことになる。
 共産党奄美地区委員会編の『奄美の煙火』(一九八四年)には、「九五〇年から五二年にかけ、毎月一千名近い男女の働き手が奄美から消え、その数はついに五万人余に達した、と書かれている。 これらの数字は復帰後もあまり変わらなかった。奄美には帰らず、奄美出身者が多く住む本土の京阪神地区にも移住せず沖縄に残った奄美人は、約六万人いたと推定されている。問題は、彼らに対する沖縄人の露骨な差別と非人間的な扱いだった。この事実はほとんど知られていない。というより、沖縄の戦後史の暗部として、なかったことになっている。
 USCAR(United States Civil Administration of Ryukyu islands=琉球列島米国民政府)は彼ら在沖奄美人に対して、近世の封建領主が定住地を持たない漂泊の民にとった以上の苛烈な態度で臨んだ。 本土復帰で〝日本人″になった、正確にいえば〝非琉球人〟になった奄美人には、〝外人登録〃が義務づけられた。 奄美の復帰から四日後の一九五三年十二月二十九日、USCARは指令第十五号として、「奄美大島に戸籍を有する者の臨時登録」令を発令した。

 一.奄美大島の日本復帰に伴い、奄美大島に戸籍を有する琉球列島在住者(以下奄勇人という)はすべて、一九五四年二月一日以前に同日以降九十日間の効力を持つ臨時外人登録証の発行を受けなければならない。登録証は、左記の提出があった場合に発行される。
 1 外人登録証発行申請書三通
 2 パスポート型写真三葉
(二以下略)

 在沖奄美人は外人登録証の常時携帯が義務づけられ、登録証には犯罪者でも監視するように、指紋の押捺をしなければならなかった。
 これを皮切りに、USCARは奄美人の基本的人権を剥奪する指令を次々と出した。
 公職からの追放、参政権の剥奪、土地所有権の剥奪、公務員試験受験資格の剥奪、国費留学受験資格の剥奪、融資の制限……。
 その一方で、税金だけは琉球人並みに徴収された。すなわち、権利の剥奪に関しては非琉球人として扱われ、義務の負担に関しては琉球人と同列に扱われた。
 彼ら奄美人は琉球人としてのすべての権利を剥奪された、いわば〝アウトロー″だった。突飛な喩えかもしれないが、沖縄を〝南の満州″とアナロジーすれば、沖縄という〝異国″に取り残された奄美人は、中国残留孤児さながらに厄介者扱いされ、迫害されたのである。
         (『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』

 USCARは、ユースカーと呼ばれている。このあと、著者の佐野は、インタビューで「すさまじい差別ですね」と続けるのだが、奄美の日本復帰に伴って「非琉球人」として位置付けられ、「外人登録」が義務づけられ、公職から追放され、参政権、土地所有権、公務員試験受験資格等々が剥奪されたのは、ユースカーがしたことであって、沖縄がしたことではない。

 インタビューでは、奄美人の免職の裏には、ユースカーへの沖縄人の陳情があったという伝聞も語られるが、それは、ユースカーの制度に沖縄の奄美差別感情が絡み合ったもので、これが事実であったとしてここで発動される沖縄の差別は、ユースカーの政策あってのもので、それと沖縄の差別とは区別して考えなければならないことだ。

 沖縄の奄美差別の文脈を追っていくと、それは四つの層に分けることができるように思う。

 ひとつは、沖縄の奄美差別。
 インタビューでも述べられるように、この差別は、「奄美」と「宮古」は同列になる。県としての沖縄全体が奄美を差別するというのではなく、沖縄島が、奄美や宮古を差別するという構図だ。これはいかにも、で、ひょっとしたらユースカーをけしかけてまで行われた差別だ。沖縄中心主義に由来すると思う。

 二つ目は、ユースカー。
 奄美人の「外国人登録」、公職追放。これは、あくまでアメリカの政策でこれを沖縄による差別というのはお門違いで、責はアメリカに求めなければならない。

 三つ目は二重の疎外の反映。
 ここから先は、この本では全く捉えられていないことだが、薩摩による二重の疎外で、「奄美は琉球ではない」という規定を受けてきた。それは強いられたことであるにもかかわらずいつしか当事者の意思に置き換えられてしまう。沖縄からも「奄美は琉球ではない」。そういう見なしが差別として表出された。その側面は底流していたと思う。しかし、これは薩摩の支配形態に責を求めるべきものだ。

 四つ目は、奄美の日本復帰。
 奄美は当初、沖縄を含めた「完全復帰」を主張していたのに、復帰の可能性が見えるや否や「実質復帰」に傾斜していく。奄美は沖縄をおいて復帰へと邁進したのである。そこには奄美の困窮という止むざる事情がある。だが、その実態が見えなかったら、沖縄から見て、奄美の先行復帰をさびしく思わないはずがない。その裏返しの差別の面があると思う。これを溶かすのは、奄美が「完全復帰」から「実質復帰」へ鞍替えしたことの内省と沖縄への後ろめたさを意識化することだ。

 こう見てくると、沖縄の奄美差別と純粋に言えるのは、中心が周縁を差別するという毎度お馴染みのものだけが残る。そしてそれは、奄美大島にしても、そこはかとなく奄美大島中心主義で行っていることだという内省を踏まえなければならない。これは宮古、八重山とともに行なうべき意義のある批判だと思うが、ぼくは、ユースカーの政策まで沖縄の仕業と言いかねない批判は不思議に思える。

 穿った見方だが、薩摩批判ができない屈折で過剰な沖縄批判になる分、ユースカーも沖縄に見えているのではないだろうか。

◇◆◇

 島尾は、琉球弧を、よって立つ歴史文化の古層がヤマトとは異なるヤポネシアと総称しながら、奄美と沖縄には同質性とともに異質性もあると注意深く述べている。
 だが、そう指摘するにとどまり、沖縄と奄美の間に横たわる差別の根源にまでは思いを致さなかった。
 ヤマトは十七世紀の島津侵攻、明治の琉球処分と、沖縄を支配し差別しっづけた。そしてヤマトに支配されたかつての琉球王国は、そのかわりとでもいうように、奄美群島を隷属させてきた。沖縄は日本との関係の文脈で、いつも〝被害者〃 の島として語られる。
 だが、奄美との関係でいえば、沖縄は明らかに〝加害者″の島である。
 差別されたものは、必ず差別する。
 日本と沖縄と奄美の近現代があぶりだしているのは、そんな言葉が突きつける、古くて新しいやりきれなさである。

 島尾は、「沖縄と奄美の間に横たわる差別の根源にまでは思いを致さなかった」のではない。島尾はそれに気づくが、眼前の奄美知識人の思いこみの激しさの前に言えなかった、言わずにおいたというのが正確だと思う。彼が「奄美学」の構築に消極的だったのは、目の前の実態のままでは「奄美学」は、「沖縄学」と同等のセクショナリズムに陥ってしまうだろうと直観したからだと思う。言わずにおいたのは島尾の弱さ、優しさかもしれないが、彼の直観は正しかったと思える。

 それにしても、「そしてヤマトに支配されたかつての琉球王国は、そのかわりとでもいうように、奄美群島を隷属させてきた」というのは、佐野の事実誤認ではないだろうか。「十七世紀の島津侵攻」以降、琉球王国は、奄美群島を隷属化してない。まさに隷属化してきたのは薩摩である。これが踏まえられなかったら、沖縄による奄美差別の了解の構造を把握するのは無理である。

 ジャーナリスティックな作品の生命線は、事実の醍醐味だ。その意味で佐野も事実に留めて歴史理解に踏み入る記述は避けるべきだったのではないだろうか。「与那国は、渡るのが困難な島という意味から、『渡難』とも呼ばれる」と、「どなん」を説明するところも同じだ。「どなん」は、「ゆなん」で「砂」に由来するかもしれず、「寄る」に由来するかもしれない。けれど、当て字の「渡難」に由来することはあり得ないのは、与論の「尊々我無」は誤用であるのと同じだ。もっとも、「渡難」は「渡るのが困難な島という意味」は、地元の郷土史が書いていることかもしれないから、ブーメランになって戻ってくることかもしれない。しかし、佐野は、生き生きした事実を追うことに徹していいのだ。

 実際、奄美ヤクザのマジアニョ、それから密貿易で生き延びてきた奄美人のインタビューは面白かった。もうひとつ。佐野は奄美を「空白の琉球弧」と表現している。この比喩は正鵠を射ていると思う。そしてもうひとつ。末尾には、沖縄島だけではない、奄美大島も同縮尺で並置して、琉球弧の地図を載せてくれている。この編集は嬉しい。



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二重の疎外とその隠蔽の核心

 ぼくたちはこうして、奄美の失語が、右を向いても左を向いても「違う」と言われてしまうような、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外に由来していることを知ります。しかしことはそれで終わらず、「奄美は琉球ではない、大和でもない。だが琉球にもなれ、大和にもなれ」という二重の疎外を隠ぺいしなければならなかったのです。それは奄美の失語を深くし、人形のような空っぽな存在のように自身をみなす刻印を押されたのです。

 ぼくはここで、もうひとつ付け加えなければなりません。
 
 守衛方の物頭として大島に来島したことのある扮陽光遠は『租税問答』で、次のように書くのです。

 問て日、右判物の趣を以ては道之島は中山王領地の筋なり、然れば慶長より琉球を離れ吾に内附せしは内證のことなるや、答て日、然り、内地の附属と云うこと、別段御届になりたる覚へなし、故に代々の判物皆替ることなく拾二万三千七百石余なり、道之島人今に至り容貌を改めざるも是が為なるべし、琉球へ封王使渡来は中山国第一の大礼なり、此時には道の島より鶏、玉子、豚、薪の類を米にて調納する遺例ありて五島皆然り、島の大小に因て其品多寡ありとぞ、此時も外には何も交際あることなしと琉人より聞けり。

 このひそひそ話のようなやりとりを意訳してみよう。

 問うて言う。奄美の生産高が琉球高とされていることからすると、奄美は琉球王朝の領地なのが筋だが、慶長から琉球を離れて薩摩のものになっているのは内証のことなのか。答えて言う。そうだ、内地(薩摩藩)に付属しているということは別段、届け出た覚えはない。だから、代々の生産高は変わることなく一二万三七〇〇石余りである。奄美の島人が今に至るも容貌を改めていないのもそのためである。琉球へ冊封使が渡来するときは、琉球王朝の第一の儀礼になるが、このときは、奄美の島々から鶏、玉子、豚、薪の類を米で納める慣わしがあって五島皆そうだ。島の大小によって多い少ないはある。このときも他にも何も交際はないと琉球の人から聞いた。

 こういう内容だと思う。琉球王朝の祭儀に間接的ながら奄美の島も参加していたことがここでも分かるが、ここで注視するのは、「慶長より琉球を離れ吾に内附せしは内證のこと」ということです。

 奄美だけでなく琉球全体に「大和ではない」という規定を強制したのは、明に対して、琉球王朝の存在を見せる必要があったからだった。ということは、明に対して琉球侵略は「内証」のことでした。

 しかし、この『租税問答』によると、それだけではない、奄美に対して「琉球でもない」と規定した奄美の直接支配のことは、幕府に対して「内証」のことだったのです。薩摩は、琉球侵略を幕府とともに明に対して秘密にしますが、それだけではなく、こんどは幕府に対して奄美の直接支配を秘密にするのです。ぼくは驚くと同時に、この政治行動はきわめて薩摩的だとも感じます。

 奄美の失語を決定的にしたのは、二重の疎外とその隠ぺいのなかでも、奄美を直接支配しているということを、明、清に対してだけでなく、幕府に対して「内証」にしたことにあります。それは、対外的にも対内的にも知られざることだった。ということは、奄美の困難は誰にも知られることなく、二六〇年を過ごしたということになるからです。ここに、知られなくても当たり前、不合理な困難があっても知られることはないという奄美の宿命が明瞭に刻まれているのを見ないでしょうか。ここに、解除しなければならないことの核があります。


「奄美自立論」7

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2008/10/21

琉球にもなれ、大和にもなれ 2

 「奄美は大和である」と表現しなければならないときもあったのです。それも漂着の場面でした。

 『薩州人唐国漂流記』はそれを詳しく伝えています。

 一七七三年、沖永良部島を出帆した薩摩の船は、難風に会う。そこには、「水主」(船の漕ぎ手)不足で、沖永良部島の「琉球人登世村と島森」を雇い、都合一九人が乗り組んでいた。この船は都合八日間漂流しているのだが、この間、「呑水」を使い切り、海水を煎じて水を取り、そうかと思うと大雨が降って飲み水を溜めてしのいだ(溜置き相凌ぎ候)。島が見えてきたが、島かげが近づくにつれ、「唐国」かもしれないと思う。そこで、「琉球人両人交り居り候ては如何かと存じ」、つまり、琉球人が交じっているのはいかがかと思い、「月代を剃り、日本人の姿に仕立て、登世村を村右衛門、島森を島右衛門と名付け置き申し候」とした。陸に上り、「何国」のものかと聞かれ、「日本国薩摩の者」と答えた。

 ぼくは、「奄美は琉球ではない、大和でもない」と規定した薩摩が、沖永良部の島人を「琉球人」と認識していることに関心を持つが、ここでまず抽出したいのは、島人は「月代」と名を「村右衛門」「島右衛門」とそれらしくしてまで、こんどは日本人であることを装わされたことです。このとき、沖永良部の島人は、「奄美は大和である」と演じたのでした。このときの薩摩の態度を見ると、琉球人なのだが、大和人になってもらうということでした。

 沖永良部の島人が朝鮮に漂着した際、朝鮮という外からは、沖永良部は「琉球」ということになっています。船内の文書や通貨は「大和」のものだったので、朝鮮は「倭人」ではないかといぶかるが、沖永良部の島人は「琉球人」であると言い張って切り抜けます。

 一方、中国に漂着した薩摩船に乗り合わせていた際は、禁じられていた大和風である月代を施し名前もつけ、「大和人」を装ったのです。

 まるでお笑いのコントを見るようですが、しかしそこは舞台ではなく、まるで舞台であるかのように演じなくてはならなかったのは同じでも、二重の疎外の隠蔽が決して露呈してはならなかった異国においてでした。両方の場面の沖永良部の島人は命がけだったはずです。しかも飲み水にも苦労する漂流の様をみれば、命からがら助かったと思いきや、命がけの演技が待っていたわけです。ここで、二重の疎外を隠ぺいしたのは、薩摩ではなく、二重の疎外を受けている当事者の奄美の島人こそがしなければならなかったのです。どういうことでしょうか。

 つまり、薩摩は、奄美に対し、「大和ではない、琉球でもない」と規定しただけでなく、

 だが、琉球にもなれ、大和にもなれ

 と、強制したのです。

 奄美の受けた二重の疎外は、より正確には、

 琉球ではない、大和でもない。だが、琉球にもなれ、大和にもなれ。

 という規定としてあったのです。

 これはマリオネット的というべきで、ふつう人はこの役を全うしようとすれば、自らを虚ろな器とみなしてすべき役に適応させなければなりません。自己を消去するしかなかったはずです。

 これは何というか、身近なことに似ています。二重の疎外とその隠蔽の内実は、言い換えれば、「奄美は大和でもない、琉球でもない。でもそうであるということを他人には明かすな」ということです。こう書けば、これは典型的ないじめの構図と同じであるのが分かります。薩摩は奄美をいじめの構図のなかに置いたのです。

 ぼくたちはここまできて、奄美の失語の核に触れているのではないでしょうか。奄美の最良の紹介者だった作家の島尾敏雄は、「奄美の人々は、長いあいだ自分たちの島が値打ちのない島だと思いこむことになれてきた。本土から軽んじられると、だまってそれを受けてきた」(「奄美 日本の南島」)と書いたけれど、ぼくたちはその理由にここで出会っているのではないでしょうか。

 もちろん薩摩直接支配下の島人個人がそのように悩んでいたわけではありません。自分は誰なのかが個人の悩みになるのは、県を越えた交流が可能になり、個人いう概念の生まれた近代以降のことです。だが、奄美の共同体に二重の疎外とその隠蔽の構造はこのとき埋め込まれました。近代はそれが顕在化する過程であったはずです。


「奄美自立論」6-2

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2008/10/20

琉球にもなれ、大和にもなれ 1

 しかし奄美の失語がややこしい、根が深いのは、「奄美は琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外というだけではないことです。ぼくたちはそのことに触れなければなりません。

 「琉球ではない」という規定を奄美は受けていましたが、それにも関わらず、奄美は琉球としてふるまう場面を持っていました。それは中国から冊封使が琉球へ訪れるときでした。このとき、奄美の各島の役人は、貢物を持って琉球の役人と同じように冊封使と対面することになっていました。この、明、清との関係が顕在化するとき、奄美は琉球として振る舞ったのです。一六八三年に冊封使が訪れたときは、吐噶喇列島の人々は実際には来ず、薩摩の藩士が宝島人を偽装して訪れていたので、偽装した薩摩人を宝島人と見なして振舞わなければならないという場面すら経験していました。

 そしてこの場面での奄美は、琉球でした。奄美は琉球にもなれ、そうも規定されていたのです。これは、「奄美は琉球ではない」という規定を薩摩は強いているにも関わらず、対外的には、奄美は琉球王国の一部とされていたからです。

 中国からの冊封使が琉球に訪れた際、薩摩の役人が中国の使者の目に入らないよう身を隠します。それは琉球王国が薩摩の支配下にあることを隠さなければならなかったからですが、奄美の島人はもっときわどい場面でそれを表現しなければなりませんでした。隠蔽の膜を破るように見えない関係が見える瞬間があったのです。それは漂着でした。漂着という不測の事態のときこそ見えない関係は露出する機会を得たのですが、このことは不測の事態しか見えない関係が見える機会はなかったことと、不測とはいえ漂着は珍しいことではなかったことを同時に物語っているようにみえます。

 『朝鮮王朝実録』を引いた伊地知裕仁の紹介(「えらぶせりよさ」No.41)によると、一七九〇年七月、朝鮮に沖永良部の船が漂着します。

 琉球の山原に交易に向かったのだが大風に会い一四日間漂流して流れ着いた。船内には、「大阪の絵図」と「大日本年代記」がある。寛永通宝二四七四枚もある。言葉は通じないものの、七名の内、一人が読み書きをでき、「琉球国中山王」の者と答える。寛永通宝は「琉球本国」の通貨であると言う。そして、「日本」と書いた文字を見せると頭を振って答えず「大清」を書くと手を合わせて黙ったという。朝鮮の役人に問い合わせると、七人は「倭人」に似ていて通貨も「倭」の通貨である。琉球は「倭」に服属しているのかもしれない。朝鮮側はそう考えるのだが、手厚くもてなし衣服、食糧を与えた。そして地図を与えると、七人は喜び朝鮮を去る。沖永良部島に残っている位牌などから推察するに、七人は無事、帰島したと考えられる。

 事実は無尽蔵に放ちますが、ぼくたちがここで抽出したいのは、沖永良部の島人は、琉球の支配下にあることを装ったことです。「奄美は琉球でもある」、そう島人は演じたのです。


「奄美自立論」6-1

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沖縄から戦後日本を照射する

 書店では、表紙の少女の写真にどきっとしながら通り過ぎてしまっていた。 
 その本、『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』の出版を記念して、沖縄で講演が開かれた。

 「沖縄から戦後日本を照射する……佐野眞一出版記念講演会」

 記事に出てくる「月刊PLAYBOY」の方は一緒に仕事をさせていただいたことがあり、その際、連載されていた「沖縄コンフィデンシャル」の記事を見せてもらったことがあった。この記事のおかげで、コレがアレだったのか、とようやく結びついた次第。

沖縄の記者に「沖縄(の内部)では書けないことを書いて欲しい」と言われ、書く踏ん切りがついた

 と著者の佐野眞一さんは言う。そういえば、『笑う沖縄-「唄の島」の恩人・小那覇舞天伝』でも同じ事情を聞いたことがある。あれだけの言説を量産しながら、どこか不自由なのだろうか。ふと、「氾濫すれど空疎」という田場さんの言葉を思い出した。

 ともあれ、縁ある本だから、読まなきゃなと思っている。

 それにしても気になる記事だと思って書き手を見ると、浦島悦子さんであることがたびたびある。浦島さんの文体には惹きつけられてしまう。


◇◆◇

 コレがアレかは、もうひとつあって、水間さんにも去年、教えてもらっていたのだった。

 「戦後60年の沖縄を作り上げた怪人たち」

 でも、水間さんに言われて思い出すのだから、自分の健忘も恥ずかしいが、つながるなあと感じ入る次第。

◇◆◇

 池澤夏樹さんが早速、書評を書いている。

 今週の本棚:池澤夏樹・評 『沖縄 だれにも書かれたくなかった…』=佐野眞一・著

 佐野にとって沖縄は、「アリババの洞窟」かもしれないが、この本はむしろ、「壮大な打ち明け話」だ、と。


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2008/10/19

二重の疎外。「奄美は琉球ではない、大和でもない」 2

 そして近代以降にいるぼくたちは、この二重の疎外を、個人の悩みとして受け取ることになるのです。ぼくたちはこの二重の疎外が今も終わっていないと感じており、二重の疎外による失語の現在形を奄美の島人のアイデンティティの形に伺うことができます。

 二重の疎外は、「どちらでもある」という二重肯定ではなく、「どちらでもない」という二重否定の形を取っているため、「大和」に寄るか「琉球」に寄るか、大和ではなく琉球でもない残りとしての「奄美」に寄るという形を取ります。

 たとえば、自任の形が「大和」に寄る場合、「奄美は沖縄?」と聞かれると、「いいえ、鹿児島県」と答えることになります。また、自任が「琉球」に寄る場合、「奄美は鹿児島?」と聞かれると、「文化は琉球」と補足を加えなくてはいられない気持ちになります。また、最後の場合は、「奄美は鹿児島でも沖縄でもない。奄美は奄美だ」という主張の形を取るでしょう。このいずれの場合も、他者からのみなしそのものではアイデンティティは落ち着かず、主張という形をとらざるを得ないのです。この主張そのものがわずらわしい時、島人は黙してやり過ごしてきたでしょうし、また、この種の対話そのものを恐れてもきました。

 こうして思い出されるのは、「会話」という詩です。

会  話

お国は? と女が言った
さて、僕の国はどこなんだか、とにかく僕は煙草に火をつけるんだが、刺青と蛇皮線などの聯想を染めて、図案のやうな風俗をしてゐるあの僕の国か!
ずつとむかふ

ずつとむかふとは? と女が言った
それはずつとむかふ、日本列島の南端の一寸手前なんだが、頭上に豚をのせる女がゐるとか素足で歩くとかいふやうな、憂鬱な方角を習慣してゐるあの僕の国か!
南方

南方とは? と女が言った
南方は南方、濃藍の海に住んでゐるあの常夏の地帯、龍舌蘭と梯梧と阿且とパパイヤなどの植物達が、白い季節を被って寄り添うてゐるんだが、あれは日本人ではないとか日本語ほ通じるかなどゝ談し合ひながら、世間の既成概念達が寄留するあの僕の国か!
亜熱帯

アネッタイ! と女は言った
亜熱帯なんだが、僕の女よ、眼の前に見える亜熱帯が見えないのか! この僕のやうに、日本語の通じる日本人が、即ち亜熱帯に生れた僕らなんだと僕はおもふんだが、酋長だの土人だの唐手だの泡盛だのゝ同義語でも眺めるかのやうに、世間の偏見連が眺めるあの僕の国か!
赤道直下のあの近所             (山之口獏「会話」一九三八年)

 この詩が書かれたのは一九三三年、昭和一一年のこと、場所は東京です。山之口は好奇心と差別の餌食になりたくなくて、自分の「女」にすら国のことを言えずに口ごもっています。ふだん、自分が沖縄の出身者であることについては、それこそ失語しているわけです。沖縄の失語は奄美の失語とは構造が違いますが、それでもこの「会話」という詩は、近代以降の琉球の島人が必ずどこかで出会っただろう普遍性があり、ぼくたちの失語の色合いをよく教えてくれます。

 ある意味で、「琉球ではない、大和でもない」という二重の疎外は、焼きを入れるのに似ています。焼きを入れると、治癒した後にも傷跡は残ります。

 「琉球ではない」という焼きは、薩摩の支配が終わり、近代国家になって以降も、沖縄島と与論島の間に不自然なほどの境界が残り、与論島から沖縄島はよく見えるのに沖縄島から与論島は見えなくなってしまっています。また、黒潮の大河が世界を別った七島灘も、船が大型化し航空機が登場すれば、境界としての壁は低くなっていくように、人やモノや情報の交流が進み、区別という以上の境界は無くなっても、「大和ではない」という境界自体が過剰な意味を持って残ってしまいました。


「奄美自立論」5-2

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2008/10/18

二重の疎外。「奄美は琉球ではない、大和でもない」 1

 「奄美は琉球ではない」という規定は、一六二三年の「大島置目の条々」が大きな意味を持ちましたが、「奄美は大和ではない」という規定は、一七二八年に出された「大島規模帳」が大きな意味を持ちました。薩摩の侵略によって、奄美は、「奄美は琉球ではない」という疎外を受け、その約一世紀後、今度は「奄美は大和ではない」という疎外を受けたのです。

 「右を向いても左を見ても」と歌う「傷だらけの人生」という曲がありますが、「琉球ではない、大和でもない」という規定はまさにそのようなものでした。「何から何まで真暗闇よ/すじの通らぬことばかり」と始まるこの歌謡は、まるで奄美の人の曲のようです。右を向いても首を横に振られ、左を見ても首を横に振られる。奄美は、二重の疎外を受けたのです。

 二重の疎外を、少し厳密に書けば、次のようになります。

 政治的共同性の同一性を根拠に「大和」を向けば、地勢と自然と文化の差異により疎外され、地勢と自然と文化の同一性を根拠に「琉球」を向けば政治的共同性の差異により疎外される。
 
 疎外を、ぼくはここで仲間外れの意味よりもっと広く考えています。たとえば、前者の疎外は、「差別」や「支配」として表出されて、後者の疎外は、「同情」や「無視」といった形で、それぞれの色合いを持って表現されたはずです。

 そしてぼくたちはこの、

 奄美は、琉球ではない、大和でもない。

 という二重の疎外こそは、奄美の失語を生み出したと考えることができます。

 ぼくたちはここでも注意しなければいけないのは、奄美は、琉球ではない大和でもないという二重の疎外を受けたとして、それに対して、「でも、日本人である」と答えられたわけではないということです。当時、「日本人」という概念は成長の途上にあり、それがぼくたちの自任の形として手にされるのは、近代以降のことです。いまなら、「琉球ではない、大和でもない」と言われたとしても、「でも日本人です」と抗弁する形もありえるわけですが、当時、それは無かった。もともとの琉球という概念を否定され、身近な他者である大和を否定されたら、それは他に行き場がないことを意味したはずでした。

 ここでもうひとつ付け加えなければならないのは、当時、「日本人」という自任の形がまだ手にされていなかったのと同じように、奄美は琉球ではない、大和でもないという二重の疎外が、個人の悩みとしてあったわけではないということです。それが、個人のアイデンティティの悩みになるのは、「日本人」という概念を手にしたのと同様、近代以降のことです。ぼくたちは、この二重の疎外が、共同体の構造として埋め込まれたのだと理解しなければなりません。当時、個人の悩みというより、共同体の不安として二重の疎外は抱え込まれたのではないでしょうか。


「奄美自立論」5-1

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縁日

 縁日の雑踏に紛れると落ち着く。
 屋台に集まる子供たちを眺めるのは楽しい。

 東京でもこういう場がある。
 というか、東京にはこんなほっとする機会が多い気がするですよ。


Ennichi_2

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2008/10/17

大和ではない 3

 ところで、占領しながら大和化を禁じるというのは不思議な行為です。占領行為といえば、大和化の強制という偏見を持っているからかもしれませんが、占領して大和化するなというのは想像しにくいものです。大和化の禁止、と言わなくても、もともと大和ではない、からです。

 しかし、よく考えると、もともと大和ではない、ということと、大和化の禁止とは意味が異なるのに気づきます。侵略以前、薩摩は鹿児島藩としてあり、琉球は琉球王朝としてありました。そこで、琉球では、薩摩から先の本土を「大和」と呼び、そこの人を「大和人(やまとぅんちゅ)」と呼び、それに対応する自分たちのことは、たとえば、与論の島人は「与論(ゆんぬ)」、「与論人(ゆんぬんちゅ)」と呼び、区別していました。それは自他を区別する自然の状態としてあったわけです。それが侵略以降は、そこに「大和(人)ではない」という規定が加わります。それまでも「奄美」は「大和」ではなかった。だから、奄美は大和ではないことは、自然な区別意識としてはあったでしょう。

 しかし、そのことと、占領した上で、改めて大和の方から、「奄美は大和ではない」と規定されることとは意味が異なり、そこには一種の疎外が生まれます。琉球の服装を自然なこととしてつけていることと、わざわざ大和風の服装をしてはならないと言われるのとでは、望むと望まないとは別の次元で自由が制限されることを意味しました。

 薩摩は、琉球に対し、

 大和ではない

 という規定を強いたのです。

 この侵略した上での「大和ではない」という規定は、奄美の人は、実感として分るのではないでしょうか。囲った上で無視する、囲っているのに無関心というのは、県としての鹿児島の共同意志には、いまも感じられることです。囲った上での黙殺という傾向の起源は、この規定の強制にあったと感じるのです。

 なぜ、薩摩はそんな強制をしたのでしょうか。

 よく知られているように、そこには対明貿易の利益を確保するという明瞭な意図がありました。当時、琉球は、中国の冊封体制下にあり、明との貿易を行っていました。ところが日本の幕府は、豊臣政権の朝鮮出兵時に、明は朝鮮支援のために二〇万の軍勢を出しており、幕府は明と良好な関係を持っているとは言い難い状況でした。そこで、琉球を薩摩が侵略したことが分れば、琉球と明との貿易自体を終了させてしまう恐れがありました。そこで、侵略した後も、あくまで、琉球は「大和ではない」という体裁を保つ必要があったわけです。だから、「大和ではない」ことの中身が、髪型や服装などの容貌が肝心だったのはそういう意味があります。それは、琉球に支配者として訪れている薩摩の役人をも律することで、実際、中国からの使者が琉球にやってくると、薩摩の役人は隠れて、大和の匂いを消すのでした。

 元ちとせや中孝介を通じて、奄美の一字姓のこともよく知られるようになりましたが、この一字姓も「大和ではない」規定のなかから生まれたものでした。弓削政己の「奄美から見た薩摩と琉球」(『新薩摩学 薩摩・奄美・琉球』所収)にょれば、冊封体制下において中国へ対応するときは、琉球も当時の漢文化圏に倣い、一字姓の名字であったの添って、一字姓の名前を強いたと捉えています。ここでは、「大和ではない」という規定は、素朴な大和と琉球の区別という以上に、「異国である」含みを持ち始めているのに、ぼくたちは気づきます。


「奄美自立論」4-3

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2008/10/16

松山光秀の遺稿集、刊行委員を募っています

 今年のはじめ、徳之島の民俗研究家の松山光秀さんが亡くなったのを、「奄美諸島史の憂鬱」で知り、残念だったが、その松山さんの遺稿集を刊行する動きがあると知り、嬉しくなった。

 ぼくは松山さんの「コーラル文化論」に共感し、できればその後の一枝葉を展開したいと思っている。でも、思いばかりで果たせないでるが、その前に、松山さんが『徳之島の民俗』のあとに書きついでこられたものを読めるなんて嬉しい。久しぶりの恵みの雨、慈雨だ。


 南海日日新聞によれば、遺稿集発刊にあたって会費を募集している。
 会費2500円で、でも会費を払うと、遺稿集が贈呈されると書いている。え?遺稿集の定価は3000円というのに?

 あまりに良心的。定価でよいのではと思うのだが、お言葉に甘えよう。

 賛同者は、10月31日までに徳之島研究会会長の本田碩孝さんに会費2500円を送金してください、と記事にはあります。

 TEL:099-272-1122
 送金先:郵便振替、本田碩孝 02090-9-10856
 郵便通帳振替希望17830番号1501551


発起人 下野敏見・山下欣一・小川学夫・三上絢子・本田碩孝


松山光秀遺稿集 『徳之島の民俗文化』

目次

Ⅰ シマの諸相

1.ヤマト文化圏と琉球文化圏
2.奄美文化の中の水稲(いね)と甘藷(きび)
3.シマ(集落)のコスモロジー ・・・奄美徳之島・徳和瀬の事例
4.徳和瀬(徳之島町)の民俗社会
5.ハマオリ儀礼の基本構造と夏目踊りー徳之島町徳和瀬・・・
6.神之嶺校区の伝承文化の諸相
7.「井之川根性」について思うこと

Ⅱ しまぐち・ことわざ・民謡

8.シマグチと私
9.シマの諺にみる「魂」の系譜
10.シマのことわざにみる〈愛〉のかたち
11.シマのことわざ五十選
12.シマの古謡十番口説にみる生命の賛歌
13.日本書紀の「諷歌・倒歌」と徳之島の歌謡
14.徳之島の口説について
15.奄美島歌の伝播と変容 ちょうきく節の事例を通して
16.徳之島の毬つき唄 「アーガヤ ガマクラ」について
17.徳之島の歌者 實寿當翁のこと

Ⅲ 余滴

18.追憶 ある祈りの風景
19.シュクが寄って来なくなった
20.碑文 亀津ナガハマ
21.名城秀時のプロフィール
22.郷土作家 前田長英の生涯
23.コラム「南点」
 琉球文化圏はコーラル文化圏
 サカ歌との出会い
 徳之島の水稲文化
 シマのことわざにみる愛のかたち
 島の古謡にみる死生観五行十干カマドマオロ
 芭蕉布の民俗
 ハブにかまれた話
 徳之島の田植え歌
 徳之島の花暦
 不思議な島
 仏教の定着できなかった島



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大和ではない 2

 ぼくたちは薩摩の規定の文言を見ながら、心が揺れるのを感じないでしょうか。「日本人のなり」をしてはいけないという言葉に、薩摩支配下の段階から、日本人か否かに悩まされてきたように見えるからです。でも、気をつけなければいけないのは、ここにいう「日本人」は、ぼくたちがいま使っている「日本人」とは含みが違うことです。

 この規定に見る通り、一七二八年の時点で薩摩あるいは日本は、「日本」、「日本人」という自称を手にしていました。もっと前、一六一七年、琉球に下された令達にも「日本人の髯髪衣裳」という表現で大和化の禁止が書かれていたので、このときには既に「日本」、「日本人」と自称しているのが分かります。

 これはいまぼくたちが使っている「日本」、「日本人」と同じ言葉です。しかし規定に言う「日本」、「日本人」は、秀吉、家康が行った天下平定のまとまりの範囲とそこの人々を指していますが、それといまの使い方とには決定的に違う側面があります。それが今の「日本」、「日本人」になるには、薩摩や長州の下級武士たちが「志士」として、民族の意識を自覚し、明治維新を遂げて、国民という意識が定着するのを待たなければなりません。一六一七年の令達や一七二八年の「大島規模帳」にある「日本」はまとまりの自称を獲得しその枠を広げつつあるとはいえ、そこに「民族」も「国民」もありません。それが獲得されるのは「大島規模帳」から一世紀以上も先のことです。そのときになって、ぼくたちはようやく、薩摩人や津軽人であると同時に、「日本人」であることを知り、それが薩摩人や津軽人に共通のものであるという感覚をものにします。また、武士や農民や商人、工人として身分が固定されているのではなく、国民として平等であるという感覚を知ります。

 そしてこうなった「日本」は、アイヌや琉球を含んだ上で「日本」になっていました。それは薩摩人や津軽人であるというだけでなく、「日本人」ということがその上位概念にあればこそ、「大和」ではないアイヌも琉球も「日本」の中に組み入れられることが可能になったのです。これをアイヌや琉球からみれば、近代とは、「日本人」になることで「日本」に入ることができる事態と受け止められたはずです。

 また、薩摩が「日本」という言葉を使っているのは、薩摩が独断で琉球への侵略や支配を行っているのではなく、あくまで幕府の許可を受けてやっているわけですから、琉球に対するとき「日本」と書き、その延長で奄美に対する場合も「日本」という言葉を選んだのではないかと思われます。

 そこで、近代以前の「日本」は、琉球にとって「大和」のことに他なりません。当時、琉球は「薩摩」を「大和」と呼び、その向こうの幕府を「大大和(うふやまと)」と呼んでいました。それなら、「日本人」のなりをしてはいけないと言われたとき、そこにいう「日本人」とは、琉球や奄美にとって「(大)大和」を指していました。「日本人のなり」をしてはいけないという規定を奄美の島人がどう受け止めたかという側面で捉えるなら、大和人めくなということを意味したのです。


「奄美自立論」4-2

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サンゴ塊

 サンゴ塊。正確には、マイクロアトール(微環礁)。

 マイクロアトール

 サンゴ礁地形の代表的な形である環礁(アトール)と同じ仕組みで、長い時間をかけ形成されたサンゴの群体。ハマサンゴの場合、直径3—7メートルに達する。浅瀬にあるサンゴが成長するうちに頭のてっぺんが海面に達してしまい、上方に成長できず横方向に広がり、円柱形となったサンゴの塊。

 化石化したサンゴ塊が見つかったのは中城村。津堅島や久高島が臨めるだろう南部東側の海だ。

 約6000年前に生きていたハマサンゴのマイクロアトールで、南北7メートル、東西5メートルもの大きさだという。

 ※化石サンゴ世界最大級 6000年前微環礁と判明

 豊かな珊瑚礁自然があった証ですね。

 与論にはないのかなあ。



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2008/10/15

大和ではない 1

 奄美は琉球ではない。奄美が薩摩に受けた規定はそれだけではありませんでした。

 現在の沖縄を含む琉球全体に行なったのは、「大和めく」ことの禁止でした。それは服装や髪型などの容貌に関わるものでした。まず、一六一七年の令達。

琉球生国の者日本人の髯髪衣裳に相かゆる事、停止せしむべし(伊波普猷『孤島苦の琉球史』)

 ここで、琉球で生まれた者が、日本人の髯、髪、衣裳に変えることは「停止」しなければならない。これに背いて「日本人之なり」をするものには調べて「罪科」を行う、と日本人の風貌にすることを禁止しました。

 その七年後の一六二四年の「定」では、

日本名を付け日本支度を候者、かたく停止せしむべきこと(『薩藩旧記雑録』)

 と、「日本名」を付けること、日本の衣装をつけること(日本支度)を堅く禁止するとしています。

 ただ、この二つの既定は、琉球に対して行ったものであり、奄美に対して明示されたのは、現在知られている記録に依る限り、「定」よりずっと後でした。それは、約七五年も後、一六九九年の喜界島代官宛ての達書です。その第一条には、

道之島の儀は、嶋人相応の姿にて、名も附け来り候通り(『島津家列朝制度』)

 とあったのです。「嶋人相応の姿」というのは、大和化せず以前の琉装のままにせよということに他なりません。名もいままで通りで、「何十郎・何兵衛」などと薩摩の人名に紛らわしい名前をつけている者はすぐに「嶋人相応の名」に変えるように言われています。また、第二条では、「月代」や成人の「剃髪」を禁じています。月代(さかやき)は、時代劇によく見る額から頭の中ほどにかけて剃るあの髪形のことです。剃髪は髪を剃ることです。ここからみると、奄美の島人とは、月代や剃髪を未経験の民ということもできそうです。さらに、大和化を禁じる規定は、医学の勉強などで本土薩摩に行った者についても徹底されていました。

 この一六九九年の喜界島の達書に見られる内容も、先の「大島規模帳」で整理され改めて規定されます。

島中の者共、日本人の如く髪を刺し売買のために他出致す儀、停止せしむべし。

 島中の者どもは日本人のごとく髪を刺して売買のために他出しないことというのは、市場に出るときのよそ行きの姿のことを指すのでしょうか。そういった場面があったことが想像されます。また、この規定にはつづけて、

付いては代官・附役人並びに運賃船に至る迄、島人鹿児島へ召し列ね候儀、禁止せしめ候事。

 と、島人を鹿児島へ召し連れることを禁止していました。やはり、実際の場面とともに想起されたのでしょう。

島人共、容躯名ありきたる通り仕るべく候。日本人の名を付け候儀、停止せしむべく候。

 容貌は今まで通りにすること、日本人の名を付けないことと規定されています。

 奄美は、征服後すぐの琉球に対する大和化の禁止の流れを受けながら、明言されたものではなかったので、大和化する例も見られることもあったのでしょう、一六九九年の喜界島達書、一七二八年の「大島規模帳」で改め禁じられたのでした。

「奄美自立論」4-1

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2008/10/14

琉球ではない 2

 それだけではありません。この間には、この規定を強化するもうひとつ見逃せないことも強いられています。それは、奄美の旧家に所蔵されている琉球の辞令書や家系図、古文書の差し出しを命じたのです。これは、原書だけでなく写しも対象にされています。さらにこうした文書を所持しない者でも由緒や家伝がある場合、それを書いて提出するように命じているのです。一六九二年には徳之島で、一七〇六年には大島でそうした強制が行われました。

 この、文書の喪失は奄美の失語を深くします。琉球からの政治的権威づけの根拠を失ったからではありません。そういう意味ではそれは、島人の命運には関わらないことです。そうではなく、それがないということは、奄美が文字による記憶を失うことを意味したからです。記憶を失えば、奄美が自分たちの歴史を紡ぐよすがを失います。文字だけが記憶を紡ぐわけではありませんが、大きな手がかりであることには違いありません。そこで奄美は、記憶を無くすのです。

 ところで琉球とは、政治的な関係は断たれましたが、経済的な関係も消滅したわけではありません。たとえば、許可さえ出れば船で芭蕉、豚、麦などを積んで琉球に行くことができました。また、沖永良部、与論では材木がないから琉球(山原)で材木を購入したりしていました。こうした経済的な交流は絶えていなかったのです。

 けれど一方で、経済的な利害が対立すれば奄美は疎外を受ける対象でもありました。沖永良部や大島のウコンが大阪市場に流れ、沖縄のウコンの値段が下がるということが起きたとき、薩摩は奄美のウコン栽培を禁止するのです。

 奄美を欠いた琉球には、奄美に対するつながりの意識はありましたが、薩摩の「琉球でもない」という規定を超えた行動は当然ながらできなかったのです。

 奄美は琉球ではない。

 このことは奄美にとってことの他、重要な意味を持ちました。それは、奄美が、自然と文化と地勢の同一性を根拠に言うためのまとまりの言葉を無くしたのです。それは今につづきます。

 奄美は「琉球ではない」。この規定により、奄美は琉球との関係を断たれ、沖縄島と与論島の間には、薩摩の直接支配地と間接支配地の境界が引かれます。この境界は、現在でも鹿児島県と沖縄県の境界として生きています。この境界により沖縄の視野からは奄美は消え、文化や自然がつながっていることも知られなくなりました。あれから四世紀経ちます。しかし四世紀経とうが、この境界は痛切です。


「奄美自立論」3-2

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2008/10/13

琉球ではない 1

 琉球が侵略されて以降、奄美は薩摩に何をされたのでしょう。

 まず、一六一一年、薩摩は琉球に貢納の規定を行いますが、貢納すべき島の範囲を、

沖那波 けらま 与部屋 いぜな 伊恵嶋 となき嶋 栗嶋 久米 やえま 宮古島(『薩藩旧記雑録』)

 と記述していました。

 これを現在の地名に置きなおすと、

 沖縄島、慶良間諸島、伊平屋島? 伊是名島 伊江島 渡名喜島 粟国島 久米島  八重山諸島 宮古諸島

 となります。

 この島々の名前をたどると、侵略前の琉球にあってこの規定にないものがあるのに琉球は気づきます。それが、奄美でした。奄美は、まず琉球には含まれないということを言外に示されたのでした。この言外に言われるという触れられ方は重要です。直接、言うべき存在ではなく、含まれないということや何かの残余として言われるというのは、奄美の触れられ方の特徴になったからです。島津氏の琉球占領構想のなかの「其外の島々」、「あたりの島々」という表現はまさにその原型だったかもしれません。それは次に琉球の貢納規定に際して、言外に言う対象として現れます。このときもう、それは始まっていたのだと、ぼくは思わないわけにいきません。

 奄美が直接、琉球ではないという規定を受けるのは、一六二三年の「大島置目の条々」によってです。「置目」には「規定」の意味があるので、「大島置目の条々」とは、大島に対する規定集という意味になるでしょう。そこにはこう書かれていました。

 諸役人は琉球に至り、はちまきのゆるしを取る事、停止せしむべし(『大島要文集』)

 鉢巻は琉球の役人の象徴であり序列を示すものです。その鉢巻、すなわち冠を授かることを禁止するとして、奄美は琉球との政治的なつながりが否定されたのです。

 ところで正確には、「鉢巻禁止」の条文には続きがあり、「島中の者ども百姓以下にいたるまでぞうり履くべき事」とあるのです。これらは別の条文ではなくひと続きの文としてあります。つまり、役人は鉢巻をしないこと、百姓まで全員、草履をはくこと、とセットで書かれているのです。これは一見すると、琉球化の否定と大和化の肯定に受け止めそうになりますが、「草履」は大和化というより文明化を意味させているのでしょう。ここで、「役人」の従来のステータスを否定して「島中の者ども百姓以下にいたるまで」と「役人」と「百姓」を同一化した上で、「頭」から「足元」へと両極に場所を振り、琉球化と文明化を対抗させて、目先の変更を意図したのではないでしょうか。

 さて、この「琉球ではない」いう規定は、一六二三年の「大島置目の条々」で完成したわけではありません。今では気の遠くなるような時間ですが、それから約一世紀後、一七二八年に各島の代官に宛てられた「大島規模帳」で再度、強調されるのです。「規模」には「規範」の意味があるので、「大島規模帳」は大島の規範帳とでもいうものです。

島中の者、本琉球に至り、はち巻の免取る間敷事

 こう改めて、鉢巻の禁止について規定されるのです。

 また、島役人への登用は「器量」で選ぶものだから、「本琉球支配」の家柄による申し立ては「無用」で「遠慮」すべきである。「御蔵入りに成り候ては、皆平百姓にて候」と、直接支配(御蔵入り)以降は、「皆平百姓」なのだと位置づけています。さらに、琉球の名士たちが島に着いて船を出す日よりを待っている間などに「洒・酢・醤油」を差し出すのは停止するということまで事細かに規定されています。

 ここに見られるように「大島規模帳」でも、琉球との政治的共同性の関係の切断が目指されていました。一六二三年の「大島置目の条々」から、一七二八年の「大島規模帳」にかけて、奄美は琉球ではないという、琉球との政治的関係の切断を強いられたのでした。



「奄美自立論」3-1

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2008/10/12

一六〇九年。失語の起点

 一六〇九年、琉球は薩摩に侵略されました。

 三月四日、樺山久高を大将とする薩摩の軍勢三千余人は、百余艘の船団を組み、山川港を出港。五日に吐噶喇列島の口永良部島に到着。七日に奄美大島の笠利湾、十二日に大和浜、十六日に西古見を経て、二十日に徳之島の秋徳着。二十一日に亀津。二十四日には沖永良部島の和泊を経て、二十五日には沖縄島の古宇利着。二十七日に今帰仁城を占拠し、二十九日には大湾着。四月一日那覇港着、首里城を占拠し五日に、尚寧は首里城を下城したのです。この間、約一か月。薩摩軍は奄美を島伝いに渡り、数日置きの戦闘を経て、首里に攻め入りました。

 紙屋敦之は、「島津氏の琉球出兵と権力編成」で、島津家久が三月四日、樺山久高に与えた琉球占領構想の文書を取り上げています。占領構想には、琉球征服が成功した場合は、琉球の名士たち(琉球歴々)、その他の島々の頭たち(其外の島々の頭々)の人質を取って薩摩に連行し、琉球の租税・課役は以後、島津が定めること、また、長期戦が予想される場合は、「琉球全土の占領は断念するが、琉球国王が居住する沖縄島以外の」「あたりの島々」は占領するとあります。ここで紙屋は、「其外の島々」、「あたりの島々」の範囲を問い、島津軍の侵入経路を考えると、それは当然、奄美諸島を含んでいると想定します。そして、長期戦になった場合、奄美諸島は、再度琉球を侵略するための橋頭保として確保する意味が考えられなくもないが、紛れもなく琉球への版図拡大を意図したものだと捉えています。

 この考察は、ぼくたちにある気づきを促してくれます。薩摩は琉球侵略の際、宮古、八重山へは軍を送らず、首里を征服した後に、三司官を通じて帰服を促すにとどめました。それは沖縄島と宮古島の間に横たわる二百キロの航海を忌避したからだというのが、一通りの回答になりますが、ぼくたちはここで、それならどうして奄美もそうしなかったのだろうと問うことはできるはずです。琉球王朝は沖縄島が主たる島でありそこに首里もあります。さしたる武力を持たない琉球であれば、首里の落城を伝えれば、わざわざ奄美の各島で戦闘をせずとも、奄美も宮古、八重山が一ヵ月後の五月五日に帰順が確認されたのと同様、反意を示すことは無かったか弱かったと思われるからです。

 それなのに、奄美大島、徳之島、沖永良部島と大きめの島に上陸したのはなぜだったのか。紙屋の考察を手がかりすれば、もし長期戦になった場合に、沖縄島を臨む橋頭保にする意図があるから、単に沖縄島に行く途中にから寄ったという以上に、直接、征服する必要があったということに気づきます。そしてそれと同時に、最初から奄美諸島に対しては、沖縄島の結果如何に関わらず、直接支配を意図していたということが分かります。だからこそ帰服を促す方法を採らず、大きめの島に上陸して征服をしていったのでした。大きめの島に上陸することにより直接支配を確実なものにし、沖縄島を直に臨むために与論島までを奄美としたのでした。

 この征服の一か月は、奄美、沖縄島にとってあっという間だったでしょう。しかしあっという間とはいえ、薩摩軍は鉄砲を携え撃ち放ちながら侵攻しています。そして三千人の軍勢といえば、当時の与論島の人口よりも多い数が洋上を通過していったのです。島人の恐怖は相当なものだったに違いありません。

 これが奄美の失語の起点でした。


「奄美自立論」2

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2008/10/11

四百年の失語

 ぼくにしても奄美のことは何も知りませんでした。生まれ島の与論のことですら知っていたのは、せいぜいまっ白な砂浜と遠浅の海に広がる珊瑚礁や朝に夕に祈りを欠かさなかった祖母の優しい挙措、原色豊かな亜熱帯の自然などといった、直接、見聞きできるものに限られていたのだから、奄美のことは推して知るべしです。それに奄美のことを知る人も希でした。

 どうしてぼくは奄美のことを知らなかったのでしょう。どうして奄美のことは知られていなかったのでしょう。ぼくについて言えば答えはシンプルで、家庭でも学校でもその他の場でも、奄美のことを教わる機会は無かったからです。地理にも歴史にも奄美は登場しないので、ぼくには、日本史は身近で世界史はその向こうの世界の出来事ではなく、日本史も世界史も等距離に疎遠な世界の出来事と感じられました。でもこの感じ方は個別的だとしても、奄美について教わることがないことについては、ぼくだけでなく奄美全体でも言えたのではないでしょうか。奄美を知らず奄美が知られることも無かったのは、奄美の人が奄美のことを語ってこなかったからです。

 そこで、いざ奄美の外の人に奄美を問いかけられる段になると、言われた先から、そうではなく、そうでもなく、と、「違う」という内心の声がせりあがってきます。それなのに奄美のことを言おうとすると、言葉は空を切るのです。

 奄美には語るべきことがないのでしょうか。ぼくは長い間、与論をそう思い込んできた延長で、奄美のことも捉えてみたりしました。けれど、一歩でも奄美の世界に足を踏み入れたら、そこには豊かな世界が広がっているのに気づかされます。そして先人たちが、数少ない資料を集めそれを読み解き続けてきた努力のおかげで、ぼくたちには奄美を知る手がかりも、潤沢ではないまでもあります。そしてその世界に踏み入るほどに、奄美には語るべき歴史があることが分かり、それとともに言葉が空を切るように声を発することができない理由も腑に落ちてきました。

 奄美は失語してきたのです。長く、深く。

 たとえば、その失語の深さは、お隣の沖縄と比べたら一目瞭然です。沖縄については、沖縄の人からも外からの声としても、おびただしい量の発言が生み出されてきました。両者は、饒舌な沖縄と失語の奄美というほどに対照的で、その違いは歴然としています。考えてみると、それはとても不思議なことですよね。

 奄美の失語は歴史的なものです。それはいってみれば、四百年の失語なのです。


「奄美自立論」1

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2008/10/10

永田町に植田さん

 永田町駅構内のエスカレーターで植田さんに遭遇。

 あ、珊瑚の海だ。
 与論ぽいなあ。
 あれ、植田さんじゃん。(^^)
 与論じゃん!

 たしか、「サンゴ礁の守りびと」というコピーだったような。
 決まってました。


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『聖堂の日の丸―奄美カトリック迫害と天皇教』

 『聖堂の日の丸』(宮下正昭)は、昭和初期から敗戦までの奄美のカトリック迫害の実態を追ったものだ。

   『聖堂の日の丸―奄美カトリック迫害と天皇教』
Photo











 大正13年、奄美大島名瀬市にカトリックの大島高等女学校が開校する。ところが、戦時下に突入する状況のなかで早くも昭和9年には廃校に追い込まれていまう。

 また教会は、排撃運動に遭った大島高女の経営を断念し、準備周到に同高女の代わりとなる聖名高女を鹿児島につくる。その後、カナダ人神父らは奄美大島から引き揚げる。島の有力信者らの意見に従った形だったが、一方には「残ってください」という信者の声もあった。神父がいなくなった島に邦人神父を派遣するために外務省、軍当局と粘り強い折衝はするが、それ以上の強い姿勢は見せなかった。そして鹿児島教区を邦人教区とした時には、島の教会はすべて放棄し、県に寄付していた。結果、島の信者たちを見放した形となった。

さらに、

 そのカナダ人神父らが島から引き揚げ、司令部の目的を遂げた後も、次にはカトリック信仰そのものが日本の国体、愛国心にそぐわないとして、信者である住民その者が非国民、スパイだと排撃運動は続いた。青年団などは、祈りの道具を提出させ、転宗届を強要した。「天皇は人間、神様ではない」と信者らが教会の教えで学んだ合理的な考え方が当時の国体に合わなかったことや、島のいろいろな情報が信者からローマを頂点としたカトリック教会側に漏れることを懸念したのかもしれない。教会側が日本人の神父を派遣しようとして軍部の抵抗にあったのも、同じ理由だっただろう。

 前後を無視した乱暴な引用だが、大島高女が廃校になり、神父は島を引き揚げるが、それにとどまらず、信者は転宗届を強要され教会も県に寄付されてしまうのが、ことのいきさつだ。

 なぜ、奄美では全国に先んじ他にない苛烈さで迫害が起きたのか。宮下は、大島に要塞司令部が存在したこと、天皇教布教のモデルにされたこと、カナダから訪れた神父が島の現実に無邪気だったこと、信者のもろさ、教育の怖さを挙げ、差別についても言及している。

 鹿児島と沖縄の間にある奄美は、かつては琉球に支配され、その後長く、薩摩に収奪されてきた。いわば両者の狭間に置かれた奄美は、差別の対象でもあった。本土に位置する鹿児島からの「島差別」に、奄美の人は反発する。一方、かつて緩やかな支配をした沖縄には、その文化の影響も受けていることなどから親しみを感じているが、中央に目がいっている沖縄の人には、奄美は沖縄に従属した地域に見えてしまうこともあるようだ。これらは現在も残っている意識だが、戦前は本土と奄美の間にはもっと明らかな差別の意識、構造があった。

 本土から奄美大島に赴任し、カトリック排撃運動を扇動した奄美要塞司令部の軍幹部らの意識にも、島の人々に対する優越感、差別感があっただろう。昭和九年当時の司令官、笠蔵次大佐の報告書には、カトリック排撃の軍事講演を各集落で開いた事例を紹介しながら、島、そして島の人々のことを次のように何度も述べている。「文化ノ程度低キ南西諸島」「島民ハ貧困ニシテ文化ノ度低ク為二多数ハ国家意識乏シキコト」「文化未夕進マサルノ地」などと。

 「文化」とは、何を指して言っているのだろうか。島には映画館もあり、島唄など芸能文化があった。書籍文化も新開、雑誌を地元で発行しており、ないとは言えない。人々の知識、能力か。頭のいい人は多かった。しかし、笠大佐は続ける。カトリックの浸透は、欧米による思想の植民地政策とみて、「殊二民情素朴文化低キ大島ノ如キ処ニアリテハ一層其ノ弊二陥り易キヲ以テ此際再ビ布教ノ鎗地ト機会トヲ輿へサル如クスルコト郡民ヲ愛護スル所以ニシテ同時こ囲防上ノ危憂ヲ未然二防クコトヲ得へシト信ス」と結論付けていた。

 宮下は南日本新聞のジャーナリストとして、この大佐の訴えを真に受けた新聞記者たちを批判するのだが、ぼくたちは奄美の内側から、なぜ高強度の迫害が行われたのか、解かなければならない。

 ◇◆◇

 奄美でこのように急速にカトリック信者が増えた背景には、フエリエ神父が来島するまでの奄美大島には、ノロやユタと呼ばれる占い師のような人々による土着の宗教しかなかったことがまず挙げられる。神社はあったが住民の意識に、宗教と言えるほどの篤い信仰はなかった。奄美で一番格式があった名瀬の高千穂神社の社寺・池田池演の息子、藤吉(大島中時代にその高千穂神社で参拝拒否をして放校処分になった純彦の父親)が、仮教会となっていた伊地知宅で奄美で最初の洗礼を受けた一人であったことからも想像できる。ハルブ神父の書簡にも、「大島では命日に於ける盆の祖先崇拝の行事や、土地の保護者の祝いや、その他不吉な記念日とか多くの迷信があったが、仏教も神道もなかった」と記している。

 「ノロやユタと呼ばれる占い師のような人々による土着の宗教」や「迷信」という評価では、カトリックが瞬く間に普及した理由をすくい上げることはでいないと思える。御嶽を拠点にした琉球弧の信仰は、来訪神やケンムンなどの精霊とともに、時間の奥行をもった自然宗教の世界を持ったいた。信仰は政治のノロと社会のユタに分かれていたが、このうち政治的な存在だという理由で、薩摩からノロはたびたび弾圧を受ける。また、奄美は琉球王国と政治的に断絶した理由によってもノロは弱体化せざるをえない。「土着の宗教」が「占い師」のようにしか見えなかったとすれば、それはその理由の半面はそういう背景あってのことだ。それは迷信といって片づけられるものではない。

 奄美は、<琉球ではない、大和でもない>という二重の疎外によって共同体はからっぽになる。信仰の体系でいえば、そのひとつの核が空席になる。その空席を満たすようにカトリックは現われたのだと思う。よく知られているように、布教を願ったのは奄美出身の岡程良だ。岡程良は、近代になって顕在化した二重の疎外に抵抗した一人である。西南戦争で過剰な武士団が消滅した後は、大義を失い資本主義的利得に邁進した鹿児島商人の奄美搾取に抵抗をしながら、岡は近代の突端に立ち、奄美が空っぽであることを痛感したに違いない。彼に西洋の宗教が魅力的にみえたのは、そこに「大和」のにおいはないことと、そしてそれ以上に、そこに「平等」という概念が含まれていたからだと思える。そしてそんな奄美の心性を知ったものの依頼からであったからこそ、あっという間にカトリックは奄美に受容されたのだ。

 しかし、宗教が教える「平等」は奄美の心性に触れることはできても、その深部に手を届かせるまでには時間が必要だった。二重の疎外は、<琉球ではない、大和でもない>という形をしているが、「平等」観念が二重の疎外を解くには多くの手続きが要ると思えるが、「平等」という概念を含みながらも、疎外からの脱出を思わせてくれる概念に飛びついた。それが「日本人」だった。

 ただ、奄美にとっての「日本人」の概念は、大和人(やまとぅんちゅ)ではない者として、いつも日本人ではないみなしのなかにあったから、「日本人」であることは証しだてる必要があった。そしてその証しだては、<二重の疎外>が激しければ激しいほど、強くなされなければならないはずだ。そこにカトリック否定の強度が増す背景がある。なにが何でも日本人になりたかったのである。しかも、ノロの延長上、その頂点に位置する聞得大君への信仰は、天皇への信仰とほぼ同型をなすから、当時言われたという「天皇教」への恭順は速やかに行われただろう。

 奄美は空っぽな共同体だったから、カトリックに救いを求めたけれど、空っぽの脱出は「日本人になること」だとみなされた時点で、カトリックは否定すべきものと化してしまったのである。

 ◇◆◇

 町では、浜での闘牛や八月踊りなど視賀行事が二日間にわたり繰り広げられ、一部、本土にラジオの中継放送も行われた。多くの町民も喜びに沸いたが、カトリック信者たちの思いは複雑だった。鹿児島県内でも珍しいコンクリート造りのりつばな校舎で、〝白亜の殿堂〃と呼ばれたミッションスクール大島高女は廃校に追い込まれて、その跡には県立奄美高女が入居し、今度は、島の誇る初の西欧様式の建物だった赤レンガの教会が役場にとられた。そして教会の塔上にあった十字架。移転当初はそのままだったが、しばらくして切り落とされ、代わりに日の丸がなびくようになった。
 奄美のカトリックの歴史を調べている平義治によると、教会の十字架は地上から三十五㍍ほどの高さにあった。「だから迫害にも遭わずに済んでいた」。十字架は、戦時色が強まり人々が「愛国だ」「スパイだ」「戦争だ」などと右往左往する町の市井をずっと眺めていたのだろう。

 教会が十字架もろともなくなり、役場になった。「泥棒野郎という感じだった。でも大きな声では言えなかった」と武川真澄は振り返る。転宗を迫る大人たちにも屈しなかった元気な少年は、当時、小学六年だった。真澄同様、聖堂が役場に代わっただけの段階より、十字架が落とされて日の丸に代わった時に怒りを覚えた信者は多い。近づくことができなくなっても、信者にとって教会は心のよりどころだった。また教会が役場など他の目的に使われ始めても、屋根の上に十字架が立っていれば、まだ心は安らいだ。いわば十字架は濠後の最後の心の砦だった。多くの信者は祈りの道具も提出させられ、たとえ持っていても隠さなくてはならなかった。十字架だけが、島にカトリッ信仰が育った印でもあったのだ。それがなくなった。

 見上げた先には日の丸の旗があるだけ。もちろん鳥の信者たちにとっても、日の丸は国家の象徴として大切なものだった。ただ十字架に代わって立てられなければならないものではなかった。真澄も「日の丸そのものに抵抗があったわけではない」という。「でも、乗っ取られた感じだった」。小学四年生だった平義治も「あれを倒してもう一回、十字架を立てよう」と友人と話したりもしたらしい。大人たちは声をひそめて口々に「寂しい」と語っていた。

 これが書名の由来だ。もうひとつ引用すると、

 中江は、カトリック信者の気持ちが痛いほど分かりながらも、返還要求は拒否した。名瀬市の名瀬・聖心教会のわきに住む七十八歳の中江(1995年、八十五歳で死亡)は、それまで毅然とした態度で拒否までの経緯を話したが、「今から考えれば、あんな排撃なんかしないでカトリックの女子教育があったらどれだけ素晴らしかっただろうかなあ⊥と涙声になった。「長崎あたりのよぅな立派な教育ができただろう」。妾の悦子も「今ごろ私立の大学ぐらいつくれたかも。奄美にとっては大損失だったですよね」とぼつり、語った。確かに、大島高女の後継校となった鹿児島市の聖名高女は、戦後、純心高校と名称を変え、中学、短期大学まで併設。川内市には四年制大学まで つくっている。
 「奄美の損失」だった大島高女の廃校後も、カトリック排撃はやむどころか、ますますひどくなっていった。

 中江は知事、返還要求は、県に寄付された大島高女の校舎のことを指す。
 蛇足だが、鹿児島の純心高校が大島高女とつながりのあったのを知って驚いた。



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2008/10/09

二重の疎外の顕在化とその抵抗、年表

 近代初期の奄美の歴史を概観しておこう。二重の疎外の顕在化とその抵抗の経緯だ。

1872年(明治5年)
・県は「大島商社」をつくり、奄美黒糖の独占を図る。

1873年(明治6年)
・大蔵省は、「勝手売買」(黒糖の自由売買を認める)を通達
・前年の県の動きは、大蔵省の動きを察知してのもの。ここに西郷も関与している。
・大蔵省の通達を、鹿児島は奄美には伝えず。

1875年(明治8年)
・海外から奄美に帰った丸田南里が抵抗運動を組織化。
・「勝手世騒動」

1876年(明治9年)
・南里ら上鹿し、直接県に嘆願するも拒否される。

1877年(明治10年)
・55人の陳情団が上鹿。しかし全員、谷山監獄に投獄される。
・35人が、西南戦争に従軍させられる。

1878年(明治11年)
・県は、独占専制商社「大島商社」を解体。

・デフレ政策により多くの商社が倒れ、奄美の産業は疲弊。

1885年(明治18年)
・大島支庁長に新納中三(にいろちゅうぞう)を抜擢。
・鹿児島商人の独占を打破するため、大阪の阿部商会に進出を促す。
・鹿児島商人、反発。

1886年(明治19年)
・新納支庁長、突然、解任される。
・阿部商会、亡き丸田南里の家を借りて、経済活動を始める。
・鹿児島商人、南島興産商社をつくる。
・阿部商会に、暴徒、行政から圧力がかかる。

1887年(明治20年)
・県令39号を発布。阿部商会、締め出し政策。

1888年(明治21年)
・県令、島民の怒りを買い、撤廃。
・県議、麓純則の訴え、実る。
・大島、独立経済開始。

1889年(明治22年)
・喜界島の県令の反対運動リーダー田中圭三、警察に拘束される。
・農民たちは怒り、派出所に押し寄せる。「喜界島凶徒聚衆事件」
・7人が逮捕される。

1890年(明治23年)
・岡程良、鹿児島では公正な裁判ができないとみて、長崎で裁判。無罪を勝ち取る。

1891年(明治24年)
・岡程良の要請を受けて、カトリック教会のフェリエ神父が来島。

1892年(明治25年)
・岡程良、佐賀に異動。佐賀で神経衰弱。36歳で死亡。


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2008/10/08

『苦い砂糖』 2

 この二段階(「『苦い砂糖』 1」)でめでたしめでたし。残念ながら、そうはならなかった。
 よくホラー映画やSF映画などで一件落着のあとのラストシーンで、次の悪が生まれているシーンを垣間見せて次回の事実上の予告となっている作品がよくあるが、奄美の幕開けはその映画のエンド処理を思わせる。

 渡辺千秋は、県令39号の撤回を余議なくされた後、「大島郡経済分別に関する議案」を上程し、可決される。奄美の経済予算は奄美で完結させるという、いわゆる“独立経済”である。これについては、奄美に本土並みの税負担を強いるのは忍びないから、島嶼独自の発展をするためにという観方と、一種の切り捨て政策であるとする観方がある。ぼくは、「奄美に本土並みの税負担を強いるのは忍びない」というのは、責任回避の論立てだと思う。そもそも、奄美を疲弊の極みに追い込んだのは、幕藩制l期の植民地支配なのだから、それが終わったのであれば、その責任を薩摩は取らなければならない。それがあるべき論の立て方だと思う。でもそれは無かった。あるのは、近代以降も生きる二重の疎外の論理だった。ここで、二重の疎外の「大和ではない」という規定は、「日本ではない」あるいは「本土ではない」として機能し、放置プレイ、無視を決め込んだのである。

 この独立経済は、半世紀も続く。渡辺とはいったい何者だろう。奄美は、この二段階の抵抗のあと、独立経済のなか、とことんに疲弊の度合いを深めていったようにみえる。なぜなら、このあと皇国民へ容易に取り込まれ、次に奄美から声が聞こえるのは、復帰運動のときなのだが、もうそのときは、丸田や麓の声に見られるような抵抗の力強さは消えてしまっているからだ。この疲弊が根底から回復するまでぼくたちはどのくらいの時間を費やすればいいのだろう。

 ぼくたちはもうひとつ、独立経済だけでなく、奄美近代黎明期のひと駒を挙げておくべきかもしれない。新納、麓を先達に持った法律家、岡程良のことだ。岡は、南島興産がらみの事件で鹿児島側の不正を暴くが、それによって佐賀に転勤という鹿児島的な郷中放しに合い、倒れる。しかし彼はその前に、空っぽになった奄美へカトリックを紹介し、それは瞬く間に北部奄美の精神的支柱になってゆく。これもまた、第二幕のあとに続く奄美の近代以降の物語にとって重要な役割を果たすものになった。

◇◆◇

 原井の奄美論は読みやすかった。ここには奄美論がその宿命のように身にまとうあの屈伏と屈折から免れているからだと思う。もちろん、原井は当たり障りなく軽く通過しているのではない。むしろ逆である。奄美の宿命を最深度で捉えようとしている。

薩藩時代の圧政の怨念は晴らされることなく、徳之島での百姓一揆も解放に繋がらず、明治のありがたいご一新の世も旧慣から抜け出し得なかった。
 ようやく立ち上がった西南戦争前後の島民闘争の勝利も期待した方向に流れず、明治二十年になってなお大半の島民が借金を背負ったままだった。
 一向に報われない島民の苦闘史を振り返ると、あるいは祖先の備え持った誠実性や勤勉性が体制に十分に見透かされ掠めとられて、解決を遠のかせたとさえ思ってしまいたくなる。
 人のいい島人。そうあり続けることの善し悪しをどう考えるべきか。

 原井の奄美論は重いけれど読みやすい。それはこうした問いの形が真っ当だからだと思う。この問いを受ければ、原井のような言論があるなら、ぼくたちは「人のいい島人」がそのままで自由と平等と相互扶助できる道について考えていく意欲が湧いてくる。

 原井はあとがきに書いている。

 奄美の歴史書に目を通して、まず心に突き刺さるのは「徳之島で餓死者三千人」といった記事があまりに簡略に提示されていることだ。悲劇はそれだけにとどまらない。繰り返し繰り返し、執拗に島々を襲ったおぞましい災厄が淡々と感情なく綴られている。
 おびただしい死者の群れをなぜもっと告発する、怒りや悲しみが表現されないのか。そのいちいちに付き合っていては歴史が見通せないとでも言うのだろうか。本書を書き進めることになった動機はたぶんそんなところからだったように思う。

 もう一つ、奄美の歴史研究はこのところ多様、重層的に解明が進んで、私たちは欲すれば幕末はもとより中世までも気ままに旅が出来る。
 だが事件や人物伝を播いてもその時代時代や主人公の生涯に限定され、たとえば丸田南里が躍り出た明治初期とその遠因になった幕末の島の状況、あるいは南里以降の島民のレジスタンスやサトウキビ作との関わりを一体的に把握するのは困難極まりない。
 加えて専門書の表現はどうしてこうも、と思うほど難解で回りくどく読むのに骨が折れる。
 そうした現状に一石を投じ、中高校生でも読み親しめる奄美の歴史物が書けないか、とうのものねらいの一つだった。

  だが振り返ってみて果たして目的は果たせたかと考えると心もとない。私が紙数を費やしてやってきたことと言えば『名瀬市誌』を始め多くの研究家の成果を丸写し、引き伸ばししたにすぎない。( 『苦い砂糖』)

 原井は最後、謙遜しているけれど、原井のしたことは丸写しや引き伸ばしではない。同じことを書いてあっても『名瀬市誌』を読めば憂鬱になるが、『苦い砂糖』を読めば励まされるということはありうる。それは、「徳之島で餓死者三千人」という記述があまりにお澄まし顔ではないかと原井が憤るように、原井の書く奄美近代は、登場する人物が血が通っていると感じられるからだと思う。

 それに、『奄美の債務奴隷ヤンュ』を読んだときも感じたことだが、ぼくたちは何度でも奄美の歴史を繰り返し語る必要があるのだと思う。ほとんど語られてこなかったのだから。奄美の人にとって、自然な血肉となるまで、ぼくたちは語りの質をあげていかなければならない。

 ところで、黒糖の味と硬度は糖汁に入れる石灰で決まる。石灰が多すぎると硬く苦い砂糖になり、少ないとそもそも固まらないが、書名の『苦い砂糖』は、石灰の多すぎた黒糖のことではない。文字通り、甘い黒糖が苦い砂糖でしかなかった、奄美の思いを託したものだ。けれど、作品としての『苦い砂糖』は、表紙が輝くように、奄美の語りの層を力強くしてくれていると思う。



 

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ハブナイス麺

 「ハブナイス麺」。

 もしや、と思いつつみると、「ハブ肉が入ったラーメン」。やっぱり。

 この、すごいラーメンを出しているのは、奄美市役所に近いラーメン居酒屋「大翔」。
 「あまみ便りblog」に地図も出ています。

 ちなみに、あまみ便りblogさんも食べられなかったそうな。(^^;)


 ラーメン居酒屋「大翔」の坂井さん。黒糖焼酎を飲もうとがんばってる記事もあります。

 「奄美焼酎飲んで応援」


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2008/10/07

与論といえば・・・

 ヨロンジマドットコムが、与論の人に「与論のどんなところが好き?与論で何が好き?与論と言えば?」と100人に聞いた、そのアンケート結果は?


1位・・・海(18票)
2位・・・人、人情、人の温かさ(7票)
3位・・・誠の心(5票)


 あのぉ、素直というか、なんというか。やっぱり、「海」ですか。(^^)

 この、写真は気持ちいいですね。

 ※「突撃!100人に聞きました!与論の何が好き?」

 リクエスト。次回やるときは、「海、人情、誠の心」以外で、「与論といえば」を聞いてください。(^^)


 今回、知ったのは、江戸っ子マサさんのおかげです。


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『苦い砂糖』 1

 原井一郎の『苦い砂糖』は、奄美の近代は、二重の疎外の顕在化とその抵抗が少なくとも二段階にわたったことを教えている。この二段階の抵抗を経て、奄美の近代は幕を開けたのである。

 その二段階は、単純化すれば、次のようだ。

第一段階 「勝手世騒動」

・丸田南里 vs 大島商社

第二段階

・新納中三 vs 南島興産
・麓純則  vs 県令第39号

 第一段階の抵抗の相手は、県と西郷隆盛だった。そして第二段階は、県令渡辺千秋である。

『苦い砂糖―丸田南里と奄美自由解放運動』
Photo_2

















 奄美は近代をどのように知ったのだろう。そう思ってきたが、原井によれば、1869年(明治2)に、在番の伊東仙太夫が赴任し告知書を張ったのだという。

「今般、王政復古、ご維新が成り太政官によって法改正が行われた。旧弊を一掃し公平を旨とする内容である。代官所は在番所に改められ、人民は上下の区別なく一般平民とみなされる。(中略)五百年の歴史で初めて一統の世に帰った。各々、安堵すべし」

 原井は、「これからは武士も百姓もない、みんな平等の世の中であることに歓喜したろう」と書いているが、ぼくはピンと来なかったのではないかと思う。文字面があるほかは、「平等」の何たるかが具体化した社会的な行動が見られることは無かっただろうと思われる。

 事実、奄美の近代は、黒糖収奪の継続化を図った大島商社となって具体化したのである。だが、奄美の島人は幕藩制期の島人ではなかった。島人は、黒糖の自由売買を求める勝手世(かってゆ)運動を始めるのである。そしてこのとき、運動の前面に立ったのは、ひょっこり奄美に戻ってきた丸田南里だった。

 彼は、勝手世(かってゆ)運動のなか、こう言ったという。

人民が作るところの物産はその好むところに売り、また人民が要する品物はその欲するところに購入すべきはこれ自然の条理なり。なんぞ鹿児島商人一手の下に拘束をうくる理あらんや。速やかにこれを解除し、勝手商売を行うべし。

 ぼくは、これこそが奄美の近代をその内側から開ける言葉になったと思う。意味するところは、市場の自由化を求めるものだが、「速やかにこれを解除し、勝手商売を行うべし」というこの声には、二重の疎外の解除への希求を聞く気がするのだ。

 南里の第一声に続いて、奄美から55人の歎願団が鹿児島に向い、西南戦争に巻き込まれ、少数の者が命からがら戻ってきたとき、彼らは「学問どぉ、学問どぉ」と叫んだことが伝えられている。奄美にとってこれは、丸田の第一声に続き、近代の意味を受け取った言葉だ。しかしぼくたちはこの言葉だけでは足りないと、今は付け加えなければならない。その後、多くの島人が学問によって、近代を生きるようになったが、それは日本人になるということが、島と切れるということも多かった。もしくは、本土の奄美人が島人を諌める、叱責する側にまわるのだった。それは、島の実情に同情しながらも、島人の怠惰を諌めるように政策を打ち出していった得能に似ている。そういうより、その再生産だった。「学問どぉ、学問どぉ」だけでは足りないのである。

 また、第一段階で島人に立ちはだかったのは、大島商社と県だけではなかった。島役人もそうだったことをぼくたちは『苦い砂糖』で知る。

「勝手世になると何ごとも好き放題で礼儀を失い、商社と交易を望むものと他が対立し和親が途絶えてしまう。島民はその取るべき方向を見失って混乱しており、県によって教え諭すべきだ」

 見よ、この情けない視点を。ぼくはこれが継続する屈伏の論理の体現であり、あの、「大島代官記」序文の島役人の言葉が連綿とさせてきたものだと思わないわけにいかない。

◇◆◇

 第二段階、抵抗の相手を一人に象徴させるとしたら、県令、渡辺千秋である。いまでいう知事だ。奄美は、知事と闘ってこなければならなかったのである。その渡辺が、奄美に対し、こう言う。

「この南洋諸島(奄美)はわが国では無比の産糖地域である。廃藩以降、専売制を解き島民の自由意思に任せたが、産糖は年を追うごとに減少し品位は粗悪に陥っている。
 このため全島の疲弊を来し、負債は日を追って増加、ついに窮因に沈まんとしている。そのしかる所以lま多少他に原因はあるにしても人民が信を棄て義を軽んじ、遊惰に流れ、奢侈に走ったことが大きい」

 これは、得能にも通じる視点であることは容易にわかる。要するに、奄美の疲弊を島人の怠惰に求める視線である。「専売制を解き島民の自由意思に任せた」ら良くなくなったというのだ。恐るべき見解である。

 第一幕。西郷の死とともに解体した大島商社の後を継ぐように、黒糖売買の独占を図った南島興産が登場する。それに対し、大島支庁長の新納中三は、独占を阻止すべく大阪の阿部商社に奄美進出を促し、承諾を得る。新納は、黒糖売買の独占を阻止し、南島興産を相対化しようとしたのだ。きわめて真っ当な対策だと言わなければならない。ちなみに新納は鹿児島出身で奄美出身ではない。外交使節での渡欧の経験を持つ薩摩の元高官である。名越左源太にしても伊地知清左衛門にしても、新納にしても、ときに心ある鹿児島出身の支配階級者が奄美のために力を尽くしてくれるのをぼくたちは目撃する。それは人の世は捨てたものではないのだから、そういうこともあると思うのだが、それが稀有のこともであると知っているから、ぼくたちは新納にも感謝したくなる。しかし、その新納は就任一年後に突然、解任される。解任したのは、県令渡辺だった。

 第二幕、渡辺は、黒糖の売買はすべて南島興産を経由せよという県令39号を発布する。南島興産は、鹿児島商人の拠点であり、いわば大島商社の再来だった。大島商社が、薩摩の過剰な武士団をいただいたものだったとすれば、南島興産は、過剰な武士団の消滅後、それでも残る幻想の過剰な武士団をいただく者たちだった。

 しかり丸田や新納や奄美の近代化に力を尽くしてきた人々は、県の前に倒れてきただけではなかった。そんな人士を前にすれば後続も続く。県令39号という超反動立法に対して、県議の麓純則は反対を唱える。奄美を励ます言葉として耳を澄まそう。

「第一、郡民をして鹿児島商人の食いものに供せんとするが如き知事の主旨に対し、甚だその意を得ざること。
 第二、知事は法律・命令の範園内において行政権を行うべきはずなのに、その範囲を逸脱しみだりに人民の製作品販売の規則を発布し、これに罰文を付し人民自由の権利を束縛せんとするは、すなわち権限を越えた違法の行為たること明らかなるをもって、人民はかかる県令に服従すべき義務を有しないこと。
 第三、鹿児島商人が棍棒を携え阿部商会に暴れ込み、被害者より保護を要求するにもかかわらず、これを顧みざるが如き無政府状態的の行動を警察官にあえてせしむるは、知事の権限を誤りたるの甚だしきことを認むること」

 当たり前のことが当たり前に言われているだけのようにもみえる。しかし、こうした言葉を発することが大事だった。こうした発語なしに奄美の近代化は無かったのだ。このおかげで、県令は翌年に撤回される。

 奄美はこの二段階を経てようやく、近代の曙光に出会ったのである。



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2008/10/06

利永琉球傘踊り

 指宿で琉球傘踊りが踊られた、というニュース。

 琉球傘踊り:太鼓、笛に合わせ躍動 伝統の「踊り」披露--指宿・利永小

 とても不思議な気がして成り立ちをたずねれば、

踊りは1609年以降、島津氏に献上品を届ける琉球の使節団によって伝わった。使節団は山川に入港後、旅の無事を祈るために旧開聞町(現・同市開聞十町)の枚聞神社を参拝した。途中の利永地区で踊りが披露され、地区の人々がまねたのが始まりとされる。

 利永地区で、琉球の使節団が披露した琉球傘踊りを、地元の人が真似たのが、「利永(としなが)琉球傘踊り」なのだという。

顔に化粧を施した踊り手たちは、傘や琉球太鼓、かねを手に「ハイヤ!」の掛け声とともに力いっぱい踊った。運動会を見に来たお年寄りからは「懐かしい」という声も。

 鹿児島で、「ハイヤ!」の掛け声を地元の人がするというのだから、ちょっと驚いた。文化の伝わり方は面白い。

 ここで画像も見ることができた。
 「琉球人傘踊り」

 いいですね、こういうの。

◇◆◇

 と、ゆうべ書いてから、いいなあと思う、その理由に思い当った。
 しばしば、奄美論のなかでは、「カンジン(乞食)とジキジン(琉球人)の真似はすんな。」という薩摩の言葉が引用され、奄美、琉球が被った差別の例として引かれる(参照、「同胞という視点は無かった」)。ぼくはこういう視線はあったと思うし、身近にも知っている。けれど、それが100%ではないという感じもある。

 この、「利永琉球傘踊り」は、それだけではない、好例としてぼくたちにやってくるのではないだろうか。山川の人が琉球使節団の踊りを真似る。そうするのは、その踊りに心を動かされ、自分もやってみたいと思うからこそ、生まれるからである。「カンジン(乞食)とジキジン(琉球人)の真似はすんな。」という薩摩武門の言葉とは別に、民衆の間では真似が進んでいた。南の風が開聞岳を抜けていくように、このエピソードは硬直したものの観方に風穴を開けてくれる。きっとそれが心地いいのだ。


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県令三十九号

 1878年、大島商社が解体した後も疲弊している奄美の現状を見て、大島支庁長、新納中三は、鹿児島商人の独占的状態を打破すべく大阪の阿部商会に奄美への進出を促す。その新納は、着任の翌年には解任される。解任したのは、県令、渡辺千秋だ。

 その渡辺は、たしかに上京の折、阿部の郷里である滋賀に立ち寄り、知事に阿部組の進出断念の説得を試みている。

「近頃江川ノ商人阿部彦太郎ト云ヘル者ガ島内二人来り島民二向ヒテ低利ノ貸付金ヲ為シテ其ノ生産物ト取引売買ヲ始メタリ」
 「元来鹿児島地方ノ商人等ハ古昔ヨリ右各島ノ糖業及ビ他ノ生産物ノ取引ヲ為シテ其ノ職業ヲ営ミ居リシ者ナリ。然ルニ右ノ如ク阿部組ノ大島セシ以来ハ従前ノ通り営業スル事ヲ得ザル二至り居レリ。斯クテハ、タチマチ莫大ナル損害ヲ蒙り為メニ同商人等ノ疲弊ヲ招ク」
 従って
 「何分こモ阿部組ノ大島二在リテ商業取引ヲ為ス事ヲ断念スル様当人へ説諭アリ度シ」

 意を追ってみる。

 近頃、阿部彦太郎という者が島内に来て、島民に向かって低利の貸付金で生産物の取引売買を始めた。元来、鹿児島の商人は古昔(こせき)から奄美の各島の糖業や他の生産物と取引をしてその職業を営んできた者だ。それなのに阿部組が大島に来て以降は、今まで通りの営業ができなくなっている。これだとたちまち膨大なる損害をこうむって鹿児島商人の疲弊を招く。したがって、阿部組が大島での商業取引を断念するよう説得してほしい。

 やれやれ。渡辺によれば、「疲弊」しているのは、奄美ではなく、鹿児島商人というわけだ。なぜ、こうなるのだろう。というか、驚くのはまだ早く、渡辺は阿部商会締め出しのために、県令39号を発布する。

大島郡糖業組合規則左ノ通定ム
  但明治二十年七月一日ヨリ施行ス
  明治二十年四月十日
 鹿児島県大島郡糖業組合規則

第一条 大島郡内こ於テ甘蕪ヲ栽培シ又ハ砂糖ヲ製造及砂糖ヲ売買スルモノハ総テ組合ヲ設ケ規約ヲ定メ島庁ノ認可ヲ受クへシ
第二条 組合ノ規約ハ左ノ項目こ従ヒ之ヲ定ム可シ
一 一家甘蕉栽培ノ反別製造期節檀ノ常寸等従来ノ慣行二因り掛酌スル事
 二 砂糖売買ノ定例ヲ設クル事
 三 公費代糖取扱順序ノ事
 第二塁 近現代における「奄美処分」政策
 四 砂糖製造ノ為メニナシタル旧来ノ負債者弁償方法ノ事
 五 組合こ組合長ヲ置キ各村総代人ヲ設クル事
 六 組長総代人ノ選挙法及委任ノ事項並二給料諸費ノ額及其支出方法ノ事
 七 組合規則二違背スル者処分方法ノ事
 八 前数項ノ外組合ニテ必要トスル事
第三条 砂糖ヲ製造シ又ハ棒詰荷造ヲナスニ不正ノ所業ヲナス可ラズ
第四条 砂糖ハ一概毎二監査証ヲ付スヘシ其証ナキモノハ売買ヲ為ス可カラス但監査証ハ組長へ申出之レヲ受クへシ
第五条 島方ハ監査員ヲ置キ各島二派遣シ規約ノ実行ヲ監査セシム 第六条 生産者ハ製造以前二於テ商業者こ砂糖売買ノ約束ヲナサントスル者ハ組長ヲ経テ監査員ノ承認ヲ受クへシ
第七条 此規約第一条第四条第六条ヲ犯シタル者ハ壱円以上壱円九拾五銭以下ノ科料こ処シ又ハ三日以上十日以下ノ拘留こ処ス

 黒糖の取引をする者は、組合を作って大島支庁を通せ、というわけだ。しかし県令は、麓純則の訴えにより、翌年には撤廃される。しかし、この同じ年、渡辺は、大島に鹿児島本土経済と切り離した「独立経済」を強いる。独立経済は、それからまた半世紀、奄美の経済を疲弊状態のまま引きずる宿命を強いることになるのだが、渡辺はこうなると知っていたようだ。

例えば、一八八五(明治十八)年五月七日、鹿児島県令渡辺千秋の内務卿山縣有朋あての「大島郡二島長ヲ置候儀再上申」に 「去ル十二年都制施行ノ後二在テハ、地方税経済上内地ヨけ補充ノ金額不少ヨリ、県会二於テ時〃経済分離ノ儀申出候得共、一朝之レヲ分離候時ハ、絶海島映ノ人民費途二難堪、忽チ言フ可ラサルノ惨状二陥り候儀ハ当然二付」と述べている。(弓削政己「初期明治政府の奄美島嶼に対する政策について」から引用)

 鹿児島商人の独占を止めようとした大島支庁長、新納を解任し、「県令39号」によって独占を図り、あくまで独占の維持を画策する。しかし、それが撤廃され、甘い汁が吸いにくくなるとみるや、渡辺は奄美に「独立経済」を強いている。

 渡辺とは誰なのか。

渡辺千秋県令(明治十三年七月~二十三年八月)の時に、政府の殖産興業政策の線にそって、おおいに虚業技術の改良がおこなわれた。三ヵ所の試験場設置(川内・川辺・種子島)・属耕・稲の浸種法その他、極度に低かった旧藩農業の技術に大改革を加えた。反当りの米収量は六斗ぐらいであったものが、よぅやく一石二~三升の農家もでるようになった。(『鹿児島県の歴史』

 原口虎雄によれば、例によって奄美になしたことはほおかむりで、農業技術の改良に触れるのみである。だが、奄美の近代において二重の疎外を顕在化させたのは、渡辺千秋なのである。



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2008/10/05

「初期明治政府の奄美島嶼に対する政策について」

 弓削政己の「初期明治政府の奄美島嶼に対する政策について」から、近代初期の奄美が置かれた状況を見てみる。

 まず、驚くことに、大蔵省には「大島県」という構想があった。

一八七四(明治七)年九月一九日、大蔵卿大隈重信から太政大臣三条実美へ「大蔵省大島県ヲ設置セント請フ、大蔵省稟申」があり、大島県構想を打ち出してきた。このことは大島商社対策であり、砂糖生産の地に関して、鹿児島県統治を排除する方針を示した事と考えられる。

 その大島商社設立の背景。

・1871年(明治4) 翌年から大阪相場で「石代金納」とすることを決定。

一八七一(明治四)年に、県は政府の許可を得ずに、翌七二(明治五)年の貢糖から、大坂相場換算で石代金納とし、残糖である余計糖は、島民の日用品での交換とする方針を決定していた。

 この決定、「県は政府の許可を得ずに」というところ、いかにも薩摩的だと思う。

 さて、1871年(明治4)といえば、西郷が大島商社設立に関して、賛意を表した年でもある。

 奄美諸島の専売制を廃止し、商社をつくって商売を独占し、その利益で士族を救済する件を、伊集院兼寛から聞いたが、その方策はもっともなことだ。(中略)いろいろなところで売り広めると大蔵省からその利益を占められかねないから、よくよくその辺りは注意すべきだ。[私訳](明治四年十二月十一日。桂四郎宛て)

・1872年(明治5) 大島商社設立の契約。

一方、貢糖以外の砂糖についても、鹿児島県は旧来の砂糖専売制を維持するために、大島商社を作り、その契約を一八七二(明治五)年夏、上鹿した大島与人職の太三和良と基優良の二名と結び、「翌年より開店相設、約定之通施行候」となった。

 これに対し、大蔵省は、当面一年限り、とする。

大蔵省に対する鹿児島県参事大山綱良の大島商社設置の「伺」(草案)によれば、「旧鹿児島藩ノ義ハ琉球属島ノ余産(筆者一砂糖)ヲ以テ会計ノ元根トセシ場所柄」であり、旧藩時代、貢粗以外の砂糖の私買を許可したところ「一ノ弊害ヲ生シ」たとし、専売制廃止はやむを得ないが時期早々である(後略)

 奄美を「会計ノ元根トセシ場所柄」と県は認めている。奄美は貧困にあえいできたが、その奄美は県を支えてきたということだ。しかし、この「砂糖の私買を許可したところ『一ノ弊害ヲ生シ』」たというのは何のことを言っているのだろう。薩摩藩の借金が嵩んだことを意味しているのだろうか。「専売制廃止はやむを得ないが時期早々である」というのは、廃止の前に士族を救済しなければならないという意味だと思う。

 この、「会計ノ元根トセシ場所柄」について、弓削は数値を挙げている。

 一八六九(明治二)年の「旧鹿児島藩産物出入比較表」
 黒糖、菜種、生蝋、鰹節、煙草、茶、牛皮など「産物晶建」の惣入金   
 171万9750両
 黒糖(奄美島嶼、琉球、ロ永良部、長島、桜島、垂水、新城、種子島等) 
 85万5000両(全体の49.7%)
 黒糖斤数 大島、徳之島、喜界島の三島だけでも61.9%。

・1873年(明治6) 貢糖現物納とそれ以外の自由売買。県の方針と対立。
・1874年(明治7) 石代金納。これは、県の方針を認める。

 と同時に、このとき、大島県の構想は出される。「大島県」によって、「砂糖生産の地に関して、鹿児島県統治を排除する方針を示した事と考えられる」。

 これは、砂糖輸入を減らし、国益を増加させるという国家意思によるものだった。
 そして、大島県構想は、伊藤博文が大久保利通の判断に任せることとし、大久保は「否」とし実現しなかった。

その代り、

・1875年(明治8) 「大島に大支庁が開庁、他の四島に支庁を置く結果」

・1877年(明治10) 柿原義則(大支庁長)は「意見書」

「明治八年大支庁ヲ建設シ藩製旧法ヲ廃シテ維新ノ政令ヲ布クト雖モ臣ヲ以テ之ヲ視レハ依然タル藩治二異ナラザル者ナリ」

 「大支庁」は県ではなく国の意思であり、その流れで大支庁長も長崎県出身の柿原義則がなったと思われる。その柿原は、藩政を廃して維新の政令をもってしても依然として藩治に変わるものではないと言っている。

しかし、島民の「商社解体」、砂糖自由売異の運動により、大島商社体制は終わり、一八七八 (明治一一) 年に 「砂糖販売改」、翌年から商人と島民の自由取引となった。

 ここで、1873年の「自由売買」に関する大蔵省布達がやっと実施されることになった。

◇◆◇

 砂糖自由売買段階では、鹿児島商人対策として、農商務省から問屋構想が出されるが実施には至らなかった。

 この産地問屋方式が実施されなかったのは、この前田正名ら農商務省の地方産業近代化の路線が、松方正義大蔵卿らの日本資本主義発展の原始的蓄積を進めたと評される路線と対立するものであり、また、前田正名が一八八五(明治一八)年一二月、農商務省をやめさせられたこととも関係すると考えられる。しかし、大蔵省の 「大島県構想」、農商務省内部の「鹿児島県各島砂糖蕃殖方法」は、一方は行政の仕組み、他方は流通の仕組みの変更で、ともに砂糖の輸入量の減少を図るという点では共通していて、その方針は当時の奄美島嶼や鹿児島県の状況に対応していたと指摘できるであろう。

 松方正義といえば、西郷が沖永良部島の土持正照の歎願に応じて、大島商社の黒糖収奪を緩和するよう要請した人物だ。これは、自由売買の段階で、農商務省が地方産業近代化に挑むも挫折した過程と捉えることができる。

◇◆◇

・1885年(明治18) 金久支庁が設置される。

 この弓削の論考は、高江洲の考察に依拠しているというのだが、それを踏まえて弓削は書く。

しかし、大島支庁になって以後の一八八八(明治二二年から一九四〇(昭和一五)年の間、「独立経済」という鹿児島県財政と分離した島嶼財政の運営となったことへの評価について、西村富明『奄美群島の近現代史』(海風社一九九三年)批判も含めたものであった。

 西村は、『奄美群島の近現代史』で、県の敷いた独立経済は、差別政策だと断じている。

 それは、①「独立経済」成立過程と成立に関して、鹿児島県会と県令の質的違いがあり、県令の立場は、自治経済精神を強固にする「島嶼のための独立経済という内容」であった。②しかし、その後の展開は「産業の停滞を押し止どめるという不幸な結果になった」 のであり、「独立経済がもっていた正負の側面のうち、負の側面に歴史は動いたといえる」。③しかし、「独立経済は地方税経済がもたらした島嶼に対する差別的構造に着目し、それを打開しようとした点があった」と評価する。
 この独立経済について、西村富明論文の「差別政策」という評価に対して、高江洲昌哉論文は「負の側面で歴史は動いた」が、しかし、「島嶼のため」の内容であり、差別構造を「打開しようとした点があった」と、両論文は逆の評価となっている。奄美近代史における「論文として提示された論点」として浮上してきたことになる。今後検討が必要とされるものである。

 西村が差別政策と断じるところ、高江洲は差別構造を打開しようとしてそうできなかったと評価している。弓削はこれを今後の検討が必要としている。

 それは第一に、「独立経済」実施地域は、一八八八(明治二二年四月一日に市町村制が成立したため、一年間のみ、旧熊毛郡、護講郡はその「独立経済」に含まれた。しかし、トカラの島々(上三島、下七島の十島)はその後も独立経済に含まれた。つまり奄美島映だけではなかったことは念頭に置かなければならない。この施策を単に「奄美差別」の根拠とすれば、トカラの古老の「県は奄美を差別し、奄美は十島を差別した。税と兵隊は確実にとられたが、港も道路亀未整備‥・電気も通信施設も零‥・学校は自分たちで建てた‥・近代化政策のおくれなんてものじゃない。何もしてくれなかった」という点をどのように位置づけるかということになる。

 ぼくは奄美の近代は、二重の疎外が顕在化する、したがってそれへの抵抗も顕在化する段階だと捉える。二重の疎外は、<琉球ではない、大和でもない>という構造を持っていた。近代以降、<大和でもない>という規定は「日本ではない」という含みを帯びるだろう。それが幕藩制期の直後であれば、容易に「日本ではない」が、「本土ではない」ということと結びついて不思議ではない。トカラにしても、奄美との関係で、琉球でもなく日本でもないという偽装を強いられた地域である。「独立経済」に含まれようが不思議ではない。また、奄美は薩摩が奄美を、沖縄が奄美を「中心ではない」と見なしたことの延長で、トカラに差別するのは容易に想像できることだ。

 第二に、「独立経済」に至る鹿児島県令など行政官と鹿児島県会の認識の差をどう見るかという点である。
 県令、行政官は当初、独立経済は、絶海島峡の人々は「言フ可ラサルノ惨状二陥り候儀ハ当然」として困難視していたことは確かである。

 として弓削はこういうことを書いている。

 県令、行政官は当初、独立経済は、絶海島峡の人々は「言フ可ラサルノ惨状二陥り候儀ハ当然」として困難視していたことは確かである。
 例えば、一八八五(明治十八)年五月七日、鹿児島県令渡辺千秋の内務卿山縣有朋あての「大島郡二島長ヲ置候儀再上申」 に 「去ル十二年郡制施行ノ後こ在テハ、地方税経済上内地ヨけ補充ノ金額不少ヨリ、県会こ於テ時〃経済分離ノ儀申出候得共、一朝之レヲ分離候時ハ、絶海島幌ノ人民費途二難堪、忽チ言フ可ラサルノ惨状二陥り候儀ハ当然二付」と述べている。

 あの県令第39号を出した渡辺は、独立経済にすれば、「言フ可ラサルノ惨状二陥り候儀ハ当然」という認識を持っていたことのほうがぼくには驚きである。

 これに対し、

鹿児島県会においては、トカラの島々を含めた島峡への「内地」よりの財政の持ち出しという現状認識とそれへの対策としての独立経済移行の認識である。それに対して県令は島峡の疲弊をもたらすという立場で、認識は確かに質的差異があった。

 県のほうは、奄美、トカラへの財政は「持ち出し」になるから独立経済がよいという認識を持っていたという。

 結局、「金久支庁の設置」、「島長」の設置と運営について国庫負担とすることで独立経済は施行されることになる。これは、県としてトカラ、奄美を「持ち出し」で負担したくないという県の意思を、県令が国家の負担としながら実現したことを意味する。そういうことなら、西村の見解に分があるのではないだろうか。

 よくやるよ、と思う。薩摩を救ったのは奄美の黒糖だという認識を持ちながら、奄美、トカラは負担だから「持ち出し」はご免こうむるというわけだ。ここに、薩摩は収奪の責任を何も取っていないことが明白になる。

 個別鹿児島県の明治初期の黒砂糖専売をめぐる「士族救済」での大島商社設立、島民の流通に力を尽くした柿原義則大支庁長や新納中三支庁長(後、島司)が罷免された。鹿児島県令の罷免要求とそれを追認した明治政府の立場をどのように見るかということも必要であろう。

 さあそれは究明を待ちたいところだ。これは、西南戦争後の薩摩への配慮が働いたものと思えなくもない。


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沖永良部話二題

 沖永良部の話題ふたつ。

「奄美の味」神戸の下町に続々と 出身者らが開店

「南国料理おばあ」(神戸市中央区大日通商店街)
・ゴーヤーチャンプルーが看板料理。

「やさい屋じゅんちゃんの店」(神戸市灘区水道筋商店街)
・特産の田いもや干しパパイアなどを直接、島から仕入れている。

 これ分かりますねえ。島の味が時々、無性にほしくなることがあります。こういうお店には行きたくなるというもの。

 一方、神戸の沖永良部出身者でつくる神戸沖州会の会員は、昭和30~40年代に約1万人いたが、今は約6千人だという。


鍾乳洞サミット:球磨村で開催 入洞者の傾向など報告

昇竜洞の担当者は、「『安・近・短』という近年の旅行者のニーズに対応できない」と。


 この二つのニュースは、沖永良部島を象徴していた神戸の沖永良部と昇竜洞という二つのシンボルがその役割を静かに低下させていっているということでしょうか。


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2008/10/04

黒糖収奪とは何か 4

 前にも書いたことがあるが、TV番組の「ちゅらさん」で小浜島の砂糖きび畑の一本道を「シュガー・ロード」と呼んだのに驚いて嫌な感じを受けたことがある。砂糖きび畑は貧困と圧政の象徴であり、いってみればビター・ロードきまわりないはずなのに、「シュガー・ロード」とそれこそ甘く言い換えてしまうのは、大切なことを覆い隠してしまう、そんな印象を抱いたからだ。

 でもその印象はよくよく考えてみると、頼りにならないものだ。まず、砂糖きびは、薩摩が専売制を強いていったものであるが、もともとは琉球が開発した産物だった。何もかも強制されたものではない、薩摩がいなくても、ぼくたちはきっと今の面積ではないにしても、砂糖きび畑を琉球弧の島々に拡大していったに違いない。そう思うと、貧困と圧政の象徴としてみる自分の観方は窮屈だと気づく。

 そしてもうひとつ。それは原井一郎の言に頼ろう。

 夏の強い陽射しを浴びて緑の葉群が風にそよぐサトウキビ畑は南島の馴染みの光景になった。
 フォーク歌手の森山良子が歌う「さとうきび畑」はその緑の光景に戦争の思い出を重ねて哀調を帯びた歌声を響かせているが、サトウキビ畑が見つめてきたのは戦争にとどまらない。
 影を映して過ぎゆく雲のように長い時の流れに様々な出来事が頭上を過ぎ、台風と干ばつが繰り返され、幾代も島人たちが鍬をふるい続けた汗と涙を呑み干し、屍を積み重ねて赫々とした土は今も太陽に向かってまっすぐに伸びる茎を育み続けている。

 サトウキビ畑の歴史の重みを内包した光景を、二十一世紀に生きる島人たちの中で感慨を持って見返るものが稀なのを、嘆くことはない。むしろ作況の行方とソロバン勘定に気を揉み、今を懸命に生きることこそ農家の忽にできない務めで、人はそうしていつの時代も生のバトンリレーを続けてきたのだ。

 明治初期に登場した奄美の革命児・丸田南里らが命を賭けて闘うほど、黒糖勝手(自由)売買運動は、なぜこの島々に重要だったか、時代背景を知る上からもまず糖業の歴史を振り返ってみよう。
 サトウキビ農業は今や南島に欠かせないものになっている。それはこの島々で長く受け継がれてきた伝統性、さらには圧倒的な南島の夏の支配という自然条件による。
 酷暑のころになると、南島では育つ作物がない。庭や路傍の雑草さえジリジリと太陽に射られ焦げてしまう。そうした過酷な自然下でサトウキビは暑さを気にせず育つ。換金力のある魅力的な作物ではないが、島人たちがサトウキビを手離さない最大の理由は、生命力の強さだろう。(『苦い砂糖―丸田南里と奄美自由解放運動』原井一郎

 そういえば、ザ・ブームの『島唄』も、戦争と砂糖きび畑(ウージの森)を連結させた唄だ。原井が言うように、砂糖きびは、戦争だけに結びつくモノではない。むしろ、それが見つめてきた時間の長さからいえば、黒糖収奪とのほうが結びつきやすい。しかし、それでも、「サトウキビ畑の歴史の重みを内包した光景を、二十一世紀に生きる島人たちの中で感慨を持って見返るものが稀なのを、嘆くことはない」と原井が言うのは、いいことだと思う。

 薩摩の黒糖収奪が終わっても、島人が砂糖きびを手放さないのはなぜなのか。原井はそれを「生命力の強さ」と言うように、そこには魅力があるからだ。

 ぼくも少し前、砂糖きびは貧困の象徴なのに、なぜ島人は砂糖きびから離れないのか、不思議に思っていた。きび刈りを30年ぶりくらいに手伝いながら、叔母はこんなことを話してくれた。仕事帰りに、きび刈りをしてから家に帰ると、いい汗を流してすっきりする。お金にならないからというだけでなんでやっているのかというのは当たらないよ、と。ぼくは反省する思いだった。砂糖きびはその“粗放性”ゆえに手入れがそんなに要らない。だから、仕事を持っていも育てることができる。そして、砂糖きび畑は連綿としてきたからそれが家族の記憶と結びついている。きびを刈りながら、母や父の姿を思い出し、懐かしむことだってできるのだ。それは尊いことだ。

 黒糖収奪のあとのぼくたちに必要なのは、砂糖きびを駆逐することではなく、砂糖きびの魅力を生かしながら、貧困をほどよく駆逐していくことなのだろう。


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黒糖換算

 少し前、前田長英の『黒糖悲歌の奄美』を参照して、黒糖、砂糖きびの量と畑の面積の相互の換算表を作成した。(「一反から一万斤の砂糖きび、六百斤の黒糖」

【一反六百斤砂糖】
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 それはこの記述をもとにしたものだ。

それにしましても、黍地割賦法で割り当てられるきび作付面積はあまりに広く、たとえば夫婦二人に十三歳以上の女子と十六歳以上の男子をかかえる四人家族では、その割り当て面積は四反(約四千平方メートル)にもなりますし、しかも作るさとうきびが反当たり一万斤(六トン)が普通だと言いますから、その手入れだけで精いっぱいのはずなのに、よくも他の作物を作る余裕があったものだと驚くほかありません。(『黒糖悲歌の奄美』前田長英、著作社、1984年)

 ところが、『名瀬市誌』を見ると、「一畝四〇斤」、一反当たりにすれば四百斤で換算している。前田の換算より少ない。

 松下志朗の『近世奄美の支配と社会』には、幕末・維新期の「大島の黍地と産糖額」の表が出ている。それによると、この時期の黍地の面積は、2295町、そして出産砂糖の平均は、897万斤。これをもとにすると、一町当たり391万斤になる。

 そうすると、一反当たりに四百斤が近い値になる。この実態には、不作などの年も含んだ平均であり、前田の一反当たり六百斤の換算は、良作のときの値と考えればいいのかもしれない。一反当たり六百斤とすると、2294町では、1377万斤となるが、明治1年の出産砂糖は、1505万斤で、一反当たり六百斤を越える産出額になっている。

 砂糖きびから黒糖がいくらできるかを換算した「百六砂糖」のように、面積から割り出す言葉が定着していないのは、良作、凶作の幅が大きく、だいたいいくら獲れるという共通認識が育ちにくかったからかもしれない。

 ここでは、実態に近づけて、今後は、一反当たり四百斤で考えていくことにしたい。

【一反四百斤砂糖】
Tan400

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2008/10/03

黒糖収奪とは何か 3

 ぼくたちは松山光秀の考察によって、黒糖収奪には単にモノの収奪というにとどまらず、コトの収奪でもあることを知った。ぼくはその内実は、1745年の換糖上納制と1830年の第二次惣買入制によって完成したと思うが、それぞれはどのように言うことができるだろう。

 まず、モノとしての黒糖収奪、である。1745年の換糖上納制により、米ではなく黒糖を上納することが決められたが、それはまず、主たる生産物が「食糧」ではなく、「菓子・調味料」になってしまったことが重要だった。食糧としての市場流通が充分に行き届いていない環境で、「食糧」ではないものが主たる生産物になるのは生存を脅かす不安が生まれる。奄美は、島嶼でありかつ薩摩の支配下にあるという二重の障壁のなかにあり、食糧市場は身近には全く感じられなかったはずだ。だから、これは、たとえ年貢が米であり米を生産する農民であったとしても、口に入ることはなかったという別の事実とは別に言いうることである。いざというとき、口にできるものを生産しているのとしていないのとでは農耕の内実が違ってしまう。

 ここから見たとき、1830年の第二次惣買入制は、それが黒糖売買の禁止であったことがモノの収奪の完成を意味したのである。「食糧」ではないものが主たる生産物となれるのは、そこに食糧が得られる市場が存在していることが必須のはずだが、それは無いと言われたことになるのだ。その市場はない。その代わり、米や日用品を藩が交換するというのである。それでは、モノカルチャーの強みを奄美は主体的に打ち出せないことを意味し、薩摩にとっては搾取のネタの増殖を意味した。

 ここで、第二次惣買入制が、食糧自給の土地を追いやって砂糖きび畑にするに及んで、奄美のモノの収奪は完成していった。つまり、モノとしての黒糖収奪の意味は、食糧自給力の収奪だったのである。

◇◆◇

 稲作の芯を、松山は儀礼や信仰つながる「心づかい」と呼び、大山は農民に欠かせない「土つくり」の体質といい、養老は子育てにつながる「手入れ」の思想と呼んでいた。いま、コトとしての黒糖収奪の意味を考えるのに、ぼくはそれを魂の表現と呼んでみたい。稲作は、祖霊や来訪神の信仰につながり、心づかいの末の島人の魂の表現になりえたが、砂糖きびはそれらにつながることがなかったということだ。

 1745年の換糖上納制は、主たる生産物に費やす時間が、魂の表現では無くなることを意味していた。島人はそこで、食糧ではない生産に対する不安と同時に、どこか虚ろなあてどないものを感じたに違いないと思う。コトの収奪にとって、1830年の第二次惣買入制は、砂糖きびとしての土地の普遍化を意味するから、魂の表現の場所を失ったことを意味している。これは奄美におけるコトの収奪の完成を意味していた。

 奄美は、二重の疎外(とその隠ぺい)により、やがて近代になればそれが個人のアイデンティティの問題として浮上するのだが、その前身としての、からっぽな共同体になっていた。そこに、ついで強制されたのが魂の表現にはならないからっぽな作物としての砂糖きびだったのである。からっぽな共同体に埋め込まれたからっぽなモノ。それが砂糖きびの意味するものだった。コトの収奪は、二重の疎外(とその隠ぺい)により終わったのではなく、モノの収奪のなかで完成していったのである。



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浮く舟

 ちゃくれさんの写真には、いつもため息が出るが、今日もそうだった。

 「波に揺られて」(ちゃくれの写真倉庫)

波に揺られて
のんびり時間を過ごしてみようよ
与論ブルーの この海で


 これはなんというか、浮く舟だ。浮き舟ではなく。


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シゴーぬ中棚

 「チヌマンダイ」で盛窪さんが、

シゴーの中棚 から  崖上を見上げて
    たぶん  与論初  の 映像だと思います。

 と書いていて、わくわく。
 歌に名高いのに、どこのことか分からなくなっていたシゴーの中棚を、盛窪さんが見つけて撮ったもの。

 思わず拝借させてもらった。(盛窪さん、事後承諾です。ごめんなさい)
 持田さんによれば、諸鈍シバヤの「諸鈍長浜」にも似ているという「シゴーの中棚」の歌とともに上げます。

 日が変わって、シゴーの中棚に抜ける穴も載せてくれているので、ふたたび拝借。秘密の場所への手がかりです。少しずつ謎が解き明かされるみたいで、どきどきです。でも、秘密、といっても少し前まで島人にはよく知られていてたんですよね。

 「シゴーの中棚は浮き上がってみえる」、「伊平屋の七離れは浮き上がって見える」、「シゴーの中棚にわたしは通ってきた」。こんな歌詞もいいですね。


一 
シゴーぬ中棚や 打ちやがてぃどぅ見ゆる
 ヘンヤ  ヌガヤルヘン
うし遊でぃ うちやがいる シゴーぬ半田
 ウシヘンヨ  ヌガヤラヘン
 マタガリヘンヨ  ヌガヤルヘン


伊平屋ぬ七離 打ちやがてぃどぅ見ゆる
 ヘンヤ  ヌガヤルヘン
うし遊でぃ うちやがいる 私達が遊び
 ウシヘンヨ  ヌガヤラヘン
 マタガリヘンヨ  ヌガヤルヘン


シゴーぬ中棚や 我が通てぃあたん
 ヘンヤ  ヌガヤル  ヘン
うし我が通いぬ やしやぬ ノーダキ繁ち
 ウシヘンヨ  ヌガヤルヘン
 マタガリヘンヨ  ヌガヤルヘン


Sigonunakadana_3

Tunnel

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2008/10/02

黒糖収奪とは何か 2

 稲作と砂糖きび作の違いは、『沖縄・奄美と日本(ヤマト)』で、大山麟五郎も書いていた。

 日本の農民は、熱帯原産の水稲を二千年かけて北海道のような寒い地方にまで適する品種改良をなしとげることを通じて研究心を養ない、また水利における共同作業を中心に共同体への忠誠心をきたえ、水田の「土つくり」に代表される丹念な作業を通して勤勉性を身につけてきた。また中央幕府の統制下で外延的に領地を広げることの許されぬ近世大名の最大の歴史的役割は、自己領内における新田開発や農業地盤の整備に社会資本を投下することであった。そして近世二百年こそは、この日本人の農民的体質の形成のためにも、社会資本の投下事業においても、決定的に重要な仕上げの時代であった。

 しかし奄美においては、水稲作農業未熟な段階で、砂糖キビという領主的商品作物の早すぎる登場によって主作が稲からキビにかあり、この近世が欠落してしまった。少なくとも近世の成熟がはなはだしく妨げられてしまったのである。砂糖キビは、商品としては勝れ、農業としては粗放な不思議な作物であった。それは自立小農民によってのみ実効をあげる水稲作の集約性とはちがい、砂糖キビプランテーションにおける粗放な下人労働でもこなせる作物であった。またそれには水稲作のような地盤整備への社会資本投下をも必要としなかった。かくして奄美は、農民体質の涵養においても農業地盤の整備においても、日本でもっとも近世遺産の少ない農村として、明治の近代を迎えねばならなかったのであった。

封建治下における植民地支配を経験した世界史上ただひとつの実例として、奄美は今になまなましい傷跡を消し去るにはいたっていないといわねばならぬ。この意味において延享二年(一七四五)の換糖上納令(租税を米でなく砂糖で納めるようにとの命令)は、奄美の主作を米から砂糖に切りかえさせ、奄美の水田と畑の比重を逆転させ、奄美における近世成熟を絶ち切った画期的な反動立法として、奄美史の上でその歴史的意義を永久に強調されねばならないであろう。

 大山も松山光秀と同じように、稲作と砂糖きび作の違いに着目している。だがその根拠となると、松山のそれがのびやぐ感じがするのに、大山のそれは窮屈感が否めない。

 日本の農民は、「研究心を養ない」、「土つくり」による勤勉性を身につけてきたというのはその通りに違いない。この「土つくり」を、松山は「心づかい」といい、養老猛司は「手入れ」と呼んで重視している。だが、その延長で大山のように、「近世」や「日本人の農民的体質」の欠落などと言われると、近世や日本人的な農民体質は必須のものなのかと半畳を入れたくもなる。大山は農といえば稲であり、近代の前には近世を通過する必要があり、という窮屈な観点には、奄美も本土日本や日本人と同じ歩みでなければならないという枠組みが前提になっている。それが窮屈なのだ。

 砂糖きびは、確かに心を込めなくてもいい作物で、研究心も手入れの思想もここでは育たないかもしれないが、奄美や琉球弧の土壌や強烈な陽射しにも合っているというポジティブな側面はすっかり抜き取られてしまう。そこで言うことが、「自立小農民によってのみ実効をあげる水稲作の集約性とはちがい、砂糖キビプランテーションにおける粗放な下人労働でもこなせる作物であった」という自己蔑視的な観点なのだ。こう言われて奄美の農民は励まされるだろうか。こうした砂糖きびの粗放性のおかげで、ぼくたちは漁撈に携わる時間を持ち、他の作物を育てる余地を持ったという面は見逃されてしまうのだ。

 「換糖上納令」の何が「画期的」なのかは、別に言われなければならない。


 ※「黒糖収奪とは何か 1」



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「太郎ちゃんねる」

 小泉首相のときから内閣はメールマガジンを発行するようになりました。首相がメールマガジンを発行するということは、首相と国民がまがりなりにも一対一でつながることを意味するので、画期的でした。

 うろ覚えですが、当時、200万人を突破する読者数で、日本一のメールマガジンだったんじゃないでしょうか。けれど、メールマガジン全体の精読率が下がり、内閣も充分にこれを活用する用意のないまま今日まで来ている気がします。

 ぼくは仕事柄、ずっと取っているので、安部、福田とめまぐるしく?発行者が変わるのも目撃してきたわけですが、今日の号は、「麻生内閣メールマガジン創刊準備号」と題されています。

 で、新しく始まるのが、「太郎ちゃんねる」という動画です。
 さすがオタク系と思ったのですが、今日の動画はちょっと残念。やったほうがいいんじゃないかと言われたからという内容。やるなら、動画のよさをふんだんに生かしてほしいですね。

 (琉球弧話題ではないですが、国民的話題としてあげます。)

 ※「麻生内閣メールマガジン」


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 ■○■○■   麻生内閣メールマガジン創刊準備号   ■○■○■ 
 □●□●□              2008/10/02   □●□●□ 
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★☆麻生内閣メールマガジン創刊にあたり、読者の皆様を対象に、麻生総理
  へのインタビュー動画のコーナー「太郎ちゃんねる」を開始!!☆★

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●麻生太郎の「強く明るく」
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[総理の使命]

 麻生太郎です。平成20年9月24日、第92代内閣総理大臣に就任しま
した。メルマガ読者の皆さん、よろしくお願いいたします。

 総理としての重責をになうこととなり、その責任の重さを改めて感じてい
ます。特に、景気への不安、国民の生活と将来への不安、そしてそれらに対
して手を打てない政治への不満の危機にあることを厳しく受け止めています。

 日本の元気を取り戻す、強くて明るい日本をつくることこそが、私の使命
であると思っています。

 緊急な上にも緊急の課題は、日本経済を立て直し、生活を少しでも豊かに
することです。すぐさま景気対策、物価高対策に着手します。日本経済は全
治3年。3年で日本は脱皮せねばなりません。

 私は、日本の底力を信じています。

 勤勉な国民であり、優れた技術をもっています。日本経済は、幾度となく
厳しい試練に果敢に応じ、その都度、強くなってきました。悲観しなければ
ならない理由など一つもありません。

 私は、逃げない政治、責任をもって実行する政治の実現に一身を賭します。
そして、強くて明るい日本、私たちが国民として誇りをもてる日本をつくり
あげていきます。

 私はこの1年間、直接、地域に住む皆さんの声を聞くべく、全国161ヶ
所を回ってきました。

 このメルマガでも、私の考えをお伝えするだけでなく、皆さんの生の声を
聞かせて頂き、国政に活かしていきたいと思います。

 どうぞ、麻生内閣の一員になったおつもりで、忌憚のないご意見をお送り
頂き、私と一緒に、日本を元気にしていきましょう。

□第170回国会における麻生内閣総理大臣所信表明演説(08/09/29)
 (政府インターネットテレビ)
http://nettv.gov-online.go.jp/prg/prg2166.html

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●「太郎ちゃんねる」
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 麻生内閣メールマガジン創刊にあたり、メルマガ読者の皆様を対象に、
麻生総理へのインタビュー動画のコーナー「太郎ちゃんねる」を開始しまし
た。

今週のお題:
「Q:メルマガの創刊にあたりまして、読者の皆様に一言、メッセージを
 お願いいたします。」

□太郎ちゃんねる(動画)
http://www.kantei.go.jp/jp/asovideo/2008/10/4029_souri_mm.asx

(後略)

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2008/10/01

黒糖収奪とは何か 1

 奄美にとって黒糖収奪とは何だったのか。ぼくは、薩摩のモノの収奪のメルクマールをなすのは1745年の換糖上納制と1830年の第二次惣買入制だと思っている。それが意味することは何なのか、言わなくてはならないが、ぼくは、ここで、奄美の島を愛した松山光秀の言葉を手掛かりに探ってみたい。

 民謡以外に徳之島文化の特異性をあげるとすれば、仏教が定着できなかったということではないかと思う。古記録(『徳之島前録帳』)によれば、薩摩藩は元文一年(一七三六)徳之島町井之井に禅宗系の寺院安住寺を建立し、島民を一方的に禅宗に改宗させたが、これを受け入れていない。仏教的な要素はしこたま生活に吸収しながらも、信仰そのものはついに受け入れなかったのである。安住寺は一戸の檀家を得ることもなく、延亭一年(一七四四)には同町の亀津に移され、さらに明和七年(一七七〇)には伊仙町の義名山に場所を移転するなど、住民に受け入れられないまま転々としている。

 なぜだろうか。私はその理由の第一番目をシマの組織的な祖霊信仰によるものだとみている。シマの祖霊信仰は稲作文化と結びつくことによってシマの自然や集落、そしてそこに生活する一族一統を含めた巨大な組織によってゆるざない基盤をつくっていたのである。
「先祖(おや)拝んでから神(仏教)を拝め」
という裡言はよく往時の人々の思想を要約していると思う。これはあとで述べるが、私は自分の住んでいる集落の古地図をつくることによって、具体的にその足跡を知ることができた。水稲は祖霊と人間社会をとりもつ神聖で、しかも不可思議な作物であった。その水稲のもつ不可思議な属性がシマの祖霊信仰をさらに強固なものに仕立てたのである。シマ社会は水稲の栽培周期によって節目をつけられた、いわば祖霊信仰王国であった。(『徳之島の民俗〈1〉シマのこころ』

 徳之島だけでなく、奄美を含む琉球弧に仏教が入らなかったのは、「シマの祖霊信仰」が稲作文化と結びついていたからだと松山は言う。ぼくなら、稲作以前の御嶽(与論では御願)と来訪神と精霊たちの世界が生き生きとしていたからだというところだが、その違和感を含んでも、松山は大切なことを言おうとしてくれていると思える。

 ところが昭和二十九年以降、この状況が音をたてて崩れ出した。奄美振興特別措置法の名のもとに巨額な国賓を投入して水田壊しが開始されたからだ。ねらいは自給自足の農業から脱却して現金収入の多い企業的な農業に構造を改善すること、つまり水稲をなくしてさとうきびの生産拡大をはかろうとするものであった。このねらいのもとに、かつての聖地であった水田や森や小川は一顧だにされることなく、ブルドーザーの響きとともに壊されていったのである。ほんとうにあっという間のできごとであった。
 それから三十年がたった。いま徳之島には水田はない。ほんのわずか痕跡をとどめているが、これはものの数ではない。ここまで来て私たちは千年以上もの遠い昔から栽培され、受け継がれてきた水稲と別れ、それに付随して伝えられて来た儀礼や芸能は、完全に演ずる舞台を失ったのである。

 ぼくたちはここで、水田が破壊され砂糖きび畑に変えられる場面を目撃する。だが、なんか変だと思う。水田から砂糖きび畑への交替には否応なく既視感のような感覚を呼び覚まさずにはいないが、それもそのはず、これは1745年の換糖上納制の光景と同等だからだ。奄振は反復する黒糖収奪なのだろうか。

 いやその前に、ここは松山の言うことに耳を傾けよう。

 私は二十年ほど前に聞いた古老の嘆きをいまも昨日のように思い出している。
「ブルドーザーが音を立てて山や田ん圃を壊していくものだから、神さまがびっくりして皆天国へ帰っていってしまった。それで最近は神山の木を伐ってもたたられることもなくなった。神を畏れる人もいない。」

 人々の信仰や畏敬の念が薄れたのではない。神さまがいなくなったのである。人々は自らの手によって神々の住家を破壊し、神々を天国へ追い返したと嘆いているのだ。同時に古老たちの体の中に染みついている思いや体験を語る場所もなくされてしまったわけだ。

 古老は、水田を含んだ自然の破壊が神を不在にさせたと言っている。水田が砂糖きび畑に変わるとはどういうことか。

 さて、いま私はかつての水田区域の前に立って風になびくさとうきび林を眺めている。なんと殺風景な眺めだろう、われながら淋しい思いにかり立てられてしまう。きび畑というものは水をひかないので栽培が雑なのだ。本来場所を選ばない。そのために自然を壊し、風景を損なうことが多い。水田とは立地条件が全く逆なのである。

 砂糖きび畑を「なんと殺風景な眺めだろう」と感じるのは、稲作信仰を背景にした言葉だと思えるが、稲作という行為と砂糖きび作という行為の違いに、松山は触れようとしている。

 思うに、さとうきび産業は、その植民地産業性と栽培技術面における粗放性のために、歴史の流れの中では常に伝統的な心を駆逐するマイナスの力として重たくのしかかってきた。まずあげられることが、薩摩藩による黒糖搾取である。薩摩藩の財政難解消のために、天保元年(一八三〇)の第二次砂糖惣買入れ制施行以降明治の初期までは、骨の髄までもしやぶり取られてしまったのである。

 ウシクがじゅまるや石抱ちど太る
  ヤマトイシユギラや島抱ちど太る
   (あこうの木は右にからまりついて大きくなっていく。ちょうどそのように薩摩の武士たちは島の農民たちにからまりついて太っていく)

 やりどころのないつらさを当時の農民たちは民謡に託してほんのわずかの抵抗を示したのである。この民謡はいまも受け継がれている。

 ここまできて、松山の問題意識はぼくたちの問題意識と重なってくる。松山の言うことを受け止めれば、砂糖きびが、「伝統的な心を駆逐するマイナスの力」を持っているとしたら、黒糖の収奪は、単にモノの収奪にとどまらず、心というコトの収奪を含んでいることになる。

それから粗放性についてであるが、さとうきびは、その植民地産業性と相まって雑な栽培技法でも容易に栽培することができることから、こまかい心づかいを特に必要としない側面があった。もちろん栽培作物であるから、それなりの努力や工夫が必要であることは当然であるが、自らの食糧とはなり得ない作物であるために収穫のよろこびが稀薄で、常に外的な要因によって価格が左右される不安定性をかかえていた。その傾向はいまも変わらない。そのためか、さとうきび作はついに農民の心の反映としての儀礼も芸能も生み出すことがなかったのである。(『徳之島の民俗〈1〉シマのこころ』

 黒糖収奪をモノの収奪という側面からみれば、「自らの食糧とはなり得ない作物であるために収穫のよろこびが稀薄で、常に外的な要因によって価格が左右される不安定性をかかえていた」。「食糧とはなり得ないというのは、要するに腹の足しになるものではないという意味だと思えるが、この主たる生産物が食糧ではなく菓子、調味料であることは、価格以上の心の不安定を抱えることになったと思う。これは、年貢が米であったとしてもそれが農民の口に入ることはなかったということとは別に言えることである。言い換えれば、たとえ口に入ることがなかったとしても食糧を作っていることからくる安心感はあったに違いない。

 松山の考えによれば、黒糖収奪には心としてのコトの収奪の面があり、それは、砂糖きびは稲作のようには「こまかい心づかい」を必要としないから、「農民の心の反映としての儀礼も芸能も生み出すことがなかった」と指摘された。

 ぼくはここで、薩摩直轄領の2世紀半は、二重の疎外としてのコトの収奪と黒糖としてのモノの収奪という二重の収奪があったと考えてきたが、黒糖収奪は、ある意味で二重の疎外の完成だったのだ。二重の疎外により空っぽな存在と化した奄美に強制されたのが空っぽな作物としての砂糖きびだったからだ。



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気になる沖縄本

 読めてないけど、気になる最近の沖縄本を備忘のため挙げておく。

 『沖縄イメージを旅する』(多田治)

・主として他県向けに書いたはずが、沖縄での売れ行きも好調。「なぜ観光客がこれだけ来るのか、沖縄の人もその意味を知りたいんです」(毎日新聞)

・本書は、沖縄の内と外をめぐるイメージの相克過程について大胆なアウトラインを描いている。そしてその背後に厳然として存在するウチナー/ヤマトの二項対立図式を指摘する。(琉球新報

 『テンペスト』上・若夏の巻、下・花風の巻(池上永一)

・待望、という言葉はこの本のためにあったのではないか、と思えてしまう。「野性時代」連載中から傑作の呼び声高かった『テンペスト』が、遂に単行本になったのだ。

 『さまよえる沖縄人』(照井裕)

・帯の文にはこうある。「諧謔(かいぎゃく)か? 挑発か? 『沖縄県民に問う!』—おい、日本人。そこに手をついて詫(わ)びてみろ。知らぬことは罪でございました、そう言って土下座しろ! —日本政府や日本国民が本当にうちなあんちゅを同等の日本人と思っているのであれば憲法を改め、日米安保を解消し、自ら国防を担うことによってうちなあの軍事基地を少なくとも半減させるだろう」


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奄美市、皆既日食のロゴマーク、募集中

 奄美市が、皆既日食のロゴマークを募集していますね。10月20日締め切りだそうです。

 「2009皆既日食in奄美」ロゴマーク募集」

○応募期限
  平成20年10月20日(当日消印有効)
○賞・採用(1点)
  最優秀賞5万円(1点),優秀賞1万円(2点)
○応募方法
  (1) 郵送又は持参での応募(下記参照)
    ・ 用紙はA4サイズ白色用紙に手書き,もしくはプリントアウトしたものとします。
  (2) 電子メールでの応募 nissyoku@city.amami.lg.jp
    ・ 作品のファイル形式はGIF又はJPEG形式とし,
      1作品の容量は2MB以下としてください。
      (2MBを超える場合は持参又は郵送してください。)
   で、ロゴマークの基準がこれ。
○ロゴマークの基準
  (1) 奄美大島及び皆既日食がイメージでき,親しみやすいデザインといたします。
  (2) ロゴマークの中に「2009」と「奄美」の文字を記載することとし,
     文字は,漢字,カタカナ,ひらがな,ローマ字など自由とします。
  (3) 1作品あたり概ね10㎝四方の大きさに納まるものであり,
     縮小しても判別可能であること。

 そのうえ、「奄美らしい」デザインだと嬉しいですね。ちなみにトカラのロゴマークは既に決まっていて、これです。

Tokarakaiki_2










 雰囲気あります。原案は中之島中学校と宝島中学校の中学生の作品だそうです。すごいですね。

 ※「皆既日食ツアー7月から募集」



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