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2008/10/02

黒糖収奪とは何か 2

 稲作と砂糖きび作の違いは、『沖縄・奄美と日本(ヤマト)』で、大山麟五郎も書いていた。

 日本の農民は、熱帯原産の水稲を二千年かけて北海道のような寒い地方にまで適する品種改良をなしとげることを通じて研究心を養ない、また水利における共同作業を中心に共同体への忠誠心をきたえ、水田の「土つくり」に代表される丹念な作業を通して勤勉性を身につけてきた。また中央幕府の統制下で外延的に領地を広げることの許されぬ近世大名の最大の歴史的役割は、自己領内における新田開発や農業地盤の整備に社会資本を投下することであった。そして近世二百年こそは、この日本人の農民的体質の形成のためにも、社会資本の投下事業においても、決定的に重要な仕上げの時代であった。

 しかし奄美においては、水稲作農業未熟な段階で、砂糖キビという領主的商品作物の早すぎる登場によって主作が稲からキビにかあり、この近世が欠落してしまった。少なくとも近世の成熟がはなはだしく妨げられてしまったのである。砂糖キビは、商品としては勝れ、農業としては粗放な不思議な作物であった。それは自立小農民によってのみ実効をあげる水稲作の集約性とはちがい、砂糖キビプランテーションにおける粗放な下人労働でもこなせる作物であった。またそれには水稲作のような地盤整備への社会資本投下をも必要としなかった。かくして奄美は、農民体質の涵養においても農業地盤の整備においても、日本でもっとも近世遺産の少ない農村として、明治の近代を迎えねばならなかったのであった。

封建治下における植民地支配を経験した世界史上ただひとつの実例として、奄美は今になまなましい傷跡を消し去るにはいたっていないといわねばならぬ。この意味において延享二年(一七四五)の換糖上納令(租税を米でなく砂糖で納めるようにとの命令)は、奄美の主作を米から砂糖に切りかえさせ、奄美の水田と畑の比重を逆転させ、奄美における近世成熟を絶ち切った画期的な反動立法として、奄美史の上でその歴史的意義を永久に強調されねばならないであろう。

 大山も松山光秀と同じように、稲作と砂糖きび作の違いに着目している。だがその根拠となると、松山のそれがのびやぐ感じがするのに、大山のそれは窮屈感が否めない。

 日本の農民は、「研究心を養ない」、「土つくり」による勤勉性を身につけてきたというのはその通りに違いない。この「土つくり」を、松山は「心づかい」といい、養老猛司は「手入れ」と呼んで重視している。だが、その延長で大山のように、「近世」や「日本人の農民的体質」の欠落などと言われると、近世や日本人的な農民体質は必須のものなのかと半畳を入れたくもなる。大山は農といえば稲であり、近代の前には近世を通過する必要があり、という窮屈な観点には、奄美も本土日本や日本人と同じ歩みでなければならないという枠組みが前提になっている。それが窮屈なのだ。

 砂糖きびは、確かに心を込めなくてもいい作物で、研究心も手入れの思想もここでは育たないかもしれないが、奄美や琉球弧の土壌や強烈な陽射しにも合っているというポジティブな側面はすっかり抜き取られてしまう。そこで言うことが、「自立小農民によってのみ実効をあげる水稲作の集約性とはちがい、砂糖キビプランテーションにおける粗放な下人労働でもこなせる作物であった」という自己蔑視的な観点なのだ。こう言われて奄美の農民は励まされるだろうか。こうした砂糖きびの粗放性のおかげで、ぼくたちは漁撈に携わる時間を持ち、他の作物を育てる余地を持ったという面は見逃されてしまうのだ。

 「換糖上納令」の何が「画期的」なのかは、別に言われなければならない。


 ※「黒糖収奪とは何か 1」



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