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2008/10/16

大和ではない 2

 ぼくたちは薩摩の規定の文言を見ながら、心が揺れるのを感じないでしょうか。「日本人のなり」をしてはいけないという言葉に、薩摩支配下の段階から、日本人か否かに悩まされてきたように見えるからです。でも、気をつけなければいけないのは、ここにいう「日本人」は、ぼくたちがいま使っている「日本人」とは含みが違うことです。

 この規定に見る通り、一七二八年の時点で薩摩あるいは日本は、「日本」、「日本人」という自称を手にしていました。もっと前、一六一七年、琉球に下された令達にも「日本人の髯髪衣裳」という表現で大和化の禁止が書かれていたので、このときには既に「日本」、「日本人」と自称しているのが分かります。

 これはいまぼくたちが使っている「日本」、「日本人」と同じ言葉です。しかし規定に言う「日本」、「日本人」は、秀吉、家康が行った天下平定のまとまりの範囲とそこの人々を指していますが、それといまの使い方とには決定的に違う側面があります。それが今の「日本」、「日本人」になるには、薩摩や長州の下級武士たちが「志士」として、民族の意識を自覚し、明治維新を遂げて、国民という意識が定着するのを待たなければなりません。一六一七年の令達や一七二八年の「大島規模帳」にある「日本」はまとまりの自称を獲得しその枠を広げつつあるとはいえ、そこに「民族」も「国民」もありません。それが獲得されるのは「大島規模帳」から一世紀以上も先のことです。そのときになって、ぼくたちはようやく、薩摩人や津軽人であると同時に、「日本人」であることを知り、それが薩摩人や津軽人に共通のものであるという感覚をものにします。また、武士や農民や商人、工人として身分が固定されているのではなく、国民として平等であるという感覚を知ります。

 そしてこうなった「日本」は、アイヌや琉球を含んだ上で「日本」になっていました。それは薩摩人や津軽人であるというだけでなく、「日本人」ということがその上位概念にあればこそ、「大和」ではないアイヌも琉球も「日本」の中に組み入れられることが可能になったのです。これをアイヌや琉球からみれば、近代とは、「日本人」になることで「日本」に入ることができる事態と受け止められたはずです。

 また、薩摩が「日本」という言葉を使っているのは、薩摩が独断で琉球への侵略や支配を行っているのではなく、あくまで幕府の許可を受けてやっているわけですから、琉球に対するとき「日本」と書き、その延長で奄美に対する場合も「日本」という言葉を選んだのではないかと思われます。

 そこで、近代以前の「日本」は、琉球にとって「大和」のことに他なりません。当時、琉球は「薩摩」を「大和」と呼び、その向こうの幕府を「大大和(うふやまと)」と呼んでいました。それなら、「日本人」のなりをしてはいけないと言われたとき、そこにいう「日本人」とは、琉球や奄美にとって「(大)大和」を指していました。「日本人のなり」をしてはいけないという規定を奄美の島人がどう受け止めたかという側面で捉えるなら、大和人めくなということを意味したのです。


「奄美自立論」4-2

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