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2008/10/01

黒糖収奪とは何か 1

 奄美にとって黒糖収奪とは何だったのか。ぼくは、薩摩のモノの収奪のメルクマールをなすのは1745年の換糖上納制と1830年の第二次惣買入制だと思っている。それが意味することは何なのか、言わなくてはならないが、ぼくは、ここで、奄美の島を愛した松山光秀の言葉を手掛かりに探ってみたい。

 民謡以外に徳之島文化の特異性をあげるとすれば、仏教が定着できなかったということではないかと思う。古記録(『徳之島前録帳』)によれば、薩摩藩は元文一年(一七三六)徳之島町井之井に禅宗系の寺院安住寺を建立し、島民を一方的に禅宗に改宗させたが、これを受け入れていない。仏教的な要素はしこたま生活に吸収しながらも、信仰そのものはついに受け入れなかったのである。安住寺は一戸の檀家を得ることもなく、延亭一年(一七四四)には同町の亀津に移され、さらに明和七年(一七七〇)には伊仙町の義名山に場所を移転するなど、住民に受け入れられないまま転々としている。

 なぜだろうか。私はその理由の第一番目をシマの組織的な祖霊信仰によるものだとみている。シマの祖霊信仰は稲作文化と結びつくことによってシマの自然や集落、そしてそこに生活する一族一統を含めた巨大な組織によってゆるざない基盤をつくっていたのである。
「先祖(おや)拝んでから神(仏教)を拝め」
という裡言はよく往時の人々の思想を要約していると思う。これはあとで述べるが、私は自分の住んでいる集落の古地図をつくることによって、具体的にその足跡を知ることができた。水稲は祖霊と人間社会をとりもつ神聖で、しかも不可思議な作物であった。その水稲のもつ不可思議な属性がシマの祖霊信仰をさらに強固なものに仕立てたのである。シマ社会は水稲の栽培周期によって節目をつけられた、いわば祖霊信仰王国であった。(『徳之島の民俗〈1〉シマのこころ』

 徳之島だけでなく、奄美を含む琉球弧に仏教が入らなかったのは、「シマの祖霊信仰」が稲作文化と結びついていたからだと松山は言う。ぼくなら、稲作以前の御嶽(与論では御願)と来訪神と精霊たちの世界が生き生きとしていたからだというところだが、その違和感を含んでも、松山は大切なことを言おうとしてくれていると思える。

 ところが昭和二十九年以降、この状況が音をたてて崩れ出した。奄美振興特別措置法の名のもとに巨額な国賓を投入して水田壊しが開始されたからだ。ねらいは自給自足の農業から脱却して現金収入の多い企業的な農業に構造を改善すること、つまり水稲をなくしてさとうきびの生産拡大をはかろうとするものであった。このねらいのもとに、かつての聖地であった水田や森や小川は一顧だにされることなく、ブルドーザーの響きとともに壊されていったのである。ほんとうにあっという間のできごとであった。
 それから三十年がたった。いま徳之島には水田はない。ほんのわずか痕跡をとどめているが、これはものの数ではない。ここまで来て私たちは千年以上もの遠い昔から栽培され、受け継がれてきた水稲と別れ、それに付随して伝えられて来た儀礼や芸能は、完全に演ずる舞台を失ったのである。

 ぼくたちはここで、水田が破壊され砂糖きび畑に変えられる場面を目撃する。だが、なんか変だと思う。水田から砂糖きび畑への交替には否応なく既視感のような感覚を呼び覚まさずにはいないが、それもそのはず、これは1745年の換糖上納制の光景と同等だからだ。奄振は反復する黒糖収奪なのだろうか。

 いやその前に、ここは松山の言うことに耳を傾けよう。

 私は二十年ほど前に聞いた古老の嘆きをいまも昨日のように思い出している。
「ブルドーザーが音を立てて山や田ん圃を壊していくものだから、神さまがびっくりして皆天国へ帰っていってしまった。それで最近は神山の木を伐ってもたたられることもなくなった。神を畏れる人もいない。」

 人々の信仰や畏敬の念が薄れたのではない。神さまがいなくなったのである。人々は自らの手によって神々の住家を破壊し、神々を天国へ追い返したと嘆いているのだ。同時に古老たちの体の中に染みついている思いや体験を語る場所もなくされてしまったわけだ。

 古老は、水田を含んだ自然の破壊が神を不在にさせたと言っている。水田が砂糖きび畑に変わるとはどういうことか。

 さて、いま私はかつての水田区域の前に立って風になびくさとうきび林を眺めている。なんと殺風景な眺めだろう、われながら淋しい思いにかり立てられてしまう。きび畑というものは水をひかないので栽培が雑なのだ。本来場所を選ばない。そのために自然を壊し、風景を損なうことが多い。水田とは立地条件が全く逆なのである。

 砂糖きび畑を「なんと殺風景な眺めだろう」と感じるのは、稲作信仰を背景にした言葉だと思えるが、稲作という行為と砂糖きび作という行為の違いに、松山は触れようとしている。

 思うに、さとうきび産業は、その植民地産業性と栽培技術面における粗放性のために、歴史の流れの中では常に伝統的な心を駆逐するマイナスの力として重たくのしかかってきた。まずあげられることが、薩摩藩による黒糖搾取である。薩摩藩の財政難解消のために、天保元年(一八三〇)の第二次砂糖惣買入れ制施行以降明治の初期までは、骨の髄までもしやぶり取られてしまったのである。

 ウシクがじゅまるや石抱ちど太る
  ヤマトイシユギラや島抱ちど太る
   (あこうの木は右にからまりついて大きくなっていく。ちょうどそのように薩摩の武士たちは島の農民たちにからまりついて太っていく)

 やりどころのないつらさを当時の農民たちは民謡に託してほんのわずかの抵抗を示したのである。この民謡はいまも受け継がれている。

 ここまできて、松山の問題意識はぼくたちの問題意識と重なってくる。松山の言うことを受け止めれば、砂糖きびが、「伝統的な心を駆逐するマイナスの力」を持っているとしたら、黒糖の収奪は、単にモノの収奪にとどまらず、心というコトの収奪を含んでいることになる。

それから粗放性についてであるが、さとうきびは、その植民地産業性と相まって雑な栽培技法でも容易に栽培することができることから、こまかい心づかいを特に必要としない側面があった。もちろん栽培作物であるから、それなりの努力や工夫が必要であることは当然であるが、自らの食糧とはなり得ない作物であるために収穫のよろこびが稀薄で、常に外的な要因によって価格が左右される不安定性をかかえていた。その傾向はいまも変わらない。そのためか、さとうきび作はついに農民の心の反映としての儀礼も芸能も生み出すことがなかったのである。(『徳之島の民俗〈1〉シマのこころ』

 黒糖収奪をモノの収奪という側面からみれば、「自らの食糧とはなり得ない作物であるために収穫のよろこびが稀薄で、常に外的な要因によって価格が左右される不安定性をかかえていた」。「食糧とはなり得ないというのは、要するに腹の足しになるものではないという意味だと思えるが、この主たる生産物が食糧ではなく菓子、調味料であることは、価格以上の心の不安定を抱えることになったと思う。これは、年貢が米であったとしてもそれが農民の口に入ることはなかったということとは別に言えることである。言い換えれば、たとえ口に入ることがなかったとしても食糧を作っていることからくる安心感はあったに違いない。

 松山の考えによれば、黒糖収奪には心としてのコトの収奪の面があり、それは、砂糖きびは稲作のようには「こまかい心づかい」を必要としないから、「農民の心の反映としての儀礼も芸能も生み出すことがなかった」と指摘された。

 ぼくはここで、薩摩直轄領の2世紀半は、二重の疎外としてのコトの収奪と黒糖としてのモノの収奪という二重の収奪があったと考えてきたが、黒糖収奪は、ある意味で二重の疎外の完成だったのだ。二重の疎外により空っぽな存在と化した奄美に強制されたのが空っぽな作物としての砂糖きびだったからだ。



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コメント

島の人は思い出深い場所です。島の人で飲み会ができればいいですね。

投稿: 松島泰勝 | 2008/10/01 20:44


mutukasisugiru .


    僕はね   ・・・・、

       窪はね・・・と 
        毎朝  妻に 怒られる。
   然し  
 この  論議が好き。

    今度  お会いできたら

           いいお酒を。

投稿: awa | 2008/10/01 21:59

awaさん

この記事は、awaさんが「与論ももっと水田があっていいのに」と言っていたのを思い出しながら書きました。

お話ししたいですねえ、飲みながら。

盛窪やか、とぅじとぅ、あぐしちたばーり。(^^)

投稿: 喜山 | 2008/10/02 07:49

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