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2008/09/15

「島津氏の琉球入りと奄美」 1

 奄美市の郷土史、『名瀬市誌』1巻、「近世」の章の「島津氏の琉球入りと奄美」を読んでびっくりした。本当をいえば驚くどころではなく頭が重くなるような感じで愕然とした。これは読み解きにくい文章だ。意味がわからないというのではない。意味はわかるのだが、そこにある認識が不可解で、そのせいか、それがどういう根拠でなされているのかがわからない。それを理解しようとすれば、否応なく、『名瀬市誌』の考え方の背景を推し量るしかない。

 それならぼくたちは黙って過ぎることもできるかもしれない。しかし愕然とする中身には、腑に落ちることもあって、ある割合で、現在の奄美論はここにある『名瀬市誌』と共通の認識を持っているように見える。いや、共通というのではなく、『名瀬市誌』が郷土史の権威をもって任じているのであれば、これが、奄美論に認識の基盤を提供しているのかもしれない。

 それなら黙って通り過ぎることはできない。奄美の失語にほんとうに手を届かせたいなら、ここにある屈折は奄美固有のものとして避けられないということであり、それはほどかなければならないと思える。

 「大島代官記」の序文のはじめの方に、「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」という文句が出てくる。残されている限りでは、これが、自らを「日本」という民族国家の構成部分であるとする自覚を、われわれの先祖が、正面から表明した最初の文章である。
 〔補説〕代官記の序文は、その内容から見て、代官記の本文と 同様に、代官役所に勤める島出身の役人によって、書かれたものであろうことは疑えない。序文の成立は、文中に「当尚貞王」という句があるので、琉球の尚貞王の時代、つまり寛文九年(一六六九)から宝永六年(一七〇九)の間と思われる。(『名瀬市誌』

 ぼくはのっけから大いに躓く。近世期の奄美の島役人が、「民族国家の構成部分」という近代的な自覚を持ったとは思えない。しかも、「われわれの先祖が、正面から表明した最初の文章」という表現には何か誇らしげなのだが、それもまたよくわからないと言わなければならない。

 薩摩に侵略された後、琉球の三司官は「琉球の儀、往古より薩州島津氏の附庸にして」、つまり琉球はもともと薩摩の属国であるという起請文を書かされている。「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」という一文は、強制された起請文をなぞるものではないかと考えるのが自然ではないだろうか。

 当時の大島の知識人が、こういう自覚あるいは思想を、代官記の序文に大書しなければならなかった心理の背景は必ずしも納得できない新領主島津氏への服従から生じた苦悶を乗りこえる精神的支柱として、そういうナショナリズムによる大義名分が必要となった「時代」の登場である。
 慶長十四年、西暦によれば一六〇九年の旧三月、道之島(奄美列島)は島津氏のさし向けた精鋭な侵入軍に征服され、翌月はじめには琉球本国もその軍門に下った。この一方的な戦役の結果、奄美列島は琉球王国からさかれて島津氏の蔵人地 (直轄地)となったのである。
 〔補注〕実質的には右にのべた通り、奄美群島は薩藩の直轄領 となる。しかし、幕府から島津家に与えた所領安堵の判物の中では、最後まで琉球国十二万三千七百石となっている。こ れは、奄美群島を含んだ石数である。つまりこの列島の地位は正式にはあるいは形式上は、その後もあくまで琉球国のうちにとどめられているのである。

 何度も読み返して意図を推し量れば、「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」という一文は、「薩摩ノ属島ナリ。」ではなく、「日本ノ属島ナリ。」と書いてあることに、書き手は注目している。そして「薩摩」ではなく「日本」と書いたところに、「服従から生じた苦悶を乗りこえる精神的支柱」としてのナショナリズムを見る、というのだ。
 ここでもぼくは、近世期の奄美の島役人に近代ナショナリズムの精神が宿ったとみなすのは、無理があると思う。果たして、「大島代官記」の序文はそう感じさせる文章なのか。

一、述べて日く、小を以て大を敵にすべからず、殊に小島の中山国に剱刀の具え無く、何を以て永く防守すべき哉、尤も危うき而己。
一、琉球国元釆日本の属島也。御當家忠国公御代、恩賞これに封し御感じの尊氏卿六代の将軍義教卿より拝領地は、永享四年中位の国王礼號に違わず、綾舩は在島の珍物年中二舷を捧げ、二心無き旨、通り来たる也。
一、司官の内蛇名親方、短慮愚蒙の計畧を以て、逆心を企て御當家に背き、右両膿の綾舷を止め、通ぜせしむる車両歳に及び、干時中納言家久公、此旨将軍家康卿に達し、薩隅日三州の士卒を催し、琉国成敗のため指し渡す。大将軍樺山権左衛門尉、同平田太郎左衛門尉両将数千騎の軍士を指し渡し、慶長十五年酉四月速や かに退治せしむ也。国王尚寧と申し奉る也。普尚貞迫五代日なり。
一、此時より、始めて王城には静謐なる在番を定めおく。端島には守護代官居きて、剰地分けて年貢せしむなり。
一、歎かわしき哉、禍は自ら招くと言う事疑い無く候故に、天のなせる禍は避くへし。自なせる災は避くへからすと言ふ。蛇名一人の短慮に依りて、永く王土の類島?も、今に於いて往古を慕うは無益と云々。

 これが「大島代官記」の序文である。ただ、これをすぐに解釈するのは難しいので、『しまぬゆ』の大要に頼ってみる。

 述べて言うが、小が大を敵にすべきではない。殊に小島の琉球王国には武器の備え無く、何によって永く国を守るべきか、最も危うきことなり。
 琉球国は元来日本の属島である。御当家島津忠国公の時代、永享四年(一四三二)忠勤の褒美として尊氏卿六代の将軍足利義教より拝領したものである。中山王(琉球国王)はその礼を守り、綾船に在島の珍物を毎年二船ずつ捧げるよう二心無き旨誓い通い来ていた。
 ところが、琉球国一司官の内の一人蛇名(謝名)親方が、短慮愚蒙の計略によって逆心を企て、当家島津氏に背き、両艘の綾船を止め、往来無さ事二年に及び、当時の中納言家久公がこれを将軍家康に言上し、薩隅旦二州の軍勢を催し、琉球国を成敗するため差し向けた。大将軍樺山権左衛門肘、同平田太郎左衛門尉両将数千噺の軍士を差し渡し、慶長十五年酉四月速やかに退治した。
 この時より初めて琉球を治める在番を定め、離島には守護代官をおき、そして領地を割譲して年貢を納めさせた。
 嘆かわしきは、禍は自ら招くというのは疑いなく、故に天のなせる禍は避けられるが、自らなせる災いは避けられない。蛇名一人の考えの足りなさから、永く王国の支配下にあった島までも侵略され、今では昔を慕うことは無益というものであろう。

 昨年、『しまぬゆ』で初めて「大島代官記」の序文に触れたときと同じく、何度読んでも薩摩の役人が書いたとしか思えないほど、徹頭徹尾、薩摩に都合のいい口実しかここには感じられない。「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」の箇所に、近代ナショナリズムを見れるとは到底思えない。

 「島津氏の琉球入りと奄美」の書き手が言うように、奄美の島役人が、なんとか抵抗の意識を痕跡として残したいと思って、「薩摩」ではなく「日本」と書いたと想定してみる。これが書かれたとする1669年から1709年は、二重の疎外が構造化される時期に当たっているから、ひょっとしたら二重の疎外の脱出口を「日本」に見出そうとしたのかもれない。そう見なせば、近代になりしゃにむに日本人になろうとした奄美の精神の始点をここに求めることができるのかもしれない。と仮定しても、やはりこの時点の島役人に近代ナショナリズムの自意識を求めるのは無理があると思う。



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