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2008/09/06

「異国から『異国』へ」3

 まず、幕府は明と直接交易を行う可能性を探るが、失敗する。

 一六一〇(慶長一五)年一月、池城安頼が福州に至り、北京に進貢した。対明講和(勘合復活)交渉の具体的な内容は不明であるが、明の皇帝が尚寧の琉球帰国を望む内容の勅諭(万暦三八年二一月一六日付)を持ち帰った。一六一四(慶長一九)年秋、国頭朝致が北京に進貢した。国頭朝致は、島津氏が徳川将軍の意を受けて南清文之に起草させた(中略)。それによると、幕府は、(中略)

 ①日本の商船が明の辺地に渡航する(勘合貿易)
 ②明の商船が琉球に来航し日本の商船と交易する(出会貿易)
 ③毎年琉球から明に遣使する(進貢貿易)

という三タイプの日明関係を構想し、そのうちいずれか一つの実現を希望していた。国頭朝致は一六一五(元和一)年六月琉球に帰国した。ところが案に違い、国頭朝政は、「従リ唐一切請付不レ申」 と、明が幕府の要求を一切拒否したことを島津氏に報告した。幕府の対明講和交渉は、失敗した。(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書

 この幕府の失敗は、琉球、ひいては奄美にも大きな影響を及ぼしている。

 一方、対明講和が明によって拒否されると、島津氏は琉球に対し明との関係修復(二年一貢の回復)に努力するよう命じた。島津氏の琉球侵略後、明は一六二一(慶長一七)年に琉球の進貢を二年一貢から一〇年一貢に改めていた。またそれと向時に、島津氏は、掟十五力条(一六一一年)以来琉球に対し、一六一三(慶長一八)年六月一日付の「御掟之条々」(中略)、また同年九月一五日付の条書でも(中略)琉球を日本に同化させる方針を明らかにしてきたが、対明講和の失敗に伴い日本にとって琉球が明との窓口として改めて重要性を増してくると、同化から異化へ琉球支配の方針転換を図った。例えば一六一七(元和三)年、琉球人が日本人の髯、髪形をし、衣装を着ることを禁止した。また、一六二四(寛永一)年には道之島(奄美諸島)の蔵人地化せ確定し、琉球に対し次の「定」を制定した。

(中略)
 すなわち、道之島を除く首里王府領(本琉球)に限って中山王に対し、諸役人への扶持給与綾、裁判権、祭祀権を認めると同時に琉球人が日本名をつけ、日本人のなりをすることを禁じた。琉球は政治的にも風俗的にも幕藩体制の中の「異国」であることが強調されていった。それは琉明関係の正常化を促進するため、明を意識した政策であった。

 幕府が、直接、明と交易する場合、琉球の対明交易に依存する度合いは低くなる。したがって、その可能性のある初期、島津は「風体」や「諸式」について大和化を目指していたのである。幕府の対明貿易の交渉が失敗するに及んで、琉球は、<大和ではない>という規定を明確にするが、侵略するや否やそうしたのではなく、この規定が成立する過程を微細にみていくと、<琉球は大和である>という規定に始まるも、すぐに<琉球は大和ではない>という規定に変更されたのである。

 奄美の受けた二重の疎外<琉球ではない、大和でもない>の規定も、こうしてすぐれて日明関係の動向の産物として生まれたものだった。そしてこの<大和でもない>という規定は、琉球のままでいさせるという意図に始まるが、やがて、だから大和的(水準)にしなくていいという差別の根拠にもなってゆくのである。


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