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2008/09/08

「異国から『異国』へ」5

 1649年、琉球は明の滅亡を機に、冊封関係を清と結びなおそうとする。

 琉球は、宗主国を明から清へ改める態度を明確にした。
 一六四九(慶安二)年九月、幕府老中阿部重次は、琉球問題に関する島津氏の伺いに対し、(中略)琉球認識を語った。日本側は、清が琉球人に対し清朝の衣冠と弁髪を強制することを一番恐れていた。「悪キ事」とは琉球がこの二つを受け入れて清に服属し日本の支配を離れることであり、そのことによって徳川将軍=日本国大君の対外的権威に傷がつくことが「日本之瑕」であったと考えられる。

 この時点で幕府は、琉球が清からの「衣冠と弁髪」を受け入れて日本を離れ清に服属することを恐れていた。それは、「日本の瑕」、名折れであるとみなしたのである。

 一六五一(慶安四)年、再度、謝必振が琉球に渡来した。尚質は一六五三(承応二)年、馬宗毅を派遣して順治帝の即位を慶賀させ、明朝の勅印を返上し、冊封を請願した。そこで翌年、順治帝は尚質を「琉球国中山王」に封じる冊封使(張学礼)を任命した。一六五五(明暦こ年には、冊封使が乗船する冠船を福州で建造中であるとの風間が日本にも伝わってきた。鳥辞属は、清の衣冠・弁留などの要求を断固亜否して冠船を追い返すか、あるいほ冊封使が琉球の拒否を無視して事を構えたら討ち果たす、という強硬な方針を決めた。そして八月六日、幕府に、清に対する琉球の対応方について伺った。それに対し幕府は二二日、琉球は清の衣冠・弁髪などの要求に従え、それ以外は島津氏の宰領に委ねると命じた。幕府は琉球と清との冊封・朝貢(宗属)関係を認めたのである。幕府のこの琉清閑係の容認について、幕末、薩摩藩の伊地知季安は次のように評した。(中略)

 「蛮夷」は琉球を指す。「不治を以治」とは名を捨てて実を取る方向への琉球支配の方針転換を意味するが、おそらく幕府は清の琉球招諭を妨げた場合、日本の琉球支配が日清両国の武力衝突の原因になると考え、それを未然に防止するために、このような措置をとったのであろう。(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書

 島津は、清から「衣冠と弁髪」と要請があった場合は、断固拒否すべきであるという考えを示し幕府に伺いを立てる。それに対して幕府は、清との戦争を恐れ、要請があった場合はそれに従うように命じる。幕府は、琉球と清の冊封関係を認めたのである。幕末の薩摩藩士、伊地知季安は、これを「治めざるをもって治める」と評している。

 ここから、日本は琉球との関係を隠蔽してゆくことになる。同時に、薩摩は奄美との関係を、清と日本に対して隠蔽していた。



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