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2008/09/07

「異国から『異国』へ」4

 対明貿易交渉が失敗して以降、幕府は、琉球を異国化して対明貿易の窓口とするように動く。

 幕府が「唐口」の貿易禁止に踏み切る方針を決めた背景は、「平遼通貢」策の失敗と、もう一つ、明が一六二九(寛永六)年に尚豊を「琉球国中山王」に封じる冊封使の派遣を決定したことにより、島津氏の琉球侵略(一六〇九年)後ぎくしゃくした琉明関係に正常化の見通しが出てきたことであろう。琉明関係が正常化すれば、琉球と明の貿易は進貢貿易だけに限定される。そのため島津氏は一六三一(寛永八)年、琉球在番奉行を設置し、翌年、前述した四月二二日付の条書で、琉球の進貢貿易への経営参加を琉球在番奉行に指示した。また、琉球を「異国」扱いして琉球への渡航を島津氏のみに制限する一方、中国船の大名領への着岸を禁止すれば、中国船はおのずと長崎へ向かわざるをえなくなる。中国船の長崎来航の実現には琉明関係の正常化が前線であった。

 幕府は一六三三(寛永一〇)年二月二八日、第一次鎖国令を出し、奉書船以外の日本船の海外渡航を禁じ、鎖国への第一歩を躇み出した。だが第一次鎖国令では中国船の長崎来航は発現しなかった。それほ、後渇する一六三四(寛永二)年八月四日骨の徳川豪光債知判物にみるような、幕藩体制の中の「異国」琉球という位置づけが、まだ確立していなかったからである。一六三五(寛永一二)年五月二八日、第三次鎖国令を出し、日本船の海外渡航を全面的に禁止すると同時に、中国船の長崎来航が確立した。

 いずれ幕府は、明が清へ変わり、清が脅威になると、琉球との関係を隠蔽するようになるのだが、明の時代は、島津が琉球に侵略して以降の日本と琉球との関係は公然のものだった。だからなおさら、鎖国だけでは中国船は長崎へ訪れず、琉球を異国とする位置づけが必要だったのである。

 一六三三(寛永一〇)年六月、尚豊を「琉球国中山王」に冊封する明の冊封使杜三栄が琉球に到着した。同年一一月、冊封使が帰国する時、尚豊は謝恩使を北京に派遣して冊封を感謝すると同時に進貢の二年一貢を嘆願し、それを許された。こうして琉明関係が正常化した。それは島津氏の琉球支配に次のような新局面をもたらした。すなわち琉明関係が正常化した翌年閏七月九日、京都の二条城で、尚豊の使者佐敷王子朝益が三代将軍徳川家光に謁見した。これより以前、尚豊は同年二月九日付の書状を島津光久に送り、去年明の冊封を受けられたのは島津氏の御蔭であると謝意を表し、佐敷朝益を薩摩に派遣した。当時、家光の上洛に従って京都にいた島津家久は、その使者を上洛させ、将軍に謁見させたのである(謝恩使の成立)。また、それと並行して五月初め、島津氏は琉球の石高を自らの知行高に加増してくれるよう幕府と交渉した。その結果、家光は閏七月一六日、左記の領知判物を島津家久に与えた。
(中略)

 すなわち、琉球は幕藩体制の知行・軍役体系の中に範み込まれた。この領地判物の特徴は、琉球の石高が「此外」の形で記載されている点である。「此外」は、①琉球の石高が幕府の軍役賦課の対象外すなわち無役である、②琉球が幕藩体制の中の「異国」である、という二つのことを表していた。この形式は、以後、幕藩体制の全期間を通じて変わらない。(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書

 琉球と明の冊封関係が正常化するとみるや、島津は、琉球を島津の知行高に組み入れるよう幕府に求め、幕府はこれを許可する。しかし、この許可は独特のものだった。

1) 島津に含む琉球の石高は、幕府にとっての軍役賦課の対象外であること。つまり、島津の生産高に含まれるが、幕府がそれに賦課することはしないということ。

2) 1)と表裏の関係にあるが、琉球を異国と位置づけるということ。

 これが奄美にとっても重要な意味を持っているのにぼくたちは気づく。島津の知行高のなかに奄美も組み込まれるが、それは琉球同様、幕府からの軍役賦課の圏外のものだ。つまり、島津の直轄領として島津のみのために存在させることが可能になったのだ。


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