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2008/09/04

「異国から『異国』へ」1

 紙屋敦之の『幕藩制国家の琉球支配』の最終章は「対明政策と琉球支配」。サブタイトルで「異国から『異国』へ」とフォーカスしている。

1471年
・朝鮮人が記した『海東諸国記』。吐噶喇列島の臥蛇島。日本琉球に分かれて属す。
1450年
・『李朝実録』。臥蛇島に漂着した四人の朝鮮人。二人が薩摩に、二人が琉球に引き取られる。

このように臥蛇島(七島)は、中世日本と琉球の国境であった。古琉球は中世日本からみて異国だった。
 一六〇二(慶長七)年冬、陸奥の伊達政宗領内に琉球船が漂着した。翌年春、島津氏は家康の命により琉球人を本国に送還し、中山王尚寧に対し家康へ謝礼の使者を送るよう求めた。家康の琉球に対する来聘要求は、琉球に明との講和交渉を行わさせるために、まず琉球を日本に服属させることを意図していた。しかし尚寧ほそれに応じなかった。その理由の一つは、尚寧が明の冊封を控えていた(一六〇六年に冊封使夏子陽来琉)からである。もう一つは、島津義久が尚寧に対し一六〇四(慶長九)年二月付の書状で、家康が琉球人の送還を島津氏に命じたのは、(中略)琉球に対し「附庸」説を唱えていたから、謝礼使の派遣は「附庸」説の同意につながる恐れがあったからである。そのため、来聘問題は日琉(薩琉)間の外交問題化していった。(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書)

 「附庸」は属国という意味だから、島津は琉球属国説を唱えていたということだ。属国説を唱える根拠になったのは、大名、亀井茲矩(これのりが鳥取城攻略の恩賞を豊臣秀吉に聞かれた際、琉球守を望み任命を受けたことに対して、島津が朝鮮出兵の際に、琉球に助力を求めたことを根拠に与力(隷属する武力)化したことをもって亀井の「琉球征伐」を阻止したことを指している。

 一六〇六(慶長一一)年三月、鹿児島で、琉球の大島を侵略するための談合が開かれた。前述した「附庸」説は、大島侵略に向けた布石であったと考えられる。島津忠恒(家久)が島津忠長・樺山久高に宛てた同年六月六日付の書状によると、島津氏は江戸城修築のため石漕船(石材運搬船)三〇〇隻を負担する御手伝普請と、忠恒が徳川家康の諱を賜る儀式を控えて多大の出費を強いられていたので、財政上の理由から大島への版図拡大を狙っていた。さらに談合の目的は、来聘問題の行き詰まりを打開するため琉球に対し軍事的圧力をかける意図があったのではないか。しかし談合は島津義久をはじめ談合衆が非協力的であり、進捗しなかった。そこで島津忠恒は家康の諱を賜り家久と改名した六月一七日、家康に琉球侵略の許可を求めて許された。以後、史料には「琉球入」と表れる。

 諱(いみな)を賜るは、忠恒が家康の「家」の字を与えられ「家久」と名乗ることになったのを指している。この儀礼と「石漕船(石材運搬船)三〇〇隻」の負担による経済的疲弊を根拠に、家久は「家康に琉球侵略の許可を求めて許された」。

 薩摩の思想が、時として奄美の苦労は特別じゃなく薩摩も同じだというとき、農民として同じだという以外に、藩権力としての薩摩も免罪する言い方をするのは、奄美は島津に収奪されたと言うが、島津も幕府から不条理な負担を強いられていたのだというのを根拠にしている気がする。確かに、幕府-島津-奄美の連鎖のなかで理解できる側面はあり、幕藩体制のなかで理解できることはある。しかし、そのことは島津が何をしたのかを明らかにすることを妨げる理由にはならない。みんな同じにしてしまっては、何も終わらないし何も始まらない。



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