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2008/09/12

「琉球王国」の過大評価

 80年代から90年代にかけて沖縄が脚光を浴びたとき、NHK大河ドラマの『琉球の風』に見られるように、琉球王国を沖縄の根拠にしているのにがっかりしたのを覚えている。それは高良倉吉の『琉球王国』が典型的だった。

 薩摩軍の侵攻、征服によって琉球王国の独立性は失われることとなった。奄美地域(奄美大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島など)が王国から割譲されて薩摩の直轄領となったほか、仕上世とよばれる租税を毎年薩摩に支払う義務も負わされた。国王をはじめ三司官などの王国上層部人事についても薩摩は一定の発言権を保持し、さらにまた、那覇に琉球在番奉行を常駐させ琉球の監視にあたらせるなど、薩摩は琉球王国の運営について直接的な管理権を行使できる体制を構築したのであった。
 しかし、薩摩は排他独占的に琉球の運命を左右できたわけではない。強力な将軍権力が背後にひかえており、その琉球支配についても幕府の基本的な規制下におかれていた。将軍権力を項点とする日本の近世国家を歴史家は幕藩制国家とよぶが、このネーミングに従うならば、琉球王国は全体としては幕藩制国家の体制的規定下におかれるようになり、その直接的な管理責任者として薩摩が介在していた、と理解することができよう。

 薩摩が思いのままに行動できなかったもう一つの要因は、琉球王国そのものの存在であった。薩摩・将軍権力に従属することになったとはいえ、王国体制は依然として存続しており、琉球内部の実際の行政をとりしきったのも首里王府だったからである。つまり、首里王府との提携なしには、薩摩の意向は王国内に貫徹できないしくみになっていたのである。それに、伝統的な中国との相対・進貢関係も存続したために、琉球国王はそれ以後も中国皇帝の冊封をうける存在のままであり、その分だけ琉球側に「主体性」を発揮できる余地が残されることとなった。
 もし薩摩が王国を完全に潰してしまい、自己の直轄領に編入して藩内行政と同レベルで琉球の地を扱うようになっていたとしたら、それ以後の琉球の歴史はまったく異なったものとなっていたにちがいない。薩摩が琉球の地を完全に自己の内部にとりこめなかった事情の一つに、それ以前にすでに独自の国家として存続しつづけてきた琉球の重みがあったのである。『琉球王国(高良倉吉、1993年)

 「薩摩が思いのままに行動できなかったもう一つの要因は、琉球王国そのものの存在であった」というのは、琉球王国の過大評価だと思える。「薩摩が思いのままに行動できなかったもう一つの要因」に続けるべきなのは、琉球王国の存在そのものではなく、琉球が明との冊封関係にあったということの方である。それが、琉球に主体性の余地を残したのだ。

 「過大評価」だと思える理由はもうひとつある。ここには、はじめに奄美のことに触れながら、奄美の命運について等閑視されているからだ。薩摩の直轄領としてそれ以後の歴史を全く変えざるを得なかった琉球としての奄美に気づいていない、そして、直轄領にされるということは、「藩内行政と同レベルで琉球の地を扱う」どころではないそれ以上の悪政を強いられたとに気づいていない。「琉球王国」の存在自体を課題評価するから、もうひとつの琉球の命運が見えてこないのではないだろうか。



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