« 皆既日食は、トカラとの交流機会 | トップページ | 白い海-たった6平方キロの珊瑚 »

2008/09/09

「異国から『異国』へ」6

 一六六九(寛文九)年七月、松前藩(幕藩制国家)とアイヌとの民族戦争、シャクシャインの戦いが起こった。幕府の儒官林春勝によると、この時幕府は、(中略)アイヌが韃人すなわち清の救援を頼んで松前を攻めるのではないか、と恐れていた。一六七三(延宝一)年一二月、清の中国支配に反対し三藩の乱が起こった。三藩とは、雲両省の平西王呉三種、広東省の平甫王尚之信、福建省の靖南王秋晴忠を指す。翌年九月、(中略)(そのこと-引用者)が、琉球から薩摩を経て幕府に届いた。一六七六(延宝四)年六月二七日福州の耿精息の使者陳応昌が来琉し、硫黄の供与を求めた。尚貞は薩摩に注進し、島津藩は幕府に琉球の対応如何を伺った。それに対し幕府は九月三日、琉球が硫黄を福州に送ることを許可した。幕府は三藩側を支援し、清の滅亡、明の復興を期待したのである。(後略)

 南で琉球が島津に侵略される頃、北では松前藩がアイヌを支配していた。幕府は、南の琉球-清、北のアイヌ-清の連結を警戒していた。それが明支援の態度となって表れる。

 三藩の乱は一六八一(延宝九・天和一)年二月に終息した。結局、琉球は福州に硫黄を送らなかった。三藩の乱に加担しなかったことにより、以後、琉滑関係は親密きを増していった。そのことは逆に、幕府が薩琉関係に対し警戒することになった。それは、将軍の代替わりに島津氏が差し出した起請文の文言の変化となって表れている。例えば、島津光久が徳川綱吉の将軍薬職に際して差し出した一六八二延宝九)年五月二五日付の起請文に、公儀=幕府の仕置の遵守を誓った条文の「附」として、(中略)琉球の邪儀に加担しないことを誓約している。次回、徳川家宝の将軍襲職の時にも、島津書貴が一七〇九(宝永六)年二月五日付の起請文で同様のことを誓っている。この二例は前後に類をみない。島津氏は琉球が幕藩制国家の「火薬庫」となる危険性を暗に示唆したのである。

 「琉球の邪儀に加担しない」というのは、琉球が清と結託するだけでなく、薩摩もそれに加わることを指していると思える。((幕府、島津、琉球)-(清))という関係が、((幕府、島津)-(琉球、清))となることともうひとつ、可能性として((幕府)-、島津、琉球、清))もありうると想定したのである。素朴に思うに、封建国家は、相互に信頼が無いとみえる。

 一方、「不治を以治」統治方針がとられるようになった琉球には、一六六二(寛文二)年四月に桂王永暦帝が滅び、明が完全に滅亡したのを契機に翌年六月、清の冊封使張学礼が来琉し、尚質を「琉球国中山王」に冊封した。次に、一六八三(天和三)年六月に注棺が釆琉し、尚貞を「琉球国中山王」 に冊封した。その時、島津氏が琉球に派遣した冠船奉行の御付衆・御道具衆、琉球在番奉行の御付衆各二人、足軽二二人、船頭六人が宝島人と偽って冊封任と対面し、進物の贈答を行った。宝島人とは七島人のことである。では、冊封使と日本人の対面がどうして可能だったか。
 それには七島郡司の次の上申書が参考になる。(中略)これによると、冊封使が琉球に渡来した時、琉球の属島七島(吐噶喇列島)から島の頭目が那覇へ赴き、「唐按司」(冊封僅か)と進物を贈答していた。島津氏はこの慣例を利用して、薩摩の役人・船頭らを七島人と偽らせ冊封使と対面させたのである。しかし七島人と冊封使の対面は、次回一七一九(享保四)年の尚敬冊封の時、島津氏の要求で中止された。七島は琉球の属島でないというのがその理由だった。七島は、琉球の属島から日本の属島へと位置づけを変えられた。日琉関係の隠蔽はこうして一七一九(享保四)年に確立した。

 1683年は奄美にとっても重要な年だ。奄美は、薩摩から、<大和ではない、琉球でもない。だが、大和にもなれ、琉球にもなれ>という規定を強制されたが、このうち、1623年の「大島置目条々」で<琉球ではない>とされながらも、<琉球にもなれ>という場面は否応なくあった。それが冊封使との対面の場面である。

 ぼくたちはここで少しこの場面に立ち止まってみよう。清になって奄美の各島の役人が琉球役人とともに冊封使と対面する場合、琉球の役人は奄美の役人が琉球の者であるとして振る舞い、奄美の役人も琉球の役人と同じ国の者として振る舞わなければならなかった。だが、仮に七島人として薩摩の者がそこに同席していた場合、奄美、琉球の役人はそれと知りつつ、薩摩の者を宝島人として紹介しなければならなかったのである。奄美、琉球の役人は、ここで清の冊封使だけでなく、薩摩に対しても緊張して振る舞わざるを得なかったはずである。

 琉球は清に対し日本(薩摩)との関係を隠蔽するために、一七二五(享保一〇)年に蔡温が編纂した『中山世譜』の尚寧の事績を記した末尾に(中略)、日本の属島吐噶喇(宝島・七島とも呼ばれる)と交易し、国用の不足を補っている、と説明した。また、冠船が釆琉すると、那覇滞在中の薩摩の役人たちは城間村(滞藤市)に引き籠った。琉球は中国人の質問に対し、城開村にいるのは七島人であると答えた。七島は、清に対し日琉関係を隠蔽するためのキーワードとして位置づけられていった。そのため島津氏は七島の各島に新たに郡司を置いて支配した。その初見は、一七一八(享保三)年八月二五日の諏訪之瀕島郡司肥後五郎兵衛である。また前掲同年間一〇月付の文書に「七島郡司」 の名称がみえる。七島郡司は、「異国」琉球の琉球国司に対応する日本の「属島」七島を支配するための制度であった。(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書

 琉球の神話にも相当する『中山世譜』を使ってまで吐噶喇列島、宝島との関係を偽装したのは、中国が『中山世譜』を見る可能性に配慮したものだ。18世紀に書かれたものであっても、神話が国家の作為を内包することは貫徹されている。

 もともと異国だった琉球は、明の時代、日本と関係した「異国」となり、清の時代、日本と関係のない「異国」とみなしみなされていくのである。

 ぼくたちはここで、奄美は、最初、琉球との関係を断つために<琉球ではない>という規定を受け、ついで、琉球が「異国」の相貌と強めるにつれて、<大和でもない>という規定も強化されたことを知る。



|

« 皆既日食は、トカラとの交流機会 | トップページ | 白い海-たった6平方キロの珊瑚 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/87956/42254978

この記事へのトラックバック一覧です: 「異国から『異国』へ」6:

« 皆既日食は、トカラとの交流機会 | トップページ | 白い海-たった6平方キロの珊瑚 »