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2008/09/14

二重の疎外、「隠蔽」の核心

 薩摩が奄美を直轄地にしたことは幕府には「内証」だったことは、恥ずかしながらぼくには驚愕だった。そのあとに、深いふかい納得が時間の経過とともに襲ってくる、そんな驚愕だった。

 だが、『名瀬市誌』をみると、

 琉球慶長十五六年竿を経て、道之島すなわち大島・徳之島・喜界島・沖永良部島・与論島の五島は、薩摩藩直轄の蔵人地となって本琉球から除かれる。しかし、これには裏、むしろ表があって、公式にはあくまで道之島も琉球国の内であった。薩摩の家老伊勢貞昌と幕府の老中酒井忠勝との折衝の末、琉球国王領高と道之島高を合わせた十二万三千七百石が琉球国高として幕府に披露され、寛永十一年(一六三四)将軍家光から島津の当主家久に下された所領安堵の判物高では、薩摩大隅両国ならびに日向国諸県郡都合六十万石余の外に、琉球国拾二万三千七百石を許されている。奄美群島は琉球国の内に入れられているのである。その後、島津氏が代々幕府からうける判物は、皆これをうけつぎ、等しく道之島をこめて琉球国十二万三千七百石余である。つまり、道之島が琉球から切りはなされて本藩附属の直轄地になったことは幕府には届けられず、内証のままで終始することとなったのである。このことは、藩政期中の奄美のあり方を、基本的に性格づける条件となった。(『名瀬市誌』)

 「薩摩藩直轄の蔵人地」であるにもかかわらず、「幕府には届けられず、内証のままで終始することとなった」と周知の事実としてあり、これが、「藩政期中の奄美のあり方を、基本的に性格づける条件となった」と整理している。

 また、前田長英の『黒糖悲歌の奄美』でも、

 後記するように、薩摩藩は元和九年二六二三)八月二十五日、島津久元ほか四名連署の「大嶋置目之条々」を発布しましたが、その内容は、田畑名寄帳の作成をはじめとして、年貢徴収関係条令、島制機構の改善整備、農民対策、楷船の建造禁止、薩摩藩への租税納入などの島政基本方針を示していますが、このように道之島を完全にその統治下に掌握しながらも、軍水元年二六二四)の幕府への報告には奄美諸島を「琉球道之島」として琉球国の一部としています。そして軍水十一年(一六三四)将軍家光から、島津の当主家久に下された所領安堵の判物高では、薩摩・大隅両国及び日向諸県郡合計六十余万石のほかに、琉球国十二万三千七百石を許されていますが、この十二万三千七百石のなかには奄美五島の四万石余が含まれており、つまり奄美五島は琉球国のなかに入れられているのです。
 その後、島津氏が代々幕府からうける判物は、すべてこれを受けついでいますから近世(江戸時代)を通じて、道之島が琉球から切り離されて薩摩藩の直特領になったことは幕府には届けられず、琉球国の一部と理解されていたのです。
 このことが、薩摩藩治下における奄美のあり方を、基本的に性格づける条件となりました。(『黒糖悲歌の奄美』前田長英、1984年)

 「薩摩藩治下における奄美のあり方を、基本的に性格づける条件となりました」と、ほぼ異口同音に述べらている。

 どうやら恥ずかしながら知らぬは自分ばかりなりだったらしい。だが、無知の谷から登りながら思うのは、「薩摩藩治下における奄美のあり方を、基本的に性格づける条件」という整理はあまりにおすましではないかということだ。

 薩摩は二重の疎外とその隠蔽というコトの収奪と黒糖としてのモノの収奪を行ったとすれば、二重の疎外の「隠蔽」の核心に幕府への隠蔽があると思える。なぜなら、清に対する日琉関係の隠蔽は、奄美だけでなく、というか、奄美の前に幕府、薩摩、琉球の合意のもとに行われていた隠蔽であり、公然の隠蔽であったわけだが、奄美を直轄支配するという隠蔽は、本琉球の同情や無視と素知らぬ顔の薩摩以外は、知られることのない文字通りの隠蔽だったからだ。ぼくはここに、奄美の失語の根深さも、薩摩の陰湿さも、沖縄からの視野に奄美が欠如しがちな理由も見るように思う。ことは、薩摩藩支配下だけではなく、現在まで続いている。それがこの、隠蔽のなかの隠蔽の意味だ。

 紙屋敦之は書いている。

 一六〇九年の薩摩侵入後、徳川家康は琉球の仕置を島津家久に任せた。そこで薩摩藩は琉球に検地を行い、二年後の一六一一年九月、沖縄島と周辺諸島八万九〇八六石余を中山王領とし(奄美諸島は薩摩藩の直轄地とした)、琉球に古くから薩摩の附庸国だったことを認めさせた。(「日本国王と琉球国司」『新しい琉球史像-安良城盛昭先生追悼論集-』、紙屋敦之、1996年)

 家康が家久に琉球の仕置を「任せた」という言い方には、奄美を直轄地にするもしないも自由というニュアンスを含むように思う。実際にそういう余地を島津は感じたかもしれない。けれど、そうであるのに「内証」にして済ませたということには、やはり任せられたのとは別の思いのままにしたいという欲望があったのだと思える。

 ぼくたちはここで、奄美直轄の隠蔽と薩摩のいわゆる二重鎖国が見事に対応しているのに思い当たる。


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