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2008/09/03

薩摩はなぜ琉球を侵略したのか

 なぜ、薩摩は琉球を侵略したのか。紙屋敦之の「島津氏の琉球出兵と権力編成」(『沖縄史料編集所紀要』通号5、1980年)に学んでみる。

 来聘問題で琉球に譲歩を迫まる目的で島津氏は大島出兵を企画し、慶長一一年三月そのための談合を開いた。幕府が前年七月二八日に当該問題で松浦氏に琉球との接触を命じたことが松浦鎮信からの八月一五日付書状で明らかになり、対琉球関係の独占的地位が崩れることを心配したことが、武力出兵という強硬手段を島津氏に選択させる契機をなした。

 ここに言う「来聘問題」は、幕府と琉球の間に起こったものだ。1602年、陸奥国に漂着した琉球人を徳川家康が琉球へ送還した後、お礼の使者を求めたが、それに琉球が応じていないことを指している。 来聘(らいへい)は、「外国から使節が来朝して貢ぎ物を献ずること」(辞書)とあるが、幕府はそれを機に琉球を服属させ日明貿易を復活させることを狙っていたし、琉球はその意図を察知すればこそ応じていなかった。

 慶長11年は1606年。あの1609年の三年前には「大島出兵」がすでに計画されている。松浦鎮信は、肥前などを版図に持った平戸藩の初代藩主とあるが、幕府は琉球関係の窓口として薩摩藩だけを考えているわけではないことに衝撃を受け、琉球への独占的地位を保てなくなると懸念し、それが侵略の契機をなした。

◇◆◇

しかし大島出兵の談合は、島津義久をはじめ談合衆の大方がそれをボイコットしたために不調に終った。また当時島津氏は琉球問題とは別に、一八代当主を襲った家久の下に権力を再編・強化する課題に直面していた。島津義弘が在京中の家久に大島出兵の談合の模様を伝えた慶長一一年四月一日の段階では、大島出兵は家臣団の石鋼船建造の出物未進と並列的に扱われていたがしかし、幕府から提出命令のあった郷帳を作成した結果、一一万八〇〇〇石の隠知行があらわになったことを伝えた五月二日の段階になると、大島出兵と隠知行の糾明=知行問題の解決とがはじめて不可分の問題として意識されるに至った。

 島津は、幕府から命じられた「石鋼船」300隻の建造が済んでいなかった。「石鋼船」は具体的にはどんな船のことか分からないが、江戸城築城のための船とあるから、運搬船のようなものだと思う。内政と大島出兵は別の問題だったが、改めて調べてみると「隠知行」があるのが分かり、「大島出兵と隠知行の糾明=知行問題の解決とがはじめて不可分の問題として意識されるに至った」。「隠知行」とは何のことか、これもよく分からないのだが、家臣団が島津に対して隠していた領地があるということだろうか。「大島出兵と隠知行の糾明」が不可分になるのは、出兵に際して軍役を賦課する際に知行は基準になるから、外政と内政が同一化されたという意味だと思える。

大島出兵の談合が不首尾であった島津氏は六月一七日、家久が、徳川家康に大島出兵の許可を請い許された。そのことによって、大島出兵は島津氏の私的政策から幕府の支持の下国家的政策に止揚された。つまり島津氏は、幕府の対明政策の一環としての琉球政策(当面、来聘問題の解決)の中に琉球出兵を位置づけることにより、幕府権力を背景に権力内部の出兵反対派を抑圧し、琉球出兵を権力編成の推進力として軌道に乗せることができたのである。琉球出兵は、それを契機に隠知行を糾明すると同時に琉球に版図を拡大することを目的としていた。

 なぜ、幕府は「大島出兵」を許可したのか。島津家久は石鋼船建造と家康から「家」の字を与えられたことへの出費により経済的に疲弊しないために、大島出兵が必要であると説いている。幕府はそれを聞きいれた形になっているが、幕府にしてみれば、明との貿易再開が最大の目的であったと思われる。

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 次に、琉球支配の展開と相まって行なわれた慶長内検は、一万三〇〇〇人にのぼる膨大な家臣団を扶持するために給地の確保=知行制度の確立を急務としていた(粗高制成立の意義はここにある。)ので、蔵人地の強化が不十分であったという問題点を残した。そこで、元和三年九月五日の徳川秀忠領知判物において、琉球の石高が島津氏の表高に算入されず事実上無役扱いされ右と、島津氏は二月琉球の特産物上納を石高を基準とした出物方式に切り換え、以後琉球の貢納を軍役として収奪した。また寛永一年八月(琉球の分轄支配を確定した)、道之島を島津氏の蔵人地として直轄支配することに決定した。要するに琉球の石高は、島津氏の頁租を主体とした財政基盤の弱体を補強する役割を与えられることになったのである。

 同じようにいえば、要するに、島津は自らの経済的窮乏を救うため奄美を直接支配したのだ。自らの経済的窮乏も、厳密にいえば、「膨大な家臣団」の維持のためである。

 紙屋に教えられながら薩摩の侵略動機を言うなら、窮乏を梃に国家への欲望を満たそうとしたものだと思える。窮乏は、貧弱なシラス台地によるものだが、それを絶対的にしたのは過剰な武士団の存在である。国家への欲望も薩摩の特徴だ。それは、幕府との距離と位置に依る。幕府から空間的距離が離れているということと、外様として時間的距離もあるということ。そして、端という位置。この二つを契機に、薩摩はもうひとつの幕府ともいうべき国家への欲望を膨らませていた。この欲望の根拠になったのも、過剰な武士団の存在である。過剰な武士団を経済的に維持するため、過剰な武士団が醸成する国家幻想を満たすため、琉球を侵略し、奄美を直接支配したのだ。

 琉球王府に対し、出物を石高を基準に賦課する体制を成立させたことは、島津氏が出物賦課率の操作次第で常に琉球に対する収奪強化を行ないうるということを意味した。また特権商人の納屋衆に運上金と引き換えに薩琉間の交通を独占させることを通じて、島津氏は琉球王府の再生産を規定する商品流通を掌中に支配した。琉球支配の構造的特質はすぐれてこの二点であった。

 事実、「出物を石高を基準に賦課する体制」は、黒糖収奪の際、搾取の機会を提供したと言える。


※「島津氏の琉球出兵と権力編成」
 (紙屋敦之、『沖縄史料編集所紀要』通号5、1980年)


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