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2008/09/11

二重の疎外の成立過程

 ぼくは自分のアイデンティティのあり様から、<大和ではない、琉球でもない>という二重の疎外の構造を抽出した。だがそのとき、それが薩摩が奄美に対して行ったことに由来することは分かっても、<大和ではない>と<琉球ではない>という規定は同時にやってきたのか、それとも<大和ではない、琉球でもない>という順序できたのか、<琉球ではない、大和でもない>という順徐でやってきたのかは分からなかった。

 ここでぼくたちは、紙屋敦之の琉球論をたどることで、それが<琉球ではない、大和でもない>という順序で成立したことが分かったのだ。それによれば、<琉球ではない、大和でもない>の成立を象徴しているのは、1623年の「大島置目之条々」と1728年の「大島御規模帳」である。

 まず、「大島置目の条々」では、琉球の位階を象徴する鉢巻を授かることを禁止するなど、琉球との政治的なつながりが否定される。奄美はこのとき<琉球ではない>と規定されたのだ。ただ、この1623年の規定は、1609年の侵略の後に突然やってきたのではない。1611年に、薩摩は琉球に対して貢納規定を行うが、そこには琉球の範囲は「沖那波 けらま 与部屋 いぜな 伊恵嶋 となき嶋 栗嶋 久米 やえま 宮古島」とあり、国家としての琉球は、そのとき版図に奄美が含まれていないことを知る。ここで、奄美は言外に琉球の範囲ではないことを言明されるのだが、それは実に奄美的な触れられ方だと言わなければならない。あるいは、存在しないかのようなあり方を奄美的と呼べば、それはこのとき始っていたのだ。

 しかし、さらに言うなら、「大島置目の条々」の<琉球ではない>という規定は、1609年の貢納規定のあとにまっすぐにやってきたわけではなかった。驚くべきことに、最初薩摩は、1613年の「御掟之条々」で、琉球に対し<大和になれ>として、大和化を規定していたのだ。それが<大和ではない>という規定に変わるのは、幕府の対明貿易交渉が失敗に終わり、琉球が日本に対して異国であることが貿易維持のために必要になったからだ。そこで、琉球は、「御掟之条々」年後の1617年には、日本人の髭、髪形、衣装を禁止される。

 この延長に、奄美の<琉球ではない>という1623年の規定はやってくる。琉球と奄美の規定がセットであるのは、奄美が<琉球ではない>という規定を受けた翌年には、奄美は薩摩の蔵入地、直轄地となり、それと同時に琉球も「定」として、改めて<大和ではない>という規定を受けていることに示されている。

 その後、琉球に強いた1617年の<大和ではない>という規定は、黒潮に比べると遥かに遅く、17世紀末から18世紀初めに、喜界島の代官記として「大和と紛らわしい名前や髪形」の禁止の既定がたどりつく。それは、「道之島も琉球の内」、奄美も琉球であるという対外的な規定に添わせるためのものだが、紙屋によれば、このころ宝島が琉球ではない地として規定を受けたのを受けて、琉球との差異を際立たせるためではないかと考えられている。その後、<大和ではない>という規定は、1728年の「大島御規模帳」で整理される。ここに、奄美の二重の疎外は、<琉球ではない、大和でもない>という順序で一世紀をかけて成立していったのだ。

◇◆◇

 一方、奄美は<琉球ではない、大和でもない>という二重の疎外を受けただけではなかった。奄美は<琉球ではない、大和でもない>という矛盾を消去するため、同時に<琉球にもなれ、大和にもなれ>という規定も受けていた。それは、もともと<琉球ではない、大和でもない>という規定が持っている矛盾を消去するように、その既定に覆いかぶさるように降ってきたのだ。

 奄美は<琉球ではない>という規定を受ける一方、<琉球にもなれ>という場面を当初から持っていた。それは冊封使が琉球へ訪れるときだった。このとき、奄美の各島の役人は、貢物を持って琉球の役人と同じように冊封使と対面することになっていた。この、明、清との関係が顕在化するとき、奄美は琉球として振る舞ったのである。1683年に冊封使が訪れたときは、きわどい場面も経験している。そこで、吐噶喇列島の人々は実際には来れず、薩摩の藩士が宝島人を偽装して訪れていたからだ。奄美は、このとき、偽装した薩摩の武士を宝島人と言わなければならなかったのである。

 もっときわどい場面にも遭遇しなければならなかった。それは漂着のときだ。大島の船が中国へ漂着した際、倭人と疑われるが、諸書を焼き貨幣を沈めて武具を隠し、琉球の者と押し通したのである。ここで奄美は、<琉球にもなれ>という規定のもと、琉球人として振る舞ったのである。

 <大和にもなれ>という規定は、同様に漂着のときだった。1773年、中国に漂着した薩摩船に、沖永良部の島人が二人、乗り込んでいた。このとき島人たちは月代をさせられ、「登世村」「嶋森」という名を伏せて「村右衛門」「嶋右衛門」と大和風に名乗らされる。まるでコントだが、命がけの舞台であったことは確かだ。

 このように、<琉球にもなれ、大和にもなれ>は、<琉球ではない、大和でもない>を打ち消すように、冊封や漂着の場面で規定化されたのである。


 以上、薩摩の侵略からの一世紀は、奄美にとって<琉球ではない、大和でもない。だが、琉球にもなれ、大和にもなれ>という二重の疎外とその隠蔽が構造化される時間だった。


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コメント

喜山さんコメントありがとうございました。今年は台風が少なく雨も例年より少ないようです。喜山さんのブログは勉強になります。ぜひ、お時間がありましたら、11月の西表島の集いにご参加下さりたく存じます。

投稿: 松島泰勝 | 2008/09/12 07:26

松島さん

西表島でお会いできたら最高ですね。
今回、難しいと思いますが、いつか参加させていただきたいです。

投稿: 喜山 | 2008/09/13 08:40

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