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2008/09/21

更新されるべき「島津氏の琉球入りと奄美」

 1996年に発行された改訂『名瀬市誌』の「島津氏の琉球入りと奄美」はまるで戦前に書かれたもののようだった。勢い、それがどのような改訂を経て現在の姿になったのか知りたくなり、改訂前の1968年発行の『名瀬市誌』を見てみた。

 驚いたことにというか、ひょとしたらの予想通り、「島津氏の琉球入りと奄美」は、改訂前の『名瀬市誌』と同じだった。「島津氏の琉球入りと奄美」は改訂されていないのだ。驚きは二重になる。1968年に戦前の精神類型を思わせる郷土史が書かれていること、そしてそれ以上に、それは28年を経過しても顧みられることなく、そのままの形で改訂版に掲載されたのだ。

 いったいどうしてこういうことになるのだろう。

◇◆◇

 ぼくにしてみればこれも驚くべきことなのだが、1968年発行の『名瀬市誌』の「まえがき」は、原口虎雄が書いている。ぼくはかつて、

要するに戦国末期から近世初期にかけておこなわれた覇者の国家的統一事業の一環にすぎない。強者が近隣の弱者を食ったまでのことで、日本国中に弱肉強食がおこなわれて、結局徳川将軍による幕藩体制下に琉球国も組みいれられることになったのである。これまで同じ日本民族でありながら、南日本の琉球列島だけが中国の版図になっていたのが、慶長十四年の征琉の役以後、日本の統l政権下にはいったといえる。隣の飢えたる虎にもたとえられる島津藩に併呑されたということは、琉球国にとっては耐えがたい苦痛であったが、もし征琉の役がなかったら、琉球は中国の領土として、その後の世界史の進展のなかでは、大いにちがった運命にさらされたであろうと思われる。(『鹿児島県の歴史』

 と書いた原口を感性の死者と評した。「強者が近隣の弱者を食ったまでのこと」というすさまじい開き直りにあきれ果てたからだった。この『鹿児島県の歴史』は1973年に発行されているから、『名瀬市誌』の5年後である。『名瀬市誌』に関わったあとに、「強者が近隣の弱者を食ったまでのこと」と書く者に、奄美の中核都市である名瀬の郷土誌のまえがきは(実は、あとがきも)委ねられているのである。

 地方誌をつくるのに最も重要なのは、委員の人選である。私の最も欲しいのは、「歴史を知っている」という文化人よりも、むしろ土地の実情に詳しい、同郷人からも慕われる謙虚な村人である。一生を真面目に生きつづけた平凡な常識人である。既に知られている書誌学的な知識は専門家の領域である。眠っている新しい伝承や新しい史料を捏供してくれるのは、半端な文化人ではない。歴史学を意識しない実直な村落の実際家である。

 幸い島には、昔のことを昨日のことのように伝承している稗田阿礼のような語り部が多い。この点、他地方に見られぬ好条件であった。委員にたのんだ人の中には脱落した人もいたが、後にはかえってこのような真実の語り部たちと接触できる機会ともなった。もっともっと直接にその土地の人々と話し、その生活にふれることが、今後一層の努力目標とされるべきであろう。

 ぼくは、「まえがき」を書くにいたる経緯を知っているわけではないが、この原口はまるで教師である。上から目線まるだしだ。もっとも謙虚であるべき立場の者が謙虚を要請している。なぜ、名瀬の郷土誌に必要な人材に、きみの欲しい人材を聞かなければならないのだろう、原口くん。

 史料の新しい発見と共にもう一つ大事なことは、かくされた行間の意味の解読と、委員一人一人の活きた平凡な常識である。私の渡島のたび毎に、毎夜史料の解読と、割り当てられたテーマの発表と共同討議が行なわれた。深夜の町に散ってゆく委員の方々の後姿を見る時、たった今迄一人一人にきびしく当った自分を、鬼ではないかと思った。しかしこの厳しい共同討議の中から、県史を始めとする従来の奄美関係のあやふやな通説が破られていった。本誌の各委員はいずれも劣悪な条件の中で、最善の努力を払ってくれた。その結果が本誌のみに見られる新しい奄菓史の再発見である。さらに嬉しいのは、一人一人が史料の解読整理に多少とも熟し、伝承の整理にも歴史的な照明を当てるようになったことである。この名瀬市誌という成果よりも、むしろ一人一人がこれを書くようになった史学的充実の方が貴重である。

 これによれば、1968年の『名瀬市誌』は共同討議を経てできたものだ。そうだとするなら、あの「島津氏の琉球入りと奄美」も共同討議を経たものであり、しかも、原口は「一人一人にきびしく当った」という関係のなかでできたものだということになる。原口は、編纂にあたり教師をもって任じたのだ。

 奄美の空も海も底ぬけに明るい。天がける太陽は、金色の矢を投げかける。樹々の葉脈からはポクボタと新鮮な樹液がしたたり落ちて、大地を緑にうるおす。男の膚はたくましくやけ、女の黒髪の一本一本には、金色の筋がとおっている。太古のままの清らさ(美しいという意味の島語)をもっているのが、奄美の自然である。

 「太古のままの清らさ」というのは見てきたような嘘である。ここにあるのは、現在に生きる奄美の人を太古の人物であるかのように見なす視線である。こうなるとぼくは、感性の死者であると評した自分の見解を追認するしかない。

 この眠ったような平和な島々にも人間の歴史があり、時には人間を窒息させるはげしい人間支配も行われた。西暦紀元前後の日本列島は、「漢書地理誌」に、「夫れ楽浪海中、倭人あり、分れて百余国となる。歳時を以て来りて献見すと云ふ。」と述べてあるように百余の国々に分れ、それぞれに部族的な政治集団が分立していた。阿麻弥姑の祖神々話の頃の奄美も、恐らくはその部族国家の一つであったろう。しかし大島の場合、海の中からいきなり山が突き出したような峻険な地勢の所では、それぞれに孤立した小さな部落社会が海辺寄りに点在していただけで、末だまとまった政治社会を想定するには程遠いようである。このような島内だけの生活が文永三年(一二六六)の琉球附属まで続けられてきたのは、島をとりまく海洋のおかげである。

 奄美をして「眠ったような」と評するのは原口の視点をよく教えるが、表舞台に登場することだけが「眠らない」ことなら、何も見えていないに等しいというしかない。「昔のことを昨日のことのように伝承している」「語り部」の世界が見えるはずもない。

 このようなひそやかに取り残された南海の楽園が、日本史上に大きくクローズ・アップされるのは、海外通航の要衝としての海洋的位置と黒糖を主軸とする南方特産の重要性の故であった。
 奄美の島々は、常に日本本土と海外諸国を結ぶ最も重要な接点として、日本史上のポイントをなしてきた。かつて大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島の、いわゆる小琉球列島は、本土から本琉球(沖縄)へ至る「道之島」(中途の島の意)と呼ばれてきた。

道之島であるからこそ、遠い遠い遣隋使・遣唐使の頃から、日本史上に顔を出している。ことに遣唐使の中期(六七二頃~七六九頃)には、九州西海岸伝いに下って本土の最南端坊之津に達し、ここを発航地として、種子島・屋久島・道之畠を飛び石として本琉球に達し、東支那海の最も狭くなっている所を順風に乗って一気に中国に至る所謂「南島路」が、専ら用いられた。大和朝廷のいわゆる「南島経営」として、南西諸島の巡撫が盛んに行なわれたのは、当然のことであった。遣唐船による官交が止み、私交の時代となっても、坊之津と道之島の海上路線は依然として重要な意味をもっていた。倭冠史上における坊之津が中国史書に有名なのは、これを実証するものである。中国と共に新しく渡釆した南蛮紅毛と本土との交渉においても、事情は同じであった。黒潮の流れと春秋二軍の季節風をたよる航海術の時代においては、日本史上道之畠のもつ意味は、常に大きかった。これが奄美史の第一の特徴である。

 「海外通航の要衝としての海洋的位置と黒糖を主軸とする南方特産の重要性」という言い方で、薩摩の琉球侵略自体への言及は避けられている。そして、大和朝廷の「南島経営」へと接続して、日本とのかかわりのなかでのみ奄美を位置づけ、その流れとして当然であるかのように、侵略に覆いがかけられていく。

 右に述べた奄美の第一の特徴は、天保度における薩摩藩財政回復の妙手としての密貿易に利用された。だがそれ以上に重要なことは、財政改革の大本として施行された南島特産、特に黒糖の総専売制度の施行であった。苛責なき藩吏の手によって、全島が島ぐるみ黒糖工場化され、島民は黒糖奴隷化された。しかしそのお蔭で、崩壊寸前の薩摩藩は一変して日本一の富裕藩になった。近代日本の扉を開いたのが薩摩藩であるならば、まさしくそのエネルギーは奄美の島々から汲み取られたといえよう。案外に明治維新の蔭の功労者は、奄美の島民なのである。本誌の第二の特徴は、南島物産史の日本史上における地位である。

 「案外に」などというのは寝とぼけた言い方ではないだろうか。「明治維新の蔭の功労者」というが、「陰」としてしか存在しえなくなったことの因果は何も触れられない。しかも功労者といいつつ、「南島物産史の日本史上における地位」としてその評価を回収している。特産物の質と量が功労だとでもいいうのだろうか。

 右にあげた諸点については、続編においても徹底的に追求してゆくつもりでいる。しかし多くの奄美史が、藩令の表向きの厳酷さと、それに対する怨嗟の声のみに満たされているのにはいささかの疑問をもつ。本土の農村のどこに行っても、百姓に奄美ほどの余裕が残されていたであろうかとさえ、ある時は思うことがある。小さな一握り程の部落々々に、なんと豪農の家屋敷や什器、はては墳墓の壮麗なものが多いことか、もっともその反対の極には、「大島私考」や「南島雑話」に出ているように黒糖生産の発展にともなう「村ぐるみ」の潰れ村が、多く発生しているのである。家人の使役による豪農生産、かれら豪農の島役人化と郷士格化が、文政前後を境にして新しい社会秩序(衆達層が由縁人でない者からも出る。)の形成が行なわれたことは、大島代官記の年表的整理一つだけでも充分に指摘されることである。島津藩の搾取もひどかったが、それと妥協してその手先化した島役人の富の蓄積の甚だしさは、本土の「門別制度」下の百姓の生活を研究している私にとっては、白昼の幻覚のようにさえ感じられる。

 薩摩の侵略には触れないのに、黒糖収奪には「島民は黒糖奴隷化」と理解を示すかと思いきや、「怨嗟の声のみに満たされているのにはいささかの疑問をもつ」と来る。「本土の農村のどこに行っても、百姓に奄美ほどの余裕が残されていたであろうかとさえ、ある時は思うことがある」というわけだ。そういうことか、と思うことがある。この原口の言い草は、薩摩の思想が、ときに「みんな同じ」、「奄美だけ特別じゃない」と言うときの後押しになっているのだろう。というか、原口も同じ考えだったわけだ。

 ぼくもそう思う。つまり、薩摩の農民より奄美の庶民が豊かな場面があっただろう。過剰な武士団を内在させる緊張した共同性に比べ、奄美にはおおらかさの余地も、亜熱帯の自然の包容力もあっただろう。だが、仮にも奄美の歴史を編む作業において教師面をもって任じるのであれば配慮すべきなのは、こうした原口の言い方が、奄美の歴史追究に抑圧として働くだろうことである。こう言いたくなるのは、この原口の思考に符号するように、「島津氏の琉球入りと奄美」は、薩摩の琉球侵略へのわかりのよさと琉球王国の政策への手厳しさという特徴が浮き彫りになっていたからだ。何というか、単純にいってフェアな視線がそこには欠けている。

 奄美が自らの歴史を考える上でしなければならないのは、「怨嗟の声」を比較論のなかで抑圧することではなく、「怨嗟」の由来を抉りだすことである。えぐりだし対象化することである。ほんとうの比較はそのあとで充分だし、実は比較はそのあとでしかできない。いっぱしの歴史家を名乗るのなら、原口も「島津藩の搾取もひどかったが、それと妥協してその手先化した島役人の富の蓄積の甚だしさ」などと床屋政談のような言い草は控えるべきである。このまえがきを原口は緊張して書いているだろうか。確かに、島役人は情けないていたらくだと思える。しかし、島民を分断して統治させるいびつな構造をそもそも生みだした政策への批判をそのまえにまずなぜ行わないのだろう。

 かつて佳計呂麻の伊予茂に一宿し、翌日隣村の於斉という小さな夷しい部落の茶店に立ち寄った。折からお盆の直後のこととて「竜皮餅」の御馳走に舌づつみをうち、それから又何日かたって、渡達の部落で「さん砂糖」の美味にあった。いずれも遠い昔からのものであるという話だった。その時わたしの胸の中に浮かんだ素朴な疑問は、従来の奄美史の表面に伝えられている「指でなめても罰せられる」という専売制度のきびしきに対する疑問であった。一握り程の本藩役人がどんなにきびしくても、峻瞼な地勢に阻まれた孤立的な部落の血縁共同体の壁を破れるか、ということだった。賢明にも苦労人の調所家老は、地役人を大幅にとりたて、いわば軍隊の内務班のように、島人による島人の支配体制をとらせた。かくて専売体制は完成するが、それでも島人同志は血縁共同体の強い紐帯に結ばれているからその取締りにも一定のひそかないたわりがあった。それが祭り日における竜皮餅に用いられる黒糖の僅かな私用備蓄であったろうと考えられる。

このような各人の僅かな備蓄が密貿易の対象ともなったのである。このような私のひそかな疑問は、代官お膝元の大熊村でさえ、余りにその年が豊作であれば、村人が結束して黍を刈りとり、翌年以後増徴にならぬように手段を講じたが、それが代官に洩れなかったという話を採収するきっかけになった。人間の生活には適当な裏と表があることによって、バランスが保たれ、労働力の再生産が可能となる。これは、終戦後の米の供出や配給生活において、実験した平凡な生活方法であった。誰もやったことだが、それでも度をこえた悪徳な闇行為を排斥するたくましく明るい人間の理性が、確かに存在していた。藩政の専売制度下の奄美とてもその例外ではなく、封建法とそれへの農民の適応は、ある程度の余裕をもって行なわれていたのである。

 ぼくたちは奇妙な理屈に立ち会っている。これだけの長い文章を使って、原口が言うのは、黒糖収奪には「ゆとり」があったということだ。ぼくも、ここは再びそうした事実は個々の場面としてあっただろうと思う。あの名越左源太にしても島人から砂糖菓子を頂戴いている。島人は黒糖の味を知り続けてきたに違いない。だが、ここでもまた原口はそのことを指摘しておきながら、奇妙な回収を図っている。まず、戦後の闇行為を例にとり、「度をこえた悪徳な闇行為を排斥するたくましく明るい人間の理性」を指摘する。そしてそれを、専売制度下も例外ではなかったと言うのである。戦後に闇行為があったように、専売制度下でも闇行為があったに違いない、と言うのではない。度をこえた闇行為を排斥する理性があったというのである。専売制度下においても、闇行為は度を越さなかった、と、そう言っているのだ。人間の生きる知恵に言及するのかと思いきや、度を越さなかったと、まるでここでも教師のような物言いをするのである。いったい何を意図しているのだろうか。ぼくは、率直な物のの見方の発現を恐れてねじ伏せようとしている高圧的な態度を感じる。

 それからもう一つ大事なことは、那覇や首里の中国文化からも縁遠く、また旧名瀬市の薩摩文化からも縁遠い、本来の日本人の生活の原型が、案外大島には多く残っているのではないかという疑問もいつか解明したいことの一つである。「蘭麿の世」や「那覇の世」以前の「阿麻弥姑の世」を復元することは、奄美史の一つの課題でもある。文献史料の上では、薩摩が支配するようになってから、それ以前の「那覇の世」の史料は埋減させられた。同じように「那覇の世」よりも前の「阿麻弥姑の世」の記憶も、新しい那覇勢力の台頭によって失なわれた部分が多いであろう。これは歴史上の支配者たちがとった常套手段である。

気のきいた者は常に新しい支配者の手先化し、同朋を支配する。その中には同朋の血縁共同体のよき障壁として、島人の福祉を図る人もいたが、中には同朋をいじめて悪徳の蓄財をなす者もいた。奄美史のもう一つの課題は、首里や薩摩の外部からの政治的・経済的圧迫と共に、それを一歩進めて、奄美村落社会構造の本釆の在り方と、それを内部からゆがめてきたものにも向けられてよいであろう。また離島独自の社会経済構造の特徴にも、直視の眼を向けるべきであろう。離島には離島共通の弱きと強さがある筈である。(一九六八・三)『名瀬市誌〈〔上巻〕〉 (1968年)』

 これがまえがきの末尾である。ここにあるのは、原口による、奄美の郷土誌の内向化のすすめである。沖縄、薩摩との関係への視点から「それを一歩進めて」、島役人と農民との分裂の構造へと目を向けている。ぼくはこれは作為的な操作のように見える。外との関係より内なる矛盾に目を向けよ、というわけだ。薩摩の侵略というもっとも重要な点は微塵も触れられることなく、黒糖収奪においては、本土農民よりマシという視点を持ち出し、闇行為は理性的なものだったと生活指導員のようなことを言い、ことあげされるべきことに肩すかしをくらわせて言うことが、内なる矛盾をみよ、というのだ。これでは、もしこれをまともに受けてしまったら、首をもたげる前に、前のめりになったままで自分を責めよというようなものだ。事実、その後の奄美はそんな態度だったと言ってもいい面を持っている。

◇◆◇

 なぜ、こんなまえがきになってしまったのだろう。というより、なぜ原口にまえがきを依頼したのだろう。
 あろうことか、あとがきも原口が書いている。ここでは、原口は、委員の原稿提出の遅さと校正の大変さの愚痴を言うのだが、その口調は、いくぶん叱責したげである。各委員の執筆には島時間のノリが入ってしまったのかもしれない。あるいは原口の書くとおり、激務だったのかもしれない。しかしどちらにしても、緊張感のないまえがきとあとがきである。なめているのだ。

 ああ、やられてしまったのだなあと思う。原口によれば、『名瀬市誌』の編纂を原口に委嘱したのは、ときの名瀬市長だ。「島津氏の琉球入りと奄美」には情けなさがつきまとうが、それは、市長が原口に編纂を頼んだ時点で決まっていたのかもしれなかった。

 やられてしまったんだなあ。つくづく、そう思う。奄美大島の屈折という意味がわかってくる。

 だが、やはり原口虎雄に奄美の『名瀬市誌』の編纂など頼むべきではないと思う。依頼しても、資料参照と読解の監修程度にとどめるべきだった。どんなに貧しくても、奄美の人の手によって、郷土誌は書かれるべきである。他者にゆだねるには、まだ奄美の島人にしか分からないものを多く抱えている段階だからである。そういう意味では、奄美はまだ内側からしか開かない扉が開かれていない。ぼくは、そんな印象をぬぐえない。やられてしまったのだとつくづく思うし、それは克服されなければならないと思う。



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