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2008/09/28

徳之島の場合

 黒糖収奪下で、徳之島は激しく揺さぶられる。

1712年、砂糖買い入れを命じられる。
1735年、黍横目任命(大島に遅れること40年)
1736年、徳之島から本琉球へ無断渡海の企て。(「琉球への脱島」

1755年、凶作のため餓死者3000人超。

 その後宝暦五年(一七五五)凶作のために三間切で餓死者三〇〇〇人を超えたといわれ、翌年も凶作が続いたので、徳之島の古来進・返上物を全て棄消して、その代わりに砂糖黍の増殖を命じている。そのため宝暦九年には砂糖が大量に生産され、宝暦十年には御勝手方喜入主馬は、役料米・扶持米などの分のみを除外して、その他の高所務はすべて砂糖代納とすることを命じた。
 ただし余計陸については脇売りを許し、また地味の悪い山野について開き替えする場合は、まず石高を付けず「山野地黍作の睦反並びに砂唐高」を届け出るように命じている (「島津家列朝制度」巻之一四)。このような努力の結果、徳之島では砂糖生産の増大によって、宝暦十一年(一七六一)与人や黍横目などが褒賞をうけている。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 この三千人もの餓死はなぜ起こったのだろう。1753年の徳之島人口は、22392人だから、仮に1755年初の人口を、22400人とすれば、3000人の餓死は、

 22400 → 19400(▲14%)

 これは徳之島の7.5人に1人が餓死したことになる。当時の世帯人口は分からないが、家族の誰か1人が餓死してしまう、そういう規模だったのではないだろうか。

 大島、喜界島に換糖上納制が敷かれたのは1745年だが、徳之島は1760年である。だから、この3000人の餓死は、換糖上納制以前に起こったことになる。第一次定式下でも、これだけの規模の餓死を招くほど、主食の生産力は落ちていたのだろうか。それともこの段階での徳之島の生産力はそもそも低かったのだろうか。いずれにしても驚くのは、これだけの事態が起きているのに、餓死の5年後の1760年には換糖上納制が敷かれることである。これでは、徳之島の生存力をさらに弱体化させることになったのではないか。

 そう想像するのだが、案の定というべきか、徳之島は、琉球や薩摩からの「借り入れ救米」の頻度が他島に比べ、高いのである。

 さらに明和三年(一七六六)徳之島の定式買入額が七三万斤に決定しており、それ以前は生産した額の限りにおいて上納していたものを、七三万斤という目標を掲げて島民に黍作の強制をするに至る。

1772年、大熱病流行。1700人余が死亡。

◇借り入れ救米

1755年 米500石(琉球)、米300石(薩摩)
1762年 米・粟180石(琉球)
1763年
1773年 米180石(琉球)
1774年 米800石(薩摩)
1777年 米500石(琉球)
1781年 救米(薩摩)、寄元米(琉球)
1782年 
1783年
1814年 米900石余(薩摩)、米450石(琉球)
1816年 下米(倭)、春粟50石(琉球)

 尋常ではない頻度だ。
 奄美の抵抗の歴史に名高い母間騒動や犬田布騒動は、こうした度重なる災厄が背景にあってのことなのだ、。

1816年 母間騒動(「徳之島の抵抗力」
1864年 犬田布騒動

 琉球への歎願のための脱島、徳之島を捨てる大島への脱島、一揆。これらの抵抗の行動は徳之島に集中している。奄美内薩摩としての抑圧も大和化も激しい大島から距離を置いた徳之島であればこそ、抵抗力を温存できたということだろうか。ぼくは、少しだけ徳之島気質の由来をみる思いだ。


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