三宅国秀の琉球遠征計画は無かった!?
薩摩の琉球侵略の経緯をたどる記述には、必ずといっていいほど、三宅国秀事件が出てくる。17世紀中盤、三宅国秀なる人物が琉球征伐を目的に鹿児島に訪れて討伐されたという事件だ。そして、それを受けて薩摩は琉球に、もともと友好関係にあるから三宅を討った。今後も安心してほしいと伝えたことも忘れずに付け加えられる。むしろ、この後段のメッセージの方が薩摩にとっては意義深いということだ。
さて、この事件、薩摩の恩売りの目的であることはすぐに分かるが、うさんくさいという印象はぬぐえない。それは心証の域を出ないのだが、琉球の友好関係があるから三宅を討ったという言動が、薩摩にそぐわないと感じられるからだ。
そんなときに、紙屋敦之の論考(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書)で、田中健夫が三宅国秀事件は捏造であると説いているのを知って腑に落ちた。その田中の考察は、「三宅国秀の琉球遠征計画をめぐって—その史料批判と中世日琉関係史」だ。
結論を先に書くと、田中は三宅事件の真相を、
この事件は三宅国秀の坊津下着、島津氏の誅伐、数年後における今岡氏の琉球渡航計画という三つの事実を、島津氏が日本と琉球間における自己の立場を琉球側に対して有利に宜伝するために三宅国秀およびその党軒の遠征計画事件にすりかえたものであり、島津氏の琉球貿易独占体制確立の過程のなかでつくりあげられた虚構の事件であった
と考えている。それが、「幕府や諸大名に琉球に対する島津氏の特殊権益を既成事実として認めさせるためにも大きな役割を果したのである」。
なるほど、だ。田中はどのようにアプローチしているか。
まず、三宅事件は3つの事件として語られている。
第一の事件
・永正十三年(一五二ハ)、備中の三宅和泉守国秀が、琉球遠征を目的とする兵船を率いて薩摩坊津に至ったが、薩摩守護島津忠隆のために討伐されたと伝えられる
第二の事件
・つづいて第二の事件が五年後の大永元年二五二一)に起こり、備中の兵船が坊津を焼いたという。
第三の事件(約二十年後)
・後日譚としての第三の事件が起こった。天文の初年、三宅国秀の一党のものが足利将軍の命によって琉球遠征を企図して薩摩に下ったというものであり、薩摩の老臣がこのことを琉球に敢じた連署状がのこっている。
まず、田中は第一の事件を検討している。三宅国秀事件に関する史料はもともと少なく7つしかない。そのどれもが、薩摩に伝わったものだ。史料は「古文書、古記録、編纂書」の順で信憑性がふつう言われるが、7つのうち古文書は2つあり、かつ人名や地名の表記の仕方を見ると、古文書の2つが7つのなかでも古いものだと思われる。にもかかわらず、古い2文書には、日付の表記がないのに、後の文書でそれが出てくる。それは、事件の時期について、琉球船の来航をタイミングに合わせて作為したものではないか。
次に、その古い文書二つを比較してみると、
〔史料六〕のみが三宅側の史料で他はすべて島津側の史料であることが、一方が足利将軍の命によって琉球渡海を企てたとしたのに対し、他方が琉球征伐のための渡海としたのである。いずれかが真実であればいずれかが虚偽ということになるが、私は島津側の史料に対してより多くの疑問をいだかざるを得ない。その理由の第一は三宅和泉守が琉球を討つという行動の必然性が思いあたらないことであり、その第二は十二艦くらいの船団で琉球を征伐するという不自然さである。三宅国秀の素性が豊田氏の推測したように堺に関係あるものであるとするならば、貿易ルート確保のために琉球に渡ろうとし、島津氏の妨害をうけたということは十分に想像することができる。しかし、この船団が貿易を目的としたものではなく、遠征経略を目的とするものであったということは理解に苦しまざるをえない。
第三の事件について、史料7は史料6を受けているとも書かれているから、すると、最も古いと想定される文書には、「琉球渡海」と書かれているのに、史料7以降は「琉球征伐」と統一されていることになる。
田中が「理解に苦しむ」点を少し追ってみると、
もし三宅氏の渡航計画をのちの倭寇のような海賊的貿易集団の単なる略奪を目的とした行為とみるならば、その坊津停泊に対して島津氏が討伐するのは十分な理由があったといえるが、倭寇の船団が幕府の下知をうけて琉球に渡航するということはあり得ないことで、三宅氏をいわゆる倭寇の一党と見ることはできない。
いずれにせよ、島津氏にとって三宅氏は不都合な存在であったものと考えてよいであろう。すなわち三宅国秀の琉球征伐の意図の有無にかかわらず、島津氏としてはこれを討つに足る理由があったのである。
船団については「兵船」とか「闘艦」とかの文字が使用されているが、船の規模についての記述はない。遣明船程度のものと想像するならば、一隻に百五十人から二百人くらいの人数が乗船していたことになるが、その発達のために要する費用は莫大なものであった。このような大船を十二隻も一度に派遣することは、細川・大内などの大勢力であっても決して容易なことではない。ちなみに現在史料によってしられるところでは、遣明船団のうち最大のものでも九隻の編成であった。しかもこのような大船団の派遣が他の中央史料にまったく記載されなかったということはありえないから、一姫の規模はよほど小さなものであったとみなければならない。慶長十四年島津氏の統球遠征の折に用いられた船は七十余艘、兵員は三千余人で山川港より出船したという。平均すれば一船四十人強になる。しかもこの軍団は朝鮮出兵を経験した精強な兵員と多量の鉄砲を所持していたのである。
三宅の十二隻の船団は、相当な規模だが、どこの史料にもその記載がないのは不自然で、かつ薩摩の琉球侵略の際は七十余艘であったことを考えると、十二隻はいかにも小粒である。つまり、どちらの点からも不自然さがある。
この事件が実際に、永正十三年に発生していたとしても、琉球が島津氏の附庸国であった故に三宅氏を討ったという記述には承服することはできない。島津氏としては琉球貿易独占の障害となる三宅氏を討つのは、自己の利益を護るために当然の行動であったし、三宅氏の琉球渡航を苑球征伐とすりかえることにより琉球に対しては恩を売る行動として正当化しようとし、国内に対しては既成事実をつくってこれを認あさせようという、まさに一石≡鳥の効果をねらった行動であったとうけとるのが妥当ではないだろうか。
第二の事件については、
これまでの考察がもし当をえたものであるとするならば、第一・第二の事件に関する史料はその根拠の多くを第三の事件の史料である『島津家文書』所収の文書案に負っているということになる。そして疑問の点を除去した後にのこるものといえば、『島津家文書』に収められた〔史料六=史料七〕に語られている三宅和泉守国秀なる人物が薩摩坊津に下着して、島津忠隆のために殺害されたという事案だけで、他の記載はいずれも粉飾や偽作・推測の疑いがきわめて濃いといわねばならぬ。
最も古いと目される史料6、7の『島津家文書』は、第三の事件について書かれたものだが、それ以降の文書はこれをもとに「粉飾や偽作・推測」したものではないのか、と田中は考える。
第三の事件について書かれている史料7は、史料6を根拠にしていると思われるが、史料7は「琉球渡海を琉球遠征と推測させるような巧みな曲筆がある」。
第三の事件の核心は、今岡氏が琉球渡航をめざしたという事実にあると考えるよりは、むしろ島津氏がこの事実を琉球に通報することによって、琉球への侵略者に対して島津氏がそれを阻止し、琉球を保護防衛する立場にあることを強調して確認させようとした点にあったと考える方が妥当と思われるのである。〔史料八〕が故意か偶然かわからないが、〔史料六〕を無視し、〔史料七〕のみによって記事をなしている点にも、この事件に対する島津氏の態度の一端を見ることができるような気がする。
史料6、7以外は、この二つの資料をもとに書かれたものだと思われるが、この二つは、6が古く、かつ、薩摩以外の立場から書かれている。だから、史料7のみに依拠していることにも作為のにおいを感じる、というのだ。
そこで、
この事件には不明な個所がきわめて多く、事案としてみとめられるものは結局〔史料七〕の語る部分のみであって、島浮氏の側竪止ってみるとき、〔史料七〕以外の史実や史料はすべて〔史料七〕を説得力あらしめるための伏線でしかなかったといって過言ではあるまい。
ということになる。
島津氏の琉球に対する立場は応仁の乱以後慶長の琉球経営までの間につぎのような変容をみせる。すなわち、
(A)琉球渡航船の警固者
(B)幕命による琉球渡航船の保護監督者
(C)幕府の意志の琉球への伝達者
(D)琉球との直接通交者
(E)琉球渡航船の保護ならびに妨害者 ◆
(F)幕命によらず島津氏独白の意志による琉球渡航船の統制者
(G)琉球貿易の独占監督者
(H)琉球に対する来貢不履行の認貴著
(I)琉球侵略者
(J)琉球の実質的支配者
さて、三宅国秀の一件は、ちょうど島津氏の琉球への通交独占の要求と琉球から許可の回答のあった年の中間に発生したことになっている。三宅国秀の一件は、島津氏が琉球を侵略しょうとする者から琉球を庇護防衛する立場にあることを強く印象づけようとして種々の粉飾をほどこした疑いの濃い事件であることは史料の検討の際に縷述した。このことは中世薩琉関係の全体の動きのなかに位置づけると一層動かしがたい真実と思われてくる。本件は島津氏の琉球に対する態度が、前記の(C)(D)から(F)(G)に変容する契枚としての(E)の段階を示すもので、島津氏の動静をみるうえで重要な意味をもつものであったといえよう。
三宅事件は、「琉球渡航船の保護ならびに妨害者」を象徴する。田中の意図を正確にいえば、「琉球渡航船の保護ならびに妨害者」を象徴させるための事件であった。
ぼくは田中の三宅国秀の琉球遠征事件虚構説は説得力を感じる。史料の読みとしても心証としても。
◇◆◇
ぼくが驚くのは、薩摩の琉球侵略の記述にさんざん出てくる三宅事件が虚構である仮説が提出されていることと同時に、でも驚きとしてはそれ以上なのは、田中はこの考察を1978年に発表していることだ。つまりもう30年経つのである。それなのになぜ、紙屋の考察でしか目に触れることがなかったのだろう。というか、たとえば、あの『名瀬市誌』はこれを取り上げていないのだろうか。この考察は誰にとってもっとも切実かといえば、言うまでもなく奄美である。当事者たる奄美が、この田中の仮説に注目し取り上げ、吟味するのが筋というものだと思う。にもかかわらず、1996年の『名瀬市誌』においても、取り上げられず、三宅事件を事実として取り扱っているのが、何ともいえず、残念な気がする。
◇◆◇
もうひとつ付け加えておこう。実は、田中は、三宅国秀の琉球遠征計画は、渡航を遠征とした作為であると主張しているのだが、実は、8つの史料以外には、「この三宅国秀なる人物については他に徽すべき材料がない」などの理由から、「私は、永正十三年の事件の発生について深い疑いをいだくものである」として、三宅国秀事件自体も虚構ではないかという疑いを持っている。考察は、「一歩退いて」、事件があったとしたら、という前提からスタートしている。田中の疑いは頷けるものではないかと思える。
『戦国大名論集〈16〉島津氏の研究』
「三宅国秀の琉球遠征計画をめぐって—その史料批判と中世日琉関係史」
(田中健夫、1983年)
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