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2008/09/27

第二次惣買入制

■第二次惣買入制

 第二次惣買入制は、あの調所広郷の天保の改革と期を一にしている。そのはずで、500万両に及ぶ藩債を抱えた薩摩の財政立て直しに、調所が「御改革第一の根本」としたのが、砂糖政策だったからである。

天保五年(一八三四)大島代官として赴任した肥後八右衛門は横目二人と連名の「鳴中申渡一冊」(長田須磨氏蔵)を島役鞋手渡しているが、その三六ヵ条からなる条文のうち、前述の事界島における文政十三年(一八三〇)申渡菅同一内容のものは一三ヵ条であり、残りの条文のうち大半を占めるは砂糖生産に関する規定である。
第一条
黍地の草取り空一番まで命じ、不用の墓は掘り起こして新黍を植え、その作付面積を届け出るように指示している。

第二条
三月中に砂糖製造を行ない、入樽の掃え方など入念旨なうよう申し渡し、

第三条
砂糖製造高の樽数について届出を怠らないように注意を促している。

第四条
砂糖代米の支払いについて砂糖芹代米四合ずつ品一している。なお未納者を届け出る場合、戸主の名前を記さないで家内下人や親類の名前に変えて届け出ることを禁じている。

第五~七条
御物御定式(年貢上納分)や鍋代・品物代の計算方法について規定し、

第八条
砂糖樽焼印押し方について帳面作成と切封を指示している。そのはか御下品物の配当を黍植付けの面積を基準にして行なうこと(第一二二三条)や抜砂糖の厳禁(第一四条)、樽木・帯竹の調達(第二三条)などの規定をみているが、その中で「御物御定式並びに鍋代」を差し引いてそのほかに三〇〇万斤を一三ヵ方に割り合わせるように指示していることは重要である。

大島の定式糖は年貢上納分として四六〇万斤を定額としたのであるが、前引史料の一三条によれば、定式糖と鍋代糖のほかの余計糖を三〇〇万斤としている。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 なんと、単純に加算すれば、760万斤である。第二次定式の初期値より300万斤多く、約1.7倍である。

 定式糖については前にも述べた通り、大島については天明七年(一七八七)定式・買重糖四六〇万斤と定められたが、その斤額は寛政十一年(一七九九)定式糖のみの斤額として増額され、幕末に至っている。(中略)したがって幕末でも四六〇万斤の定式糖額は堅持されていたことを確認できるが、問題はその一斤当りの代米量であろう。「方」によって差が開いているが、いずれにしても一斤当り一合一勺一才~二合四勺四才の換算率は、従来定式糖一斤の代米が三合二勺四才とされていたのに比べて極端に低い数債となっている。このことはおそくとも弘化期までに代米の換算率が引き下げられたことを意味する。すなわち、定式糖と買重糖を合わせて定式糖四六〇万斤としたために、石高を増加させない以上、代米の換算率を引き下げざるを得なかったのである。

 第二次定式の後半、550万斤と比べると760万斤は、1.38倍になる。また、3.24合が1.11合になったのは、2.92倍である。つまり、単純計算では、第二次定式に対し、第二次惣買入の負荷は約4倍になっているのだ。

 愕然とせざるをえない。
 第二次惣買入制とは何か。

 ところで第二次惣買入制については、明治六年(-八七三)の「砂糖惣買上方法」(久野謙次郎報告書)に詳しいので、その記述によってまとめておこう。
 まず砂糖買上げの由来について、文政十二年(文政十三年実施)命令を発して、諸島産出の砂糖を悉く官収し、それに若干の米穀物晶を下付して、農民の私売を禁じて、総買上げと称したという。そしてその砂糖は大坂に運搬し、販売して、利益は藩の歳入とした。そのことはもともと「民権ヲ束縛シ、民産ヲ漁奪スルノ法」であって、その代価は甚だ僅少であると難じている。

  「農民の私売を禁じて、総買上げと称した」という定義は重要だと思う。惣買入とはつまり、市場の遮断を意味している。思えば、1623年の「大島置目之條々」で、奄美は「楷船は作らないこと」と強制される。それは、奄美の足を奪うようなものだったとすれば、この、私売の禁止は、手を奪うようなものだと思う。

 とすれば、第二次惣買入制の内容で画期的なのは、一に黍地の強制耕作にあり、その割賦法については島によりその方法が異なると言えども、共通して重要なことは薩摩藩によって各島の栽培すべき黍地面横=定地が設定されていることである。この点は定式買入制が藩で買い入れる砂糖の総額を決めて問切→村→島民と配賦していくのと方法は同じであるが、藩の設定した総額が砂糖斤額であるか黍地であるかは基本的な差異である。前者の場合、甚だ困難ではあるけれども、まだ努力と幸運によって若干でも剰余を産み出す可能性が残されているが、後者は黍地に強制されて、ただ黙々と耕作に従事するのみである。

第二次惣買入制実施後、黍作への精励が奨励され、罰則がいろいろと設けられ、島役の巡過による督励がなされることは、惣買入制に必然的に要請されることがらであった。そして黍地の配賦に際して身体的な労働能力よりも資産の有無による経営能力が重視される以上、島役などに抜擢される上流階級が次第に大きな力をもつに至る。以前から砂糖献上やその他の勤功によって島役に抜擢される慣例ができてはいたが、文政期以降郷士格身分への登用が数多くなされてくることは象徴的であろう。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 ここでは、定式買入制との違いによって惣買入制の違いが指摘されている。それはつまり、黒糖生産の絶対化である。

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