« 2008年8月 | トップページ | 2008年10月 »

2008/09/30

一反から一万斤の砂糖きび、六百斤の黒糖

 哀しいことに、砂糖きび刈りは真似程度にしか手伝ったことがなく、精製の過程は工場見学でしか見たことがないから、「百六砂糖」と知ってもピンと来ない。で、黒糖、砂糖きびの量と畑の面積の相互の換算表を拵えてみた。

Photo_2










 これでいくと、1平方メートルあると、363gの黒糖ができる。1袋くらいだ。
 よく単位として出てくる1斤、600gを作るには、0.5坪、必要。また、1坪あれば1200gの黒糖ができる。4袋くらいだ。

 1反は覚えやすい。1反は約30メートル四方の正方形の大きさで、そこから10000斤、6トンの砂糖きびが採れて、そこから600斤、360kgの黒糖ができる。1袋300gだとしたら12000個もできる。

それにしましても、黍地割賦法で割り当てられるきび作付面積はあまりに広く、たとえば夫婦二人に十三歳以上の女子と十六歳以上の男子をかかえる四人家族では、その割り当て面積は四反(約四千平方メートル)にもなりますし、しかも作るさとうきびが反当たり一万斤(六トン)が普通だと言いますから、その手入れだけで精いっぱいのはずなのに、よくも他の作物を作る余裕があったものだと驚くほかありません。(『黒糖悲歌の奄美』前田長英、著作社、1984年)

 これをみると四人家族では、4反、63メートル四方の大きさの畑を持ち、24トンの砂糖きびを生産したことになる。そしてそれだけでなく、そこから1440kgの黒糖も作るのだ。難儀だったろう。



| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008/09/29

「百六砂糖」

 あの砂糖きびから黒砂糖はどのくらいできるのだろう。恥ずかしながら知らなかった。

 正徳三年(一七一三)の砂糖買い上げ高は、時の大島代官酒匂太郎左衛門の日記によると「百十三万斤ヅツ年々御買入レ」とあるそうです。
 砂糖は普通「百六砂糖」と言って、百斤の生きびから六斤の砂糖が得られるので、これから計算しますと百十三万斤の砂糖を得るための生きび量は二千万斤近くになります。普通一反の畑の生産量は生きび一万斤ですから二千万斤の生きびを得るには二百町歩を要します。(一斤は六〇〇グラム)
 元禄八年から正徳三年までのわずか十八年間で二百町歩のさとうきび植え付け地が出来たのですから、かなり急速な伸びです。(『黒糖悲歌の奄美』前田長英、著作社、1984年)

 「百六砂糖」、というのだそうだ。砂糖きび1kgから黒糖60gができるという、6%の抽出率である。ここにある単位では残念ながらピンと来ないので、変換していくと、2000万斤は、12000トン。1町歩は、約9917.4平方メートルというから、200町歩は、約198万平方メートルで、1.98平方キロメートル。これは、約1.4キロ×1.4キロの大きさになる。1.4キロ四方の畑から12000トンの砂糖きびが収穫できる。

 これでもあまり実感が湧かないので、自分に引き寄せると、与論島の大きさは20.5平方キロメートルだから、200町歩は、与論の約10分の1になる。なるほど、それは大きい。

 砂糖の代価は米に換算されました。享保十三年(一七二八)の物定帳によりますと砂糖一斤は米三合五勺に見練られています。
 その後宝暦十二年一七六二) に五勺を減じて米三合替えになり、第一次砂糖惣買い入れ制が解除になった天明七年一七八七)に砂糖一斤と米四合替えになりました。
 更に、寛政十年(一七九八)また三合二勺四才となり、天保元年の第二次惣買い入れ制実施時に三合替えになりました。
 このように島で作った砂糖の買い上げ値は、三合から三合五勺、天明七年から寛政九年(一七九七)のわずか十年間lだけが四合になっていますが、砂糖は当時貴重品であり、大阪市場での砂糖・一斤の値は、たえず米一升から一升五合前後を維持していました。
 薩摩藩はこのように、道之島の砂糖を極端に安く買い上げ、大阪市域に運んで暴利を得ていたのです。

 砂糖一斤
 =米三合五勺  1728(34年間)
 =米三合     1762(25年間)
 =米四合     1787(11年間) 
 =三合二勺四才 1798(32年間)
 =三合       1830

大阪

 砂糖一斤
 =米一升=十合
 =米一升五合=十五合

 砂糖一斤を、薩摩は奄美から、米三合から四合の割合で買い上げている。それを大阪市場に持っていくと、米十合から十五合と交換できた。

 つまり、

十合/四合=2.5倍
十五合/三合=5倍

 薩摩は、大阪では2.5倍から5倍の値段で取引をしていたことになる。西郷が「5倍の商法」と言っていたのはこのことを指している。


(『黒糖悲歌の奄美』前田長英、著作社、1984年)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

「沖縄ドキュメンタリー映画祭」感想集

 イザイホーなど観たいのは山々の映画集だけど、なかなか時間が割けません。なので、感想を頼りに「沖縄ドキュメンタリー映画祭」を追ってゆきたい。出会った感想文を都度、紹介します。


 「雑然雑話(11) 沖縄ドキュメンタリー映画祭(1)」
 ・(1)とあるので、(2)以降の展開も楽しみです。

 「雑然雑話(12) 沖縄ドキュメンタリー映画祭(2)」
 ・(2)は、アカマタの話です。

 「ドキュメンタリー映画は面白い」
 ・イザイホーの感想です。観たかったなあ。

 「'08 沖縄ドキュメンタリー映画祭」
 ・ふたたびイザイホーの感想です。イザイホーはやはり観たい方が多いのでしょうか。

 「ぶ~がる~/サルサとチャンプルー」
 ・沖縄からキューバへ移った島人の話。これも観たかったですね。

 『サルサとチャンプルー』
 ・パノプティコンの映像もあったそうです。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/28

徳之島の場合

 黒糖収奪下で、徳之島は激しく揺さぶられる。

1712年、砂糖買い入れを命じられる。
1735年、黍横目任命(大島に遅れること40年)
1736年、徳之島から本琉球へ無断渡海の企て。(「琉球への脱島」

1755年、凶作のため餓死者3000人超。

 その後宝暦五年(一七五五)凶作のために三間切で餓死者三〇〇〇人を超えたといわれ、翌年も凶作が続いたので、徳之島の古来進・返上物を全て棄消して、その代わりに砂糖黍の増殖を命じている。そのため宝暦九年には砂糖が大量に生産され、宝暦十年には御勝手方喜入主馬は、役料米・扶持米などの分のみを除外して、その他の高所務はすべて砂糖代納とすることを命じた。
 ただし余計陸については脇売りを許し、また地味の悪い山野について開き替えする場合は、まず石高を付けず「山野地黍作の睦反並びに砂唐高」を届け出るように命じている (「島津家列朝制度」巻之一四)。このような努力の結果、徳之島では砂糖生産の増大によって、宝暦十一年(一七六一)与人や黍横目などが褒賞をうけている。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 この三千人もの餓死はなぜ起こったのだろう。1753年の徳之島人口は、22392人だから、仮に1755年初の人口を、22400人とすれば、3000人の餓死は、

 22400 → 19400(▲14%)

 これは徳之島の7.5人に1人が餓死したことになる。当時の世帯人口は分からないが、家族の誰か1人が餓死してしまう、そういう規模だったのではないだろうか。

 大島、喜界島に換糖上納制が敷かれたのは1745年だが、徳之島は1760年である。だから、この3000人の餓死は、換糖上納制以前に起こったことになる。第一次定式下でも、これだけの規模の餓死を招くほど、主食の生産力は落ちていたのだろうか。それともこの段階での徳之島の生産力はそもそも低かったのだろうか。いずれにしても驚くのは、これだけの事態が起きているのに、餓死の5年後の1760年には換糖上納制が敷かれることである。これでは、徳之島の生存力をさらに弱体化させることになったのではないか。

 そう想像するのだが、案の定というべきか、徳之島は、琉球や薩摩からの「借り入れ救米」の頻度が他島に比べ、高いのである。

 さらに明和三年(一七六六)徳之島の定式買入額が七三万斤に決定しており、それ以前は生産した額の限りにおいて上納していたものを、七三万斤という目標を掲げて島民に黍作の強制をするに至る。

1772年、大熱病流行。1700人余が死亡。

◇借り入れ救米

1755年 米500石(琉球)、米300石(薩摩)
1762年 米・粟180石(琉球)
1763年
1773年 米180石(琉球)
1774年 米800石(薩摩)
1777年 米500石(琉球)
1781年 救米(薩摩)、寄元米(琉球)
1782年 
1783年
1814年 米900石余(薩摩)、米450石(琉球)
1816年 下米(倭)、春粟50石(琉球)

 尋常ではない頻度だ。
 奄美の抵抗の歴史に名高い母間騒動や犬田布騒動は、こうした度重なる災厄が背景にあってのことなのだ、。

1816年 母間騒動(「徳之島の抵抗力」
1864年 犬田布騒動

 琉球への歎願のための脱島、徳之島を捨てる大島への脱島、一揆。これらの抵抗の行動は徳之島に集中している。奄美内薩摩としての抑圧も大和化も激しい大島から距離を置いた徳之島であればこそ、抵抗力を温存できたということだろうか。ぼくは、少しだけ徳之島気質の由来をみる思いだ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

いちゃりてぃ

 久しぶりにぱらじのやかと飲んだ。

 ゆんぬんちゅ同士、与論では家も隣、年齢も近いから、気兼ねもいらない。何より、ふばま、ぱーぱー、宇和寺と敬愛するもののキーワードも同じだから、触れたい場所に何の説明もなくたどりつくことができる。それは考えるまでもなく稀有なことだ。

 与論のこと奄美のこと沖縄のこと、もう会えない互いの父のこと、話は尽きない。で、今日は珍しく宿酔だ。でも不快ではない。与論では心が慰撫されるのを、いちゃりてぃ、と言うが、宿酔の不快より、いちゃりてぃの方が大きい。次はいつ、ともう楽しみにしている。

 酒を飲み交わして、いちゃりてぃと感じられるなら、それだけでもう申し分ないのだ。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/09/27

第二次惣買入制

■第二次惣買入制

 第二次惣買入制は、あの調所広郷の天保の改革と期を一にしている。そのはずで、500万両に及ぶ藩債を抱えた薩摩の財政立て直しに、調所が「御改革第一の根本」としたのが、砂糖政策だったからである。

天保五年(一八三四)大島代官として赴任した肥後八右衛門は横目二人と連名の「鳴中申渡一冊」(長田須磨氏蔵)を島役鞋手渡しているが、その三六ヵ条からなる条文のうち、前述の事界島における文政十三年(一八三〇)申渡菅同一内容のものは一三ヵ条であり、残りの条文のうち大半を占めるは砂糖生産に関する規定である。
第一条
黍地の草取り空一番まで命じ、不用の墓は掘り起こして新黍を植え、その作付面積を届け出るように指示している。

第二条
三月中に砂糖製造を行ない、入樽の掃え方など入念旨なうよう申し渡し、

第三条
砂糖製造高の樽数について届出を怠らないように注意を促している。

第四条
砂糖代米の支払いについて砂糖芹代米四合ずつ品一している。なお未納者を届け出る場合、戸主の名前を記さないで家内下人や親類の名前に変えて届け出ることを禁じている。

第五~七条
御物御定式(年貢上納分)や鍋代・品物代の計算方法について規定し、

第八条
砂糖樽焼印押し方について帳面作成と切封を指示している。そのはか御下品物の配当を黍植付けの面積を基準にして行なうこと(第一二二三条)や抜砂糖の厳禁(第一四条)、樽木・帯竹の調達(第二三条)などの規定をみているが、その中で「御物御定式並びに鍋代」を差し引いてそのほかに三〇〇万斤を一三ヵ方に割り合わせるように指示していることは重要である。

大島の定式糖は年貢上納分として四六〇万斤を定額としたのであるが、前引史料の一三条によれば、定式糖と鍋代糖のほかの余計糖を三〇〇万斤としている。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 なんと、単純に加算すれば、760万斤である。第二次定式の初期値より300万斤多く、約1.7倍である。

 定式糖については前にも述べた通り、大島については天明七年(一七八七)定式・買重糖四六〇万斤と定められたが、その斤額は寛政十一年(一七九九)定式糖のみの斤額として増額され、幕末に至っている。(中略)したがって幕末でも四六〇万斤の定式糖額は堅持されていたことを確認できるが、問題はその一斤当りの代米量であろう。「方」によって差が開いているが、いずれにしても一斤当り一合一勺一才~二合四勺四才の換算率は、従来定式糖一斤の代米が三合二勺四才とされていたのに比べて極端に低い数債となっている。このことはおそくとも弘化期までに代米の換算率が引き下げられたことを意味する。すなわち、定式糖と買重糖を合わせて定式糖四六〇万斤としたために、石高を増加させない以上、代米の換算率を引き下げざるを得なかったのである。

 第二次定式の後半、550万斤と比べると760万斤は、1.38倍になる。また、3.24合が1.11合になったのは、2.92倍である。つまり、単純計算では、第二次定式に対し、第二次惣買入の負荷は約4倍になっているのだ。

 愕然とせざるをえない。
 第二次惣買入制とは何か。

 ところで第二次惣買入制については、明治六年(-八七三)の「砂糖惣買上方法」(久野謙次郎報告書)に詳しいので、その記述によってまとめておこう。
 まず砂糖買上げの由来について、文政十二年(文政十三年実施)命令を発して、諸島産出の砂糖を悉く官収し、それに若干の米穀物晶を下付して、農民の私売を禁じて、総買上げと称したという。そしてその砂糖は大坂に運搬し、販売して、利益は藩の歳入とした。そのことはもともと「民権ヲ束縛シ、民産ヲ漁奪スルノ法」であって、その代価は甚だ僅少であると難じている。

  「農民の私売を禁じて、総買上げと称した」という定義は重要だと思う。惣買入とはつまり、市場の遮断を意味している。思えば、1623年の「大島置目之條々」で、奄美は「楷船は作らないこと」と強制される。それは、奄美の足を奪うようなものだったとすれば、この、私売の禁止は、手を奪うようなものだと思う。

 とすれば、第二次惣買入制の内容で画期的なのは、一に黍地の強制耕作にあり、その割賦法については島によりその方法が異なると言えども、共通して重要なことは薩摩藩によって各島の栽培すべき黍地面横=定地が設定されていることである。この点は定式買入制が藩で買い入れる砂糖の総額を決めて問切→村→島民と配賦していくのと方法は同じであるが、藩の設定した総額が砂糖斤額であるか黍地であるかは基本的な差異である。前者の場合、甚だ困難ではあるけれども、まだ努力と幸運によって若干でも剰余を産み出す可能性が残されているが、後者は黍地に強制されて、ただ黙々と耕作に従事するのみである。

第二次惣買入制実施後、黍作への精励が奨励され、罰則がいろいろと設けられ、島役の巡過による督励がなされることは、惣買入制に必然的に要請されることがらであった。そして黍地の配賦に際して身体的な労働能力よりも資産の有無による経営能力が重視される以上、島役などに抜擢される上流階級が次第に大きな力をもつに至る。以前から砂糖献上やその他の勤功によって島役に抜擢される慣例ができてはいたが、文政期以降郷士格身分への登用が数多くなされてくることは象徴的であろう。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

 ここでは、定式買入制との違いによって惣買入制の違いが指摘されている。それはつまり、黒糖生産の絶対化である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「沖縄県北部地域と与論町の交流と歴史と展望」

 中身はよく分からないけれど、こういうシンポジウムがあったというだけでも、嬉しくなります。

 「シンポジウム」(ヨロンが、ヨ!ロ乎ンでいる...)
 「沖縄県北部地域の交流と歴史と展望 」(チヌマンダイ)

 名桜大学総合研究所の方を招いてのシンポジウムだそう。

久しぶりの宴会ももりあがることができ、あらためて北部圏交流の重要性を認識することであった。これをきっかけに名桜大学とも交流をしたいものだ。

 名桜大学は、名護の大学なんですね。与論は、沖縄島と与論島の間にある境界を無意味にする役割を担える島だと思う。今後の展開が楽しみだ。



| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/09/26

第二次定式買入制

 第二次定式買入制は、第一次の定式250万斤と買重100万斤の合計350万斤が、定式糖となって開始されている。おまけに買重糖110万斤が付加されていた。買重糖(かいがさみとう)は、要するに上乗せ分だ。第二次定式買入は、第一次の1.3倍の量が課せられたのである。


■第二次定式買入制

1787年。
定式糖 350万斤、買重糖 110万斤、計 460万斤(第一次の1.3倍)。

1787 定式 350万、買重 110万 計 460万 代米 定式 3合、買重 4合
1799 定式 460万、買重      計 460万 代米 3合2勺4才
1801 定式 460万、買重  20万 計 480万 
1804 定式 460万、買重  40万 計 500万
1805 定式 460万、買重  90万 計 550万 代米 4合2勺4才
1806 定式 460万、買重 100万 計 560万

 しかも、この推移に見られるように、買重(かいがさみ)は増加の一途をたどる。

 このような買重糖の増額による収奪は、道之島三島を疲弊させ、また島内における階層分解を激化させたものと考えられるが、その状況を眼のあたりにした大島代官本田孫九郎は、藩庁へ度々上申するところがあった。その中でも文化三年(一八〇六)春の上申書は一八条よりなり、第二次定式買入制下における大島の状況をよくあらわしている(「大島要文集」)。

 この状況を見かねて大島代官本田孫九郎は藩に上申する。

 まず第一条では、与人をはじめ島民の衣服・食物について倹約が徹底していることを述べている。そして毎年八月中丙丁両日に八月覇が行なわれて、終日終夜太鼓を打ちならし、男女が家の庭で踊り明かすことがあり、また柴指と称して丙丁の日より一七日目に踊りをして焼酎など飲むので、時節柄浪費しているように見うけられるけれども、それは古来からの仕来りであって、本藩の先祖祭りと同じであると記している。そしてそれを禁止すれば動労意欲を失って、砂糖増産の支障ともなると述べ、黍作は手入れ掃え・草取りなど多くの手間をかけなければならないので多人数を雇い入れていること、年間の「遊日」を何日ときめておいて、その他の日は手ひどくこき使っても、八月踊の際米飯を与え、よく働いた著には焼酎をふんだんに飲ませ、芭蕉惟子を支給したりしてその労を構うので、八月踊を皆楽しみにしており、一時の消費としては過分のようであるけれども、八月踊によって労働意欲が高まれば、かえって藩のためにも島民のためにもなるとしている。「名代官」とされる本田の真骨頂が、この第一条で充分にあらわされている。

 本田の「八月踊」に対する理解は、得能とは別の目線を感じさせるものだ。

 第二条では用夫改めについて、島役を滞らしその分だけ用夫数が増えれば、用真一人当りの負担が減少することを述べ、昨年までは一カ月一人につき九日、一〇日の用夫立てが行なわれたけれども、近頃は一カ月二日、三日にとどまっているとしている。そのためには島役の巡廻を厳しく規制するよう述べている。
 その他見聞役一名減員による島民負担の減少、島役の人選、津口横目の勤め方、島役はなるべく寄役にしてその勤功でもって定役とすることなど、徹底した役員減少による用夫増加策を主張している。

 これは、労働者を増やして1人当り負担を減らすということ。

 また白砂糖の生産が多くの損失をもたらすことを三ヵ条にわたり説いて、その善処方を伺い出ている。

 白砂糖は、黒糖生産より手間が増えるから、それを黒糖生産と同時に行うのは、非効率だと言っているのだと思う。

 さらに第一二条で、買重糖増額の収奪による島民の疲弊についても詳細監調じている。第一次定式買入制のもとで、定式糖三五〇万斤、買重糖二〇万斤であったのが、寛政十年(一七九八)制度改革によって買重糖分も含めて四六〇万斤を定式糖額とし、その後事和元年(一八〇一)二〇万斤三カ年の買重み、文化元年(一八〇四)更に二〇万斤五カ年の買重みと増額されて、百姓は以前の借金を返済する手段もなく自然と牛馬や耕地を借金の担保に渡し、身売りしたりして、黍作の反別を縮小せざるを得ない破日に陥っているとしている。また代米について、享保期の規模帳では一斤につき三食五勺であったが、宝麿十二年(一七六二)五勺を減じて三合となり、買垂糖は四合と定められた。そして享和元年(一八〇一)以降の買重糖はすべて定式糖と同じく三合二勺四才の代米となり、七勺五才の減少となるので、享和元年以降文化二年(一八〇五)までの上納斤高一九〇万斤に減少分七勺六才を乗ずれば代米一四四四石となり、その分だけ島民の疲弊を増していると記している。

 本田の言う1444石の疲弊というのは、1801年から1805年までの買重が増えた合計190万斤を代米換算すると、1444石になると言っていることになる。年表によれば、1805年には、代米換算は、4合2勺4才になったとあるから、本田の上申はその決定以前になされたものだと考えると、

 年  定式 買重 計 代米換算 代米計   
 1799 460 460 3.24   14,904石
 1800 460 460 3.24   14,904石
 1801 460 20 480 3.24   15,552石
 1802 460 20 480 3.24   15,552石
 1803 460 20 480 3.24   15,552石
 1804 460 40 500 3.24   16,200石
 1805 460 90 550 3.24   17,820石

 1805年の黒糖の生産量550万斤は、460万斤の約1.2倍であり、1799年の1.2倍の疲弊をもたらしている。または、代米に換算すると、1805年の代米17,820石は、1799年の14,904石より、2,916石多い。つまり、2,916石分、疲弊度が増している、と。

 代米は砂糖上納と同時に引き替えに渡されるのではなく、秋と春の両度の廻船が終わってのち、支払われることになっていたから、それまでの借用分も利子が嵩み、貧者はますます窮乏して負債の頸伽はその重さを増してくると述べている。余計糖の場合、船頭から作人へ直に請取が渡されてそれで借金の返済や物品の購入も可能となり、作人にとって便利であるが、(中略)たとえ豊作で七〇〇万斤の生産がなされても(中略)五五〇万斤を上納すれば余計糖は僅か一五〇万斤前後となり、零細耕作者は収入も乏しく、止むを得ず一家離散のうき目にあうことになる、したがって島民は黍作の規模をなるべく縮小しようとし、他の作物の栽培に励むようになるという。

 なんと代米は、砂糖上納と同時ではなく、秋と春の廻船が終わってのちで、その間も利子は付いている。意味がつかみにくいのだが、豊作になっても米以外にものが買える余計糖はわずかしか残らないから、島人は砂糖きびの規模をなるべく小さくして他の作物の栽培に励むようになるという。

驚くべきことには五〇万斤買重糖の代米二一二〇石の配当がないことも記されていて、島民疲弊の原因だと指摘している。その他島内生産高の見積り、煙草作や茶園・池桐栽培の禁止、海人草上納の件などについて記しているが、全体を通じて、島民の生活にすこしでも余裕をもたらすことが砂糖増産につながることを主張しているのである。また注目すべきことは買重糖の増加による収奪が、耕作面額の小さい下層農民ほど強い圧迫となることである。「島中牛馬・農具求め方、多作ノ者ハとにかく相凌ぎ申すべく候へども、少作ノ者ハ所帯禿入り、是非なく妻子離散などこも及び申すべく候」という現実があった。しかし本田代官の上申では島役の派少策などによる用夫数の増加策以外抜本的な対策は提案されていないとみてよい。

 買重糖の代米が配られていない実態もあった。第二次定式で買重が増えていくにつれ、家人も増えていったことが伺える。

 そして大島代官本田孫九郎の上申にもかかわらず、文化三年(一八〇六)十月、藩庁は大島に一〇〇万斤、喜界島・徳之島については五〇万斤ずつの買重みを指示してきた。

 ということだ。

第二次定式買入制のもとで買重糖の増加による収奪の強化は、道之島社会の糖業のモノカルチュア化を完成させたと言えよう。
 薩摩藩は、文政期(19世紀初頭-引用者注)に入ると砂糖や米の献上を行なう階層を郷士格として積極的に取り立ててゆく方針を採る(後略)。

 奄美のモノカルチャー化が進み、藩は豪農を郷士格として取り立てるとともに、奄美内では農奴的存在の家人(やんちゅ)が発生していった。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

琉球クラスターと本土クラスター

 理化学研究所は、耳垢の乾湿と髪の硬軟から日本人が「琉球クラスター」と「本土クラスター」に大別できると発表した。これによると、耳垢が湿って髪が柔らかい傾向にあるのが「琉球クラスター」で、耳垢が湿って髪が柔らかい傾向にあるのが「本土クラスター」だという。

 ここ最近、遺伝学の成果などでは、日本人のルーツは、多岐に分かれ複雑化する傾向にあったが、この仮説は、二重構造説を支持するように見える。

 どちらも説得性があるように見えるのは遠近感の問題なのかもしれない。微視的にみれば、日本人の由来も多岐にわたるが、巨視的にみれば、従来から列島に分布していた縄文系あるいはそれ以前の人の上に、弥生系の人が訪れたと理解できる。というように。

 「遺伝子:日本人、2集団に大別 「琉球」「本土」地域差も--理研」(毎日新聞)
 「日本人は「本土型」と「琉球型」…遺伝解析で明らかに」(読売新聞)
 「日本人は本土型か琉球型 理研、7000人の遺伝子解析」(河北新報)
 「理研、遺伝子解析で日本人を「本土」「琉球」に分類」(日経新聞)


 ※「理化学研究所のプレリリース文」



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/25

第一次定式買入制と惣買入制

 薩摩侵略以降の一世紀で、二重の疎外が構造化されたのを見てきたが、それに踵を接するように今度は砂糖収奪が始まる。砂糖収奪とは何か。松下志朗の考察を頼りに辿ってみる。

◇◆◇

 琉球、元和期(1615-1624)に製糖法が伝えられたことによって促進。琉球では1645年、砂糖の専売制実施。

 このような琉球王朝による寛文期の砂糖生産の増加は、当然薩摩藩の承知するところとなり、その利潤の大きさは財政難に苦しむ藩政担当者の食指を動かすに充分であった。地理的に近い道之島が新しい相貌で藩政担当者の念頭に浮かび上ってくるまでに時間はそうかからなかった筈である。(『近世奄美の支配と社会』松下志朗

<メモ> 
・1695年、喜界島に黍検者がおかれ、このころから砂糖生産が軌道に乗り出したとうかがわせる。
・1711年、大島代官の日記、「近年は砂糖百拾万斤ツヽ、年々買入あり」(「大島私考」)


■第一次定式買入制(定額買上制)……正徳期(1722年前後)~安永六年
 1)換糖上納制以前 
 2)換糖上納制以降 1745年                         
■第一次惣買入制(専売制)……………安永六年(1777)~天明七年
■第二次定式買入制……………………天明七年(1787)~天保元年
■第二次惣買入制………………………天保元年(1830)~明治五年(1872)


 「定式買入」と「惣買入」の違いは、「定式」は、年貢として収める黒糖の量を決めるやり方であり、「惣」とは、生産した黒糖を全て収めることを意味している。「惣買入」は全て売ることになるから、専売制と言われたりしている。

 また、奄美の18世紀から19世紀にかけて、「定式買入」と「惣買入」が二段階にわたり行われている。


■第一次定式買入制(前期)
・113万斤~125万斤。ただし、田方年貢を上回っていない。

■第一次定式買入制(後記)
・1745年、換糖上納制。
・定式糖 250万斤、買重糖 100万斤、計 350万斤。

■第一次惣買入制(専売制)
・砂糖の売買を禁止して、島民の日用品は薩摩藩の御物から支給することにした。

 第一次惣買入制と同時に、徒目付の得能佐平次が島政改革のために大島に訪れる。徒目付(かちめつけ)というのは「幕府御家人や、諸藩の足軽の戦果及び、勤務を監察」する役目のことだという。

まず大島では安永七年(一七七八)徒目付得能佐平次が横目役二人とともに「島中御仕向替」えのため着任している。そして何によらず百姓どもの生活が潤うように引合米帳を焼き捨てるように命じたという。

 これは一種の棄損令で、借金棒引きということのようだ。

 ただ、と、松下は書いている。

得能佐平次は大島へ渡海する以前に、同行する座横目役皆書五郎左衛門の問い合わせに自分の存念を次のように述べている。皆吉が大島々内の砂糖代米を厳重に配分し、出米や夫使(夫役)の徴収を減じ、上納物を少なくすれば、百姓一統競い立って耕作に励むであろうと述べたのに対して、得能佐平次は次のように答えている。すなわち考えのたりない島民のことであるから、あまり寛大な政策をとれば農耕がいい加減になり、その上広い島に多人数の作人がいる以上は中には無精者もいるに違いなく、それで島役を督励して島中の巡廻を油断なく命じるほか砂糖増産の方法はなかろうとしている。島役を含め島民に賞罰厳明策でのぞむのが得策であるという。また島役の人選が肝要なことがらであるとも記していて、徹底した愚民観を述べている。

 この愚民観と善政の共存は、得能佐平次の特徴にみえる。

 その得能佐平次も道之島赴任後はすこし変わったようである。彼の「丁酉大島紀行」は紀行文として文飾の多いものであるが、着島後折しも行なわれていた砂糖代米の支給の光景を目撃して「竜郷の御蔵にて米給り、歓びいさむありさま、筆にも尽しがたきほどなり」と記しており、また名瀬戸や大和浜でも同様な情景をみて「常よりもきおふ船子の声々に君がめぐみの深きしるけき」と、島民の賑わう様子を藩主の恵みの深さのあらわれと歌っている。

 しかし一歩農村に足を踏みこんで巡廻を綻けるうち、得能佐平次は島の現実に打ちのめされたのであった。「家々の労れ、いふもさらなり、腰打かけて足を休むる家なく、渇きへ忍び兼るほどなり」と述べている。また万屋村にさしかかったとき、湯を乞うたあばら家の女が「朝夕の煙だに立たる事なく、磯の藻屑に飢を凌ぐなると語るを聞くも、胸塞る計り也」と記している。湯をわかすこともなく、磯で海草を拾ってきてはそれで飢えをしのいでいる島民の現状に胸を痛めている。
 得能佐平次は、黍作強制の一定程度の緩和と、飯料の作物栽培を認め、藩からの代米支給を廃止するよう建議したというが、しかし道之島三島の砂糖生産を発展させようとする限り、彼の建言は矛盾したものとなる。

 得能の記述はよく引用される個所だから、抜粋しておこう。

・家々の労れ、いふもさらなり、腰打かけて足を休むる家なく、渇きへ忍び兼るほどなり
・朝夕の煙だに立たる事なく、磯の藻屑に飢を凌ぐなると語るを聞くも、胸塞る計り也

 奄美は、第一次定式買入が終わり、惣買入制に移行するときには、既に相当、疲弊していたのが分かる。
 得能は、翌1779年にも大島を訪れる。

それは前回の彼の治政宜しきを得たことの評価の上で命じられたものであり、翌春代官など詰役の総交代による島政のゆるみを監視するためであった。「端島ニテ、已前ヨリ島の仕来りもこれ有り、与人共自分勝手向二心付け、新役代合ヲ相い伺い、内心古風ヲ含ミ、表向ニハ御勝手筋二取り繕い、連々目立たざるように申し込み、自然少事とて竺冗ノ仕向テ立ち戻り候テハ、御趣法モ相い立たざる筈候」と藩庁から申し渡されている。僻遠の島であるので以前からのしきたりもあって、与人どもが自分の利益になることのみを考え、詰役の交代の時を狙って、内心は背どおりの古風にしたがいながら表面は藩のためになることと取り繕って、いろいろ目立たないようにすこしずつ晋の取り扱いに復するようなことがあっては、砂糖惣買入制も形骸化してしまうと、注意を促されている。得能佐平次は大島に渡海して、砂糖生産の増大をはかるために、徹底したノロ弾圧を行なったというが(『名瀬市史』)、島民の間のノロ信仰を破砕しようとする政策は、喜界島でも同様に採られていた。(中略)砂糖生産に専念させることに、全ての目的を絞っていると言えよう。

 まず、ノロの弾圧を行い、

 安永七年(一七七八)代官新約用之進は、徒目付得能佐平次と相談して大島における「遊日」を禁止した。「遊日」とは、島内の男女が農業を休んで遊ぶ休暇の日である。正月元日二一日・十六日、二月火玉遊び、稲植、三月三日、四月初午、五月五日、アスクネ遊、虫カラシノ遊、六月稲苅ノ日、七月七日・十六日、八月節句、柴サシ、純賀、九月九日、庚申日、種カシの翌日、十一月折目、そうり遊びなど、年間三五日に及ぶという (「大島私考」)。新納と得能がそれらの「遊日」を禁じた文言に、遊日と名付けて一日中遊び無為に過すけれども、一日として食をとらない日はないのだから島役が下知して耕作に精出すようにとしている。

 遊日の禁止を行った。

 この姿勢に対して、松下は、

道之島のゆったりとした人生を楽しむ風土と対照的な封建社会の倫理が、ここでは色裡せてみえるのはどうしようもない。

 と評価するが同感だ。得能のやり方は薩摩の思想の傾向がよく出ていると思える。ぼくの体験に照らしても、薩摩の思想は観念の自由と楽な姿勢を忌む。過剰な武士団で緊張する共同体は、「議を言うな」、「泣こよかひっ飛べ」と観念的自由を遮断する。また、同時にその緊張は楽な姿勢の余地を奪う傾向を持つ。一向宗の禁止や廃仏毀釈の呵責なさはそれをよく象徴している。

 そこで、得能の目に遊びに興じる島人の姿は「考えのたりない島民」と映るのである。この、こわばりの思想にあっては、島人の実態に胸を痛めることと、遊日を禁止することは、矛盾しないのである。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/24

奄美づくしの映画祭

 昨日は、法政大学に沖縄文化研究所主催の「2008沖縄ドキュメンタリー映画祭」を見に行ってきた。

◆23日
13:00  開場
13:30~ 『与論島の十五夜』 (48分)
14:30~ 『佐仁の八月踊り』(32分)
15:10~ 『龍郷のアラセツ』(31分)
15:45~ 『諸鈍シバヤ』(40分)
16:30~18:00
      特別講演 【奄美のノロとユタ】
      講師: 山下欣一 先生 (鹿児島経済大学教授)
18:10~ 『奄美のノロまつり1 -加計呂麻島 』(30分) 
18:45~ 『奄美のノロまつり2 -奄美大島 』(30分)

 という奄美尽くしのラインナップ。

 与論の1980年の『十五夜』は印象的だった。何がって、あの緊張感のなさ。演目を行う空間と観客席の空間が隔てられていないどころか両者は微妙に重なり合っていて、演じ手の脇を平気で子どもが駆けてゆく。それを誰もとがめるでもない。録音だって、音楽や踊りの音に負けないくらい子どもたちの騒ぐ声が入っている。演者の一人が途中で演技を注意したりする。演目も脈絡のないところがある。ナレーションもどういうわけかほとんど入っていないから、与論言葉が分からなければ何をやっているのかなかなか分からない。だいたい『十五夜』というネーミングからしてこだわりがない。そんなゆるさ、こだわらなさは、いかにも与論的だった。ああこれは与論だと懐かしかった。持田さんらには音楽もよかったと言われ、音楽家に気に入ってもらえたのもほっとした。
 
 「奄美の家」の圓山さんに指摘されてなるほどと思ったのが、『十五夜』と加計呂麻の『諸鈍シバヤ』の構成が似ていることだった。『諸鈍シバヤ』もユーモラスで楽しい。柴で囲った楽屋は誰も覗いてはいけないとされていると、厳粛な声のナレーションが入るのに、子どもたちが覗いているシーンもしっかり映っていて、ゆるさのつながりもあった。

 「ショチョガマと平瀬マンカイ」の映像が観れたのもよかった。男性集団によるショチョガマと女性集団による平瀬マンカイの対は、与論や沖縄島北部の男性集団によるシヌグと女性集団によるショチョガマの対を連想させた。祭儀の形態は違えど、高神を男性が担い、来訪神を女性が担う構造は共通している。

 『八月踊り』の熱気と男女の掛け合いと夜通しかける時間は、人類の母型にさかのぼれる深度を持つと思う。憑依するユタと司るノロの役割分担やヲナリ神信仰も、琉球弧につながる奄美の深い時間の奥行きを教えてくれる。神酒を飲み頭を清める仕草が懐かしい。そいえば小さい頃、ヤブ(ユタ)に相談に行く親についていったことも思い出した。

 初めてお聞きする山下欣一さんの話もよかった。近代以降、日本人化を急ぐあまり、ユタ、ノロを「迷信」と一蹴する奄美の先輩の声に抗して、山下さんは母がそうだったのをきっかけにユタの研究を始める。その抗いはまっとうなものだ。

 沖縄文化研究所の福さんには、ありがたいことに『南島研究』の49号をいただいてしまった。『南島研究』は、酒井卯作さんの話が読めて嬉しい。酒井さんの考察は事実の類縁があればすぐにつながりを見出すので、政治やイデオロギーに足をすくわれることがない。そしてひとつの事象がすぐに琉球弧全体や日本とのつながって展開されてゆくのが心地いい。たとえば、山下さんがユタの成巫式で、山を海を走るユタのことを話したときには、突然発狂して山に入ったり木に登ったりする女性の姿が天狗伝承の源になっているのではないかという酒井さんの仮説を思い出すことができた。この、発想ののびやかさが素敵だ。福さん、ありがとうございます。


 奄美は広く、深い。そう映像に教えてもらう一日だった。
 

| | コメント (7) | トラックバック (0)

三宅国秀の琉球遠征計画は無かった!?

 薩摩の琉球侵略の経緯をたどる記述には、必ずといっていいほど、三宅国秀事件が出てくる。17世紀中盤、三宅国秀なる人物が琉球征伐を目的に鹿児島に訪れて討伐されたという事件だ。そして、それを受けて薩摩は琉球に、もともと友好関係にあるから三宅を討った。今後も安心してほしいと伝えたことも忘れずに付け加えられる。むしろ、この後段のメッセージの方が薩摩にとっては意義深いということだ。

 さて、この事件、薩摩の恩売りの目的であることはすぐに分かるが、うさんくさいという印象はぬぐえない。それは心証の域を出ないのだが、琉球の友好関係があるから三宅を討ったという言動が、薩摩にそぐわないと感じられるからだ。

 そんなときに、紙屋敦之の論考(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書)で、田中健夫が三宅国秀事件は捏造であると説いているのを知って腑に落ちた。その田中の考察は、「三宅国秀の琉球遠征計画をめぐって—その史料批判と中世日琉関係史」だ。

 結論を先に書くと、田中は三宅事件の真相を、

この事件は三宅国秀の坊津下着、島津氏の誅伐、数年後における今岡氏の琉球渡航計画という三つの事実を、島津氏が日本と琉球間における自己の立場を琉球側に対して有利に宜伝するために三宅国秀およびその党軒の遠征計画事件にすりかえたものであり、島津氏の琉球貿易独占体制確立の過程のなかでつくりあげられた虚構の事件であった

 と考えている。それが、「幕府や諸大名に琉球に対する島津氏の特殊権益を既成事実として認めさせるためにも大きな役割を果したのである」。

 なるほど、だ。田中はどのようにアプローチしているか。
 まず、三宅事件は3つの事件として語られている。

第一の事件

・永正十三年(一五二ハ)、備中の三宅和泉守国秀が、琉球遠征を目的とする兵船を率いて薩摩坊津に至ったが、薩摩守護島津忠隆のために討伐されたと伝えられる

第二の事件

・つづいて第二の事件が五年後の大永元年二五二一)に起こり、備中の兵船が坊津を焼いたという。

第三の事件(約二十年後)

・後日譚としての第三の事件が起こった。天文の初年、三宅国秀の一党のものが足利将軍の命によって琉球遠征を企図して薩摩に下ったというものであり、薩摩の老臣がこのことを琉球に敢じた連署状がのこっている。


 まず、田中は第一の事件を検討している。三宅国秀事件に関する史料はもともと少なく7つしかない。そのどれもが、薩摩に伝わったものだ。史料は「古文書、古記録、編纂書」の順で信憑性がふつう言われるが、7つのうち古文書は2つあり、かつ人名や地名の表記の仕方を見ると、古文書の2つが7つのなかでも古いものだと思われる。にもかかわらず、古い2文書には、日付の表記がないのに、後の文書でそれが出てくる。それは、事件の時期について、琉球船の来航をタイミングに合わせて作為したものではないか。

 次に、その古い文書二つを比較してみると、

〔史料六〕のみが三宅側の史料で他はすべて島津側の史料であることが、一方が足利将軍の命によって琉球渡海を企てたとしたのに対し、他方が琉球征伐のための渡海としたのである。いずれかが真実であればいずれかが虚偽ということになるが、私は島津側の史料に対してより多くの疑問をいだかざるを得ない。その理由の第一は三宅和泉守が琉球を討つという行動の必然性が思いあたらないことであり、その第二は十二艦くらいの船団で琉球を征伐するという不自然さである。三宅国秀の素性が豊田氏の推測したように堺に関係あるものであるとするならば、貿易ルート確保のために琉球に渡ろうとし、島津氏の妨害をうけたということは十分に想像することができる。しかし、この船団が貿易を目的としたものではなく、遠征経略を目的とするものであったということは理解に苦しまざるをえない。

 第三の事件について、史料7は史料6を受けているとも書かれているから、すると、最も古いと想定される文書には、「琉球渡海」と書かれているのに、史料7以降は「琉球征伐」と統一されていることになる。

 田中が「理解に苦しむ」点を少し追ってみると、

 もし三宅氏の渡航計画をのちの倭寇のような海賊的貿易集団の単なる略奪を目的とした行為とみるならば、その坊津停泊に対して島津氏が討伐するのは十分な理由があったといえるが、倭寇の船団が幕府の下知をうけて琉球に渡航するということはあり得ないことで、三宅氏をいわゆる倭寇の一党と見ることはできない。
 いずれにせよ、島津氏にとって三宅氏は不都合な存在であったものと考えてよいであろう。すなわち三宅国秀の琉球征伐の意図の有無にかかわらず、島津氏としてはこれを討つに足る理由があったのである。
 船団については「兵船」とか「闘艦」とかの文字が使用されているが、船の規模についての記述はない。遣明船程度のものと想像するならば、一隻に百五十人から二百人くらいの人数が乗船していたことになるが、その発達のために要する費用は莫大なものであった。このような大船を十二隻も一度に派遣することは、細川・大内などの大勢力であっても決して容易なことではない。ちなみに現在史料によってしられるところでは、遣明船団のうち最大のものでも九隻の編成であった。しかもこのような大船団の派遣が他の中央史料にまったく記載されなかったということはありえないから、一姫の規模はよほど小さなものであったとみなければならない。慶長十四年島津氏の統球遠征の折に用いられた船は七十余艘、兵員は三千余人で山川港より出船したという。平均すれば一船四十人強になる。しかもこの軍団は朝鮮出兵を経験した精強な兵員と多量の鉄砲を所持していたのである。

 三宅の十二隻の船団は、相当な規模だが、どこの史料にもその記載がないのは不自然で、かつ薩摩の琉球侵略の際は七十余艘であったことを考えると、十二隻はいかにも小粒である。つまり、どちらの点からも不自然さがある。

 この事件が実際に、永正十三年に発生していたとしても、琉球が島津氏の附庸国であった故に三宅氏を討ったという記述には承服することはできない。島津氏としては琉球貿易独占の障害となる三宅氏を討つのは、自己の利益を護るために当然の行動であったし、三宅氏の琉球渡航を苑球征伐とすりかえることにより琉球に対しては恩を売る行動として正当化しようとし、国内に対しては既成事実をつくってこれを認あさせようという、まさに一石≡鳥の効果をねらった行動であったとうけとるのが妥当ではないだろうか。

 第二の事件については、

 これまでの考察がもし当をえたものであるとするならば、第一・第二の事件に関する史料はその根拠の多くを第三の事件の史料である『島津家文書』所収の文書案に負っているということになる。そして疑問の点を除去した後にのこるものといえば、『島津家文書』に収められた〔史料六=史料七〕に語られている三宅和泉守国秀なる人物が薩摩坊津に下着して、島津忠隆のために殺害されたという事案だけで、他の記載はいずれも粉飾や偽作・推測の疑いがきわめて濃いといわねばならぬ。

 最も古いと目される史料6、7の『島津家文書』は、第三の事件について書かれたものだが、それ以降の文書はこれをもとに「粉飾や偽作・推測」したものではないのか、と田中は考える。

 第三の事件について書かれている史料7は、史料6を根拠にしていると思われるが、史料7は「琉球渡海を琉球遠征と推測させるような巧みな曲筆がある」。

第三の事件の核心は、今岡氏が琉球渡航をめざしたという事実にあると考えるよりは、むしろ島津氏がこの事実を琉球に通報することによって、琉球への侵略者に対して島津氏がそれを阻止し、琉球を保護防衛する立場にあることを強調して確認させようとした点にあったと考える方が妥当と思われるのである。〔史料八〕が故意か偶然かわからないが、〔史料六〕を無視し、〔史料七〕のみによって記事をなしている点にも、この事件に対する島津氏の態度の一端を見ることができるような気がする。

 史料6、7以外は、この二つの資料をもとに書かれたものだと思われるが、この二つは、6が古く、かつ、薩摩以外の立場から書かれている。だから、史料7のみに依拠していることにも作為のにおいを感じる、というのだ。

 そこで、

 この事件には不明な個所がきわめて多く、事案としてみとめられるものは結局〔史料七〕の語る部分のみであって、島浮氏の側竪止ってみるとき、〔史料七〕以外の史実や史料はすべて〔史料七〕を説得力あらしめるための伏線でしかなかったといって過言ではあるまい。

 ということになる。

 島津氏の琉球に対する立場は応仁の乱以後慶長の琉球経営までの間につぎのような変容をみせる。すなわち、

(A)琉球渡航船の警固者
(B)幕命による琉球渡航船の保護監督者
(C)幕府の意志の琉球への伝達者
(D)琉球との直接通交者
(E)琉球渡航船の保護ならびに妨害者 ◆
(F)幕命によらず島津氏独白の意志による琉球渡航船の統制者
(G)琉球貿易の独占監督者
(H)琉球に対する来貢不履行の認貴著
(I)琉球侵略者
(J)琉球の実質的支配者

 さて、三宅国秀の一件は、ちょうど島津氏の琉球への通交独占の要求と琉球から許可の回答のあった年の中間に発生したことになっている。三宅国秀の一件は、島津氏が琉球を侵略しょうとする者から琉球を庇護防衛する立場にあることを強く印象づけようとして種々の粉飾をほどこした疑いの濃い事件であることは史料の検討の際に縷述した。このことは中世薩琉関係の全体の動きのなかに位置づけると一層動かしがたい真実と思われてくる。本件は島津氏の琉球に対する態度が、前記の(C)(D)から(F)(G)に変容する契枚としての(E)の段階を示すもので、島津氏の動静をみるうえで重要な意味をもつものであったといえよう。

 三宅事件は、「琉球渡航船の保護ならびに妨害者」を象徴する。田中の意図を正確にいえば、「琉球渡航船の保護ならびに妨害者」を象徴させるための事件であった。

 ぼくは田中の三宅国秀の琉球遠征事件虚構説は説得力を感じる。史料の読みとしても心証としても。

◇◆◇

 ぼくが驚くのは、薩摩の琉球侵略の記述にさんざん出てくる三宅事件が虚構である仮説が提出されていることと同時に、でも驚きとしてはそれ以上なのは、田中はこの考察を1978年に発表していることだ。つまりもう30年経つのである。それなのになぜ、紙屋の考察でしか目に触れることがなかったのだろう。というか、たとえば、あの『名瀬市誌』はこれを取り上げていないのだろうか。この考察は誰にとってもっとも切実かといえば、言うまでもなく奄美である。当事者たる奄美が、この田中の仮説に注目し取り上げ、吟味するのが筋というものだと思う。にもかかわらず、1996年の『名瀬市誌』においても、取り上げられず、三宅事件を事実として取り扱っているのが、何ともいえず、残念な気がする。

◇◆◇

 もうひとつ付け加えておこう。実は、田中は、三宅国秀の琉球遠征計画は、渡航を遠征とした作為であると主張しているのだが、実は、8つの史料以外には、「この三宅国秀なる人物については他に徽すべき材料がない」などの理由から、「私は、永正十三年の事件の発生について深い疑いをいだくものである」として、三宅国秀事件自体も虚構ではないかという疑いを持っている。考察は、「一歩退いて」、事件があったとしたら、という前提からスタートしている。田中の疑いは頷けるものではないかと思える。

『戦国大名論集〈16〉島津氏の研究』
「三宅国秀の琉球遠征計画をめぐって—その史料批判と中世日琉関係史」
(田中健夫、1983年)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

古宇利島のウンジャミ(海神祭)

 8月27日に与論の近所の古宇利島で行われたウンジャミ(海神祭)が記事になっていた。

 古宇利島のウンジャミ(海神祭)に思う

 与論島ではもう消滅してしまっているから、古宇利島のウンジャミ(海神祭)は存続してほしいしまた存続できるのか気になる。が、記事は、やはり神人(カミンチュ)の減少を伝えている。

 記事は、古宇利大橋完成後の宿泊施設による聖地破壊と浜辺のゴミ捨て場化も懸念している。橋は島をつなぐが、そのとき島は島ではなくなるから、その生命力は衰退せざるをえなくなる。ぼくたちは島の衰退劇を目撃しているのだろうか。

 記事は具体的で読み応えがある。ふとみると、書き手が記されていて浦島悦子とあり、合点した。「やんばるから奄美を視る」の愛情ある文章を思い出した。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/23

「大島御規模帳」、抜粋

 『大島規模帳』が読みたい。と言っても国会図書館にもないので、松下志朗の『近世奄美の支配と社会』のなかから、『大島規模帳』に関わる箇所からその中身にアプローチしてみたい。

 享保内検後の享保十三年(一七二八)暮、大島代官宛てに令達された「大島御規模帳」は、与人の代役について、その者の「器量」(才能)によって任命するとし、平百姓であっても適材と思われる者三、四人を見合わせて申し出るように命じているが、その際本琉球支配時代の由緒を申し立てることは無用であるとして、「御蔵入二成り候てハ皆平百姓こて候」と記している。道之島々の民を皆「平百姓」としてとらえることは、薩摩藩政担当者にとってひとつの達成目標であったろう。薩摩藩が要求している「器量」者は、その家筋に関係なく、新田開発や砂糖献上などを通じて、藩財政に貢献する者のことであった。

 「琉球支配時代の由緒を申し立てることは無用」のくだりは、<琉球ではない>という規定の典型的なものだ。ただ、後年、「藩財政に貢献する者」を郷士格として取り立てていったのは、奄美に<大和>化の通路をつけた政策のように見える。しかし、「郷士格」といえども原則、「平百姓」としたところは、<大和でもない>という規定が下敷きにあるのを示している。

 内検後享保十三年(一七二八)十二月十五日一四九ヵ条の「大島御規模帳」が作成されて大島代官に渡されているが、その第三条において耕地開発の規定を記している。それは古荒の起こし地(荒廃地の復旧)と新仕明(新地開発)を奨励しているものであるが、まず二日以上開墾に従事する者は一日飯米五合を支給することとし、とくに大糖(大きい沼地)の干拓のために遠方から来る場合は飯米七合五勺と規定している。そして年貢については、新開田は開墾したときより二年間見掛け上納(検見取り)として三年目に検地を行ない、定代の年貢収納とするとしている。そのほか畠田成(畑地を田地化)の場合は二年間作り取り(無税)→三年目検地→定代上納とし、大山野・新任明・古荒地は三年間作り取り→三年目検地→四年目より定代上納と規定している。永作地の場合もまた三年間作り取り→四年目検地→定代上納としているが、ただし経費が常んだ場合は四年乃至五年間の作り取りを認めることもあると附記している。

 耕地開発に関する規定。149条のうち第3条に出てくるのは、耕地開発の重要度を物語っている。

前引の「大島御規模帳」をみると、井手・溝・溜池・堤など破損した場合の修補について指示を加えた箇条があるが、その中で百姓が勝手に田地で畠作を薩摩藩の支配強化すること(黍作付)を規制し、他の箇条でも田地耕作をおろそかにして魚猟を好んだりすることを戎しめ、また苗代についても若首・晩首など蒔きつけて、苗の不足が生じないように、とくに代官交代期に田植えがおろそかになる傾向があることを注意している。それは道之島より本藩への仕登米の取り扱いについても種々規定を設けていることからも、道之島の貢租の中心は米であったと言えよう。

 侵略後の1世紀は「米」中心であったということだが、ぼくは「魚猟を好んだりすることを戎しめ」に目が行く。「魚猟を好」むというのは、薩摩にとってそう見えるだろうが、島人にとっては生活の糧を得るための行為に他ならなかった。農耕民化されない狩猟民的な側面を濃厚に持っていたのである。

 なお、「大島御親摸帳」について若干説明をつけ加えておくと、この帳は元和九年(一六二三)の「大嶋置目条々」をはじめとして、以前に令達された覚書類を集成して大島代官に渡されたものと考えられる。同一内容のものが重出していたり、箇条の配列が内容的に錯綜していてまとまりがみられないが、逆にそのことは大島代官実務の手引きとして重用されていたことを示すのかもしれない。一四九ヵ条の内容は、代官・附役人の勤務についての戒しめと、島役人(とくに与人)の私利を図ることの規制が大部分を占めている。それと道之島への渡海船に関する規定が詳細になされていることも注目される。その他雑多な内容を含んでいるが、この「大島御規模帳」は、「物定帳」、「用夫改規模帳」とならんで、遺之島支配の基本法となる性格のものであった(「大島御規模帳」第一四一条参照)。

 『大島規模帳』の性格が、「大嶋置目条々」以降、約1世紀をかけて奄美統治の具体策を集成したものであることが分かる。

 以上の負担のほかに、百姓を苦しめたのは夫役の重課であろう。溝堤・道・橋・田島・仮屋などの普請や役人巡廻の際の送人馬・水夫役の負担は決して小さくなかった。「大島御規模帳」では「島中与人・横目・掟・筆子、御奉公方に就き他行の時は、供夫壱人ヅツ百姓より申し出づべく候、此の中、供夫として多人数申し付け、夫仕代米こて百姓中より受け取る由」不届きであると禁じているが、そのような夫役負担は、仕登米の船積みなど多くなされている。結局「島中与人を始め下役の者共、非道の儀百姓方へ申し付け候に付き、諸百姓困窮致すの由に候」と代官の注意を喚起して百姓の保護にあたらなければならないほどであった。

 ここでは、本土薩摩と在奄美薩摩との利害の衝突が見える。それが本土薩摩の、在奄美薩摩の権力行使に対する抑制策として現れている。

 このように第一次定式買入制の前半期において、砂糖生産の発達は定式買入額を二五〇万斤まで増加させたものの、稲作蚕祝の政策は依然として採られており、享保内検後の「大島御規模帳」に記述されているように畠地の水田化奨励や上納米の検査、附役人による田地仕付前の巡廻、損地の打ち起し、苗代の準備などに対する配慮がいろいろとなされている。また享保四年(一七一九)の喜界島における田方用水溜池の普請工事などもそのあらわれである。砂糖生産のもつ比重は次第に増しながらも、この時期においては田方年貢を凌駕するには至っていなかったと考えられる。

 1745年の換糖上納制を前にした1719年においても、年貢に閉める比重は「米」が大きかった。

 第一次定式買入制の前期を通じて島政を大きく転換させた画期は享保内枚に求めなければならないが、その時期までの法令を集成したものと考えられるのが「大島御規模帳」一四九ヵ条である。それについては前に述べたが、その中でひとつ注目されるのは、遺之島における旧慣の改革であろう。
 すでに元禄七年(一六九四)の覚書でも「田島を荒し、並びに作障に、神の山・けんもんたまかり所の由侯て、竹木を相立て置き候事」を禁止しているが、さらに耕作上支障となる竹木の伐り払いを命じ、島民が「神慮を引き、或いは風病などと申」して竹木伐り払いを忌避することを戒めて、附役人の巡廻の際その執行を命じている。

その他規模帳には病人が生じた時祈念のために牛馬などの生物を殺しまた衣頬・家財などを贈る旧慣を禁止し、その禁令を島内のユタに周知徹底させるよう命じている。また女どもが神がかりして奇怪なる言動をし、米・雑穀を費し、徒党を結んで島中の騒動になることを厳重に規制している。島内での折田祭は盛んに行なわれたとみえ、それが終わらなければ苅取納(収穫作業)がなされないので、新米の績み出しが時期おくれになるとして、折目祭の日取りをおくらすように指示している。焼酎作りについても度々規制しているが、それでも弔酒や「移徒・子持祝、或いは家作」などの折多人数の著が集まって大酒を飲み、財産をつぶす者もいるので、今後焼酎をみだりにつくる者があれば「百姓無人の在所」へ移すか罰金を徴収するとしている。

 「女どもが神がかりして奇怪なる言動」、「焼酎作りについても度々規制している」などの規定は、原始的要素を多分に持った奄美の世界観やおおらかさが、薩摩の過剰武士団の規範にそぐわなかったことをよく示している。

 ところで薩摩藩としては、島民のいろいろな形での抵抗を事前に排除する必要があった。その政策のひとつは、たびたび繰り返された刀刈りである。享保内枚の際の「大島御規模帳」に、以前に島内に過分の兵具があり、それらは没収したが、時々刀・脇差を帯びている者もあるという噂であるから今後そのことのないように、とくに鉄砲の管理については別に一ヵ条を達して厳重に調査するよう命じている。

 奄美でも行われた刀狩り。

 「大島御規模帳」に、島民が刑罰などのために居所を移された場合、代官在島中はその命令にしたがっているけれども、代官が交替すると勝手に元の在所へ立ち帰り、与人など島役もそれを黙認しているという風聞があり不届次第であると非難している。

 薩摩藩では道之島と本琉球との精神的紐帯を断ちきるために、当初より島民が琉球に渡って鉢巻(位階)の免許を得ることを禁じていたが、その他にも琉球人が道之島へ着岸して日和待ちをしているときに酒や酢・醤油などを島民より出すことを禁じたりしている。

 <琉球ではない>という規定は、政治的な切断を起点にしているが、交流自体を奪うことにも及んでいったのが分かる。「近くて遠い沖縄」の遠因を見るようだ。

 その拝謁が終わったあと、諸役人へのお礼廻りと招宴などが続き、道統が徳之島へ帰島したのは年明けて三月のことであった。これらの上国与人が差し出す献上物や諸役人への進上物は、島民より徴収されたものであることは曖ごとに焼酎の壷が番号を付せられていることでも明らかであるけれども、自分荷物の積み入れについて享保内検時の「大島御規模帳」に規定がなされており、そのはか鹿児島滞在の費用なども含あて与人の負担も決して小さくはなかった。したがって上国与人が帰島したとき、その負担と引き換えに拝謁の光栄をことさらに強調するのは人情のしからしめるところであろう。「大島御規模帳」に、上国与人が鹿児島での制度や作法を見聞して帰島してからその格式をまねしょうとすることを戒しめているが、たとえば徳之島の道銃の場合、鹿児島で郷士格に任ぜられており、その栄耀はいや増しに輝いたと思われる。

 与人を上国させたことは、奄美の疲弊を代償に、奄美内薩摩を現出させる動因になった。

享保内検時に、ヤンチュを別の島かまたは同じ島内でも主人の居所以外の所に置き耕作に従事させることを禁止しているが(「大島御規模帳」)、近世後期ではその禁令も反故同然と化していて、ひたすら砂糖増産に励んでいたのであろう。

 黒糖増産の前には、家人(ヤンチュ)発生も黙認であった。

 「大島御規模帳」では、道之島が薩摩藩の支配下に入ってからは、「皆平百姓こて候」と与人をはじめ島役の権勢を削ぐことに努力しているが、幕末・維新期においても、金久好によれば「家人及百姓は『由縁人』に路上で逢ふ時は土下座して挨拶を為した」としており、そのような主家の勢力をたのんで、家人までが一般百姓に対して横暴だったという。ユカリッチュにとって島役は犠牲を払ってでも手に入れなければならないステータス・シンボルであり、そのために献上砂糖の確保は何をさておいてもなされなければならないことだった。

 琉球ゆかりのユカリッチュが、奄美内薩摩である島役になるためには、「献上砂糖の確保」が必須であった。


 ぼくたちは、こうした細々した規定のなかに、二重の疎外の<琉球ではない、大和でもない>という規定の志向性を垣間見ることができる。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

エラブな夜 at 「島の人」

 久し振りに飲んだ。最近めっきり元気がない。元気がないと飲みにも行かなくなるのに気づいた。でもゆうべは別。上京した前利さんやエラブンチュのみなさんと一緒させてもらい、エラブな夜だった。足取りも軽く新宿は「島の人」に向かったです。

 改めて気づいたが、エラブンチュとご一緒させてもらうと、なんというか、居心地がいい。ご近所さん。そんな気やすさがある。兄弟島と呼んだりする理由がわかる。そんなわけだから自然と話も弾む。「島の人」のご主人もエラブンチュだそうだ。どうりで、方言で言われてもわかる。それもまた嬉しい。

 宴もたけなわ。持田さん宗さんの三線と島唄。「サイサイサイ」、「十九の春」、「えらぶゆりの花」。聞き惚れて、そのうちみんなも歌う。踊る。


Mochidasan0922Sousan0922














Kasi

(ぼんやり映ってますが、歌詞です)


 二次会は「琉琴」。
 ゆうべはもうおひとかた、ユンヌンチュ二世の本山さんとお会いできた。


※松島さんが、当日の模様を紹介してくれました。(「新宿にある沖永良部のシマ」


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/22

『大島規模帳』が読みたい

山田尚二編『大島規模帳』
                                  山下欣一

 大和村国直の盛岡家文書を発見され、これらを整理して逐次発表されたのは、当時の大島高校教諭で現在県明治百年記念館建設準備室に勤務しておられる山田尚二氏であった。山田氏が在地土豪の分析をされ、いわゆる「ユカリッチュ」の位置づけをされたことは、奄美の郷土史の研究に一大時期を画したといえるのであった。あの新鮮な視点と方法での問題提起が期せずしてまき起こした論争は、奄美の郷土史がその市民権を獲得し始める萌芽であったといえよう。

 山田尚二氏の業績のなかの一つが、『大島規模帳』の刊行であった。本書は、従来、幻の書といわれていたが、江戸時代初期、中期の大島統治を知る上で不可欠の文書である。本書は享保十三年(一七二八)に『大島用夫改規模帳』、『郡奉行物定規模帳』とともにまとめられたものであるが、これを国直の与人前武仁が嘉永年間に筆写したものの復刻である。

 大島統治についての為政者の心得を事細かく記載して、代官はじめ島役人に至るまで、その参考に利用したもののようである。いうなれば、その当時の『行政必携』とでもいうべき書であった。逆に、このような文書から、当時の奄美の状態を知るてがかりになる事柄が多くある。

 まず、内容は、代官、付役の心得を述べることから始めているが、この中には、一貫して、代官、付役などの自分勝手、または、自分の利益をのみはかってはならない点を強調している。このことは、島へ下り、役人になれば、一財産を作ることができたという事実を裏書きしている記事であるといえよう。島の人々の生活には不必要なものを沢山持って行き、与人や下役に頼んで渡し、それと引き替えに砂糖穀物諸色を取る方法で利益を得るものがいるというのである。

 このようにして、『大島規模帳』を仔細に検討していくと興味尽きないものが多くあるのに気づくのである。たとえば、目についたものを順次あげてみることにしよう。
 島の人には日本人の容姿をさせてはならない。日本人の名前をつけることは停止。成人以後にかみそりを当てることも禁止である。このようなときに鳥人と日本人とを区別して記載しているのは注目していい。

 また、この他、病人が出たときに、牛馬を殺してユタが祈願すること。神の山、ケンモンタマリなどといって、竹木を立てて田や畠を荒してはいけないこと。打目祭(収穫祭)が済まないと、米を刈り取り、上納しないというので、今後は初穂米だけ残して、その他は上納すること。女どもが神にかかりたることで奇怪なことを企てるのは禁制であること。また赤ひげせ取り他所へ出してはいけないというようなことまで、事細かく記述してある。

 このようにみてくると、本書は、歴史学的史料のみならず、民俗学的観点からしても、十分検討に値する史料であるといい得るのである。(一九六五年、私家版)
『奄美学の水脈』

 『大島規模帳』にいう「規模」とはどんなニュアンスを持つのだろう。「規模」を辞書で調べると、

(2)手本。規範。

 という意味が出てくる。これですね。大島の規範を記したものということだ。

 それにしても、二重の疎外の決定打となる『大島規模帳』を読んでみたい。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

M7a集団

 M7a。どこかの星団ではなく、ミトコンドリアの話。

 【試行私考 日本人解剖】第3章 ルーツ 沖縄の謎(2)

縄文時代の関東や東北地方には、「M7a」というミトコンドリア(mt)DNAの型をもつ人々がいた。このM7a集団については、「黄海から東シナ海にかけての地域で生まれ、旧石器時代終わりから縄文初頭にかけて琉球列島経由で本土に拡散した」(篠田謙一・国立科学博物館研究主幹)可能性が指摘されている(「DNAでみる縄文人(3)」)。

 ぼくは、この、琉球弧経由での本土への流れという、柳田國男の『海上の道』を、柳田の想定より遥か昔に想定できる仮説に、とても惹かれます。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/21

更新されるべき「島津氏の琉球入りと奄美」

 1996年に発行された改訂『名瀬市誌』の「島津氏の琉球入りと奄美」はまるで戦前に書かれたもののようだった。勢い、それがどのような改訂を経て現在の姿になったのか知りたくなり、改訂前の1968年発行の『名瀬市誌』を見てみた。

 驚いたことにというか、ひょとしたらの予想通り、「島津氏の琉球入りと奄美」は、改訂前の『名瀬市誌』と同じだった。「島津氏の琉球入りと奄美」は改訂されていないのだ。驚きは二重になる。1968年に戦前の精神類型を思わせる郷土史が書かれていること、そしてそれ以上に、それは28年を経過しても顧みられることなく、そのままの形で改訂版に掲載されたのだ。

 いったいどうしてこういうことになるのだろう。

◇◆◇

 ぼくにしてみればこれも驚くべきことなのだが、1968年発行の『名瀬市誌』の「まえがき」は、原口虎雄が書いている。ぼくはかつて、

要するに戦国末期から近世初期にかけておこなわれた覇者の国家的統一事業の一環にすぎない。強者が近隣の弱者を食ったまでのことで、日本国中に弱肉強食がおこなわれて、結局徳川将軍による幕藩体制下に琉球国も組みいれられることになったのである。これまで同じ日本民族でありながら、南日本の琉球列島だけが中国の版図になっていたのが、慶長十四年の征琉の役以後、日本の統l政権下にはいったといえる。隣の飢えたる虎にもたとえられる島津藩に併呑されたということは、琉球国にとっては耐えがたい苦痛であったが、もし征琉の役がなかったら、琉球は中国の領土として、その後の世界史の進展のなかでは、大いにちがった運命にさらされたであろうと思われる。(『鹿児島県の歴史』

 と書いた原口を感性の死者と評した。「強者が近隣の弱者を食ったまでのこと」というすさまじい開き直りにあきれ果てたからだった。この『鹿児島県の歴史』は1973年に発行されているから、『名瀬市誌』の5年後である。『名瀬市誌』に関わったあとに、「強者が近隣の弱者を食ったまでのこと」と書く者に、奄美の中核都市である名瀬の郷土誌のまえがきは(実は、あとがきも)委ねられているのである。

 地方誌をつくるのに最も重要なのは、委員の人選である。私の最も欲しいのは、「歴史を知っている」という文化人よりも、むしろ土地の実情に詳しい、同郷人からも慕われる謙虚な村人である。一生を真面目に生きつづけた平凡な常識人である。既に知られている書誌学的な知識は専門家の領域である。眠っている新しい伝承や新しい史料を捏供してくれるのは、半端な文化人ではない。歴史学を意識しない実直な村落の実際家である。

 幸い島には、昔のことを昨日のことのように伝承している稗田阿礼のような語り部が多い。この点、他地方に見られぬ好条件であった。委員にたのんだ人の中には脱落した人もいたが、後にはかえってこのような真実の語り部たちと接触できる機会ともなった。もっともっと直接にその土地の人々と話し、その生活にふれることが、今後一層の努力目標とされるべきであろう。

 ぼくは、「まえがき」を書くにいたる経緯を知っているわけではないが、この原口はまるで教師である。上から目線まるだしだ。もっとも謙虚であるべき立場の者が謙虚を要請している。なぜ、名瀬の郷土誌に必要な人材に、きみの欲しい人材を聞かなければならないのだろう、原口くん。

 史料の新しい発見と共にもう一つ大事なことは、かくされた行間の意味の解読と、委員一人一人の活きた平凡な常識である。私の渡島のたび毎に、毎夜史料の解読と、割り当てられたテーマの発表と共同討議が行なわれた。深夜の町に散ってゆく委員の方々の後姿を見る時、たった今迄一人一人にきびしく当った自分を、鬼ではないかと思った。しかしこの厳しい共同討議の中から、県史を始めとする従来の奄美関係のあやふやな通説が破られていった。本誌の各委員はいずれも劣悪な条件の中で、最善の努力を払ってくれた。その結果が本誌のみに見られる新しい奄菓史の再発見である。さらに嬉しいのは、一人一人が史料の解読整理に多少とも熟し、伝承の整理にも歴史的な照明を当てるようになったことである。この名瀬市誌という成果よりも、むしろ一人一人がこれを書くようになった史学的充実の方が貴重である。

 これによれば、1968年の『名瀬市誌』は共同討議を経てできたものだ。そうだとするなら、あの「島津氏の琉球入りと奄美」も共同討議を経たものであり、しかも、原口は「一人一人にきびしく当った」という関係のなかでできたものだということになる。原口は、編纂にあたり教師をもって任じたのだ。

 奄美の空も海も底ぬけに明るい。天がける太陽は、金色の矢を投げかける。樹々の葉脈からはポクボタと新鮮な樹液がしたたり落ちて、大地を緑にうるおす。男の膚はたくましくやけ、女の黒髪の一本一本には、金色の筋がとおっている。太古のままの清らさ(美しいという意味の島語)をもっているのが、奄美の自然である。

 「太古のままの清らさ」というのは見てきたような嘘である。ここにあるのは、現在に生きる奄美の人を太古の人物であるかのように見なす視線である。こうなるとぼくは、感性の死者であると評した自分の見解を追認するしかない。

 この眠ったような平和な島々にも人間の歴史があり、時には人間を窒息させるはげしい人間支配も行われた。西暦紀元前後の日本列島は、「漢書地理誌」に、「夫れ楽浪海中、倭人あり、分れて百余国となる。歳時を以て来りて献見すと云ふ。」と述べてあるように百余の国々に分れ、それぞれに部族的な政治集団が分立していた。阿麻弥姑の祖神々話の頃の奄美も、恐らくはその部族国家の一つであったろう。しかし大島の場合、海の中からいきなり山が突き出したような峻険な地勢の所では、それぞれに孤立した小さな部落社会が海辺寄りに点在していただけで、末だまとまった政治社会を想定するには程遠いようである。このような島内だけの生活が文永三年(一二六六)の琉球附属まで続けられてきたのは、島をとりまく海洋のおかげである。

 奄美をして「眠ったような」と評するのは原口の視点をよく教えるが、表舞台に登場することだけが「眠らない」ことなら、何も見えていないに等しいというしかない。「昔のことを昨日のことのように伝承している」「語り部」の世界が見えるはずもない。

 このようなひそやかに取り残された南海の楽園が、日本史上に大きくクローズ・アップされるのは、海外通航の要衝としての海洋的位置と黒糖を主軸とする南方特産の重要性の故であった。
 奄美の島々は、常に日本本土と海外諸国を結ぶ最も重要な接点として、日本史上のポイントをなしてきた。かつて大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島の、いわゆる小琉球列島は、本土から本琉球(沖縄)へ至る「道之島」(中途の島の意)と呼ばれてきた。

道之島であるからこそ、遠い遠い遣隋使・遣唐使の頃から、日本史上に顔を出している。ことに遣唐使の中期(六七二頃~七六九頃)には、九州西海岸伝いに下って本土の最南端坊之津に達し、ここを発航地として、種子島・屋久島・道之畠を飛び石として本琉球に達し、東支那海の最も狭くなっている所を順風に乗って一気に中国に至る所謂「南島路」が、専ら用いられた。大和朝廷のいわゆる「南島経営」として、南西諸島の巡撫が盛んに行なわれたのは、当然のことであった。遣唐船による官交が止み、私交の時代となっても、坊之津と道之島の海上路線は依然として重要な意味をもっていた。倭冠史上における坊之津が中国史書に有名なのは、これを実証するものである。中国と共に新しく渡釆した南蛮紅毛と本土との交渉においても、事情は同じであった。黒潮の流れと春秋二軍の季節風をたよる航海術の時代においては、日本史上道之畠のもつ意味は、常に大きかった。これが奄美史の第一の特徴である。

 「海外通航の要衝としての海洋的位置と黒糖を主軸とする南方特産の重要性」という言い方で、薩摩の琉球侵略自体への言及は避けられている。そして、大和朝廷の「南島経営」へと接続して、日本とのかかわりのなかでのみ奄美を位置づけ、その流れとして当然であるかのように、侵略に覆いがかけられていく。

 右に述べた奄美の第一の特徴は、天保度における薩摩藩財政回復の妙手としての密貿易に利用された。だがそれ以上に重要なことは、財政改革の大本として施行された南島特産、特に黒糖の総専売制度の施行であった。苛責なき藩吏の手によって、全島が島ぐるみ黒糖工場化され、島民は黒糖奴隷化された。しかしそのお蔭で、崩壊寸前の薩摩藩は一変して日本一の富裕藩になった。近代日本の扉を開いたのが薩摩藩であるならば、まさしくそのエネルギーは奄美の島々から汲み取られたといえよう。案外に明治維新の蔭の功労者は、奄美の島民なのである。本誌の第二の特徴は、南島物産史の日本史上における地位である。

 「案外に」などというのは寝とぼけた言い方ではないだろうか。「明治維新の蔭の功労者」というが、「陰」としてしか存在しえなくなったことの因果は何も触れられない。しかも功労者といいつつ、「南島物産史の日本史上における地位」としてその評価を回収している。特産物の質と量が功労だとでもいいうのだろうか。

 右にあげた諸点については、続編においても徹底的に追求してゆくつもりでいる。しかし多くの奄美史が、藩令の表向きの厳酷さと、それに対する怨嗟の声のみに満たされているのにはいささかの疑問をもつ。本土の農村のどこに行っても、百姓に奄美ほどの余裕が残されていたであろうかとさえ、ある時は思うことがある。小さな一握り程の部落々々に、なんと豪農の家屋敷や什器、はては墳墓の壮麗なものが多いことか、もっともその反対の極には、「大島私考」や「南島雑話」に出ているように黒糖生産の発展にともなう「村ぐるみ」の潰れ村が、多く発生しているのである。家人の使役による豪農生産、かれら豪農の島役人化と郷士格化が、文政前後を境にして新しい社会秩序(衆達層が由縁人でない者からも出る。)の形成が行なわれたことは、大島代官記の年表的整理一つだけでも充分に指摘されることである。島津藩の搾取もひどかったが、それと妥協してその手先化した島役人の富の蓄積の甚だしさは、本土の「門別制度」下の百姓の生活を研究している私にとっては、白昼の幻覚のようにさえ感じられる。

 薩摩の侵略には触れないのに、黒糖収奪には「島民は黒糖奴隷化」と理解を示すかと思いきや、「怨嗟の声のみに満たされているのにはいささかの疑問をもつ」と来る。「本土の農村のどこに行っても、百姓に奄美ほどの余裕が残されていたであろうかとさえ、ある時は思うことがある」というわけだ。そういうことか、と思うことがある。この原口の言い草は、薩摩の思想が、ときに「みんな同じ」、「奄美だけ特別じゃない」と言うときの後押しになっているのだろう。というか、原口も同じ考えだったわけだ。

 ぼくもそう思う。つまり、薩摩の農民より奄美の庶民が豊かな場面があっただろう。過剰な武士団を内在させる緊張した共同性に比べ、奄美にはおおらかさの余地も、亜熱帯の自然の包容力もあっただろう。だが、仮にも奄美の歴史を編む作業において教師面をもって任じるのであれば配慮すべきなのは、こうした原口の言い方が、奄美の歴史追究に抑圧として働くだろうことである。こう言いたくなるのは、この原口の思考に符号するように、「島津氏の琉球入りと奄美」は、薩摩の琉球侵略へのわかりのよさと琉球王国の政策への手厳しさという特徴が浮き彫りになっていたからだ。何というか、単純にいってフェアな視線がそこには欠けている。

 奄美が自らの歴史を考える上でしなければならないのは、「怨嗟の声」を比較論のなかで抑圧することではなく、「怨嗟」の由来を抉りだすことである。えぐりだし対象化することである。ほんとうの比較はそのあとで充分だし、実は比較はそのあとでしかできない。いっぱしの歴史家を名乗るのなら、原口も「島津藩の搾取もひどかったが、それと妥協してその手先化した島役人の富の蓄積の甚だしさ」などと床屋政談のような言い草は控えるべきである。このまえがきを原口は緊張して書いているだろうか。確かに、島役人は情けないていたらくだと思える。しかし、島民を分断して統治させるいびつな構造をそもそも生みだした政策への批判をそのまえにまずなぜ行わないのだろう。

 かつて佳計呂麻の伊予茂に一宿し、翌日隣村の於斉という小さな夷しい部落の茶店に立ち寄った。折からお盆の直後のこととて「竜皮餅」の御馳走に舌づつみをうち、それから又何日かたって、渡達の部落で「さん砂糖」の美味にあった。いずれも遠い昔からのものであるという話だった。その時わたしの胸の中に浮かんだ素朴な疑問は、従来の奄美史の表面に伝えられている「指でなめても罰せられる」という専売制度のきびしきに対する疑問であった。一握り程の本藩役人がどんなにきびしくても、峻瞼な地勢に阻まれた孤立的な部落の血縁共同体の壁を破れるか、ということだった。賢明にも苦労人の調所家老は、地役人を大幅にとりたて、いわば軍隊の内務班のように、島人による島人の支配体制をとらせた。かくて専売体制は完成するが、それでも島人同志は血縁共同体の強い紐帯に結ばれているからその取締りにも一定のひそかないたわりがあった。それが祭り日における竜皮餅に用いられる黒糖の僅かな私用備蓄であったろうと考えられる。

このような各人の僅かな備蓄が密貿易の対象ともなったのである。このような私のひそかな疑問は、代官お膝元の大熊村でさえ、余りにその年が豊作であれば、村人が結束して黍を刈りとり、翌年以後増徴にならぬように手段を講じたが、それが代官に洩れなかったという話を採収するきっかけになった。人間の生活には適当な裏と表があることによって、バランスが保たれ、労働力の再生産が可能となる。これは、終戦後の米の供出や配給生活において、実験した平凡な生活方法であった。誰もやったことだが、それでも度をこえた悪徳な闇行為を排斥するたくましく明るい人間の理性が、確かに存在していた。藩政の専売制度下の奄美とてもその例外ではなく、封建法とそれへの農民の適応は、ある程度の余裕をもって行なわれていたのである。

 ぼくたちは奇妙な理屈に立ち会っている。これだけの長い文章を使って、原口が言うのは、黒糖収奪には「ゆとり」があったということだ。ぼくも、ここは再びそうした事実は個々の場面としてあっただろうと思う。あの名越左源太にしても島人から砂糖菓子を頂戴いている。島人は黒糖の味を知り続けてきたに違いない。だが、ここでもまた原口はそのことを指摘しておきながら、奇妙な回収を図っている。まず、戦後の闇行為を例にとり、「度をこえた悪徳な闇行為を排斥するたくましく明るい人間の理性」を指摘する。そしてそれを、専売制度下も例外ではなかったと言うのである。戦後に闇行為があったように、専売制度下でも闇行為があったに違いない、と言うのではない。度をこえた闇行為を排斥する理性があったというのである。専売制度下においても、闇行為は度を越さなかった、と、そう言っているのだ。人間の生きる知恵に言及するのかと思いきや、度を越さなかったと、まるでここでも教師のような物言いをするのである。いったい何を意図しているのだろうか。ぼくは、率直な物のの見方の発現を恐れてねじ伏せようとしている高圧的な態度を感じる。

 それからもう一つ大事なことは、那覇や首里の中国文化からも縁遠く、また旧名瀬市の薩摩文化からも縁遠い、本来の日本人の生活の原型が、案外大島には多く残っているのではないかという疑問もいつか解明したいことの一つである。「蘭麿の世」や「那覇の世」以前の「阿麻弥姑の世」を復元することは、奄美史の一つの課題でもある。文献史料の上では、薩摩が支配するようになってから、それ以前の「那覇の世」の史料は埋減させられた。同じように「那覇の世」よりも前の「阿麻弥姑の世」の記憶も、新しい那覇勢力の台頭によって失なわれた部分が多いであろう。これは歴史上の支配者たちがとった常套手段である。

気のきいた者は常に新しい支配者の手先化し、同朋を支配する。その中には同朋の血縁共同体のよき障壁として、島人の福祉を図る人もいたが、中には同朋をいじめて悪徳の蓄財をなす者もいた。奄美史のもう一つの課題は、首里や薩摩の外部からの政治的・経済的圧迫と共に、それを一歩進めて、奄美村落社会構造の本釆の在り方と、それを内部からゆがめてきたものにも向けられてよいであろう。また離島独自の社会経済構造の特徴にも、直視の眼を向けるべきであろう。離島には離島共通の弱きと強さがある筈である。(一九六八・三)『名瀬市誌〈〔上巻〕〉 (1968年)』

 これがまえがきの末尾である。ここにあるのは、原口による、奄美の郷土誌の内向化のすすめである。沖縄、薩摩との関係への視点から「それを一歩進めて」、島役人と農民との分裂の構造へと目を向けている。ぼくはこれは作為的な操作のように見える。外との関係より内なる矛盾に目を向けよ、というわけだ。薩摩の侵略というもっとも重要な点は微塵も触れられることなく、黒糖収奪においては、本土農民よりマシという視点を持ち出し、闇行為は理性的なものだったと生活指導員のようなことを言い、ことあげされるべきことに肩すかしをくらわせて言うことが、内なる矛盾をみよ、というのだ。これでは、もしこれをまともに受けてしまったら、首をもたげる前に、前のめりになったままで自分を責めよというようなものだ。事実、その後の奄美はそんな態度だったと言ってもいい面を持っている。

◇◆◇

 なぜ、こんなまえがきになってしまったのだろう。というより、なぜ原口にまえがきを依頼したのだろう。
 あろうことか、あとがきも原口が書いている。ここでは、原口は、委員の原稿提出の遅さと校正の大変さの愚痴を言うのだが、その口調は、いくぶん叱責したげである。各委員の執筆には島時間のノリが入ってしまったのかもしれない。あるいは原口の書くとおり、激務だったのかもしれない。しかしどちらにしても、緊張感のないまえがきとあとがきである。なめているのだ。

 ああ、やられてしまったのだなあと思う。原口によれば、『名瀬市誌』の編纂を原口に委嘱したのは、ときの名瀬市長だ。「島津氏の琉球入りと奄美」には情けなさがつきまとうが、それは、市長が原口に編纂を頼んだ時点で決まっていたのかもしれなかった。

 やられてしまったんだなあ。つくづく、そう思う。奄美大島の屈折という意味がわかってくる。

 だが、やはり原口虎雄に奄美の『名瀬市誌』の編纂など頼むべきではないと思う。依頼しても、資料参照と読解の監修程度にとどめるべきだった。どんなに貧しくても、奄美の人の手によって、郷土誌は書かれるべきである。他者にゆだねるには、まだ奄美の島人にしか分からないものを多く抱えている段階だからである。そういう意味では、奄美はまだ内側からしか開かない扉が開かれていない。ぼくは、そんな印象をぬぐえない。やられてしまったのだとつくづく思うし、それは克服されなければならないと思う。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

遠い記憶を呼び起こすような懐かしさ

 中孝介のコメント。

歴史的に見ても琉球、薩摩、アメリカなどから絶え間なく抑圧を受け、虐げられながら奄美の人は生活を守ってきた。

 「中 孝介」

 若い世代が歴史を踏まえた奄美の自己紹介をできるのはいい。読んでそう感じたのだけれど、もう一回見てみると、ちょっとステレオタイプな気もしてくる。「琉球、薩摩、アメリカ」の並置に違和感が湧いてくる。

 ぼくの感じ方では、「琉球」は抑圧の屋根の意味にはならない。「琉球」といえば、ぼくは言葉や地勢や基層の文化の共通性からの親近感を覚えるのだが、中の言う「琉球」はきっと王国のことを指しているのだろう。それなら、琉球王国は奄美大島に攻め戦闘を持った経験があるからだ。中の感じ方もぼくの感じ方も一般化はできないけれど、奄美は北部から南部にかけて、「琉球」への感じ方が抑圧から親近感へ、王国から文化へと変わってゆく。

 けれどそのことを斟酌しても、中のコメントが中自身の言葉というより、奄美でそう言われてきた言葉だと受け止めると、違和感があるのは、この三者のなかで抑圧が突出しているのは圧倒的に「薩摩」であり、しかもそれは「薩摩-鹿児島」という流れで現在も続いているといえばいえるほどのものだからだ。「アメリカ」は、敗戦から復帰までのことだと思うが、それは8年間のことであり、現在も抑圧が続いているかもしれないが、それは沖縄への強度が強く一般化すれば日本全体のことに関わってきて奄美だけのことではなくなる。

 最近、奄美論を多く読んだ悪影響を受けているのかもしれないけれど、奄美論の系譜(たとえば、「島津氏の琉球入りと奄美」)を踏まえていえば、「琉球、薩摩、アメリカ」と並置するのは、「薩摩」と名指さないためのカムフラージュではないかと思えてくる。

 でもせっかくの中のコメント、半畳を入れたいわけでない。次の「そうした『陰』の部分が強い音楽だけど、遠い記憶を呼び起こすような懐かしさが心の琴線に触れてくると思う」という台詞は響いてくる。彼自身の言葉だ。奄美の陰影を刻んだような表情もいい。



| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008/09/20

「島津氏の琉球入りと奄美」 6

 「薩摩はひどい。でも琉球よりはましだ」という認識から繰り出される、薩摩の琉球侵略へのわかりのよさと琉球王国の政策への手厳しさという視野に矛盾は訪れないのだろうか、あるいは奄美の歴史を語るのに充分な視点を提供してくれるだろうか。だが矛盾はあるのである。

 鉄砲と丸太棒とでは、戦にならなかった。喜安日記のいうように、「昔より此国は、弓箭という名をだも聞かず夢にも知らざる」という状態が、つづいていたのである。またこの戦役で、栗ガユで薩軍の足をただらそうとしたなどの笑い話も伝わっているが、あったとすれば、それはノロたちの呪術から出た戦術であろう。栗ガユは、悪霊払いの霊力を持つと信じられていた。島のノロたちにとり、何の理由もないのに、いきなり平和な生活に侵入してきた薩摩軍は、悪霊でなくて何であろう。

 矛盾というか葛藤は、薩摩侵略の際の奄美の闘い方に現れる。「粟ガユ」がそれだ。栗ガユは呪術による闘い方である。実際、薩摩の軍船にノロたちは呪言(フチ)を浴びせている。それを、「栗ガユで薩軍の足をただらそうとしたなどの笑い話」とするのは自己侮蔑以外のものではない。そうみなすのは、近代化することが無条件に善となってしまっている薄っぺらな近代主義だとしか言いようがない。書き手はここでは、奄美の闘い方をうまくかばうことができない。でも、ことは身内のこと、琉球王国に対するような「ていたらく」という捨て台詞をなかなか言うことができない。その葛藤のなかで、「島のノロたちにとり、何の理由もないのに、いきなり平和な生活に侵入してきた薩摩軍は、悪霊でなくて何であろう」という真っ当な見解が生み出されている。書き手にしてみたらこれは皮肉なのかもしれないが、ぼくたちにしてみたら、時々たまらずに吹き上げてくる素直な視線にとどまるべきだったと思う。

 種子島氏の場合の朝鮮の役での軍役は、文禄の出兵が百三十余名、慶長の場合が百四十余人である。それからみると、琉球のは過重で、島津氏が自分の分まで過分に負担させたのではないか。少なくとも、琉球がわとしては、朝鮮の役で島津氏に不義理がある、とは信じていなかったに違いない。したがって琉球の三司官が島津氏の琉球侵入前の要求、新しく格役をつとめるか (この場合は、永続的なものとしての押しつけ)、大島をゆずるか、との要求を拒絶したことは、それなりの筋道は立っているのである。ただ力の筋道に対しては、この理由は通らなかったのである。

 こういうところにも思わず真っ当さのかけらが現れている。筆誅を使って貶められる謝名をはじめとした三司官は、大島の割譲を拒否してくれている。このことは、「それなりの筋道は立っている」にとどまらず、もっと評価しなければならないと思える。

 結局、島津氏の琉球入りの薩摩がわが強調する理由、すなわち裏書附膚の礼にそむき、秀吉によって定められた格役をつとめなかったから、という言い分には多くの歪曲がある。それは、北にのびることをとどめられた戦国大名のエネルギーが、南にのびただけの話である。ただ近世に入りかけており、中央政権が成立したので、その承認のもとに行われたという点がちがうだけである。秀吉が一時考えたように、琉球に改易転封が行われていたら、対馬の宗氏と同じく、中央政権下の一諸侯領となり、琉球王と島津氏には気の毒だが、島民にとっては、島津氏治政下で生じたような、複雑な少数民族的心理錯綜を、免れたであろう。民族統一の新しい気運にあいながら、領民を素直な形で参加させることのできなかった、当時の支配層の無策を憤るのは、向象賢のみではあるまい。

 最後にきて書き手は願望をむき出しにしている。琉球が、「中央政権下の一諸侯領とな」ればよかったのに、というわけだ。書き手が「大島代官記」序文の「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」にナショナリズムの息吹を強引にみたように、日本が目指されている。ぼくたちはここで、書き手の「薩摩はひどい。でも琉球よりはまし」という認識の基本型に付け加えることができる。

 薩摩はひどい。でも琉球よりはまし。だから日本につくべきだ。

 こんな形をしている。だが、直接、幕府に取り入り、一大名になったとして、「複雑な少数民族的心理錯綜を、免れた」わけがない。明との貿易がある限り、琉球は異国である必要があり、それは「中央政権下の一諸侯領」となったとしても、琉球という関係の位置は、その役割のなかで生きたとすれば、「複雑な少数民族的心理錯綜」は、いまの沖縄と同じような形で持たざるを得なかったのである。せいぜい言えるのは、奄美ほどの複雑さを持たずに済んだかもしれないということくらいだ。

 さて、ぼくに残るのは、「当時の支配層の無策を憤る」として、どうしてそれは琉球にのみ向けられて、よりひどいことをした薩摩に向けられないのか、という不可解さだ。いくら、「薩摩はひどい。でも琉球よりはまし。だから日本につくべきだ」という認識を持っていたとしても、なぜ、そもそも侵略した側は責められず侵略された側ばかりが責められるのだろう。

 ここからはもう推し量るしかないが、いくつか考えられることはある。ひとつは琉球に対する過度の期待である。琉球に対する期待、琉球のなかにいたほうが苦労は少なかったろうという認識が下敷きにあるから、そこから引きはがされた事態を招いたことに憤らざるをえないということ。

 だがそれならなおさら、薩摩も批判されてしかるべきである。それがそうならないのはどうしてか。それは、書き手が盲目的に近代化を善とみなしているように、薩摩が「進み」、琉球が「遅れて」いるから、琉球を評価することが禁じ手になってしまっているのではないだろうか。そこには、奄美自身も「遅れて」という見做しにおびえてきたから、琉球を評価することが、「遅れて」いることにつながるのではないかということを恐れているのである。

 こう書いて思い出すことがある。ぼくは、奄美の郷土史家、大山麟五郎が『沖縄・奄美と日本(ヤマト)』のなかで「正直いって、奄美は近世の洗礼も鹿児島によってはじめて受けることができたわけです」と書いているのを見て驚いた(「治療薬としての郷土史」)。ここには、近世化という時代の進展を無条件に善とみなすことにおいて、『名瀬市誌』の書き手と変わらない。しかしそれ以上に見逃せないのは、琉球は近世化できないという見做していること、そしてさらに、琉球や薩摩なしに奄美だけで歴史を築く可能性自体を否定していることである。言うのであれば、こういう認識にこそ、「このていたらく」は当てはまる。

 ぼくは嫌な連想が働く。ぼくは去年、『薩摩のキセキ』を読み、薩摩の思想が明治維新を一歩も出ないどころか微動だにせず自動空転したまま増殖していることに心底、驚いた(「野郎自大で我田引水なKY」)。そしてもしかしたら、薩摩にとって隣人である奄美が失語していることは、彼らが微動だにしないことにつながっているのではないかと考え、対話する必要性を考えた。だが、『名瀬市誌』の 「島津氏の琉球入りと奄美」を辿って、もう少し考えなければならないことに思い当たる。奄美はただ失語しているのではない。薩摩の思想が先に進む必要がないと言わんばかりに失語していいるのだ。奇妙な関係である。

 奄美は薩摩のおかげで生きながられているわけではない。奄美はなにものにも遠慮しない自立する思想を構築しなければならないのである。


 「島津氏の琉球入りと奄美」 1
 「島津氏の琉球入りと奄美」 2
 「島津氏の琉球入りと奄美」 3
 「島津氏の琉球入りと奄美」 4
 「島津氏の琉球入りと奄美」 5

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「東京を沖縄色に」 

 早稲田キャンパスで沖縄関係の企画展が開催される。

 「東京を沖縄色に」 早稲田大「琉球・沖縄研究所」が企画展開催

 ◆ 企画展「ワセダとオキナワ—第7代総長大濱信泉とその時代」
 ◇ 10月24日—11月16日
 ◇ 會津八一記念博物館

 ◆ 戯曲「人類館」
 ◇ 12月16日
 ◇ 大隈講堂

 早稲田大学アジア研究機構「琉球・沖縄研究所」が企画しており、「東京を沖縄色に染めようといろいろな企画を立ち上げた。一つ一つが画期的な取り組み。新しい沖縄、複数の沖縄を見せられたらと思う」と意気込む。

 「複数の沖縄」というのだし、支援委員会の重田さんは確か加計呂麻島の出身だ。単色の沖縄の殻に閉じこもらない広がりに期待したい。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

「奄美の夜の妖怪たち」

 「奄美ホライゾン日記blg」で教えてもらいました。

 「奄美の夜の妖怪たち」

ケンムンのほかに、ヤマンボー、ヤマヲゥル、ヤチャ坊、ミンキラ ウワークワ、ヤギのムン、ミンドン、ジルムンだとか。

 「ヤチャ坊」って妖怪に分類されてるのでびっくり。聞いてみたい。


Photo_2



















 ぼくはこのイラストが最高だと思ったのです。そう思いませんか?

 今夜のイベントですねえ。聞いてみたいですねえ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/19

「島津氏の琉球入りと奄美」 5

  薩摩の琉球侵略へのわかりのよさと琉球王国の政策への手厳しさという書き手の両輪の認識は、とうとう両者の比較に至る。

 天正十五年二五八七)、義久は頭を剃って竜伯と号し秀吉に降った。秀吉は前年、島津氏をさとしたが、「羽柴(秀吉)コトハ、マコト二由来無キ仁、…当家ノ事ハ、頼朝以来…御家ノ事候。」と気負う島津方は、天下の軍を迎えて、「天下ノ弓箭こマカリ成り候。」と意気ごみ、秀書の言をきかなかったのである。しかし中央軍と薩軍とでは、数の多少だけでなく、質的な段階の差があったことは争えない。島津軍は、最後の決断は霧島神宮のクジで下し、侵攻に先立ってはまず敵領に呪の針を伏せ、合戦の矢合わせには「木性」の人「然かるべき由候」などという中世的山伏呪術を、臆面もなく、この戦争での島津軍法の一環として展開しているのである(覚兼日記)。しかしそれでも、戦国の世に刃剣城壁の備えなくしてどうして国家を保つのかと、明の使いにきかれて、真面目に、「神女ヲモツテノ故」にと、神国思想で答えた琉球第二尚氏の首脳部よりは、はるかにましであった。(『名瀬市誌』

 どうやらぼくたちは、ここで書き手の認識の基本型に出会ったようだ。それは、

 薩摩はひどい。でも、琉球よりましである。

 という形をしている。

 呪術を使う薩摩を浅薄な近代主義で批判するが、それに終わらず、どうしてもそのバランスを取らなければならないかのように琉球は引き合いに出され、さらに貶められる。それが書き手の思考の生理になっている。

 秀吉の九州平定で旧三州におしこめられ、ひきつづく文禄・慶長の役による朝鮮出兵や、太閤検地による近世封建制の受洗で、島津氏の上にあわただしい歳月が訪れる。その間、秀吉中央政権の琉球服属の下令、場合によっては、琉球に対する転封改易の意向、なかでも亀井茲矩の琉球遠征計画、そういうはらはらする情勢のなかで、北ですべてを失った島津氏が、南の権益を守るための手は、一つしかないことを悟るのは当然である。

 続くこの文章は、薩摩の琉球侵略への物分かりの良さが現れる。侵略の理不尽さに触れることがないというのは、ここまで来ると、それが「薩摩はひどい、でも、琉球よりましである」という認識の基本型があるからだということが分かってくる。

 中央における新しい「国民国家」成立の時勢に無知で、かつ島津氏に引きまわされるだけで、自ら中央政権とのルートをつける才覚も持ちあわせない琉球凶首脳の外交的失態や、視野の狭さに助けられつつ、事態は一路、慶長十四年 二六〇九)へと傾斜していくのである。三司官のなかで最も発言力の強い謝名は国子監(中国の大学)出身で、かつ唐営(久米相の帰化人の子孫)からはじめて三司官にのぼり、豪毅ではあるが、明国の物理的な大きさに幻惑されている政治家である。対立する親日派の池城一派といっても、「唐を祖母の思ひをなし、日本を祖父とせよ。」(喜安日記)はいいが、その日本は、すなわち薩摩だと、思いこんでいる無策無気力な連中である。危急存亡の間に社稷を保持してきた島津家の首脳部とでは、勝負にならないのである。

 もうぼくたちは、書き手の裁断にむやみに驚かないでもいい。「薩摩はひどい。でも、琉球よりましである」という場所から、判断は繰り出されているとみなせば矛盾がない。しかしそれでも、なぜこうなってしまうのかという疑問は残る。これでは、薩摩を真っ当に批判することなど覚束ないと言わなければならないだろう。

 文禄・慶長の役は、朝鮮で得ていた対馬の宗氏の立場を根底からくつがえした。生産条件の悪い封土をもつ宗氏にとり、戦後の国交回復による貿易特権の復活は死活問題である。慶長十年(一六〇五)には、朝鮮使節を同行して将軍家康に謁し講和をはかり、同十二年には宗氏の案内する朝鮮国債は、国書を幕府に呈して、国交は回復した。宗氏のあっせんの努力は幕府でも評価され、後には対鮮外交にあたるゆえをもって、とくに十万石の格式を許されるのだが、慶長十四年(一六〇九)には、朝鮮と条約を結び、年三十隻の渡航を認められている。(己酉条約)みごとに、対鮮外交および貿易上の特権を、回復したのである。

 ここにぼくたちは、あらまほしき琉球の姿を、書き手は対馬の宗氏に求めているのが分かる。だが、大和内にいる者と大和外から大和を臨む者とではおのずと状況は変わって見えることは見過ごされる。それは、書き手にとって、日本という概念と範囲が先験的なものになってしまっているからだ。


 「島津氏の琉球入りと奄美」 1
 「島津氏の琉球入りと奄美」 2
 「島津氏の琉球入りと奄美」 3
 「島津氏の琉球入りと奄美」 4

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ニュース報道的台風の法則

 ヤポネシア接近の台風は、「南西諸島」では勢力が強く、北上につれ勢力を落とすが、「本土」上陸で勢力を維持しながら駆け抜けることもある。

 というのは、ニュース報道的には虚偽で、

 「南西諸島」近辺にいる間は、遠い事実ないしは風聞に近く、「本土」接近につれ勢力を増し、上陸の可能性あるいは上陸でさらに勢力を増し、首都圏接近で最大の勢力となる。

 というのが、ニュース報道的な台風の勢力である。(苦笑)



 

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/09/18

「島津氏の琉球入りと奄美」 4

 薩摩の琉球侵略へのわかりのよさと琉球王国の政策への手厳しさという書き手の両輪の認識は随所に貌を出すようになる。

 尚真が死んで尚清が王位をついだ大永七年(一五二七)はまた、薩摩では、行きづまった島津宗家の勝久が、忠良の子島津貴久に家督をゆずり渡した年でもある。守護大名としての古き島津氏は没落し、島津忠良(日新斎)という英傑の赫々たる人格のなかから、戦国大名としての島津氏が勃興してくるのである。「神国」への眠りを深めつつある中山王国とは対象的に。(『名瀬市誌』

 両輪の認識はここで同時に出ている。島津の記述をしているその引き合いに琉球は突然、貶められる対象として駆り出され、その反面、島津は褒めるべき対象であるかのような相貌を帯びている。理解に苦しむ認識であるのは変わらない。書き手の島津勃興の描写は、昔でいえばチャンバラごっこをする子どもが武将に憧れるのとにているし、ナショナリズムへの素朴な信望は、「神国」日本のナショナリズムにやすやすと吸引されていくのが容易に予想できる。どうして、そこにとどまっているのか、不思議でもあれば痛ましくもある。

 三州統一に多忙の間の島津氏の琉球あての書筒は、貴国と同盟だとか、往昔より昆弟(兄弟)の約ありとか、隣交いよいよ密ならんとかいった類の親密顕示ぶりであるが、琉球がわが、その親密によりかかることの危険を、さとっていたかどうか。この間に薩摩がわは戦国大名として着々上昇しているが、琉球がわは、その南海貿易はポルトガル船、ついでスペイン船によってとってかわられ、わずかに対明進貢貿易を保つのみで、昔日の面影はなくなっている。しかも国家の存立を、縮小されたその海外貿易に安易に依りかからせ、基本であるべき土地支配の根本施策をゆるがせにしているのである。琉球の農民は、ノロ組織の中で眠らされ、その農業技術は、チフージン(聞得大君)府の指導する呪術儀礼が、基本というていたらくである。

 両輪の認識はここでも変わらない。聞得大君は、この「ていたらく」と貶められているが、そう簡単に馬鹿にできる代物ではない。なによりこの書き手が、呪術的要素をたぶんに含んでいる天皇体制に、同じように「眠らされる」思考で奄美を見ていることは今まで見てきた通りである。しかも、「呪術」の世界は前時代の遺物として葬れば済むものではない。どうして、こう手厳しいのか。もしかしたら、「遅れている」という見做しに奄美は煩わされてきたので、認識を「進んだ」ものにしなければならないという焦慮が、そうさせているのかもしれない。

 琉球がわが旧例をたがえたことは失態にちがいないが、冷遇されたと怒っている薩摩の使者が、元亀三年二五七二)に琉球に使いした内容、島津氏の印をもたない渡琉船は琉球がわで処罰せよとの申し入れは、たとえ、昔室町幕府の島津氏に対する特権附与があったとしても、琉球がわはあずかり知らざることで、主権の侵害である。第一尚氏の時代、あるいは、第二尚氏も初期なら、これをはねのけたであろう。しかし今、尚永の使いは、威圧的な相手に、ただ卑屈に釈明するだけである。力の相違は、歴然たるものである。

 主権の侵害という真っ当な理解も時折、露出することがある。だが、残念ながらそこから真っ当さが膨らんでゆくことはなく、あの両輪の認識が、バランスを取るように認識を覆うのだ。

 このような事態を招く口実を与えた琉球がわの外交的失態はおおえない。薩摩がわと詩の贈答はできても、琉球方言でコトバも通ぜず(とぼけているのでなければ)、下役の本土人を通訳としているでいたらくで、この後の急傾斜で民族統一に向かいつつある時勢の変転に即応して、あやまりなく対処しうるには、あまりに不用意である。このあとの三司官謝名の失策とあいまって、琉球指導者の無能ぶりには、七十五年後中山世鑑を書かねばならなかった向象賢の怒りがわかるような気がする。

 ここでは両輪の認識が、無残な形で現れる。琉球王国の言葉は琉球の言葉なのだから、琉球方言を使う、そのどこが悪いというのだろう。この場合、大和と意思疎通するために通訳を置くのは当たり前である。書き手は、本土の言葉をしゃべるべきだと言っているのだろうか。

 この天正三年は、すでに名目だけの足利幕府が滅んで二年、長篠の戦いで信長が天下様としての実をそなえた年であり、その翌年には、信長は安土城の主人となり、内大臣となり、も、つロH-のあるものには、天下の大勢がほぼ見えてくる時期である。大明帝国的秩序世界に安住して、時勢を知らない南海の小国が、やがて 「さつまによる平和」という長い半植民地時代に転落するのは、自ら招いた無策のせいと見なければなるまい。もう琉球の指導層には、日本はすなわち薩摩のこととしか、うつっていなかったのではないか。

 薩摩を大和と呼び、日本を大大和(うふやまと)と呼ぶ。それが当時の世界認識であり、薩摩を窓口としてみるのは自然なことである。この書き手は、どうしても、奄美を日本に直結させたくて仕方ないらしい。

 向象賢が、その中山世鑑のはじめの世継総論で、支配者のおしつける附膚の「史実」をうけいれながら、「永享年中(轟音元年は永亨十三年)、琉球国始メテ薩州太守島津氏ノ附庸国トナリ、日本こ朝貢スル百有余年ナリ、尚寧終リヲ憤マズ始メニモトリ…事大ノ誠ヲ失フ。故こ慶長己酉(十四年) 薩州…琉球ヲ征伐…爾来、琉国、薩州二人頁毎年ナリ。」と、琉球入り前の朝貢は 「日本」、琉球入り後の入貢は 「薩州」と、使い分けているのは、決して修辞のためとは思えない。百有余年朝貢の日本とは足利幕府のことではないか。ナショナリズムに目覚めた新しい琉球の指導者が、奴隷の立場を放れて許されるなら、本当に「事大ノ誠」をいたしたかった対象は、日本そのもの、その中央政権に対してであり、l薩州に対してではなかったろうことは、明らかである。かれが欺いているのは、無策な琉球の指導者が、中央政権との接触を失ったことに対してであったろう。かかる表現の中に、身をかがめなければならなかった先人の苦衷と怒りは、大島代官記序文の嘆きをもこめて、かみしめねばならぬ。

 ここで、琉球は薩摩の属国で百有余年、日本にも朝貢してきたと書くのは、強制された起請文を、自分の認識とするくらい刷り込まれてしまったものとみなせば、自然な流れであり、「琉球入り前の朝貢は『日本』、琉球入り後の入貢は『薩州』と、使い分けているのは、決して修辞のためとは思えない」というのは、それこそ書き手のナショナリズムから湧き出る願望にしか過ぎない。

 ぼくたちはこの書き手の認識が『名瀬市誌』のものであるということをこそ、克服すべき現実としてかみしめなければならないのである。

 「島津氏の琉球入りと奄美」 1
 「島津氏の琉球入りと奄美」 2
 「島津氏の琉球入りと奄美」 3


| | コメント (0) | トラックバック (0)

1671年の琉球使節の江戸上り行列絵巻物

 1671年の琉球使節の江戸上り行列を描いた絵巻物「琉球使者金武王子出仕之行列」が、修復のため那覇に戻っているそうだ。

 琉球使者金武王子出仕之行列 返却前に公開

 江戸上りを描いたものとしては最古だという。

 1671年の江戸上りは、清、最初の冊封使が訪れた1663年の8年後に当たる。次の1683年の冊封使の際には、薩摩が「宝島人」を偽装して冊封使に面会する。また、その後、いったん幕府は江戸上りを無用と考えるが、中国の朝貢国である琉球の使節を迎えることで「御威光」を高め国内支配を強化することに価値を見出し、薩摩は薩摩で、幕府を背後につけ琉球支配の安定化を図り、琉球は江戸上りで王朝の維持を図るという三者合意の江戸上りの相貌を強めていく。

 ※紙屋敦之の琉球論

 このたび一時帰省した絵巻物は、琉球の異国化が進展する、その直前のものだ。いつか現物を見たい。


 那覇市の県立博物館では今月23日から10月13日まで展示している。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

冊封七宴

 去る15日の敬老の日、那覇の首里城公園で中秋の宴が開かれたそうだ。

 首里城公園で「中秋の宴」−王朝時代の厳かな宴を再現

 その中身は、琉球王朝時代、中国の使者、冊封使を歓待するために開いた冊封七宴(さっぽうしちえん)のひとつを再現したものだそうだ。

 琉球古典音楽、琉球古典舞踊、組踊など。


Photo


















 この画像を見ると、首里城で観たくなります。きれいですね。

 冊封使を歓待する場面では、奄美の島役人も貢物を持って、首里に集まったといいますから、こういう場面を奄美を観ていた奄美の島人もいたんですよね。そのとき、納めていたのは、「鶏、玉子、豚、薪」だそうです。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/17

「島津氏の琉球入りと奄美」 3

 『名瀬市誌』の「島津氏の琉球入りと奄美」には、ひとつの特徴というか傾向がある。

 当時、海上貿易の集散地としての那覇港は、中国・南洋朝鮮および日本の商人が群がる国際都市となっていた(東恩納寛惇「琉球の歴史」)。日本の商人とは、博多・兵庫・堺等の商人である。薩摩商人が勢力を得るのは、博多・兵庫商人よりおくれ、島津氏が琉球との関係を密にするにつれて、進出していったものと思われる。このような状況の中で、関連あるいは関心のある西国の大小名が、琉球支配をねらうのは当然であった。(『名瀬市誌』

 それは、大和勢力による琉球侵略を必然とする見方だ。馬鹿に分かりがいいのだ。

 慶長十四年二六〇九)の島津氏の琉球入りをさかのぼる八十三年前の永正十三年 二五一六)、備中国蓮島の住人三宅和泉守国秀は、琉球を襲撃しょうとして、兵船十二隻をもって薩摩の坊ノ津に碇泊した。島津忠隆は、幕府に連絡して、これを誅殺した。それから約二十年後の天文のはじめ、国秀の党類三宅三郎兵衛等は、ふたたび琉球を討とうと企てた。この時島津の国老は、琉球に書を送って、先年国秀を刑殺したので、京都と義絶するに至り、あまつさえ日本三津の一である坊ノ津港を破損するに至った。いままた国秀の一類の渡船計画があるが、たとえ将軍家の下知があっても、当方で許さない上は、渡航させることはないから、琉球においては憂えなきようにと告げている。(県史)。

 侵略必然の理解の過程のなかでよく引用されるひとつに、三宅国秀の琉球襲撃を未然に薩摩が防いだとする事件がある。薩摩が、琉球に恩を着せる出来事のひとつとして挙げてきたもので、奄美論のなかでもよく取り上げられている。

 ところが、

寧波の市舶司の閉鎖後、島津貴久の老中が琉球の三司官に一五三三(天文二)年九月一六日付の書状を送り、先年備中国蓮島の三宅国秀が琉球遠征を企てたが阻止した、いままた三宅一党が琉球遠征を企てているが、たとえ将軍家の命令による遠征であろうと島辞氏が許容しなければ渡航させない、日本からの便蓮を阻止できるのは島津氏だけである、と述べている。これがいわゆる三宅国秀事件であるが、この事件は田中健夫氏が諭証されたように島津氏が捏造した虚構の事件であった。(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書)
   ぼくはまだ田中健夫の論考を実際に確認したわけではないが、これまで三宅国秀事件が史実として扱われている奄美論の文脈を踏まえると、驚くべきものがある。捏造と言われると、さもありなんという納得感があるが、もしそれが事実だとして、ぼくたちは5世紀にわたって騙されづけてきたことになるのだ。
 三宅残党事件からさらに五十年下ると、日本は秀吉による民族統一の時期を迎える。戦乱遠い南海の別天地琉球もその波動の中で対馬の宗氏のように、直接豊臣中央政権下の一諸侯たりうる機会が近ずくが、その機会を利用するにはあまりに無能であった。

 その三宅事件を援用する形で、「島津氏の琉球入りと奄美」のもうひとつの特徴もしくは傾向が現れる。それは、琉球王国に無能の裁断を下すことだ。やけに手厳しいのだ。

これについて起こった秀吉のいわれのない朝鮮侵入は、琉球の本土接近の気運を遠ざけた。

 こういう真っ当な認識は、琉球に対しても当てはまるものだとどうして思わないのだろう。琉球にしても「いわれのない」侵略であると、どうしてみなさないのだろう。少なくともそうした観点がありうることに配慮がないのだ。これも推し量れば、琉球は日本であるということが、書き手の先験的な理念となっているため、「いわれ」はあると判断しているとみなすほかない。

 もし琉球が、島津氏を介さずに、直接中央の豊臣や徳川政権下の一諸侯となる道を選んだら、もっとも失望するのは島津氏であったろう。したがって、島津の努力は、一貫して本土との関係での琉球がわの自主的な行動を制限し、自らを琉球の保護者的仲介者として売り込む-琉球に対しても、他に対しても-ことを、目ざしている。そして、尚真王以来かもし出されてきた無気力無策のために、第二尚真はまんまとこのわなにはまりこんでいったようである。

 薩摩の琉球侵略へのわかりのよさと琉球王国の政策への手厳しさは、バランスを取るように認識の両輪をなしながら、そこに書き手の認識も貌を出してくる。どうやら書き手は、琉球が、豊臣や徳川政権に直接、訴えて一大名になればよかったと言っているのではないだろうか。そしてここまで辿ってきたぼくたちは、この見解が、日本ナショナリズムという書き手の理念から出てきているのを理解する。


 「島津氏の琉球入りと奄美」 1
 「島津氏の琉球入りと奄美」 2


| | コメント (0) | トラックバック (0)

『うしろにいるのだあれ みなみのしまのなかまたち』

 この本は与論で読みたい。というか与論で読んであげたくなりました。

Photo_2














 これ、もちろんわれらが?ヤンバルクイナですが、「ぼくのうしろにいるのだあれ」といってめくると、次の動物がいます。

 その動物が、とかげ、うし(詳しくいうと水牛なので、由布島とか思い出しますが)、で、ヤドカリ、カニ、ジュゴン(これはいるのは知っていてもお目にかかったことはない。少なくとも与論にはいない?)、とり、ちょうちょ、へび、かめ、と続きます。

 花はハイビスカスだったり、ちょうちょは、書いてはないけれど間違いなく、あのオオゴマダラなので、帰省気分に浸れました。

 これは与論で子どもに読んであげたら、身近な生き物や植物の読み物だって思えるんだなあと思いました。思えば、ぼくたちのときにそんな絵本はなかった。

 身近な世界を絵本で見せられるって、いまはいいですねえ。
 ぼくはヤンバルクイナが特に好きなので、なおのことお気に入りです。


『うしろにいるのだあれ みなみのしまのなかまたち』

Photo







| | コメント (0) | トラックバック (0)

60の海。与論島

 以前、江戸っ子マサさんがJALの機内誌、SKYWARDを紹介していたので気になって取り寄せてみた。「与論の良さが10分の1も伝わってこない」(特集号)とマサさんは言うのだが、帰れてないので与論のことだったら何でもいいと思ってしまった。

 中身は、大宮エリーの一日だけの与論紀行だった。

Skyward_2












 たしかにマサさん言うとおり、曇りがちな空で、あの、まぶしい与論の海と砂と空ではない。そのせいで、映画『めがね』の海と砂と空と同じだった。『めがね』撮影現場紀行だ。

 大宮さんも、『めがね』の舞台、寺崎では横になり、思わず寝てしまっている。やっぱり、そういう場所なんですね。

 印象的な言葉。

日本の海が持つ演歌的叙情がまるでない。

 なるほど。

 タイトルの「60の海」は、島の人にそう紹介されたらしい。与論には名前のついているビーチだけでも60はある、と。去年、砂浜めぐりをして34を数えたけれど、ぼくなど、半分しか見てないということか。という驚きもあり。

 ※「与論砂浜」

 束の間、帰省気分を味わわせてもらった。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/16

「島津氏の琉球入りと奄美」 2

 ここから「島津氏の琉球入りと奄美」は、侵略の理由の考察に入っていくのだが、そこには、1650年に記された琉球王国の正史「中山世鑑」が引用されている。

 代官記序文より以前(一六五〇年)に書かれた琉球最初の正史「中山世鑑」の総論にも、著者向象賢によって、同様な趣旨がのべられている。「大日本永享年中、琉球国始メテ薩州太守島津氏附庸ノ国トナリ、日本二朝貢スルコト百有余年ナリ。尚寧終リヲ憤マズ始メニモトリ、恐憧ノ心日二弛ミ、邪僻ノ情ウタタ恋イママ二、釆欽ノ臣一邪名(薩摩側の僧文之の「討琉球詩序」中の「時二一緊欽臣名邪那ナル者アリ」からとる。悪字を使っているのは、反薩派の巨頭謝名親方を筆誅するため。) ヲ用イテ事大ノ誠ヲ尖フ。故こ慶長己酉、薩州太守家久公、樺山権左衛門尉・平田太郎左衛門尉ヲ遣ハシ、兵ヲ率イテ琉球ヲ征伐セシム。而シテ国王ヲ檎こシテ返ル。」とある。

 「中山世鑑」は、「大島代官記」より10年以上前に書かれている。そこに、「琉球国始メテ薩州太守島津氏附庸ノ国トナリ、日本二朝貢スルコト百有余年ナリ。」とあるのを見ると、「大島代官記」の「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」という一文は、「中山世鑑」の記述を引用したものではないだろうか。そう考えるほうが無理がないと思える。

 この戦役についての琉球側の記録「喜安日記」には、薩摩に捕虜になった琉球の王や高官が、許されて故国へ帰る時、署名を強要された起請文がのっている。尚寧王のものは、「敬白、天罰霊社起請文の事。一、琉球の儀、往古より薩州島津氏の附属となる。これによって太守その位を譲らるる時は、厳に船を威しもってこれを奉祝す。或は時々使者使僧をもって、随邦の方物を献じ、その礼儀終に怠る無し。なかんづく太閤秀吉の御時定め置かれLは、薩州に相附し揺役諸式相勤むべき旨、その疑い無しといえども、遠国の故相達する能はず。右の御法度多罪々々。ここによって琉球国破却せらる。…」という恐れいり方である。

 「恐れいり方である」と、琉球の記録「喜安日記」には手厳しいが、「大島代官記」の薩摩に頭脳を塗りつぶされたような記述も同じだということが見えないのだろうか。

同日(慶長十六年九月十九日)琉球の三司官に押しつけられた起請文には、「琉球の儀、往古より薩州の附庸たるの条諸事御下知に相随ふべきのところ、近年無沙汰致すによって、破却なさせらる。云々」とあるが、三司官の一人の例の謝名親方は、これに連判を拒否し、即日斬首されたという。

 薩摩のみならず、琉球によっても奄美によっても、貶められている謝名は、三司官のただ一人、起請文への連判を拒否し、その日に斬首されている。ぼくは、琉球にも、薩摩の侵略拒否の態度があったことを覚えておきたいと思う。少なくとも、「大島代官記」の「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」よりは、はるかに励まされる。

 以上の文書において、この戦役の理由とされているものは、謝名の運命に端的に見られるような政治的状況の下に勝者によって敗者にその承認を強制されたものである。客観的な史実として、敗者側をうなずかせるものではなかった。勝者と同じ平面での反駁を許されない心理の断層をのりこえるためにこそ、向象賢の主張する日琉同祖論(寛文十二年=一六七二の「仕置」その他)や、前後して代官記序文の筆者が書き記した新しい認識(先祖たちには、南島においても本土においても、はっきりしない空自時代があった。) 「琉球国ハ、日本ノ属島ナリ。」という飛躍と自覚が必要であったのだろう。そしてそういう立場に立つに至った時、南島の知識人は、単に武力への屈服から、勝者の理論をおおむがえしする奴隷の精神とは全く異質な、むしろ勝者側よりは深い地点でうなずく民族意識の昂揚を体験していたことを、信じていいであろう。

 ぼくにとって、わかりにくさはここでひとつの頂点を迎える。「勝者と同じ平面での反駁を許されない」のはこれまでの戦争の常である。その「心理の断層」を乗り越えるために、日琉同祖論や「琉球国ハ、日本ノ属島ナリ。」が要請されたとはどういうことだろう。薩摩は勝手な侵略の理由をあげつらっている。でも、ほんとうは日本と琉球は同じ祖先なのに(日琉同祖論)、琉球はもともと日本なのに(「琉球国ハ、日本ノ属島ナリ。」)という認識が必要だった。そう言っているのだろうか。

 ぼくには、少なくとも「大島代官記」序文に書き手の言う「心理の断層」を感じることはできない。感じるのは、薩摩の思想に骨抜きにされた奄美知識人の変身である。「心理の断層」に煩悶しているのは、奄美の島役人ではなく、むしろ「島津氏の琉球入りと奄美」の書き手ではないのか。

南島の知識人は、単に武力への屈服から、勝者の理論をおおむがえしする奴隷の精神とは全く異質な、むしろ勝者側よりは深い地点でうなずく民族意識の昂揚を体験していたことを、信じていいであろう。

 奄美の知識人は、薩摩より深く民族ナショナリズムに目覚めていたと言っているのだと思えるが、そういうものではない。これは、「勝者の論理をおおむがえしする」屈服の論理以外の何物でもない。書き手自身が、ここには「飛躍」があり「信じていい」という書き方になるように、これは、信じるしかない論理を編み出している書き手の飛躍なのだ。 

当時の社会通念では異常に見える、主君尚寧に対する中山世鑑の筆誅の苛惜なさを見るがよい。豊臣氏や徳川氏による新しい国民国家としての結集体制の時勢に、全く無自覚かつ無策であった琉球王国の首脳に対する、「新しい精神」の怒りが、常識的な君臣の折り目を、のりこえさせたものと見ていい。

 続くこの文章も書き手の飛躍が収まらない。豊臣、徳川の時勢に距離を置くのは、まがりなりにも国家を築いていた琉球にとって当然である。書き手は、王国をかなぐり捨てて、豊臣、徳川の時勢のなかに参入すべきだと言っているのだろうか。それこそ飛躍というもので、しかもこの飛躍は、歴史ではなく架空の物語に似つかわしいというものではないだろうか。書き手は、「中山世鑑の筆誅の苛惜なさ」に注視しているが、それならどうして、「中山世鑑」の認識をなぞったような「大島代官記」には呵責なさを見ないのだろうか。書き手は、「大島代官記」の「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」という一文に照準を合わせるあまり、他の文章が目に入らなくなってしまっている。

 ところで、その後の奄美や沖縄の精神の悲劇は、そこから生まれたように思える。日本本土への窓口を独占した新領主島津氏は、統治に必要な限度内では、この思想(思想以上の事実なのだが)を利用しても、あくまで奄美・沖縄は、植民地ならびに半植民地としてのカースト制を越えることを許されず、薩摩藩の封建的身分制が深まれば深まるほど、「海外」(薩摩の記録奉行の表現)「異国」(幕府文書)として、日本本土との同質化を拒絶されたからである。この時代を境にして、奄美および沖縄で顕著にみられる為朝伝説への回帰も、源家嫡流の末裔を主張する新領主への迎合というよりは、ナショナリズムの観点からの評価を、心にとめていいであろう。

 少し息をつきたいのだが、そうはさせてくれない。ここは、奄美、沖縄の知識人には、日本のナショナリズムの意識があるのに、薩摩は日本ではないという扱いしかしなかった。そう書き手は言っている。ここはもう飛躍というより非現実的な願望である。当時の薩摩にそのような認識があろうはずもない。それは日本にしても同じことだ。日本という境界を武力によって押し広げたその範囲に新しく奄美も琉球も入ったという認識はあっても、そのなかが日本として平等だという認識が、当時あろうはずもない。その境界の内部は、大和であり沖縄でありという区別が敷かれているだけである。為朝伝説といい源家といい、大和の物語が浸透する過程も、この書き手には、ナショナリズムからの評価になっている。こういうところ、ふいに、この文章はもしかして戦前に書かれいるのか、と思わせる。だが、これはもちろん戦前ではなく、戦争からも復帰からも半世紀以上経った場所での文章なのだ。

 ここから書き手は、「琉球附庸説」を吟味して、こう結ぶ。

 大島代官記序文の最後は、次のような文で、ぶっつと切れている。「歎(なげかわしき)我、禍ハ自ラ招クトイフ事、疑ナク候。故こ、天ノナセル禍ハ避クベシ、自ナセル災ハサクベカラズト言フ。蛇名一人ノ短慮こ依ツテ、永ク王土ノ類島マデ、今二於テ往古ヲ慕フモ益無シト。云々。」
 この最後の「云々」は筆者がつけた云々ではない。代官記の序文の方の筆者が、このとおり「云々」 で、切っているのである。「琉球国ハ元来日本ノ属島ナリ。」という大原則で、薩属下の現状をうべないながら、しかも古王朝に対する禁じえない慕親の情を思わずのべかけて、ロを持した鳥人書記の姿がそこにある。われわれもこの沈黙のもつ重みをうけとめながら、代官記の本文、いな、本文の文字に書くことのできなかったこのあとの奄美史の起伏曲折を、たどらねばならぬ。

 ぼくもこの最後のくだりは「大島代官記」序文のなかで大切な箇所だと思う。その唯一の箇所だと言ってもいい。

 「今二於テ往古ヲ慕フモ益無シト。云々。」という箇所だけが、この島役人が奄美の人物であることを教えてくれていること、かつ、さらに重要なのは、「無益」として言葉を終えていることである。書き手はここに「沈黙のもつ重み」を見るのだが、ぼくはここに屈服の深さを見る。もし書き手がここを無益であろうが何だろうが、書き継いでいたら、ことによると奄美の歴史は少しでも自立をかんじさせるものになったかもしれない。薩摩の支配下のもと、思うままの記述が可能だったとは思わない。しかし、奄美の島役人としてここに過去の記憶を列記するだけでも事態はまるで違っただろう。奄美は記憶も収奪された民である。だから、島役人が奄美の何たるかについて、彼の言葉で奄美を語ったなら、後に続く者たちはそこからどれだけ自分たちを語る言葉を紡ぐ手がかりを得たか、計り知れない。「今二於テ往古ヲ慕フモ益無シト。云々。」としたところで、奄美の屈服は決定したのであり、ぼくたちはここに二重の疎外の構造化を内側から語る言葉を見るのである。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

ロール現象

 松島さんの「NPO法人ゆいまーる琉球の自治」で、南海日日新聞の記事が紹介されていて知ることができた。

 「与論島でキビ旱魃が深刻に」

 旱魃でき砂糖きびにロール現象が見られるという。ロール現象を知らなかったので、引いてみると、

水分の蒸発を抑えるため葉を巻き自己防衛する

 とある。そうか、あの葉っぱのことか。

 宮古島も苦戦している。「宮古島市でキビにロール現象 散水補助4500万円」

 南海日日の記事には、

南北二百キロに連なる奄美群島で、基幹作物サトウキビの生育状況に極端な差が出ている。

 とあるが、奄美広しの一例だ。南北に二百キロあるんだから、それはそうだろう。二百キロにわたって島嶼が連なるのだから、そこには自然の違いだけでなく、文化の濃淡や災害の強度も違いもあらわれる。餓死や熱病だって島を単体で襲うことも多い。

 それはともかく、今度の台風、直撃なんてしなくていいんだけど、雨を降らせて速やかに過ぎてほしい。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/09/15

「島津氏の琉球入りと奄美」 1

 奄美市の郷土史、『名瀬市誌』1巻、「近世」の章の「島津氏の琉球入りと奄美」を読んでびっくりした。本当をいえば驚くどころではなく頭が重くなるような感じで愕然とした。これは読み解きにくい文章だ。意味がわからないというのではない。意味はわかるのだが、そこにある認識が不可解で、そのせいか、それがどういう根拠でなされているのかがわからない。それを理解しようとすれば、否応なく、『名瀬市誌』の考え方の背景を推し量るしかない。

 それならぼくたちは黙って過ぎることもできるかもしれない。しかし愕然とする中身には、腑に落ちることもあって、ある割合で、現在の奄美論はここにある『名瀬市誌』と共通の認識を持っているように見える。いや、共通というのではなく、『名瀬市誌』が郷土史の権威をもって任じているのであれば、これが、奄美論に認識の基盤を提供しているのかもしれない。

 それなら黙って通り過ぎることはできない。奄美の失語にほんとうに手を届かせたいなら、ここにある屈折は奄美固有のものとして避けられないということであり、それはほどかなければならないと思える。

 「大島代官記」の序文のはじめの方に、「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」という文句が出てくる。残されている限りでは、これが、自らを「日本」という民族国家の構成部分であるとする自覚を、われわれの先祖が、正面から表明した最初の文章である。
 〔補説〕代官記の序文は、その内容から見て、代官記の本文と 同様に、代官役所に勤める島出身の役人によって、書かれたものであろうことは疑えない。序文の成立は、文中に「当尚貞王」という句があるので、琉球の尚貞王の時代、つまり寛文九年(一六六九)から宝永六年(一七〇九)の間と思われる。(『名瀬市誌』

 ぼくはのっけから大いに躓く。近世期の奄美の島役人が、「民族国家の構成部分」という近代的な自覚を持ったとは思えない。しかも、「われわれの先祖が、正面から表明した最初の文章」という表現には何か誇らしげなのだが、それもまたよくわからないと言わなければならない。

 薩摩に侵略された後、琉球の三司官は「琉球の儀、往古より薩州島津氏の附庸にして」、つまり琉球はもともと薩摩の属国であるという起請文を書かされている。「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」という一文は、強制された起請文をなぞるものではないかと考えるのが自然ではないだろうか。

 当時の大島の知識人が、こういう自覚あるいは思想を、代官記の序文に大書しなければならなかった心理の背景は必ずしも納得できない新領主島津氏への服従から生じた苦悶を乗りこえる精神的支柱として、そういうナショナリズムによる大義名分が必要となった「時代」の登場である。
 慶長十四年、西暦によれば一六〇九年の旧三月、道之島(奄美列島)は島津氏のさし向けた精鋭な侵入軍に征服され、翌月はじめには琉球本国もその軍門に下った。この一方的な戦役の結果、奄美列島は琉球王国からさかれて島津氏の蔵人地 (直轄地)となったのである。
 〔補注〕実質的には右にのべた通り、奄美群島は薩藩の直轄領 となる。しかし、幕府から島津家に与えた所領安堵の判物の中では、最後まで琉球国十二万三千七百石となっている。こ れは、奄美群島を含んだ石数である。つまりこの列島の地位は正式にはあるいは形式上は、その後もあくまで琉球国のうちにとどめられているのである。

 何度も読み返して意図を推し量れば、「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」という一文は、「薩摩ノ属島ナリ。」ではなく、「日本ノ属島ナリ。」と書いてあることに、書き手は注目している。そして「薩摩」ではなく「日本」と書いたところに、「服従から生じた苦悶を乗りこえる精神的支柱」としてのナショナリズムを見る、というのだ。
 ここでもぼくは、近世期の奄美の島役人に近代ナショナリズムの精神が宿ったとみなすのは、無理があると思う。果たして、「大島代官記」の序文はそう感じさせる文章なのか。

一、述べて日く、小を以て大を敵にすべからず、殊に小島の中山国に剱刀の具え無く、何を以て永く防守すべき哉、尤も危うき而己。
一、琉球国元釆日本の属島也。御當家忠国公御代、恩賞これに封し御感じの尊氏卿六代の将軍義教卿より拝領地は、永享四年中位の国王礼號に違わず、綾舩は在島の珍物年中二舷を捧げ、二心無き旨、通り来たる也。
一、司官の内蛇名親方、短慮愚蒙の計畧を以て、逆心を企て御當家に背き、右両膿の綾舷を止め、通ぜせしむる車両歳に及び、干時中納言家久公、此旨将軍家康卿に達し、薩隅日三州の士卒を催し、琉国成敗のため指し渡す。大将軍樺山権左衛門尉、同平田太郎左衛門尉両将数千騎の軍士を指し渡し、慶長十五年酉四月速や かに退治せしむ也。国王尚寧と申し奉る也。普尚貞迫五代日なり。
一、此時より、始めて王城には静謐なる在番を定めおく。端島には守護代官居きて、剰地分けて年貢せしむなり。
一、歎かわしき哉、禍は自ら招くと言う事疑い無く候故に、天のなせる禍は避くへし。自なせる災は避くへからすと言ふ。蛇名一人の短慮に依りて、永く王土の類島?も、今に於いて往古を慕うは無益と云々。

 これが「大島代官記」の序文である。ただ、これをすぐに解釈するのは難しいので、『しまぬゆ』の大要に頼ってみる。

 述べて言うが、小が大を敵にすべきではない。殊に小島の琉球王国には武器の備え無く、何によって永く国を守るべきか、最も危うきことなり。
 琉球国は元来日本の属島である。御当家島津忠国公の時代、永享四年(一四三二)忠勤の褒美として尊氏卿六代の将軍足利義教より拝領したものである。中山王(琉球国王)はその礼を守り、綾船に在島の珍物を毎年二船ずつ捧げるよう二心無き旨誓い通い来ていた。
 ところが、琉球国一司官の内の一人蛇名(謝名)親方が、短慮愚蒙の計略によって逆心を企て、当家島津氏に背き、両艘の綾船を止め、往来無さ事二年に及び、当時の中納言家久公がこれを将軍家康に言上し、薩隅旦二州の軍勢を催し、琉球国を成敗するため差し向けた。大将軍樺山権左衛門肘、同平田太郎左衛門尉両将数千噺の軍士を差し渡し、慶長十五年酉四月速やかに退治した。
 この時より初めて琉球を治める在番を定め、離島には守護代官をおき、そして領地を割譲して年貢を納めさせた。
 嘆かわしきは、禍は自ら招くというのは疑いなく、故に天のなせる禍は避けられるが、自らなせる災いは避けられない。蛇名一人の考えの足りなさから、永く王国の支配下にあった島までも侵略され、今では昔を慕うことは無益というものであろう。

 昨年、『しまぬゆ』で初めて「大島代官記」の序文に触れたときと同じく、何度読んでも薩摩の役人が書いたとしか思えないほど、徹頭徹尾、薩摩に都合のいい口実しかここには感じられない。「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」の箇所に、近代ナショナリズムを見れるとは到底思えない。

 「島津氏の琉球入りと奄美」の書き手が言うように、奄美の島役人が、なんとか抵抗の意識を痕跡として残したいと思って、「薩摩」ではなく「日本」と書いたと想定してみる。これが書かれたとする1669年から1709年は、二重の疎外が構造化される時期に当たっているから、ひょっとしたら二重の疎外の脱出口を「日本」に見出そうとしたのかもれない。そう見なせば、近代になりしゃにむに日本人になろうとした奄美の精神の始点をここに求めることができるのかもしれない。と仮定しても、やはりこの時点の島役人に近代ナショナリズムの自意識を求めるのは無理があると思う。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

大島に行く時は訪ねたいから

 島尾敏雄が暮らした奄美大島の県立図書館奄美分館長住宅が解体される方針は変わってないという。

 「死の棘」生んだ島尾敏雄の家、解体へ 奄美大島

 ぼくは大島に住んでいるわけでもないので、わがままな言い方しかできないが、ここで『死の棘』が書かれ、「ヤポネシア」の発想が形になっていった場所である。そう思うと、大島に行く時にはぜひ訪ねたい。だから残っていてほしい。

Shimao1_2Shimao2

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/14

二重の疎外、「隠蔽」の核心

 薩摩が奄美を直轄地にしたことは幕府には「内証」だったことは、恥ずかしながらぼくには驚愕だった。そのあとに、深いふかい納得が時間の経過とともに襲ってくる、そんな驚愕だった。

 だが、『名瀬市誌』をみると、

 琉球慶長十五六年竿を経て、道之島すなわち大島・徳之島・喜界島・沖永良部島・与論島の五島は、薩摩藩直轄の蔵人地となって本琉球から除かれる。しかし、これには裏、むしろ表があって、公式にはあくまで道之島も琉球国の内であった。薩摩の家老伊勢貞昌と幕府の老中酒井忠勝との折衝の末、琉球国王領高と道之島高を合わせた十二万三千七百石が琉球国高として幕府に披露され、寛永十一年(一六三四)将軍家光から島津の当主家久に下された所領安堵の判物高では、薩摩大隅両国ならびに日向国諸県郡都合六十万石余の外に、琉球国拾二万三千七百石を許されている。奄美群島は琉球国の内に入れられているのである。その後、島津氏が代々幕府からうける判物は、皆これをうけつぎ、等しく道之島をこめて琉球国十二万三千七百石余である。つまり、道之島が琉球から切りはなされて本藩附属の直轄地になったことは幕府には届けられず、内証のままで終始することとなったのである。このことは、藩政期中の奄美のあり方を、基本的に性格づける条件となった。(『名瀬市誌』)

 「薩摩藩直轄の蔵人地」であるにもかかわらず、「幕府には届けられず、内証のままで終始することとなった」と周知の事実としてあり、これが、「藩政期中の奄美のあり方を、基本的に性格づける条件となった」と整理している。

 また、前田長英の『黒糖悲歌の奄美』でも、

 後記するように、薩摩藩は元和九年二六二三)八月二十五日、島津久元ほか四名連署の「大嶋置目之条々」を発布しましたが、その内容は、田畑名寄帳の作成をはじめとして、年貢徴収関係条令、島制機構の改善整備、農民対策、楷船の建造禁止、薩摩藩への租税納入などの島政基本方針を示していますが、このように道之島を完全にその統治下に掌握しながらも、軍水元年二六二四)の幕府への報告には奄美諸島を「琉球道之島」として琉球国の一部としています。そして軍水十一年(一六三四)将軍家光から、島津の当主家久に下された所領安堵の判物高では、薩摩・大隅両国及び日向諸県郡合計六十余万石のほかに、琉球国十二万三千七百石を許されていますが、この十二万三千七百石のなかには奄美五島の四万石余が含まれており、つまり奄美五島は琉球国のなかに入れられているのです。
 その後、島津氏が代々幕府からうける判物は、すべてこれを受けついでいますから近世(江戸時代)を通じて、道之島が琉球から切り離されて薩摩藩の直特領になったことは幕府には届けられず、琉球国の一部と理解されていたのです。
 このことが、薩摩藩治下における奄美のあり方を、基本的に性格づける条件となりました。(『黒糖悲歌の奄美』前田長英、1984年)

 「薩摩藩治下における奄美のあり方を、基本的に性格づける条件となりました」と、ほぼ異口同音に述べらている。

 どうやら恥ずかしながら知らぬは自分ばかりなりだったらしい。だが、無知の谷から登りながら思うのは、「薩摩藩治下における奄美のあり方を、基本的に性格づける条件」という整理はあまりにおすましではないかということだ。

 薩摩は二重の疎外とその隠蔽というコトの収奪と黒糖としてのモノの収奪を行ったとすれば、二重の疎外の「隠蔽」の核心に幕府への隠蔽があると思える。なぜなら、清に対する日琉関係の隠蔽は、奄美だけでなく、というか、奄美の前に幕府、薩摩、琉球の合意のもとに行われていた隠蔽であり、公然の隠蔽であったわけだが、奄美を直轄支配するという隠蔽は、本琉球の同情や無視と素知らぬ顔の薩摩以外は、知られることのない文字通りの隠蔽だったからだ。ぼくはここに、奄美の失語の根深さも、薩摩の陰湿さも、沖縄からの視野に奄美が欠如しがちな理由も見るように思う。ことは、薩摩藩支配下だけではなく、現在まで続いている。それがこの、隠蔽のなかの隠蔽の意味だ。

 紙屋敦之は書いている。

 一六〇九年の薩摩侵入後、徳川家康は琉球の仕置を島津家久に任せた。そこで薩摩藩は琉球に検地を行い、二年後の一六一一年九月、沖縄島と周辺諸島八万九〇八六石余を中山王領とし(奄美諸島は薩摩藩の直轄地とした)、琉球に古くから薩摩の附庸国だったことを認めさせた。(「日本国王と琉球国司」『新しい琉球史像-安良城盛昭先生追悼論集-』、紙屋敦之、1996年)

 家康が家久に琉球の仕置を「任せた」という言い方には、奄美を直轄地にするもしないも自由というニュアンスを含むように思う。実際にそういう余地を島津は感じたかもしれない。けれど、そうであるのに「内証」にして済ませたということには、やはり任せられたのとは別の思いのままにしたいという欲望があったのだと思える。

 ぼくたちはここで、奄美直轄の隠蔽と薩摩のいわゆる二重鎖国が見事に対応しているのに思い当たる。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

静かに一村祭

 与論島まるごと博物館のブログ(「田中一村の住まいでキノボリトカゲを撮影」)で、田中一村宅をみせてもらったばかりだが、そこでだと思う、一村祭が行われたそうだ。

 「日本画家・田中一村 生誕100年 静かに画業をしのぶ 奄美市名瀬の旧宅で集い」

 生誕百年。「静かに」というのが、一村にも奄美にも合っている感じだ。
 一村自身には奄美っぽさはあまり感じられないけれど、一村が中央画壇に距離を置こうとしたとき、日本から隠遁しているような奄美のたたずまいを自分の居場所のように感じたのかもしれない。

 ぼくは、去年の奄美フェスタ(「『奄美フェスタ』の軒先で」)で買った便せんを使わせてもらっている。アカショウビンがなかなかいい雰囲気を出してくれてます。

Issonbinsen

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/13

シンラコウが右旋回

 最近、きついテーマばかりで読むのもしんどいので、ほっとしたくて島を向けば、なんと石垣、与那国の被害を気にしていたのに、シンラコウは踵を返すようにこんどは北上しようとしている。まるで、琉球弧を覆うように。

Photo_2
























 いま、島は風びゅんびゅんかな。

 程よい珊瑚洗浄と恵みの雨程度にしてほしい。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

同胞という視点は無かった

  『名瀬市誌』は、近世人が近代的視点を持っていたかのように捉えているところに、違和感を抱かざるをえない。

 琉球を強大な海外勢力との緩衝地帯に提供し、その犠牲において、「平和」や「利益」や「体制の維持」を偸(ぬす)む発想は、何も第二次大戦以後のものではない。まがうことなき同胞に対するこのような裏切り行為を、「日本ノ瑕ニマカリ成」らざるものとして自らに納得させるためには、琉球を「下知領ではあるが異国」として、演出することが必要であった。薩摩の場合にはそれに加えて、貧しい自己領内における隷属的な農民を下層とする極端な階級体制を維持するために、そのまた下層に琉球人を配置し、「カンジン(乞食)とジキジン(琉球人)の真似はすんな。」という蔑視意識を領民に滲透させること、琉球人を国内少数民族として扱うことが要請されていた。(『名瀬市誌』)

 「同胞に対するこのような裏切り行為」は、第二次大戦以後について言うことはできるが、その認識を近代以前に当てはめることはできないと思う。琉球はもともと異国だったものを「下知領」にしたのに対中国貿易を維持するために「異国」とせざるをえなかったから、清から辮髪や胡服を要求されるのが「日本ノ瑕」(きず)と感じるのは、近世的な虚勢というもので、「自らに納得させるために」などという心理的な合理化を図ったものではない。同じように、薩摩領内の農民が琉球の島人に蔑視意識を抱いたのは、西郷をはじめ奄美に訪れた薩摩藩士が奄美に行った蔑視から学んだもので、少数民族として扱ったからという観念操作の結果ではない。

 『名瀬市誌』の作者のいう「同胞」は、日本人という意味だと思えるが、そのような意識は近代を待たなければならないもので、同胞なのに侵略した、同胞なのに蔑視したとみなすのは、近代的視点を近世に持ち込む逆向きな視点なのである。同胞と見る視点はなかったのである。

 同胞という観点が生まれて後も「琉球を強大な海外勢力との緩衝地帯に提供し、その犠牲において、『平和』 や『利益』や『体制の維持』を」図るのをぼくたちは目撃するが、それは近代に始まったことではなく近世期もそうだった、とは言えるが、今の観点で近世期の人も捉えていたとみなすのは倒錯である。




 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

マングース探索犬

 犬がマングースの居場所を知らせる。そんなマングースの駆除方法があるんですね。
 犬を使ってイタチを駆除した実績が、ニュージーランドにはあるそうだ。そこで研修を受けた奄美マングースバスターズが犬の訓練を本格化させた。

 マングース駆除新兵器 探索犬、奄美の森へ

 人の都合で連れてこられたマングースには気の毒だが、奄美にはアマミノクロウサギがいてほしい。探索犬の活躍を見守りたい。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/12

「琉球王国」の過大評価

 80年代から90年代にかけて沖縄が脚光を浴びたとき、NHK大河ドラマの『琉球の風』に見られるように、琉球王国を沖縄の根拠にしているのにがっかりしたのを覚えている。それは高良倉吉の『琉球王国』が典型的だった。

 薩摩軍の侵攻、征服によって琉球王国の独立性は失われることとなった。奄美地域(奄美大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島など)が王国から割譲されて薩摩の直轄領となったほか、仕上世とよばれる租税を毎年薩摩に支払う義務も負わされた。国王をはじめ三司官などの王国上層部人事についても薩摩は一定の発言権を保持し、さらにまた、那覇に琉球在番奉行を常駐させ琉球の監視にあたらせるなど、薩摩は琉球王国の運営について直接的な管理権を行使できる体制を構築したのであった。
 しかし、薩摩は排他独占的に琉球の運命を左右できたわけではない。強力な将軍権力が背後にひかえており、その琉球支配についても幕府の基本的な規制下におかれていた。将軍権力を項点とする日本の近世国家を歴史家は幕藩制国家とよぶが、このネーミングに従うならば、琉球王国は全体としては幕藩制国家の体制的規定下におかれるようになり、その直接的な管理責任者として薩摩が介在していた、と理解することができよう。

 薩摩が思いのままに行動できなかったもう一つの要因は、琉球王国そのものの存在であった。薩摩・将軍権力に従属することになったとはいえ、王国体制は依然として存続しており、琉球内部の実際の行政をとりしきったのも首里王府だったからである。つまり、首里王府との提携なしには、薩摩の意向は王国内に貫徹できないしくみになっていたのである。それに、伝統的な中国との相対・進貢関係も存続したために、琉球国王はそれ以後も中国皇帝の冊封をうける存在のままであり、その分だけ琉球側に「主体性」を発揮できる余地が残されることとなった。
 もし薩摩が王国を完全に潰してしまい、自己の直轄領に編入して藩内行政と同レベルで琉球の地を扱うようになっていたとしたら、それ以後の琉球の歴史はまったく異なったものとなっていたにちがいない。薩摩が琉球の地を完全に自己の内部にとりこめなかった事情の一つに、それ以前にすでに独自の国家として存続しつづけてきた琉球の重みがあったのである。『琉球王国(高良倉吉、1993年)

 「薩摩が思いのままに行動できなかったもう一つの要因は、琉球王国そのものの存在であった」というのは、琉球王国の過大評価だと思える。「薩摩が思いのままに行動できなかったもう一つの要因」に続けるべきなのは、琉球王国の存在そのものではなく、琉球が明との冊封関係にあったということの方である。それが、琉球に主体性の余地を残したのだ。

 「過大評価」だと思える理由はもうひとつある。ここには、はじめに奄美のことに触れながら、奄美の命運について等閑視されているからだ。薩摩の直轄領としてそれ以後の歴史を全く変えざるを得なかった琉球としての奄美に気づいていない、そして、直轄領にされるということは、「藩内行政と同レベルで琉球の地を扱う」どころではないそれ以上の悪政を強いられたとに気づいていない。「琉球王国」の存在自体を課題評価するから、もうひとつの琉球の命運が見えてこないのではないだろうか。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/11

二重の疎外の成立過程

 ぼくは自分のアイデンティティのあり様から、<大和ではない、琉球でもない>という二重の疎外の構造を抽出した。だがそのとき、それが薩摩が奄美に対して行ったことに由来することは分かっても、<大和ではない>と<琉球ではない>という規定は同時にやってきたのか、それとも<大和ではない、琉球でもない>という順序できたのか、<琉球ではない、大和でもない>という順徐でやってきたのかは分からなかった。

 ここでぼくたちは、紙屋敦之の琉球論をたどることで、それが<琉球ではない、大和でもない>という順序で成立したことが分かったのだ。それによれば、<琉球ではない、大和でもない>の成立を象徴しているのは、1623年の「大島置目之条々」と1728年の「大島御規模帳」である。

 まず、「大島置目の条々」では、琉球の位階を象徴する鉢巻を授かることを禁止するなど、琉球との政治的なつながりが否定される。奄美はこのとき<琉球ではない>と規定されたのだ。ただ、この1623年の規定は、1609年の侵略の後に突然やってきたのではない。1611年に、薩摩は琉球に対して貢納規定を行うが、そこには琉球の範囲は「沖那波 けらま 与部屋 いぜな 伊恵嶋 となき嶋 栗嶋 久米 やえま 宮古島」とあり、国家としての琉球は、そのとき版図に奄美が含まれていないことを知る。ここで、奄美は言外に琉球の範囲ではないことを言明されるのだが、それは実に奄美的な触れられ方だと言わなければならない。あるいは、存在しないかのようなあり方を奄美的と呼べば、それはこのとき始っていたのだ。

 しかし、さらに言うなら、「大島置目の条々」の<琉球ではない>という規定は、1609年の貢納規定のあとにまっすぐにやってきたわけではなかった。驚くべきことに、最初薩摩は、1613年の「御掟之条々」で、琉球に対し<大和になれ>として、大和化を規定していたのだ。それが<大和ではない>という規定に変わるのは、幕府の対明貿易交渉が失敗に終わり、琉球が日本に対して異国であることが貿易維持のために必要になったからだ。そこで、琉球は、「御掟之条々」年後の1617年には、日本人の髭、髪形、衣装を禁止される。

 この延長に、奄美の<琉球ではない>という1623年の規定はやってくる。琉球と奄美の規定がセットであるのは、奄美が<琉球ではない>という規定を受けた翌年には、奄美は薩摩の蔵入地、直轄地となり、それと同時に琉球も「定」として、改めて<大和ではない>という規定を受けていることに示されている。

 その後、琉球に強いた1617年の<大和ではない>という規定は、黒潮に比べると遥かに遅く、17世紀末から18世紀初めに、喜界島の代官記として「大和と紛らわしい名前や髪形」の禁止の既定がたどりつく。それは、「道之島も琉球の内」、奄美も琉球であるという対外的な規定に添わせるためのものだが、紙屋によれば、このころ宝島が琉球ではない地として規定を受けたのを受けて、琉球との差異を際立たせるためではないかと考えられている。その後、<大和ではない>という規定は、1728年の「大島御規模帳」で整理される。ここに、奄美の二重の疎外は、<琉球ではない、大和でもない>という順序で一世紀をかけて成立していったのだ。

◇◆◇

 一方、奄美は<琉球ではない、大和でもない>という二重の疎外を受けただけではなかった。奄美は<琉球ではない、大和でもない>という矛盾を消去するため、同時に<琉球にもなれ、大和にもなれ>という規定も受けていた。それは、もともと<琉球ではない、大和でもない>という規定が持っている矛盾を消去するように、その既定に覆いかぶさるように降ってきたのだ。

 奄美は<琉球ではない>という規定を受ける一方、<琉球にもなれ>という場面を当初から持っていた。それは冊封使が琉球へ訪れるときだった。このとき、奄美の各島の役人は、貢物を持って琉球の役人と同じように冊封使と対面することになっていた。この、明、清との関係が顕在化するとき、奄美は琉球として振る舞ったのである。1683年に冊封使が訪れたときは、きわどい場面も経験している。そこで、吐噶喇列島の人々は実際には来れず、薩摩の藩士が宝島人を偽装して訪れていたからだ。奄美は、このとき、偽装した薩摩の武士を宝島人と言わなければならなかったのである。

 もっときわどい場面にも遭遇しなければならなかった。それは漂着のときだ。大島の船が中国へ漂着した際、倭人と疑われるが、諸書を焼き貨幣を沈めて武具を隠し、琉球の者と押し通したのである。ここで奄美は、<琉球にもなれ>という規定のもと、琉球人として振る舞ったのである。

 <大和にもなれ>という規定は、同様に漂着のときだった。1773年、中国に漂着した薩摩船に、沖永良部の島人が二人、乗り込んでいた。このとき島人たちは月代をさせられ、「登世村」「嶋森」という名を伏せて「村右衛門」「嶋右衛門」と大和風に名乗らされる。まるでコントだが、命がけの舞台であったことは確かだ。

 このように、<琉球にもなれ、大和にもなれ>は、<琉球ではない、大和でもない>を打ち消すように、冊封や漂着の場面で規定化されたのである。


 以上、薩摩の侵略からの一世紀は、奄美にとって<琉球ではない、大和でもない。だが、琉球にもなれ、大和にもなれ>という二重の疎外とその隠蔽が構造化される時間だった。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

「きょらしま奄美 2008」

 「奄美・加計呂麻島なんでもありBLOG」に教えてもらったニュースです。

 KKB特番「ハイビジョン紀行 きょらしま奄美 2008」

Kyorasima1_2

















 里アンナが故郷を紹介するんですね。ぼくは観れないですが、観たいです。

 サイトの画像を見ていると、大島はやっぱり森の島ですねえ。


きょらしま奄美2008 
23日(祝)16時~16時30分放送

奄美の自然をハイビジョン映像で綴る30分間。
奄美出身の歌手 里アンナが故郷奄美大島を訪ね、森と海を巡る旅。
アマミノクロウサギ・リュウキュウアカショウビン・ケナガネズミ
固有種の宝庫「奄美」の稀少動物との出会い。

国の天然記念物にも指定されているルリカケスの巣立ち。
アマミスミレ・アマミセイシカ・アマミアワゴケなど稀少植物 

里アンナが故郷奄美の自然に感動。
土盛海岸で彼女の歌声が響く。

9月23日(祝)16:00~16:30きょらしま奄美2008 放送


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/10

「当面、現状のまま」

 島尾敏雄が住んでいた旧分館長住宅が、当面、残されることになった。

 県立図書館奄美分館:作家・島尾氏居住の旧分館長住宅「当面、現状のまま」

 島尾が10年住んだ住宅。取り壊しの話は聞いていたから、ぼくもほっとする。取り壊しの背景をつぶさには知らないから、意見を持ちにくいのだけれど、保存する選択肢を残したことは嬉しい。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

「異国から『異国』へ」7

 秀吉は明との「勘合」復活を企図したが、結局、それは明(朝鮮)侵略を引き起こした。秀吉は明侵略計画の中で亀井茲矩に「琉球守」(一五八二年)、続いて「台州守」二五九二年)の称号を与えたが、それは秀吉の東アジア諸国に対する侵略の意図と、そこに対する国郡制的な支配方式の持ち込みという二つの方針を明らかにしていた。
 島津氏は「琉球守」を豊臣政権の知行・軍役体系の論理の中でとらえ、明侵略の軍役を琉球に賦課した。そのことにより、島津氏に秀吉に対し琉球「支配」の既成事実を訴え、亀井茲矩の「琉球守」化の阻止を図った。それは功を奏し、一五九二(天正二〇)年、琉球は島津氏の「与力」とされ、茲矩には「替地」(明国訴江省台州)が与えられた。

 薩摩は、琉球に軍役を賦課したのを支配の既成事実として訴えたのが秀吉に受け入れられ、琉球は薩摩軍の指揮下に入るとみなされた。

 秀吉の朝鮮侵略の失敗後、家康は明との講和(勘合復活)を模索した。対明交渉を琉球を通じて行うため、琉球の来聘を画策した。その交渉中の一六〇四(慶長九)年、島津氏は琉球に対し「附庸」説を主張した。「与力」化がその根拠であった。来聘問題の行き詰まりが、一六〇九(慶長一四)年の島津氏の琉球侵略の直接の原因であった。

 陸奥に漂着した琉球船の琉球人を琉球に無事、戻したお礼をせよというのが来聘であり、幕府はそれを機に琉球の服属化を狙うが、それを察知する琉球は応じない。薩摩は、軍の指揮下に琉球があることを根拠に属国説を唱え、来聘問題の打開として侵略を行った。

 侵略後も琉球は、対明政策のために明の朝貢国として温存された。島津氏に侵略を契機に琉球に「附庸」説を承諾させた。そして、琉球の日本同化の方針を明確にしたが、一六一五(元和一)年に幕府の対明講和交渉が失敗し、琉球が中国との窓口としていっそう重要性を増してくると、同化から異化へと統治方針を変え、政治的・風俗的な面から琉球の「異国」化を進めた。

 琉球が明との貿易の窓口を持っていたので、侵略後も国家としての琉球は維持された。だが、薩摩の属国であることを認めさせられた。そしていったんは、琉球の大和化を進めるが、幕府の対明交渉が失敗したのを機に、非大和化へ転じた。

 対明政策の失敗後、一六一六(元和二)年以降、幕府は中国船を長崎で統制する政策を推し進め、一六三五(寛永一二)年、それが実現した。それには、一六三三(寛永一〇)年の琉明関係の正常化が不可欠であった。翌年、日本は琉球を幕藩体制の知行・軍役体系の中に組み込むと同時に、明との冊封・朝貢関係を容認し、琉球の「異国」としての位置づけを確立した。そして、島津氏は琉球支配の正当性を主張するため「嘉吉附庸」説を唱え、琉球の首長尚氏を「琉球国司」に任命し、徳川将軍のもとへ琉球使節を派遣させた。ここには、琉球の明との宗属関係を牽制することが強く意識されていたのである。

 薩摩は室町幕府から琉球を賜ったとする「嘉吉附庸」を唱えて、琉球から来聘を実現させる。琉球と明の貿易正常化により、琉球が明に完全に組み込まれるのを防ぐ意図もあった。

 一六四四(正保一)年、明が滅び、清が中国の新たな支配者となった。一六四六(正保三)年、福州の南明・唐王政権が滅亡すると、幕府は清に対し軍事的脅威を覚え、海防を強化した。ところが一六五五(明暦一)年、幕府は琉清閑係を認めた。これは、琉球支配が原因で日本が清と武力衝突することを避けるためであった。琉球に対し「不治を以治」統治方針をとったのに伴い、その後、清に対し日琉関係を隠蔽する政策が進み、一七一九(享保四)年、それは確立した。一八世紀以降、七島は、清に対し日琉関係を隠蔽するためのキーワードとして、位置づけられていった。(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書

 明が滅び、琉球は清と冊封関係を結ぶ。日本との関係もあったことが公然であった明とは異なり、清に対しては、琉球が日本とは無関係であると見せなければならなくなった。日本と琉球の関係は隠蔽されたのである。

 こうして、異国であった琉球は、日本の支配を受けながら、日本と無関係である「異国」へと変貌した。これらは奄美が強いられた二重の疎外とその隠蔽の背景にあるものだ。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

白い海-たった6平方キロの珊瑚

 沖縄の石西礁湖の珊瑚がこの5年で67%、失われた。

 サンゴ7割消えた 沖縄の石西礁湖、環境研と本社が調査

 海面温度の上昇による白化現象が最大の原因だという。
 記事は、先の方がかろうじて残っている珊瑚の画像を載せている。それがかつてテーブルサンゴだったことなんて、説明されなければ分からない。かろうじて残っているのはテーブルサンゴだけじゃなく、たった6平方キロ残った石西礁湖の珊瑚のことでもある。

 琉球弧の珊瑚礁は、亜熱帯ヤポネシアの豊かさの象徴であり、薩摩の黒糖収奪、台風による陸上の作物被害、戦争のあいだも、底の方で島々を支えてきた。それが消滅しかけていると思うと、半身がもぎ取られるような感じだ。


 救いを求めるように、与論島の珊瑚礁サイトを覗いてみると、

 与論島内ダイバーの有志がシロレイジガイダマシを駆除

今回駆除に参加したダイバー8名は、各自、海中宮殿の本殿の小さなサンゴの赤ちゃんのひとつをマイサンゴと決め、これからの成長を見守っていくとのことです。 

 なんていう記事があった。マイサンゴを見守る。それはいい。
 ちょっと嬉しくなる。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/09

「異国から『異国』へ」6

 一六六九(寛文九)年七月、松前藩(幕藩制国家)とアイヌとの民族戦争、シャクシャインの戦いが起こった。幕府の儒官林春勝によると、この時幕府は、(中略)アイヌが韃人すなわち清の救援を頼んで松前を攻めるのではないか、と恐れていた。一六七三(延宝一)年一二月、清の中国支配に反対し三藩の乱が起こった。三藩とは、雲両省の平西王呉三種、広東省の平甫王尚之信、福建省の靖南王秋晴忠を指す。翌年九月、(中略)(そのこと-引用者)が、琉球から薩摩を経て幕府に届いた。一六七六(延宝四)年六月二七日福州の耿精息の使者陳応昌が来琉し、硫黄の供与を求めた。尚貞は薩摩に注進し、島津藩は幕府に琉球の対応如何を伺った。それに対し幕府は九月三日、琉球が硫黄を福州に送ることを許可した。幕府は三藩側を支援し、清の滅亡、明の復興を期待したのである。(後略)

 南で琉球が島津に侵略される頃、北では松前藩がアイヌを支配していた。幕府は、南の琉球-清、北のアイヌ-清の連結を警戒していた。それが明支援の態度となって表れる。

 三藩の乱は一六八一(延宝九・天和一)年二月に終息した。結局、琉球は福州に硫黄を送らなかった。三藩の乱に加担しなかったことにより、以後、琉滑関係は親密きを増していった。そのことは逆に、幕府が薩琉関係に対し警戒することになった。それは、将軍の代替わりに島津氏が差し出した起請文の文言の変化となって表れている。例えば、島津光久が徳川綱吉の将軍薬職に際して差し出した一六八二延宝九)年五月二五日付の起請文に、公儀=幕府の仕置の遵守を誓った条文の「附」として、(中略)琉球の邪儀に加担しないことを誓約している。次回、徳川家宝の将軍襲職の時にも、島津書貴が一七〇九(宝永六)年二月五日付の起請文で同様のことを誓っている。この二例は前後に類をみない。島津氏は琉球が幕藩制国家の「火薬庫」となる危険性を暗に示唆したのである。

 「琉球の邪儀に加担しない」というのは、琉球が清と結託するだけでなく、薩摩もそれに加わることを指していると思える。((幕府、島津、琉球)-(清))という関係が、((幕府、島津)-(琉球、清))となることともうひとつ、可能性として((幕府)-、島津、琉球、清))もありうると想定したのである。素朴に思うに、封建国家は、相互に信頼が無いとみえる。

 一方、「不治を以治」統治方針がとられるようになった琉球には、一六六二(寛文二)年四月に桂王永暦帝が滅び、明が完全に滅亡したのを契機に翌年六月、清の冊封使張学礼が来琉し、尚質を「琉球国中山王」に冊封した。次に、一六八三(天和三)年六月に注棺が釆琉し、尚貞を「琉球国中山王」 に冊封した。その時、島津氏が琉球に派遣した冠船奉行の御付衆・御道具衆、琉球在番奉行の御付衆各二人、足軽二二人、船頭六人が宝島人と偽って冊封任と対面し、進物の贈答を行った。宝島人とは七島人のことである。では、冊封使と日本人の対面がどうして可能だったか。
 それには七島郡司の次の上申書が参考になる。(中略)これによると、冊封使が琉球に渡来した時、琉球の属島七島(吐噶喇列島)から島の頭目が那覇へ赴き、「唐按司」(冊封僅か)と進物を贈答していた。島津氏はこの慣例を利用して、薩摩の役人・船頭らを七島人と偽らせ冊封使と対面させたのである。しかし七島人と冊封使の対面は、次回一七一九(享保四)年の尚敬冊封の時、島津氏の要求で中止された。七島は琉球の属島でないというのがその理由だった。七島は、琉球の属島から日本の属島へと位置づけを変えられた。日琉関係の隠蔽はこうして一七一九(享保四)年に確立した。

 1683年は奄美にとっても重要な年だ。奄美は、薩摩から、<大和ではない、琉球でもない。だが、大和にもなれ、琉球にもなれ>という規定を強制されたが、このうち、1623年の「大島置目条々」で<琉球ではない>とされながらも、<琉球にもなれ>という場面は否応なくあった。それが冊封使との対面の場面である。

 ぼくたちはここで少しこの場面に立ち止まってみよう。清になって奄美の各島の役人が琉球役人とともに冊封使と対面する場合、琉球の役人は奄美の役人が琉球の者であるとして振る舞い、奄美の役人も琉球の役人と同じ国の者として振る舞わなければならなかった。だが、仮に七島人として薩摩の者がそこに同席していた場合、奄美、琉球の役人はそれと知りつつ、薩摩の者を宝島人として紹介しなければならなかったのである。奄美、琉球の役人は、ここで清の冊封使だけでなく、薩摩に対しても緊張して振る舞わざるを得なかったはずである。

 琉球は清に対し日本(薩摩)との関係を隠蔽するために、一七二五(享保一〇)年に蔡温が編纂した『中山世譜』の尚寧の事績を記した末尾に(中略)、日本の属島吐噶喇(宝島・七島とも呼ばれる)と交易し、国用の不足を補っている、と説明した。また、冠船が釆琉すると、那覇滞在中の薩摩の役人たちは城間村(滞藤市)に引き籠った。琉球は中国人の質問に対し、城開村にいるのは七島人であると答えた。七島は、清に対し日琉関係を隠蔽するためのキーワードとして位置づけられていった。そのため島津氏は七島の各島に新たに郡司を置いて支配した。その初見は、一七一八(享保三)年八月二五日の諏訪之瀕島郡司肥後五郎兵衛である。また前掲同年間一〇月付の文書に「七島郡司」 の名称がみえる。七島郡司は、「異国」琉球の琉球国司に対応する日本の「属島」七島を支配するための制度であった。(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書

 琉球の神話にも相当する『中山世譜』を使ってまで吐噶喇列島、宝島との関係を偽装したのは、中国が『中山世譜』を見る可能性に配慮したものだ。18世紀に書かれたものであっても、神話が国家の作為を内包することは貫徹されている。

 もともと異国だった琉球は、明の時代、日本と関係した「異国」となり、清の時代、日本と関係のない「異国」とみなしみなされていくのである。

 ぼくたちはここで、奄美は、最初、琉球との関係を断つために<琉球ではない>という規定を受け、ついで、琉球が「異国」の相貌と強めるにつれて、<大和でもない>という規定も強化されたことを知る。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

皆既日食は、トカラとの交流機会

 トカラの皆既日食の記事。皆既日食の虜になって、世界中と飛び回るせいか、『日食貧乏』という言葉もあるのだそうな。

 鹿児島・十島村 最長の日食ツアー 10倍の狭き門

 前も書いたことだけれど、奄美大島や喜界島も皆既日食を体験する。それなら、奄美にとっての皆既日食は、トカラとの交流を深める機会にするのがいいと思う。トカラ-奄美つながりを思い出すきっかけになるといい。

 「皆既日食をトカラと奄美の関係を深める機会に」


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/08

「異国から『異国』へ」5

 1649年、琉球は明の滅亡を機に、冊封関係を清と結びなおそうとする。

 琉球は、宗主国を明から清へ改める態度を明確にした。
 一六四九(慶安二)年九月、幕府老中阿部重次は、琉球問題に関する島津氏の伺いに対し、(中略)琉球認識を語った。日本側は、清が琉球人に対し清朝の衣冠と弁髪を強制することを一番恐れていた。「悪キ事」とは琉球がこの二つを受け入れて清に服属し日本の支配を離れることであり、そのことによって徳川将軍=日本国大君の対外的権威に傷がつくことが「日本之瑕」であったと考えられる。

 この時点で幕府は、琉球が清からの「衣冠と弁髪」を受け入れて日本を離れ清に服属することを恐れていた。それは、「日本の瑕」、名折れであるとみなしたのである。

 一六五一(慶安四)年、再度、謝必振が琉球に渡来した。尚質は一六五三(承応二)年、馬宗毅を派遣して順治帝の即位を慶賀させ、明朝の勅印を返上し、冊封を請願した。そこで翌年、順治帝は尚質を「琉球国中山王」に封じる冊封使(張学礼)を任命した。一六五五(明暦こ年には、冊封使が乗船する冠船を福州で建造中であるとの風間が日本にも伝わってきた。鳥辞属は、清の衣冠・弁留などの要求を断固亜否して冠船を追い返すか、あるいほ冊封使が琉球の拒否を無視して事を構えたら討ち果たす、という強硬な方針を決めた。そして八月六日、幕府に、清に対する琉球の対応方について伺った。それに対し幕府は二二日、琉球は清の衣冠・弁髪などの要求に従え、それ以外は島津氏の宰領に委ねると命じた。幕府は琉球と清との冊封・朝貢(宗属)関係を認めたのである。幕府のこの琉清閑係の容認について、幕末、薩摩藩の伊地知季安は次のように評した。(中略)

 「蛮夷」は琉球を指す。「不治を以治」とは名を捨てて実を取る方向への琉球支配の方針転換を意味するが、おそらく幕府は清の琉球招諭を妨げた場合、日本の琉球支配が日清両国の武力衝突の原因になると考え、それを未然に防止するために、このような措置をとったのであろう。(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書

 島津は、清から「衣冠と弁髪」と要請があった場合は、断固拒否すべきであるという考えを示し幕府に伺いを立てる。それに対して幕府は、清との戦争を恐れ、要請があった場合はそれに従うように命じる。幕府は、琉球と清の冊封関係を認めたのである。幕末の薩摩藩士、伊地知季安は、これを「治めざるをもって治める」と評している。

 ここから、日本は琉球との関係を隠蔽してゆくことになる。同時に、薩摩は奄美との関係を、清と日本に対して隠蔽していた。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/07

奄美自立論、メモ

 奄美自立論。構成案 ver 0.96。


『四百年の失語を越えて。奄美自立論』


第一章 二重の疎外―奄美は琉球ではない、大和でもない

1.四百年の失語
2.一六〇九年。失語の起点
3.琉球ではない
4.大和ではない
5.二重の疎外―奄美は琉球ではない、大和でもない。
6.琉球にもなれ、大和にもなれ
7.二重の疎外とその隠蔽の核心
8.屈服の論理
9.コトの収奪とモノの収奪

第二章 黒糖収奪とは何か―空っぽなモノの絶対化と食糧自給力の収奪

1.シュガーロードは琉球発
2.反復する定式買入と惣買入
3.黒糖の硬さと甘さは珊瑚が決め手
4.空っぽな共同体と空っぽなモノ
5.食糧自給力の収奪
6.重層化する搾取
7.遊びの追放
8.直訴・脱島・一揆
9.二極化した奄美。家人と衆達

第三章 なぜ、薩摩は奄美を直接支配したのか

1.亜熱帯自然の包容力
2.なぜ、薩摩は琉球を侵略したのか
3.沖永良部の闘い方
4.大和化せよ
5.なぜ、二重の疎外に「奄美」で抗えなかったのか
6.奄美は植民地だった
7.近代化のために奄美がしたこと

第四章 近代化三幕―二重の疎外の顕在化と抵抗

1.二重の疎外の顕在化
2.奄美近代化の第一幕と第一声-大島商社と丸田南里
3.二つの西郷
4.近代化の第二幕-南島興産・県令三九号・三方法運動
5.近代化の第三幕1-大島経済
6.近代化の第三幕2-カトリック
7.強者の論理
8.無限連鎖の差異化でもなく、なし崩し的同一化でもなく

第五章 日本人になる―二重の疎外からの脱出

1.日本人になる―二重の疎外からの脱出
2.自失としての復帰
3.陳情嘆願書の精神的位相
4.敗戦を通過していない
5.生きるための復帰―「食べるもの、着るものの夢」
6.二重の疎外の瞬間凍結
7.「大島」解体論
8.スイカ畑事件とジョージさんのトラック

第六章 奄美とは何か―秘する花のように

1.奄美とは何か
2.奄美は琉球である
3.奄振とは植民地補償である
4.思考を奪回する
5.薩摩とは何か
6.日本と沖縄の戦いでは、沖縄に支援せよ
7.つながりの回復としての沖縄復帰
8.ケンムン=キジムナー

第七章 二重の疎外の克服へ

1.植民地を生きて―相対化・ただの人・道之島
2.空虚という方法―奄美映画としての『めがね』
3.「奄美」づくり
4.アマミノクロウサギにチャンスを
5.シマ/島が主役!奄美です
6.「ヤポネシア」発祥の地
7.元ちとせ―還るという課題


2008/12/14更新


| | コメント (2) | トラックバック (0)

「異国から『異国』へ」4

 対明貿易交渉が失敗して以降、幕府は、琉球を異国化して対明貿易の窓口とするように動く。

 幕府が「唐口」の貿易禁止に踏み切る方針を決めた背景は、「平遼通貢」策の失敗と、もう一つ、明が一六二九(寛永六)年に尚豊を「琉球国中山王」に封じる冊封使の派遣を決定したことにより、島津氏の琉球侵略(一六〇九年)後ぎくしゃくした琉明関係に正常化の見通しが出てきたことであろう。琉明関係が正常化すれば、琉球と明の貿易は進貢貿易だけに限定される。そのため島津氏は一六三一(寛永八)年、琉球在番奉行を設置し、翌年、前述した四月二二日付の条書で、琉球の進貢貿易への経営参加を琉球在番奉行に指示した。また、琉球を「異国」扱いして琉球への渡航を島津氏のみに制限する一方、中国船の大名領への着岸を禁止すれば、中国船はおのずと長崎へ向かわざるをえなくなる。中国船の長崎来航の実現には琉明関係の正常化が前線であった。

 幕府は一六三三(寛永一〇)年二月二八日、第一次鎖国令を出し、奉書船以外の日本船の海外渡航を禁じ、鎖国への第一歩を躇み出した。だが第一次鎖国令では中国船の長崎来航は発現しなかった。それほ、後渇する一六三四(寛永二)年八月四日骨の徳川豪光債知判物にみるような、幕藩体制の中の「異国」琉球という位置づけが、まだ確立していなかったからである。一六三五(寛永一二)年五月二八日、第三次鎖国令を出し、日本船の海外渡航を全面的に禁止すると同時に、中国船の長崎来航が確立した。

 いずれ幕府は、明が清へ変わり、清が脅威になると、琉球との関係を隠蔽するようになるのだが、明の時代は、島津が琉球に侵略して以降の日本と琉球との関係は公然のものだった。だからなおさら、鎖国だけでは中国船は長崎へ訪れず、琉球を異国とする位置づけが必要だったのである。

 一六三三(寛永一〇)年六月、尚豊を「琉球国中山王」に冊封する明の冊封使杜三栄が琉球に到着した。同年一一月、冊封使が帰国する時、尚豊は謝恩使を北京に派遣して冊封を感謝すると同時に進貢の二年一貢を嘆願し、それを許された。こうして琉明関係が正常化した。それは島津氏の琉球支配に次のような新局面をもたらした。すなわち琉明関係が正常化した翌年閏七月九日、京都の二条城で、尚豊の使者佐敷王子朝益が三代将軍徳川家光に謁見した。これより以前、尚豊は同年二月九日付の書状を島津光久に送り、去年明の冊封を受けられたのは島津氏の御蔭であると謝意を表し、佐敷朝益を薩摩に派遣した。当時、家光の上洛に従って京都にいた島津家久は、その使者を上洛させ、将軍に謁見させたのである(謝恩使の成立)。また、それと並行して五月初め、島津氏は琉球の石高を自らの知行高に加増してくれるよう幕府と交渉した。その結果、家光は閏七月一六日、左記の領知判物を島津家久に与えた。
(中略)

 すなわち、琉球は幕藩体制の知行・軍役体系の中に範み込まれた。この領地判物の特徴は、琉球の石高が「此外」の形で記載されている点である。「此外」は、①琉球の石高が幕府の軍役賦課の対象外すなわち無役である、②琉球が幕藩体制の中の「異国」である、という二つのことを表していた。この形式は、以後、幕藩体制の全期間を通じて変わらない。(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書

 琉球と明の冊封関係が正常化するとみるや、島津は、琉球を島津の知行高に組み入れるよう幕府に求め、幕府はこれを許可する。しかし、この許可は独特のものだった。

1) 島津に含む琉球の石高は、幕府にとっての軍役賦課の対象外であること。つまり、島津の生産高に含まれるが、幕府がそれに賦課することはしないということ。

2) 1)と表裏の関係にあるが、琉球を異国と位置づけるということ。

 これが奄美にとっても重要な意味を持っているのにぼくたちは気づく。島津の知行高のなかに奄美も組み込まれるが、それは琉球同様、幕府からの軍役賦課の圏外のものだ。つまり、島津の直轄領として島津のみのために存在させることが可能になったのだ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

元ちとせと中孝介の共演

 最近、つづけて元ちとせと中孝介が共演したという記事を見ることがあった。
 ぼくはそんな機会にまだ出会ってないのだけれど、「20th J-WAVE LIVE」の共演もブログで感じ入った感想を読めるのは嬉しい。


 20th J-WAVE LIVE(ゆるり)

 2008.09.06 観る聴く走る泣く(PICO's diary)

 すっかり秋めいて参りました←どこが!?(ホットスポット(生態学))

 J-WAVE Live Autum に行ってきました。(Time and Tide)

 20th J-WAVE ? LIVE AUTUMN(Royal Milk Tea blog)


 二人は奄美からの期待も大きいだけに、奄美からの評価も声も厚みがあるけれど、やっぱり奄美の発語の先陣を行く二人だから、応援したいものです。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/06

「異国から『異国』へ」3

 まず、幕府は明と直接交易を行う可能性を探るが、失敗する。

 一六一〇(慶長一五)年一月、池城安頼が福州に至り、北京に進貢した。対明講和(勘合復活)交渉の具体的な内容は不明であるが、明の皇帝が尚寧の琉球帰国を望む内容の勅諭(万暦三八年二一月一六日付)を持ち帰った。一六一四(慶長一九)年秋、国頭朝致が北京に進貢した。国頭朝致は、島津氏が徳川将軍の意を受けて南清文之に起草させた(中略)。それによると、幕府は、(中略)

 ①日本の商船が明の辺地に渡航する(勘合貿易)
 ②明の商船が琉球に来航し日本の商船と交易する(出会貿易)
 ③毎年琉球から明に遣使する(進貢貿易)

という三タイプの日明関係を構想し、そのうちいずれか一つの実現を希望していた。国頭朝致は一六一五(元和一)年六月琉球に帰国した。ところが案に違い、国頭朝政は、「従リ唐一切請付不レ申」 と、明が幕府の要求を一切拒否したことを島津氏に報告した。幕府の対明講和交渉は、失敗した。(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書

 この幕府の失敗は、琉球、ひいては奄美にも大きな影響を及ぼしている。

 一方、対明講和が明によって拒否されると、島津氏は琉球に対し明との関係修復(二年一貢の回復)に努力するよう命じた。島津氏の琉球侵略後、明は一六二一(慶長一七)年に琉球の進貢を二年一貢から一〇年一貢に改めていた。またそれと向時に、島津氏は、掟十五力条(一六一一年)以来琉球に対し、一六一三(慶長一八)年六月一日付の「御掟之条々」(中略)、また同年九月一五日付の条書でも(中略)琉球を日本に同化させる方針を明らかにしてきたが、対明講和の失敗に伴い日本にとって琉球が明との窓口として改めて重要性を増してくると、同化から異化へ琉球支配の方針転換を図った。例えば一六一七(元和三)年、琉球人が日本人の髯、髪形をし、衣装を着ることを禁止した。また、一六二四(寛永一)年には道之島(奄美諸島)の蔵人地化せ確定し、琉球に対し次の「定」を制定した。

(中略)
 すなわち、道之島を除く首里王府領(本琉球)に限って中山王に対し、諸役人への扶持給与綾、裁判権、祭祀権を認めると同時に琉球人が日本名をつけ、日本人のなりをすることを禁じた。琉球は政治的にも風俗的にも幕藩体制の中の「異国」であることが強調されていった。それは琉明関係の正常化を促進するため、明を意識した政策であった。

 幕府が、直接、明と交易する場合、琉球の対明交易に依存する度合いは低くなる。したがって、その可能性のある初期、島津は「風体」や「諸式」について大和化を目指していたのである。幕府の対明貿易の交渉が失敗するに及んで、琉球は、<大和ではない>という規定を明確にするが、侵略するや否やそうしたのではなく、この規定が成立する過程を微細にみていくと、<琉球は大和である>という規定に始まるも、すぐに<琉球は大和ではない>という規定に変更されたのである。

 奄美の受けた二重の疎外<琉球ではない、大和でもない>の規定も、こうしてすぐれて日明関係の動向の産物として生まれたものだった。そしてこの<大和でもない>という規定は、琉球のままでいさせるという意図に始まるが、やがて、だから大和的(水準)にしなくていいという差別の根拠にもなってゆくのである。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

晩年の寅さんが暮らす地

 大島のみなさんには遅い話題ですが、南海日日新聞のバックナンバーでさっき知ってしまったので、遅まきながら。

 山田洋次監督が奄美市で講演したんですね。

 山田洋次監督が奄美市で講演

 山田さんは、加計呂麻島の諸鈍に初めて訪れたとき、

こんな美しい集落が日本にあるのかと驚いた。清潔で品が良く、その美しさに引かれて晩年の寅さんが暮らす地に決めた。今でも寅さんはあそこにいると信じている。

 地元へのリップサービスを含むかもしれないが、山田さんは加計呂麻島が好きなんですね。ある面からは奄美の終わりと言える加計呂麻島には不思議な魅力がある。大島から引き離されたばかりのような海岸線はそう思ってみると痛々しさすら感じられる。それはまるで、母親と一体感のなかにある生まれたばかりの乳児のようだ。存外、島を出るまでそこが加計呂麻島という名前で呼ばれていることを知らなかったという声が最近まで続くのはそういう理由なのかもしれない。母との一体感にまどろんでいたい。そういう地なら、寅さんは落ち着きそうだ。

 「男はつらいよ 寅次郎紅の花」

 寅さんシリーズのなかにあるというのは、日本とみなしてもらいたい奄美の心性からは嬉しい映画だったろう。それならそこに描かれている日本、日本人とはどのようなものだったろう。ぼくは寅さんシリーズのよい視聴者ではないから云々できない。いつか、そういう目線で寅さんシリーズを眺めてみたい。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/05

「異国から『異国』へ」2

 琉球侵略の目的ほ、家康・幕府にとっては琉球の来聘実現、島津氏にとっては大島の獲得であった。島津軍は、一六〇九(慶長一四)年三月四日薩摩の山川を出港し、途中、大島・徳之島を平定して二五日沖縄島に到着、四月一日首里城を落とした。五月五日、先島(宮古・八重山諸島)の帰順を確認して一五日、中山王尚撃をはじめ三司官そのほかを捕虜にして那覇を出帆、二五日鹿児島に凱旋した。  家康は琉球を島津家久に与えた。翌年、家久は尚寧を伴って駿府、江戸に参府した。ここに琉球の来聘が実現した。九月三日、二代将軍徳川秀忠は家久に対し、「琉球ハ代々中山王ガ国ナレバ他姓ノ人ヲ立て国王トスベカラズ」、「家久ニハ琉球の貢税ヲ賜」る旨を命じた。中山王の改易禁止は、幕府が琉球に対し明との宗属関係を認めたことを意味する。それは琉球に対明講和交渉を行わさせるためだった。(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書

 琉球の改易を禁止した。改易というのは、琉球の城や所領を没収してしまうことを指している。つまり、完全に薩摩藩領となることを意味しただろう。

 一六一一(慶長一六)年九月、島津氏は琉球支配の方針を明らかにした。第一に、沖縄島ならびに慶長間諸島・伊平屋島・伊是名島・伊江島・渡名喜島・粟国島・久米島・八重山諸島・宮古島で八万九、〇八六石を首里王府領として与え、大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島は島津氏の直轄地とした(大島領有の実現)。第二に、首里王府が毎年納めるべき頁納物を定めた。第三に、綻十五ヵ条を定め、琉球に幕藩体制の支配秩序を押し付けた。第四に、尚寧・三司官に起請文を提出させ、醇珠が古くから薩摩・島津氏の「附庸」國だったこと、琉球は、豊臣秀吉時代の「与力」の義務を果たさなかったため、このたび破却されたが、御恩により再興されたことを認めさせた。

 こうしてみると、琉球が明との交易関係を維持してきたことが、幕藩体制に完璧に組み込まれず、島津から改易を受け、島津の所領にされてしまうのを防いだのだった。

 しかし、幕府からの改易禁止の命を受けながら、琉球を維持させるのを隠れ蓑にするように、奄美の直轄領化は実現してしまう。この、国家権力の命をどこかで自己利益のために捻じ曲げるのは連綿としていて薩摩的だと思う。ぼくたちはそのあからさまな起源をここに見ることができる。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

'08 沖縄ドキュメンタリー 映画祭

 法政大学沖縄文化研究所の主催で、映画祭が開催される。

 「2008沖縄ドキュメンタリー映画祭」

 どれも観たいものばかりだが、ぼくとしては特に23日が欠かせないかなあ。「与論の十五夜」もあるし、山下欣一さんのお話も聞けるし。

 楽しみだ。

上映プログラム

23日
13:00  開場
13:30~ 『与論島の十五夜』 (48分)
14:30~ 『佐仁の八月踊り』(32分)
15:10~ 『龍郷のアラセツ』(31分)
15:45~ 『諸鈍シバヤ』(40分)
16:30~18:00
      特別講演 【奄美のノロとユタ】
      講師: 山下欣一 先生 (鹿児島経済大学教授)
18:10~ 『奄美のノロまつり1 -加計呂麻島 』(30分) 
18:45~ 『奄美のノロまつり2 -奄美大島 』(30分)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/04

「異国から『異国』へ」1

 紙屋敦之の『幕藩制国家の琉球支配』の最終章は「対明政策と琉球支配」。サブタイトルで「異国から『異国』へ」とフォーカスしている。

1471年
・朝鮮人が記した『海東諸国記』。吐噶喇列島の臥蛇島。日本琉球に分かれて属す。
1450年
・『李朝実録』。臥蛇島に漂着した四人の朝鮮人。二人が薩摩に、二人が琉球に引き取られる。

このように臥蛇島(七島)は、中世日本と琉球の国境であった。古琉球は中世日本からみて異国だった。
 一六〇二(慶長七)年冬、陸奥の伊達政宗領内に琉球船が漂着した。翌年春、島津氏は家康の命により琉球人を本国に送還し、中山王尚寧に対し家康へ謝礼の使者を送るよう求めた。家康の琉球に対する来聘要求は、琉球に明との講和交渉を行わさせるために、まず琉球を日本に服属させることを意図していた。しかし尚寧ほそれに応じなかった。その理由の一つは、尚寧が明の冊封を控えていた(一六〇六年に冊封使夏子陽来琉)からである。もう一つは、島津義久が尚寧に対し一六〇四(慶長九)年二月付の書状で、家康が琉球人の送還を島津氏に命じたのは、(中略)琉球に対し「附庸」説を唱えていたから、謝礼使の派遣は「附庸」説の同意につながる恐れがあったからである。そのため、来聘問題は日琉(薩琉)間の外交問題化していった。(『幕藩制国家の琉球支配』紙屋 敦之 、1990、歴史科学叢書)

 「附庸」は属国という意味だから、島津は琉球属国説を唱えていたということだ。属国説を唱える根拠になったのは、大名、亀井茲矩(これのりが鳥取城攻略の恩賞を豊臣秀吉に聞かれた際、琉球守を望み任命を受けたことに対して、島津が朝鮮出兵の際に、琉球に助力を求めたことを根拠に与力(隷属する武力)化したことをもって亀井の「琉球征伐」を阻止したことを指している。

 一六〇六(慶長一一)年三月、鹿児島で、琉球の大島を侵略するための談合が開かれた。前述した「附庸」説は、大島侵略に向けた布石であったと考えられる。島津忠恒(家久)が島津忠長・樺山久高に宛てた同年六月六日付の書状によると、島津氏は江戸城修築のため石漕船(石材運搬船)三〇〇隻を負担する御手伝普請と、忠恒が徳川家康の諱を賜る儀式を控えて多大の出費を強いられていたので、財政上の理由から大島への版図拡大を狙っていた。さらに談合の目的は、来聘問題の行き詰まりを打開するため琉球に対し軍事的圧力をかける意図があったのではないか。しかし談合は島津義久をはじめ談合衆が非協力的であり、進捗しなかった。そこで島津忠恒は家康の諱を賜り家久と改名した六月一七日、家康に琉球侵略の許可を求めて許された。以後、史料には「琉球入」と表れる。

 諱(いみな)を賜るは、忠恒が家康の「家」の字を与えられ「家久」と名乗ることになったのを指している。この儀礼と「石漕船(石材運搬船)三〇〇隻」の負担による経済的疲弊を根拠に、家久は「家康に琉球侵略の許可を求めて許された」。

 薩摩の思想が、時として奄美の苦労は特別じゃなく薩摩も同じだというとき、農民として同じだという以外に、藩権力としての薩摩も免罪する言い方をするのは、奄美は島津に収奪されたと言うが、島津も幕府から不条理な負担を強いられていたのだというのを根拠にしている気がする。確かに、幕府-島津-奄美の連鎖のなかで理解できる側面はあり、幕藩体制のなかで理解できることはある。しかし、そのことは島津が何をしたのかを明らかにすることを妨げる理由にはならない。みんな同じにしてしまっては、何も終わらないし何も始まらない。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

白と青のあいだに

 与論島に心惹かれるのは、出身地、生まれ島だからという以上の意味があると常々思っているし、それが手に負えないので悩みの種にもなるのだけれど、

 「出発」(東京自転車散歩)

 「与論島へのいざない」(キルトと癒しの時間)

 こんな風な紹介をされるのを見ていると、旅人も同じところで心奪われてるんじゃないかと思えて嬉しい。

 それは、海の青と砂の白のあいだの色の多彩さだ。

 めぐみさん(「スローライフしながらRICH」)やちゃくれさん(「ちゃくれの写真倉庫」 )は、それを“与論ブルー”と呼んでくれているが、ああ、そういえばいいんだと思ういいフレーズだ。

 ずっとずっと昔から、与論ブルーが心を捉えて離さない。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

ショチョガマと平瀬マンカイ

 昨日は、大島の龍郷町で「ショチョガマ」と「平瀬マンカイ」が開かれた。

 「稲の霊に豊作祈願 奄美大島で二つの伝統行事」

 奄美の歴史記述を読んでいると、時折、いじめられっ子がいじめっ子を名指せない情けなさを感じるけれど、島唄や祭儀の世界に抗う力は生きていてほっとする。両方とも来迎神信仰が稲に結びついたものだが、奄美のなかでは大和に近い場所に残ったのは関心をそそられる。山が隔てる大島の地勢のなせる技だろうか。

 記事中の写真もいい。


大きな地図で見る

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/03

薩摩はなぜ琉球を侵略したのか

 なぜ、薩摩は琉球を侵略したのか。紙屋敦之の「島津氏の琉球出兵と権力編成」(『沖縄史料編集所紀要』通号5、1980年)に学んでみる。

 来聘問題で琉球に譲歩を迫まる目的で島津氏は大島出兵を企画し、慶長一一年三月そのための談合を開いた。幕府が前年七月二八日に当該問題で松浦氏に琉球との接触を命じたことが松浦鎮信からの八月一五日付書状で明らかになり、対琉球関係の独占的地位が崩れることを心配したことが、武力出兵という強硬手段を島津氏に選択させる契機をなした。

 ここに言う「来聘問題」は、幕府と琉球の間に起こったものだ。1602年、陸奥国に漂着した琉球人を徳川家康が琉球へ送還した後、お礼の使者を求めたが、それに琉球が応じていないことを指している。 来聘(らいへい)は、「外国から使節が来朝して貢ぎ物を献ずること」(辞書)とあるが、幕府はそれを機に琉球を服属させ日明貿易を復活させることを狙っていたし、琉球はその意図を察知すればこそ応じていなかった。

 慶長11年は1606年。あの1609年の三年前には「大島出兵」がすでに計画されている。松浦鎮信は、肥前などを版図に持った平戸藩の初代藩主とあるが、幕府は琉球関係の窓口として薩摩藩だけを考えているわけではないことに衝撃を受け、琉球への独占的地位を保てなくなると懸念し、それが侵略の契機をなした。

◇◆◇

しかし大島出兵の談合は、島津義久をはじめ談合衆の大方がそれをボイコットしたために不調に終った。また当時島津氏は琉球問題とは別に、一八代当主を襲った家久の下に権力を再編・強化する課題に直面していた。島津義弘が在京中の家久に大島出兵の談合の模様を伝えた慶長一一年四月一日の段階では、大島出兵は家臣団の石鋼船建造の出物未進と並列的に扱われていたがしかし、幕府から提出命令のあった郷帳を作成した結果、一一万八〇〇〇石の隠知行があらわになったことを伝えた五月二日の段階になると、大島出兵と隠知行の糾明=知行問題の解決とがはじめて不可分の問題として意識されるに至った。

 島津は、幕府から命じられた「石鋼船」300隻の建造が済んでいなかった。「石鋼船」は具体的にはどんな船のことか分からないが、江戸城築城のための船とあるから、運搬船のようなものだと思う。内政と大島出兵は別の問題だったが、改めて調べてみると「隠知行」があるのが分かり、「大島出兵と隠知行の糾明=知行問題の解決とがはじめて不可分の問題として意識されるに至った」。「隠知行」とは何のことか、これもよく分からないのだが、家臣団が島津に対して隠していた領地があるということだろうか。「大島出兵と隠知行の糾明」が不可分になるのは、出兵に際して軍役を賦課する際に知行は基準になるから、外政と内政が同一化されたという意味だと思える。

大島出兵の談合が不首尾であった島津氏は六月一七日、家久が、徳川家康に大島出兵の許可を請い許された。そのことによって、大島出兵は島津氏の私的政策から幕府の支持の下国家的政策に止揚された。つまり島津氏は、幕府の対明政策の一環としての琉球政策(当面、来聘問題の解決)の中に琉球出兵を位置づけることにより、幕府権力を背景に権力内部の出兵反対派を抑圧し、琉球出兵を権力編成の推進力として軌道に乗せることができたのである。琉球出兵は、それを契機に隠知行を糾明すると同時に琉球に版図を拡大することを目的としていた。

 なぜ、幕府は「大島出兵」を許可したのか。島津家久は石鋼船建造と家康から「家」の字を与えられたことへの出費により経済的に疲弊しないために、大島出兵が必要であると説いている。幕府はそれを聞きいれた形になっているが、幕府にしてみれば、明との貿易再開が最大の目的であったと思われる。

◇◆◇

 次に、琉球支配の展開と相まって行なわれた慶長内検は、一万三〇〇〇人にのぼる膨大な家臣団を扶持するために給地の確保=知行制度の確立を急務としていた(粗高制成立の意義はここにある。)ので、蔵人地の強化が不十分であったという問題点を残した。そこで、元和三年九月五日の徳川秀忠領知判物において、琉球の石高が島津氏の表高に算入されず事実上無役扱いされ右と、島津氏は二月琉球の特産物上納を石高を基準とした出物方式に切り換え、以後琉球の貢納を軍役として収奪した。また寛永一年八月(琉球の分轄支配を確定した)、道之島を島津氏の蔵人地として直轄支配することに決定した。要するに琉球の石高は、島津氏の頁租を主体とした財政基盤の弱体を補強する役割を与えられることになったのである。

 同じようにいえば、要するに、島津は自らの経済的窮乏を救うため奄美を直接支配したのだ。自らの経済的窮乏も、厳密にいえば、「膨大な家臣団」の維持のためである。

 紙屋に教えられながら薩摩の侵略動機を言うなら、窮乏を梃に国家への欲望を満たそうとしたものだと思える。窮乏は、貧弱なシラス台地によるものだが、それを絶対的にしたのは過剰な武士団の存在である。国家への欲望も薩摩の特徴だ。それは、幕府との距離と位置に依る。幕府から空間的距離が離れているということと、外様として時間的距離もあるということ。そして、端という位置。この二つを契機に、薩摩はもうひとつの幕府ともいうべき国家への欲望を膨らませていた。この欲望の根拠になったのも、過剰な武士団の存在である。過剰な武士団を経済的に維持するため、過剰な武士団が醸成する国家幻想を満たすため、琉球を侵略し、奄美を直接支配したのだ。

 琉球王府に対し、出物を石高を基準に賦課する体制を成立させたことは、島津氏が出物賦課率の操作次第で常に琉球に対する収奪強化を行ないうるということを意味した。また特権商人の納屋衆に運上金と引き換えに薩琉間の交通を独占させることを通じて、島津氏は琉球王府の再生産を規定する商品流通を掌中に支配した。琉球支配の構造的特質はすぐれてこの二点であった。

 事実、「出物を石高を基準に賦課する体制」は、黒糖収奪の際、搾取の機会を提供したと言える。


※「島津氏の琉球出兵と権力編成」
 (紙屋敦之、『沖縄史料編集所紀要』通号5、1980年)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

おいしいハーブ栽培に与論島協力

 茨城県取手市の霜多さんが栽培するハーブは、

「えぐみがなくて、おいしい」と評判を呼び、取引先は有名ホテルや外食チェーンにも広がった。

 で、霜多さんのハーブは、「与論島に協力農場」もあるそうです。

 どこかの料理でハーブが添えられたり使われたりしたとき、それが与論産かもしれないと思えるのは嬉しいですね。

 新いばじん:/14 安全でおいしいハーブ栽培に取り組む、霜多増雄さん /茨城

 「いばじん」て何だろうとちょっと悩みますが、「いばらぎじん」ですね、きっと(笑)。




| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/09/02

二重の疎外とその隠蔽、年表

 備忘のため、二重の疎外とその隠蔽について、年表に整理しておく。

<琉球ではない><大和ではない><琉球にもなれ><大和にもなれ>

1606 大島侵略計画
1609 琉球侵略
1611
・(琉球の範囲から除外)
1613
                                     ・御掟之条々(琉球の大和化)
1614 幕府の対明政策、失敗
1617
            ・(琉球人の日本の髭、髪形、衣装を禁止)

1623
・「大島置目条々」琉球の鉢巻を取ることを禁止
1624
・蔵入地確定    ・「定」(琉球人が日本名をつけ日本人のなりをすることを禁止)
1633
                         ・冊封使、琉球へ
1634 琉球石高を計上。幕藩体制への強制的組み込み
1655 幕府、琉球と清との冊封関係容認。「不治を以治」。
1663
                         ・冊封使、琉球へ
1681 薩摩、琉球の邪儀に加担しないと誓約
1683
                         ・冊封使、琉球へ(日本人、宝島人を偽装)
1699         ・道之島人が大和と紛らわしい名前や髪形にすることを禁止(喜界島代官)
1706
・旧家より所蔵する系図・文書・旧記録の提出
1711
1719
                         ・冊封使、琉球へ(日本人、同席せず)
1728
            ・「大島御規模帳」大和化の禁止
1742
                         ・大島の大和浜へ漂着。琉球送還の薩摩船は「宝島船」。
1756
                         ・冊封使、琉球へ
1768
                         ・大島船、唐へ漂着。「諸書付けを焼捨て、大島人の所持する京銭を海中へ沈め、武具は隠し首尾よくすんだ」
1773                                 
                                     ・中国に漂着した薩摩船に、沖永良部島民二人。島民たちは月代をさせられ、「登世村」「嶋森」という名も「村右衛門」「嶋右衛門」となる。
1790
                         ・沖永良部島民が朝鮮に漂着。「琉球国中山王」の支配下の者であると主張し、寛永通宝も琉球の銭であると言い張った。
1800
                         ・冊封使、琉球へ
1808
                         ・冊封使、琉球へ
1838
                         ・冊封使、琉球へ
1844
                                     ・奄美はトカラ支配
1868
                         ・冊封使、琉球へ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

迫力のヤシガニ

 これ、すごいでしょう。全長70センチはあろうかというヤシガニです。
 見よ、この堂々たる姿。

Anmahu4_2
















 リアルタイムのヤシガニですが、与論産ではなく、お隣の永良部産です。前利さんに教えてもらいました。

Anmahu2_2














 
  こんな元気なヤシガニがいると思うと、嬉しいですね。

Anmahu5



















 知名の瀬利覚には、「アマンブックイのほら穴」という昔話があるそうです。
 農作業の途中、陽に当たるのを気にかけたお母さんが、畑のすみに赤ん坊を寝かせてあげたら、アマンブックイがほら穴のなかにさらっていったというのです。ヤシガニが相当な腕力の持ち主なので、赤ん坊を引っ張る力は当然あると思わせます。でも力持ちと知られているだけじゃなく、こんな言い伝えが生まれるくらい、昔、ヤシガニは身近な存在だったんですね。

 ちなみに与論では、ヤシガニはアンマフですが、永良部ではアマンブックイというのですね。こちらのほうが強そうです。(^^)

 アマンブックイ、アンマフも島にずっといてほしい存在です。島の主ですから。


| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008/09/01

ヨロン島ビーチバレーフェスティバル

9月27、28日(土・日)に記念すべき最初の「ビーチバレーフェスティバル」を開催することが決定しました。

 のだそうだ。

 観光ニュース : ヨロン島ビーチバレーフェスティバル

 決選は、百合が浜で行われる。

 記事は、「まさに『ロマンチック』の一言」と書く。

 決勝戦会場は幻のビーチ!「ヨロン島ビーチバレーフェスティバル」(鹿児島)

 ビーチバレーでロマンティック気分にはなかなかなれないだろうが、沖合いの白砂でやるのは、それはそれは気分いいだろう。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

「幕藩制下における琉球の位置」5

 紙屋の考察をたどると、琉球は、明、薩摩、幕府との関係のあわいを生きている。

琉球は、清帝の「准作正真」という恩典の授与にもかかわらず、また王府にとって貿易の利潤がないにもかかわらず、中国への進貢に熱心に取り組んでいるのである。その理由は、中国との朝貢関係の継持こそが、琉球が幕藩制下にみずからを同化されず、「王権」を維持し続けるための拠り所であったからであると理解される。

 琉球王国は、王権があるのに幕府に江戸上りさせられていたというより、王権維持のために江戸上りを行ったということだ。紙屋の結論は、こうだ。

1.琉球使節の江戸上りは当初、島津氏の琉球支配の必要から実施された。幕府は宝永度、一時使節の参府を無用としたが、島津氏の嘆願を容れて再考し、改めて琉球使節の江戸上りに日本の「御威光」を強化する、ひいては、幕府の国内支配を権威づける意義をみいだした。琉球使節の江戸上りは、宝永七年以降、幕藩制国家の国家的儀式として確立、実施された。

2.薩琉間の合意のもとに享保四年、日琉関係の隠蔽が最終的に確定し、琉球の「独自の王国」たることが偽装された。それは、琉球が中国との朝貢関係を維持する必要からであった。

3.そして以上のことはともに一八世紀初頭を画期としている。

 次に琉球使節の江戸上りを通した、幕・薩・琉三者の関係は次のようになる。

4.幕府は、中国の朝責国である琉球からの使節を迎えることで、東アジア世界における日本の「御威光」を高め、さらには幕府の国内支配を権威づけることになった。

5.島津氏は、琉球使節の江戸上りを恒常的に実施するかわりに、幕府権力を背景に琉球支配の安定・強化をえることができた。また幕藩関係において有利な地歩を築きえた。

6.琉球は、異朝の風俗を装い、日本へ使節を派遣し続けることで、幕藩制下にみずからの「王権」を維持するこ とができた。

 奄美に引き寄せていえば、琉球の「独自の王国」の偽装は、二重の疎外とその隠蔽が徹底される背景をなしいてる。そしてさらに、奄美が薩摩の直轄地であることの隠蔽も、隠蔽と意識されないくらい自明となっていったように思える。


『幕藩制国家成立過程の研究―寛永期を中心に』(紙屋敦之、1978年)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年8月 | トップページ | 2008年10月 »