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2008/09/20

「島津氏の琉球入りと奄美」 6

 「薩摩はひどい。でも琉球よりはましだ」という認識から繰り出される、薩摩の琉球侵略へのわかりのよさと琉球王国の政策への手厳しさという視野に矛盾は訪れないのだろうか、あるいは奄美の歴史を語るのに充分な視点を提供してくれるだろうか。だが矛盾はあるのである。

 鉄砲と丸太棒とでは、戦にならなかった。喜安日記のいうように、「昔より此国は、弓箭という名をだも聞かず夢にも知らざる」という状態が、つづいていたのである。またこの戦役で、栗ガユで薩軍の足をただらそうとしたなどの笑い話も伝わっているが、あったとすれば、それはノロたちの呪術から出た戦術であろう。栗ガユは、悪霊払いの霊力を持つと信じられていた。島のノロたちにとり、何の理由もないのに、いきなり平和な生活に侵入してきた薩摩軍は、悪霊でなくて何であろう。

 矛盾というか葛藤は、薩摩侵略の際の奄美の闘い方に現れる。「粟ガユ」がそれだ。栗ガユは呪術による闘い方である。実際、薩摩の軍船にノロたちは呪言(フチ)を浴びせている。それを、「栗ガユで薩軍の足をただらそうとしたなどの笑い話」とするのは自己侮蔑以外のものではない。そうみなすのは、近代化することが無条件に善となってしまっている薄っぺらな近代主義だとしか言いようがない。書き手はここでは、奄美の闘い方をうまくかばうことができない。でも、ことは身内のこと、琉球王国に対するような「ていたらく」という捨て台詞をなかなか言うことができない。その葛藤のなかで、「島のノロたちにとり、何の理由もないのに、いきなり平和な生活に侵入してきた薩摩軍は、悪霊でなくて何であろう」という真っ当な見解が生み出されている。書き手にしてみたらこれは皮肉なのかもしれないが、ぼくたちにしてみたら、時々たまらずに吹き上げてくる素直な視線にとどまるべきだったと思う。

 種子島氏の場合の朝鮮の役での軍役は、文禄の出兵が百三十余名、慶長の場合が百四十余人である。それからみると、琉球のは過重で、島津氏が自分の分まで過分に負担させたのではないか。少なくとも、琉球がわとしては、朝鮮の役で島津氏に不義理がある、とは信じていなかったに違いない。したがって琉球の三司官が島津氏の琉球侵入前の要求、新しく格役をつとめるか (この場合は、永続的なものとしての押しつけ)、大島をゆずるか、との要求を拒絶したことは、それなりの筋道は立っているのである。ただ力の筋道に対しては、この理由は通らなかったのである。

 こういうところにも思わず真っ当さのかけらが現れている。筆誅を使って貶められる謝名をはじめとした三司官は、大島の割譲を拒否してくれている。このことは、「それなりの筋道は立っている」にとどまらず、もっと評価しなければならないと思える。

 結局、島津氏の琉球入りの薩摩がわが強調する理由、すなわち裏書附膚の礼にそむき、秀吉によって定められた格役をつとめなかったから、という言い分には多くの歪曲がある。それは、北にのびることをとどめられた戦国大名のエネルギーが、南にのびただけの話である。ただ近世に入りかけており、中央政権が成立したので、その承認のもとに行われたという点がちがうだけである。秀吉が一時考えたように、琉球に改易転封が行われていたら、対馬の宗氏と同じく、中央政権下の一諸侯領となり、琉球王と島津氏には気の毒だが、島民にとっては、島津氏治政下で生じたような、複雑な少数民族的心理錯綜を、免れたであろう。民族統一の新しい気運にあいながら、領民を素直な形で参加させることのできなかった、当時の支配層の無策を憤るのは、向象賢のみではあるまい。

 最後にきて書き手は願望をむき出しにしている。琉球が、「中央政権下の一諸侯領とな」ればよかったのに、というわけだ。書き手が「大島代官記」序文の「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」にナショナリズムの息吹を強引にみたように、日本が目指されている。ぼくたちはここで、書き手の「薩摩はひどい。でも琉球よりはまし」という認識の基本型に付け加えることができる。

 薩摩はひどい。でも琉球よりはまし。だから日本につくべきだ。

 こんな形をしている。だが、直接、幕府に取り入り、一大名になったとして、「複雑な少数民族的心理錯綜を、免れた」わけがない。明との貿易がある限り、琉球は異国である必要があり、それは「中央政権下の一諸侯領」となったとしても、琉球という関係の位置は、その役割のなかで生きたとすれば、「複雑な少数民族的心理錯綜」は、いまの沖縄と同じような形で持たざるを得なかったのである。せいぜい言えるのは、奄美ほどの複雑さを持たずに済んだかもしれないということくらいだ。

 さて、ぼくに残るのは、「当時の支配層の無策を憤る」として、どうしてそれは琉球にのみ向けられて、よりひどいことをした薩摩に向けられないのか、という不可解さだ。いくら、「薩摩はひどい。でも琉球よりはまし。だから日本につくべきだ」という認識を持っていたとしても、なぜ、そもそも侵略した側は責められず侵略された側ばかりが責められるのだろう。

 ここからはもう推し量るしかないが、いくつか考えられることはある。ひとつは琉球に対する過度の期待である。琉球に対する期待、琉球のなかにいたほうが苦労は少なかったろうという認識が下敷きにあるから、そこから引きはがされた事態を招いたことに憤らざるをえないということ。

 だがそれならなおさら、薩摩も批判されてしかるべきである。それがそうならないのはどうしてか。それは、書き手が盲目的に近代化を善とみなしているように、薩摩が「進み」、琉球が「遅れて」いるから、琉球を評価することが禁じ手になってしまっているのではないだろうか。そこには、奄美自身も「遅れて」という見做しにおびえてきたから、琉球を評価することが、「遅れて」いることにつながるのではないかということを恐れているのである。

 こう書いて思い出すことがある。ぼくは、奄美の郷土史家、大山麟五郎が『沖縄・奄美と日本(ヤマト)』のなかで「正直いって、奄美は近世の洗礼も鹿児島によってはじめて受けることができたわけです」と書いているのを見て驚いた(「治療薬としての郷土史」)。ここには、近世化という時代の進展を無条件に善とみなすことにおいて、『名瀬市誌』の書き手と変わらない。しかしそれ以上に見逃せないのは、琉球は近世化できないという見做していること、そしてさらに、琉球や薩摩なしに奄美だけで歴史を築く可能性自体を否定していることである。言うのであれば、こういう認識にこそ、「このていたらく」は当てはまる。

 ぼくは嫌な連想が働く。ぼくは去年、『薩摩のキセキ』を読み、薩摩の思想が明治維新を一歩も出ないどころか微動だにせず自動空転したまま増殖していることに心底、驚いた(「野郎自大で我田引水なKY」)。そしてもしかしたら、薩摩にとって隣人である奄美が失語していることは、彼らが微動だにしないことにつながっているのではないかと考え、対話する必要性を考えた。だが、『名瀬市誌』の 「島津氏の琉球入りと奄美」を辿って、もう少し考えなければならないことに思い当たる。奄美はただ失語しているのではない。薩摩の思想が先に進む必要がないと言わんばかりに失語していいるのだ。奇妙な関係である。

 奄美は薩摩のおかげで生きながられているわけではない。奄美はなにものにも遠慮しない自立する思想を構築しなければならないのである。


 「島津氏の琉球入りと奄美」 1
 「島津氏の琉球入りと奄美」 2
 「島津氏の琉球入りと奄美」 3
 「島津氏の琉球入りと奄美」 4
 「島津氏の琉球入りと奄美」 5

 

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