「島津氏の琉球入りと奄美」 4
薩摩の琉球侵略へのわかりのよさと琉球王国の政策への手厳しさという書き手の両輪の認識は随所に貌を出すようになる。
尚真が死んで尚清が王位をついだ大永七年(一五二七)はまた、薩摩では、行きづまった島津宗家の勝久が、忠良の子島津貴久に家督をゆずり渡した年でもある。守護大名としての古き島津氏は没落し、島津忠良(日新斎)という英傑の赫々たる人格のなかから、戦国大名としての島津氏が勃興してくるのである。「神国」への眠りを深めつつある中山王国とは対象的に。(『名瀬市誌』)
両輪の認識はここで同時に出ている。島津の記述をしているその引き合いに琉球は突然、貶められる対象として駆り出され、その反面、島津は褒めるべき対象であるかのような相貌を帯びている。理解に苦しむ認識であるのは変わらない。書き手の島津勃興の描写は、昔でいえばチャンバラごっこをする子どもが武将に憧れるのとにているし、ナショナリズムへの素朴な信望は、「神国」日本のナショナリズムにやすやすと吸引されていくのが容易に予想できる。どうして、そこにとどまっているのか、不思議でもあれば痛ましくもある。
三州統一に多忙の間の島津氏の琉球あての書筒は、貴国と同盟だとか、往昔より昆弟(兄弟)の約ありとか、隣交いよいよ密ならんとかいった類の親密顕示ぶりであるが、琉球がわが、その親密によりかかることの危険を、さとっていたかどうか。この間に薩摩がわは戦国大名として着々上昇しているが、琉球がわは、その南海貿易はポルトガル船、ついでスペイン船によってとってかわられ、わずかに対明進貢貿易を保つのみで、昔日の面影はなくなっている。しかも国家の存立を、縮小されたその海外貿易に安易に依りかからせ、基本であるべき土地支配の根本施策をゆるがせにしているのである。琉球の農民は、ノロ組織の中で眠らされ、その農業技術は、チフージン(聞得大君)府の指導する呪術儀礼が、基本というていたらくである。
両輪の認識はここでも変わらない。聞得大君は、この「ていたらく」と貶められているが、そう簡単に馬鹿にできる代物ではない。なによりこの書き手が、呪術的要素をたぶんに含んでいる天皇体制に、同じように「眠らされる」思考で奄美を見ていることは今まで見てきた通りである。しかも、「呪術」の世界は前時代の遺物として葬れば済むものではない。どうして、こう手厳しいのか。もしかしたら、「遅れている」という見做しに奄美は煩わされてきたので、認識を「進んだ」ものにしなければならないという焦慮が、そうさせているのかもしれない。
琉球がわが旧例をたがえたことは失態にちがいないが、冷遇されたと怒っている薩摩の使者が、元亀三年二五七二)に琉球に使いした内容、島津氏の印をもたない渡琉船は琉球がわで処罰せよとの申し入れは、たとえ、昔室町幕府の島津氏に対する特権附与があったとしても、琉球がわはあずかり知らざることで、主権の侵害である。第一尚氏の時代、あるいは、第二尚氏も初期なら、これをはねのけたであろう。しかし今、尚永の使いは、威圧的な相手に、ただ卑屈に釈明するだけである。力の相違は、歴然たるものである。
主権の侵害という真っ当な理解も時折、露出することがある。だが、残念ながらそこから真っ当さが膨らんでゆくことはなく、あの両輪の認識が、バランスを取るように認識を覆うのだ。
このような事態を招く口実を与えた琉球がわの外交的失態はおおえない。薩摩がわと詩の贈答はできても、琉球方言でコトバも通ぜず(とぼけているのでなければ)、下役の本土人を通訳としているでいたらくで、この後の急傾斜で民族統一に向かいつつある時勢の変転に即応して、あやまりなく対処しうるには、あまりに不用意である。このあとの三司官謝名の失策とあいまって、琉球指導者の無能ぶりには、七十五年後中山世鑑を書かねばならなかった向象賢の怒りがわかるような気がする。
ここでは両輪の認識が、無残な形で現れる。琉球王国の言葉は琉球の言葉なのだから、琉球方言を使う、そのどこが悪いというのだろう。この場合、大和と意思疎通するために通訳を置くのは当たり前である。書き手は、本土の言葉をしゃべるべきだと言っているのだろうか。
この天正三年は、すでに名目だけの足利幕府が滅んで二年、長篠の戦いで信長が天下様としての実をそなえた年であり、その翌年には、信長は安土城の主人となり、内大臣となり、も、つロH-のあるものには、天下の大勢がほぼ見えてくる時期である。大明帝国的秩序世界に安住して、時勢を知らない南海の小国が、やがて 「さつまによる平和」という長い半植民地時代に転落するのは、自ら招いた無策のせいと見なければなるまい。もう琉球の指導層には、日本はすなわち薩摩のこととしか、うつっていなかったのではないか。
薩摩を大和と呼び、日本を大大和(うふやまと)と呼ぶ。それが当時の世界認識であり、薩摩を窓口としてみるのは自然なことである。この書き手は、どうしても、奄美を日本に直結させたくて仕方ないらしい。
向象賢が、その中山世鑑のはじめの世継総論で、支配者のおしつける附膚の「史実」をうけいれながら、「永享年中(轟音元年は永亨十三年)、琉球国始メテ薩州太守島津氏ノ附庸国トナリ、日本こ朝貢スル百有余年ナリ、尚寧終リヲ憤マズ始メニモトリ…事大ノ誠ヲ失フ。故こ慶長己酉(十四年) 薩州…琉球ヲ征伐…爾来、琉国、薩州二人頁毎年ナリ。」と、琉球入り前の朝貢は 「日本」、琉球入り後の入貢は 「薩州」と、使い分けているのは、決して修辞のためとは思えない。百有余年朝貢の日本とは足利幕府のことではないか。ナショナリズムに目覚めた新しい琉球の指導者が、奴隷の立場を放れて許されるなら、本当に「事大ノ誠」をいたしたかった対象は、日本そのもの、その中央政権に対してであり、l薩州に対してではなかったろうことは、明らかである。かれが欺いているのは、無策な琉球の指導者が、中央政権との接触を失ったことに対してであったろう。かかる表現の中に、身をかがめなければならなかった先人の苦衷と怒りは、大島代官記序文の嘆きをもこめて、かみしめねばならぬ。
ここで、琉球は薩摩の属国で百有余年、日本にも朝貢してきたと書くのは、強制された起請文を、自分の認識とするくらい刷り込まれてしまったものとみなせば、自然な流れであり、「琉球入り前の朝貢は『日本』、琉球入り後の入貢は『薩州』と、使い分けているのは、決して修辞のためとは思えない」というのは、それこそ書き手のナショナリズムから湧き出る願望にしか過ぎない。
ぼくたちはこの書き手の認識が『名瀬市誌』のものであるということをこそ、克服すべき現実としてかみしめなければならないのである。
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