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2008/09/19

「島津氏の琉球入りと奄美」 5

  薩摩の琉球侵略へのわかりのよさと琉球王国の政策への手厳しさという書き手の両輪の認識は、とうとう両者の比較に至る。

 天正十五年二五八七)、義久は頭を剃って竜伯と号し秀吉に降った。秀吉は前年、島津氏をさとしたが、「羽柴(秀吉)コトハ、マコト二由来無キ仁、…当家ノ事ハ、頼朝以来…御家ノ事候。」と気負う島津方は、天下の軍を迎えて、「天下ノ弓箭こマカリ成り候。」と意気ごみ、秀書の言をきかなかったのである。しかし中央軍と薩軍とでは、数の多少だけでなく、質的な段階の差があったことは争えない。島津軍は、最後の決断は霧島神宮のクジで下し、侵攻に先立ってはまず敵領に呪の針を伏せ、合戦の矢合わせには「木性」の人「然かるべき由候」などという中世的山伏呪術を、臆面もなく、この戦争での島津軍法の一環として展開しているのである(覚兼日記)。しかしそれでも、戦国の世に刃剣城壁の備えなくしてどうして国家を保つのかと、明の使いにきかれて、真面目に、「神女ヲモツテノ故」にと、神国思想で答えた琉球第二尚氏の首脳部よりは、はるかにましであった。(『名瀬市誌』

 どうやらぼくたちは、ここで書き手の認識の基本型に出会ったようだ。それは、

 薩摩はひどい。でも、琉球よりましである。

 という形をしている。

 呪術を使う薩摩を浅薄な近代主義で批判するが、それに終わらず、どうしてもそのバランスを取らなければならないかのように琉球は引き合いに出され、さらに貶められる。それが書き手の思考の生理になっている。

 秀吉の九州平定で旧三州におしこめられ、ひきつづく文禄・慶長の役による朝鮮出兵や、太閤検地による近世封建制の受洗で、島津氏の上にあわただしい歳月が訪れる。その間、秀吉中央政権の琉球服属の下令、場合によっては、琉球に対する転封改易の意向、なかでも亀井茲矩の琉球遠征計画、そういうはらはらする情勢のなかで、北ですべてを失った島津氏が、南の権益を守るための手は、一つしかないことを悟るのは当然である。

 続くこの文章は、薩摩の琉球侵略への物分かりの良さが現れる。侵略の理不尽さに触れることがないというのは、ここまで来ると、それが「薩摩はひどい、でも、琉球よりましである」という認識の基本型があるからだということが分かってくる。

 中央における新しい「国民国家」成立の時勢に無知で、かつ島津氏に引きまわされるだけで、自ら中央政権とのルートをつける才覚も持ちあわせない琉球凶首脳の外交的失態や、視野の狭さに助けられつつ、事態は一路、慶長十四年 二六〇九)へと傾斜していくのである。三司官のなかで最も発言力の強い謝名は国子監(中国の大学)出身で、かつ唐営(久米相の帰化人の子孫)からはじめて三司官にのぼり、豪毅ではあるが、明国の物理的な大きさに幻惑されている政治家である。対立する親日派の池城一派といっても、「唐を祖母の思ひをなし、日本を祖父とせよ。」(喜安日記)はいいが、その日本は、すなわち薩摩だと、思いこんでいる無策無気力な連中である。危急存亡の間に社稷を保持してきた島津家の首脳部とでは、勝負にならないのである。

 もうぼくたちは、書き手の裁断にむやみに驚かないでもいい。「薩摩はひどい。でも、琉球よりましである」という場所から、判断は繰り出されているとみなせば矛盾がない。しかしそれでも、なぜこうなってしまうのかという疑問は残る。これでは、薩摩を真っ当に批判することなど覚束ないと言わなければならないだろう。

 文禄・慶長の役は、朝鮮で得ていた対馬の宗氏の立場を根底からくつがえした。生産条件の悪い封土をもつ宗氏にとり、戦後の国交回復による貿易特権の復活は死活問題である。慶長十年(一六〇五)には、朝鮮使節を同行して将軍家康に謁し講和をはかり、同十二年には宗氏の案内する朝鮮国債は、国書を幕府に呈して、国交は回復した。宗氏のあっせんの努力は幕府でも評価され、後には対鮮外交にあたるゆえをもって、とくに十万石の格式を許されるのだが、慶長十四年(一六〇九)には、朝鮮と条約を結び、年三十隻の渡航を認められている。(己酉条約)みごとに、対鮮外交および貿易上の特権を、回復したのである。

 ここにぼくたちは、あらまほしき琉球の姿を、書き手は対馬の宗氏に求めているのが分かる。だが、大和内にいる者と大和外から大和を臨む者とではおのずと状況は変わって見えることは見過ごされる。それは、書き手にとって、日本という概念と範囲が先験的なものになってしまっているからだ。


 「島津氏の琉球入りと奄美」 1
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