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2008/09/16

「島津氏の琉球入りと奄美」 2

 ここから「島津氏の琉球入りと奄美」は、侵略の理由の考察に入っていくのだが、そこには、1650年に記された琉球王国の正史「中山世鑑」が引用されている。

 代官記序文より以前(一六五〇年)に書かれた琉球最初の正史「中山世鑑」の総論にも、著者向象賢によって、同様な趣旨がのべられている。「大日本永享年中、琉球国始メテ薩州太守島津氏附庸ノ国トナリ、日本二朝貢スルコト百有余年ナリ。尚寧終リヲ憤マズ始メニモトリ、恐憧ノ心日二弛ミ、邪僻ノ情ウタタ恋イママ二、釆欽ノ臣一邪名(薩摩側の僧文之の「討琉球詩序」中の「時二一緊欽臣名邪那ナル者アリ」からとる。悪字を使っているのは、反薩派の巨頭謝名親方を筆誅するため。) ヲ用イテ事大ノ誠ヲ尖フ。故こ慶長己酉、薩州太守家久公、樺山権左衛門尉・平田太郎左衛門尉ヲ遣ハシ、兵ヲ率イテ琉球ヲ征伐セシム。而シテ国王ヲ檎こシテ返ル。」とある。

 「中山世鑑」は、「大島代官記」より10年以上前に書かれている。そこに、「琉球国始メテ薩州太守島津氏附庸ノ国トナリ、日本二朝貢スルコト百有余年ナリ。」とあるのを見ると、「大島代官記」の「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」という一文は、「中山世鑑」の記述を引用したものではないだろうか。そう考えるほうが無理がないと思える。

 この戦役についての琉球側の記録「喜安日記」には、薩摩に捕虜になった琉球の王や高官が、許されて故国へ帰る時、署名を強要された起請文がのっている。尚寧王のものは、「敬白、天罰霊社起請文の事。一、琉球の儀、往古より薩州島津氏の附属となる。これによって太守その位を譲らるる時は、厳に船を威しもってこれを奉祝す。或は時々使者使僧をもって、随邦の方物を献じ、その礼儀終に怠る無し。なかんづく太閤秀吉の御時定め置かれLは、薩州に相附し揺役諸式相勤むべき旨、その疑い無しといえども、遠国の故相達する能はず。右の御法度多罪々々。ここによって琉球国破却せらる。…」という恐れいり方である。

 「恐れいり方である」と、琉球の記録「喜安日記」には手厳しいが、「大島代官記」の薩摩に頭脳を塗りつぶされたような記述も同じだということが見えないのだろうか。

同日(慶長十六年九月十九日)琉球の三司官に押しつけられた起請文には、「琉球の儀、往古より薩州の附庸たるの条諸事御下知に相随ふべきのところ、近年無沙汰致すによって、破却なさせらる。云々」とあるが、三司官の一人の例の謝名親方は、これに連判を拒否し、即日斬首されたという。

 薩摩のみならず、琉球によっても奄美によっても、貶められている謝名は、三司官のただ一人、起請文への連判を拒否し、その日に斬首されている。ぼくは、琉球にも、薩摩の侵略拒否の態度があったことを覚えておきたいと思う。少なくとも、「大島代官記」の「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」よりは、はるかに励まされる。

 以上の文書において、この戦役の理由とされているものは、謝名の運命に端的に見られるような政治的状況の下に勝者によって敗者にその承認を強制されたものである。客観的な史実として、敗者側をうなずかせるものではなかった。勝者と同じ平面での反駁を許されない心理の断層をのりこえるためにこそ、向象賢の主張する日琉同祖論(寛文十二年=一六七二の「仕置」その他)や、前後して代官記序文の筆者が書き記した新しい認識(先祖たちには、南島においても本土においても、はっきりしない空自時代があった。) 「琉球国ハ、日本ノ属島ナリ。」という飛躍と自覚が必要であったのだろう。そしてそういう立場に立つに至った時、南島の知識人は、単に武力への屈服から、勝者の理論をおおむがえしする奴隷の精神とは全く異質な、むしろ勝者側よりは深い地点でうなずく民族意識の昂揚を体験していたことを、信じていいであろう。

 ぼくにとって、わかりにくさはここでひとつの頂点を迎える。「勝者と同じ平面での反駁を許されない」のはこれまでの戦争の常である。その「心理の断層」を乗り越えるために、日琉同祖論や「琉球国ハ、日本ノ属島ナリ。」が要請されたとはどういうことだろう。薩摩は勝手な侵略の理由をあげつらっている。でも、ほんとうは日本と琉球は同じ祖先なのに(日琉同祖論)、琉球はもともと日本なのに(「琉球国ハ、日本ノ属島ナリ。」)という認識が必要だった。そう言っているのだろうか。

 ぼくには、少なくとも「大島代官記」序文に書き手の言う「心理の断層」を感じることはできない。感じるのは、薩摩の思想に骨抜きにされた奄美知識人の変身である。「心理の断層」に煩悶しているのは、奄美の島役人ではなく、むしろ「島津氏の琉球入りと奄美」の書き手ではないのか。

南島の知識人は、単に武力への屈服から、勝者の理論をおおむがえしする奴隷の精神とは全く異質な、むしろ勝者側よりは深い地点でうなずく民族意識の昂揚を体験していたことを、信じていいであろう。

 奄美の知識人は、薩摩より深く民族ナショナリズムに目覚めていたと言っているのだと思えるが、そういうものではない。これは、「勝者の論理をおおむがえしする」屈服の論理以外の何物でもない。書き手自身が、ここには「飛躍」があり「信じていい」という書き方になるように、これは、信じるしかない論理を編み出している書き手の飛躍なのだ。 

当時の社会通念では異常に見える、主君尚寧に対する中山世鑑の筆誅の苛惜なさを見るがよい。豊臣氏や徳川氏による新しい国民国家としての結集体制の時勢に、全く無自覚かつ無策であった琉球王国の首脳に対する、「新しい精神」の怒りが、常識的な君臣の折り目を、のりこえさせたものと見ていい。

 続くこの文章も書き手の飛躍が収まらない。豊臣、徳川の時勢に距離を置くのは、まがりなりにも国家を築いていた琉球にとって当然である。書き手は、王国をかなぐり捨てて、豊臣、徳川の時勢のなかに参入すべきだと言っているのだろうか。それこそ飛躍というもので、しかもこの飛躍は、歴史ではなく架空の物語に似つかわしいというものではないだろうか。書き手は、「中山世鑑の筆誅の苛惜なさ」に注視しているが、それならどうして、「中山世鑑」の認識をなぞったような「大島代官記」には呵責なさを見ないのだろうか。書き手は、「大島代官記」の「琉球国ハ、元来日本ノ属島ナリ。」という一文に照準を合わせるあまり、他の文章が目に入らなくなってしまっている。

 ところで、その後の奄美や沖縄の精神の悲劇は、そこから生まれたように思える。日本本土への窓口を独占した新領主島津氏は、統治に必要な限度内では、この思想(思想以上の事実なのだが)を利用しても、あくまで奄美・沖縄は、植民地ならびに半植民地としてのカースト制を越えることを許されず、薩摩藩の封建的身分制が深まれば深まるほど、「海外」(薩摩の記録奉行の表現)「異国」(幕府文書)として、日本本土との同質化を拒絶されたからである。この時代を境にして、奄美および沖縄で顕著にみられる為朝伝説への回帰も、源家嫡流の末裔を主張する新領主への迎合というよりは、ナショナリズムの観点からの評価を、心にとめていいであろう。

 少し息をつきたいのだが、そうはさせてくれない。ここは、奄美、沖縄の知識人には、日本のナショナリズムの意識があるのに、薩摩は日本ではないという扱いしかしなかった。そう書き手は言っている。ここはもう飛躍というより非現実的な願望である。当時の薩摩にそのような認識があろうはずもない。それは日本にしても同じことだ。日本という境界を武力によって押し広げたその範囲に新しく奄美も琉球も入ったという認識はあっても、そのなかが日本として平等だという認識が、当時あろうはずもない。その境界の内部は、大和であり沖縄でありという区別が敷かれているだけである。為朝伝説といい源家といい、大和の物語が浸透する過程も、この書き手には、ナショナリズムからの評価になっている。こういうところ、ふいに、この文章はもしかして戦前に書かれいるのか、と思わせる。だが、これはもちろん戦前ではなく、戦争からも復帰からも半世紀以上経った場所での文章なのだ。

 ここから書き手は、「琉球附庸説」を吟味して、こう結ぶ。

 大島代官記序文の最後は、次のような文で、ぶっつと切れている。「歎(なげかわしき)我、禍ハ自ラ招クトイフ事、疑ナク候。故こ、天ノナセル禍ハ避クベシ、自ナセル災ハサクベカラズト言フ。蛇名一人ノ短慮こ依ツテ、永ク王土ノ類島マデ、今二於テ往古ヲ慕フモ益無シト。云々。」
 この最後の「云々」は筆者がつけた云々ではない。代官記の序文の方の筆者が、このとおり「云々」 で、切っているのである。「琉球国ハ元来日本ノ属島ナリ。」という大原則で、薩属下の現状をうべないながら、しかも古王朝に対する禁じえない慕親の情を思わずのべかけて、ロを持した鳥人書記の姿がそこにある。われわれもこの沈黙のもつ重みをうけとめながら、代官記の本文、いな、本文の文字に書くことのできなかったこのあとの奄美史の起伏曲折を、たどらねばならぬ。

 ぼくもこの最後のくだりは「大島代官記」序文のなかで大切な箇所だと思う。その唯一の箇所だと言ってもいい。

 「今二於テ往古ヲ慕フモ益無シト。云々。」という箇所だけが、この島役人が奄美の人物であることを教えてくれていること、かつ、さらに重要なのは、「無益」として言葉を終えていることである。書き手はここに「沈黙のもつ重み」を見るのだが、ぼくはここに屈服の深さを見る。もし書き手がここを無益であろうが何だろうが、書き継いでいたら、ことによると奄美の歴史は少しでも自立をかんじさせるものになったかもしれない。薩摩の支配下のもと、思うままの記述が可能だったとは思わない。しかし、奄美の島役人としてここに過去の記憶を列記するだけでも事態はまるで違っただろう。奄美は記憶も収奪された民である。だから、島役人が奄美の何たるかについて、彼の言葉で奄美を語ったなら、後に続く者たちはそこからどれだけ自分たちを語る言葉を紡ぐ手がかりを得たか、計り知れない。「今二於テ往古ヲ慕フモ益無シト。云々。」としたところで、奄美の屈服は決定したのであり、ぼくたちはここに二重の疎外の構造化を内側から語る言葉を見るのである。


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