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2008/08/24

蛍星

 島嶼の内発発展の議論は、どこかで人間の欲望の抑制を組み込んでいるように見える。けれど人間の欲望に際限はない。そのことを組み込まないと、島嶼の理論も成り立たない。あるいは、島から都市に出ていくことを止められない。

 では、島嶼は食われるがままにされるしかないのか。そうではないと思う。それを食い止めるのに、欲望の抑制を求めるのではなく、欲望の臨界点を見ることが要るのではないだろうか。

 一つには、空腹感は止められなくても胃袋には限界がある。量が決まっていて無際限ではない。所有の欲望は無限ではない。二つには、欲望は喚起されて増幅していく。島に帰ると、都市にいる時の欲望が削ぎ落とされるように消えてゆくのを感じる。島嶼の圧倒的な自然は、人間の欲望をリセットする。三つには、都市と島嶼的自然との距離が増大するにつれ、島嶼で満たされないから都市に出ることでは終わらずに、都市だけでも満たされないことが起きるようになっている。人間の欲望が都市に向かうというより、都市と島嶼的自然との往復を求めている。

 酒井卯作さんは、『南島研究48号』のあとがきでこう書いている。

そして思うのは、観光業者が作り上げた底の浅い美しい沖縄に生きて、十年先に破滅するか、それとも素朴で悲しい昔の沖縄に戻るか、さて、どうでしましょう。

 「底の浅い」のは嫌だけれど、「悲しい」のも嫌だと、そう思うんじゃないだろうか。第三の道を作りたいと思うところだ。

手を広げたら 欲張るだけで
いらないものまでも掴む
両手ですくう それくらいでいい
小さく光るもの 逃がさずに
落とさずに
蛍星

 「自由、平等、相互扶助」。こう並べてみれば、「自由」は都市が先導したが、「相互扶助」が枯渇してしまった。それが生き生きと保たれているのは、島嶼的自然のほうだ。島嶼的自然が、「相互扶助」に関する限り「持てる者」であるということは、いまますます明らかになっているように見える。元ちとせの「蛍星」は、「自由」の世界にいて、「相互扶助」の世界を見失うまいとしている視線が通ってゆくところで、聴く者が治癒されてゆくようだ。その曲は、「相互扶助」の世界に出自を持つ者が歌うことで成り立っている。島嶼的自然は元ちとせを生んだが、島嶼的自然が元ちとせになってもいいんじゃないだろうか。

 『蛍星』
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