« 「奄美を語る会」 | トップページ | 喜界島の「象のオリ」 »

2008/08/05

『揺れる奄美、その光と陰』

 稲野慎さんの『揺れる奄美、その光と陰』は、奄美の現在形を追体験できる。

『揺れる奄美、その光と陰』
Photo











 たとえばこんな記事。

 白いチョウが舞い降りてきた。「おばあちゃんかもしれない」
 昨年9月、長崎大4年の福山愛里さん(21)が長崎市の自宅近くを歩いていると、羽を揺らして寄り添ってきた。与論島(鹿児島県与論町)で祖母の龍千代さんが92歳で亡くなって約3カ月。祖母の魂が宿っているように感じた。
     *
 「おばあちゃんが危ない」。昨年5月、連絡を受けた福山さんは島に向かった。千代さんの次女の母親も北九州市から駆けつけていた。
 祖母は親類に囲まれながらベッドに寝ている。  「ぱーぱ(おばあちゃん)」。呼びかけても反応がない。顔は青白く、腹部に悪性の腫瘍ができていた。幼いころから島を訪れるたびに抱きしめてくれた祖母を見ながら、不安と恐れで胸がしめつけられた。死はドラマで見るイメージしか知らなかった。
    *
 時折、祖母は目を開けた。弱々しく「あんた、大きくなったねえ」。福山さんが笑顔でうなずくと、また目を閉じた。
 4日目の夜、祖母は「『芋の時代』を聞きたい」とつぶやいた。食糧難の時代の母子を措いた沖縄民謡。1人が歌い出した。
 ♪わったー まんゆー ちがきにそーち しんめいなびに いもにてそーち (お母さんが身支度をして大きい鍋で芋を煮て、子どもたちの朝ご飯をつくってくれたよ)……
 祖母は突然、カッと目を見開いた。寝たままで声を出して手踊りを始めた。付き添う人たちが手をたたき、囲んで踊り始めた。20人ほどの輪は庭まであふれた。
 ♪サイサイサイ サイムチク (酒だ、酒だ、酒持ってこい)……
 ほかの歌声も響き、真夜中まで2時間、泣きながら踊り続けた。福山さんは涙を流しながら思った。「最後の命の炎を燃やすおばあちゃんに、みんなが魂をぶつけている」
 翌日から祖母は意識がもうろうとしてきた。手を握られ、声をかけられると「幸せだ。ありがとう、ありがとう」と何度も声を振り絞って言った。
 福山さんが駆けつけてから7日後の5月17日、静かに息をひきとった。

 ぼくの母と叔母も、家に訪れる鳥を見て、祖父が来たと言ったりしている。そういう感覚はいいなと思う。ここに挙げられているエピソードも、最高にいい。JRで読んでいて涙があふれてきて困った。まあ、「サイサイサイ サイムチク」の曲は実はとても優しく、訳は女性言葉(死後?)が合うので、「酒だ、酒だ、酒持ってこい」という勇ましい訳には、思わず笑ってしまうのだけれど。

 島の在宅死を見守るように寄り添う医師、古川さんはこう話す。

 -在宅死を通して何が見えてきますか
 人間が死んでいくときに人に感動を与えるというのは、明らかに人間のスピリチュアルな部分に刺激を与え、シグナルを送っているわけだから、死を乗り越えているわけですよ。死ということを通して(看取る人は)学んでいるわけですよ。その人が人間として生きるから(死にゆく人は)メッセージを送っているわけですよ。人が死ぬときにありがとう、と感謝して死ぬからスピリチュアルな部分にメッセージを送るわけだから、(看取る人の)人生に影響を与えるわけですよ。メッセージを送られた人がお年寄りみたときに、どういう気持ちで接するかというと、感謝の気持ちですよ。これが一番大事だと思うんですよ。そういう教育ができるわけですよ。絶対人に優しいですよ。死というものを通じて死を超えて次の世代に教えているわけですよ。在宅死の価値というのはこのあたりが大きいですよ。

 スピリチュアルという言葉に躓かなければ、与論の在宅死の核心に触れている。死に行く者が、ありがとうと言うことで、看取る側の人生に影響を与える。看取る側にも感謝が伝わる。優しさが死を通じて伝わってゆく。

 永良部ではこんなエピソード。

 春日さんは3人の子どもを連れて、知名町の実家に帰った。
 畑でのんびりと花の世話をしているお年寄り、笑いながら道端で1時間も立ち話をする人々、「子どもにでも食べさせて」と自家製の野莱を持ってくる人たち……。以前は何とも思わなかった島の日常に心がなごんだ。周りの人の柔らかい表情がうれしかった。
 夜、砂浜でサンゴが砕けた粒を布団がわりに寝転がってみた。満天の星空遠の音が心地いい。ゆったりと時が流れ、体の内側から解放されていく感覚があった。
 「母性愛があふれてくるのを感じるんです。心が繚んだからでしょうか。穴のあいた服を子どもに着せても気にならないですしね」
 今は子どもたちが家で騒いだりしても、ぎゅっと抱きしめるだけだ。
 畠では保育士として働いている。休みには、島唄の名手のジャージャー(おじいさん)を訪ね、唄を習う。唄も自分を支える大切なものとなってきたcこんな詞が気に入っているという。
 ♪石ぬ上に花構いてい/朝に夕に水けーてい/うりが花咲きば/わぁ子にくりら(サンゴの石垣の上に花を植えて、朝夕水をかけ、それが花咲けば、我が子にあげよう)

 これだって、読むだけで充分にいい。稲野さんは、「人間力」を問いながら書くのけれど、確かにある意味では、奄美は人間力回復島なのかもしれない。

◇◆◇

 稲野さんは、「奄美史のダイナミズム」として、奄美の歴史にも接近している。ここでも、高梨さんらの考古学の成果を引用して、喜界島、奄美大島北部の活発な動きを望見しており、かつ、漏らさず要点を押さえるように辿っていて、奄美の歴史が更新されているようで気持ちよく読めた。

 奄美群島という呼び名から、共通する歴史・文化をもったひとまとまりの島々といった印象を受けるかもしれないが、実は、島ごとに随分、歴史や文化が異なる多様性がある。ただ、大きく分けるとするならば、奄美群島は、奄美大島、喜界島、徳之島の群島北部と、沖永良部、与論島の群島南部に二分できるだろう。北部と南部を分けるのは琉球の影響の強さの有無だ。南部は明らかに琉球色が強い。それは琉球に近いという地理的な影響と、琉球王朝の時代に南部の2島は早くから統治下に置かれたことが関係している。
 一方、これまで見てきたように群島北部は古代、中世は、本土の勢力範囲が及ぶ境界位置にあったとも推察され、歴史的にみて本土の影響が残ることが否定できない。
 こうした歴史的につくられた奄美群島南都と北部の境界は、そのまま文化の境界として現代にも引き継がれているようだ。音階や踊りに違いが見られるのだ。
 音階については、この境界を境に「島唄」 の音階が突然、変わる。群島北部の島唄は本土の民謡と同じ「ドレミソラド」 の律音階が主だが、南部は沖縄民謡と同じ「ドミファソシド」の琉球音階になる。ドミファソシドを適当にひいてみると、明るめの琉球的な雰囲気が醸し出される。音階が違うと曲調も変わるから、北部と南部の島唄は雰囲気が随分違う(ただ、徳之島の南部には琉球音階が残っているという菅開いたことがある)。徳之島と沖永良部島の間はわずか響。このお互いの島が見えるほどの短い間に音階の境界があるから不思議だ。

 ぼくも、この音階の境界には思わず立ち止まってしまう。端的にいえばぼくもカチャーシーには血が騒ぐが、六調ではそうはならない。それは理屈ではないからどうしようもない。この境界を越えるには、元ちとせの歌唱力のような別の理屈ではない力がいる。でも元ちとせの越境力は、南奄美と北奄美の境界だけででなく、大和との境界も踏み越えてゆくので問題が無意味化されてしまう。でも、思いなおせば、北奄美も南奄美も沖縄も島唄が盛んであるには違いない。鹿児島では、うるさいと蔑視の対象になるほどに盛んだ。この基底はやはり共通しているのだと思う。

 愛加郡とは仲むつまじかったように見えたにもかかわらず、彼女との緑を完全に絶った西郷。黒糖の搾取に憤慨していたにもかかわらず事実上、黒糖収奪の継続を是認した西郷。奄美で見せた正義感が強く、器の大きさを感じさせる西郷像と無慈悲で冷酷にも見える西郷像。相反するように見えるこの二つの人物像をどう切り結べばいいのか。

 まだ付け加えることができる。敬天愛人を謳うその同じ人物が征韓論を唱えるだろうか、と。これは西郷的謎とでもいえばいいだろうか。
 けれどぼくは、これは敬天愛人に比重をかけて評価する場合に征韓論を虚偽と言いたがるように、どちらかに傾斜をかけて受け止めることは要らないと思う。農耕社会型の政治は、天皇がそうであったように絶対君主的な存在であることと、そのもとの共同体が、親和にあふれた理想的な人間関係を持つこととは矛盾しない。薩摩の場合、武士として政治的共同性の首長存在と農耕民の距離は圧倒的に近かった。あるいはそれは、政治的共同体の内部で、専制的なものと親和的なものとが共存しているのかもしれなかった。西郷は、それを一身に体現した存在だったのだと思う。だから、奄美で黒糖収奪を行う役人に憤ることと、大島商社の設立に寄与し黒糖収奪の延命を図ることとは矛盾しない。より身近な者に弱いのである。田中角栄だって、地元の橋づくりは真っ先に行っている。

 政府の地方制度調査会は06年2月末、道州制について小泉首相に三つの再編案を提出した。いずれの案でも沖縄は九州とは別に単独州とされた。
 与論町総務課の竹沢敏明係長は「役場の飲み会では道州制がよく話題にのぼるんです。要するに、将来、鹿児島を含む九州に組み込まれるのか、沖縄と一緒になるのかという話です」。
 奄美群島の人々には微妙な感情がある。北部ほど沖縄への親近感は薄く、鹿児島本土との関係が深まるが、同時に抵抗感も強まる。奄美大島や徳之島では薩摩藩時代にサトウキビ栽培で搾取された記憶が引き継がれているからだ。その抵抗感から、道州制をきっかけに沖縄と一緒になることを望む人もいる。
    *
 奄美大島で20年間暮らした作家、島尾敏雄(1917~86)は奄美群島から沖縄、八重山諸島までの弧状に連なる島々を「琉球弧」と呼んだ。そして「いろいろな地方のなかでもことに強く独自性をもった地方」と位置づけてみせた。
 道州制の議論を機に、琉球弧のイメージが人々の間に浮かび上がってくるのだろうか。与論島で島の将来に向けて発言を続ける電器店経営、喜山康三さん(56)は言った。「当然きっかけになるでしょう。遠い晋から奄美・沖縄は海を舞台に交流し、中国・韓国とも付き合ってきました。(沖縄との)県境という線は人為的に海にひかれているだけですから」

 この本でいちばん教えてもらったのはこのニュアンスだ。つまり、

北部ほど沖縄への親近感は薄く、鹿児島本土との関係が深まるが、同時に抵抗感も強まる。

 ということ。
 ぼくは、琉球意識は南から北へ低減し、大和意識は北から南へと低減するとみなし、琉球と大和の二重意識はその加算であらわされると考えているけれど、この大和意識は同時に薩摩への抵抗感とパラレルであるという視点は、はっとさせられてた。たしかにそうかもしれないと思う。 

 (稲野)方言というのは生活そのものですし、地域の歴史そのものです。そして、その人そのものですね。言葉はまず口語から発するわけですから。これからの日本のヒントをあえて探すとすればやっぱり方言も含めてそういうのが残っている地方だと思うんですよね。もし救いがあるとすれば地方なんでしょうね、おそらく。
 (石牟礼)あなた奄美に行かれてよかったですね。
 (稲野)そうですね。奄美にいっていろいろと気づかされるんですね。方言のすばらしさも改めて実感しましたね。私が好きなのは「会う」という方言ですね。奄美ではウガムと言います。「拝む」という意味であなたにあったことをカミに拝みたいです、それくらいありがたいことです、という意味なんです。
 (石牟礼)豊かですね。あなたにあったのは神様のおかげで拝みたいって。なんて美しい言葉でしょうね。人間を一番大切にしてくれる言葉ですね。

 この本の最後、水俣市に転勤して、石牟礼道子さんを尋ねたインタビューもいい。大島でも「ウガム」という言い方をするのかというのは嬉しい発見だし、何より、「あなた奄美に行かれてよかったですね」という石牟礼さんの切り返しが素敵だ。

 この本は、「アマシンと縁を切りましょう」という薗さんの、奄美内部からのものだけに重みある声も入っている。繰り返せば、奄美の現在形を知るには、とてもいいガイドだ。

追記
 この本は、与論島、永良部と、南から北へと渡っていくようにエピソードが紹介されている。稲野さんは優しい方だと思った。


|

« 「奄美を語る会」 | トップページ | 喜界島の「象のオリ」 »

コメント

こんにちは。
読みながら、つい私も涙してしまいました。
もう会うことのできない人々のことを思い出しました。

投稿: 山元 | 2008/08/06 13:04

山元さん

ほんとうにそうですね。
ぱーぱーと過ごした歳月は人生の黄金期だったなあとつくづく思います。

投稿: 喜山 | 2008/08/07 12:27

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『揺れる奄美、その光と陰』:

« 「奄美を語る会」 | トップページ | 喜界島の「象のオリ」 »