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2008/08/18

大島への脱島

 徳之島では台風などの自然災害と相次ぐ疫病の流行で、生き抜くために奄美大島へ脱島する者が多かった。『奄美の債務奴隷ヤンチュ』

 1755年 飢饉で、徳之島の農民3200人余が亡くなる。
 1772年 熱病などの流行で、徳之島の農民1700人が亡くなる。

 1753年の徳之島の人口は、22400人というから、1755年の餓死者は、約14%。当時の世帯人数は分からないけれど、7人に1人が亡くなるというのは、家族や身近な人が誰かいなくなるという割合で、すさまじい事態だ。

 こうした窮地を大きな引き金にして、徳之島からは大島への脱島が相次いでいる。脱島は重い。行政的には隣の町でも、ちょっと隣町までというのとは訳が違う。島は世界であり宇宙なのだから、島を抜けるというのは、世界が変わるに等しい断絶感があるはずだ。島に絶望しなければ、ありえない事態である。

 1745年に米ではなく黒砂糖で納める換糖上納制が敷かれる。ぼくたちはそのあとの、1777年の第一次専売制を砂糖収奪の大きな契機とみなしているけれど、第一次専売制を待たず、換糖上納制の10年後の1755年に3200人もの島人が亡くなっているのをみると、1722年以降の定式買入と換糖上納制による砂糖きびの単作が、農としての奄美の弱体化を招いたのが分かる。収奪だけではない、農の弱体化も被ったのだ。



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