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2008/08/16

なぜ家人(ヤンチュ)は大量に生み出されたのか

 なぜ家人(ヤンチュ)存在は大量に生み出されたのか。

藩政時代のヤンチュ大量発生は、奄美の植民地的な黒糖専売制そのものが原因だったのだ。台風などによる不作や他の借財が重み、規定の上納量を上納できない島民は、自らの身体を豪農に売ってヤンチュに転落するしか道はなかった。薩摩藩は砂糖を増産して藩の財政を立て直すには、個別の百姓の尻を叩いて増収を図るよりも、転落した農民を衆達と呼ばれる豪農に吸収させて、彼らの大規模農業による増収を期待した方が得策と考えたのだろう。ヤンチユは藩政時代に奄美諸島で普遍的に発生した債務奴隷的な「農奴」だったのだ。『奄美の債務奴隷ヤンチュ』

 なぜ、家人(ヤンチュ)は大量発生したのか。それは難しことはではない。1745年の「換糖上納制」により年貢を黒砂糖で納めることになり、1777年には、奄美大島、徳之島、喜界島の三島で、第一次惣買入制により、砂糖は全て薩摩藩が買い上げることになる。このとき砂糖の売買も禁止される。つまり、定められた量の年貢も生活の物資も全て黒砂糖によって交換するしかなくなった。黒砂糖が足りなければ手も足も出なくなる。要求される黒砂糖の量が容赦なくなれば身売りは必然化される。そして、それは労働力の低コスト化を意味するから、薩摩藩もその事態を黙認したのだ。

◇◆◇

 名護は、ヤンチュの日常を、社会的地位、呼称、住居、食生活、労働、性などの項目で実態を浮かび上がらせようとしている。ぼくはここで、ヤンチュの実態について、自分ならどう書くかという問題意識で、名護の考察を受けようと思う。

 ヤンチュは一般百姓に対して身分的な関係ではなくて借財の有無という偶発的な経済的原因によって生じたのである。だから一般百姓はヤンチュを幾分蔑視はしても、いつ自分がヤンチュになるかもしれないので、厳しい差別はなかったようだ。だから八月踊りなどの祭日にはヤンチュも仕事を休み、村人たちと一緒になって踊り、心ゆくまで無礼講で楽しんだようだ。

 ヤンチュは固定的な身分ではなく借財という経済的原因によって生じる。だから農民はヤンチュを軽蔑するが、両者の世界が交流の場面を持たない隔絶された差別はなかった。八月踊りなどの祭日にはヤンチュも仕事を休み、農民たちと一緒にな踊っていたようだ。

 ただ封建的な偏見が強く残ったといわれる大和村大和浜では、大正年間までヤンチュを所有していた豪農のユカリッチュ(由緒人)と、普通の百姓である自分人(ジブンチュ)、それにヤンチュの三階層に身分が分かれており、ヤンチュと自分人が、ユカリッチュに路上で会うときは、土下座してあいさつを交わしていた、という。

 むしろ農民の内部で、もともとの上流階級である豪農のユカリッチュ(由緒人)との隔たりのほうが大きく、ヤンチュと自分人(ジブンチュ)が、ユカリッチュに路上で会うときは、土下座してあいさつを交わしていた、という。

 ヤンチュは村全体の寄り合いなどに出席する資格はなかった。しかし、ヤンチュの多い集落では多勢に無勢で、普通の百姓の方がヤンチュに気兼ねしていたようだ。
 I集落では五十戸の約半分が実家のヤンチュだった。ある日、ヤンチュが百姓のところに小舟を借りに行き、断られたので、腹いせにヤンチュみんなで小舟を山の上に運ぶ〝いやがらせ″をしたらしい。また旧八月十五日の相撲大会のとき、百姓とヤンチュの東西対抗戦があったが、百姓側は故意に負けて相手側に〝ハナ″を持たせた、という。ヤンチュには荒くれ者が多かったので、負けた恨みに何をされるか恐れたためだった、といわれる。

 また、「金久好さんの祖父が子どものころ、遊んでいると、ヤンチュの子どもが通るので喧嘩して泣かせたことがあった。それを見ていた祖父の父がヤンチュの仕返しを恐れて祖父を怒ってそのヤンチュの子が泣きやむまで、棒切れで祖父を叩いた」というエピソードを金久好さんは家の者から聞いている。

 このようにヤンチュは同じ境遇の仲間が多く、命知らずの者もいたので普通の百姓や豪農からも恐れられていたはどで、社会的差別にはなかったようだ。

 ヤンチュは永続する身分関係ではなかったので、ヤンチュの多い集落では、ヤンチュが寄り合いに出席することがあった。農民が、十五夜の相撲大会でヤンチュに勝たせるように気遣うこともあれば、小舟を貸してもらえなかった腹いせにヤンチュが小舟を山の上に運ぶような抵抗を企てることもあり、関係は固定化されなかった。

 ヤンチュは豪農に事実上隷属し、絶対的服従であり、また売買も豪農側の自由にされた。しかし、自分に経済的実力さえあればいつでも建前上、自由になりうる立場にあり、本土の被差別部落に比べ幾分身分的差別要素の希薄なものといえそうだ。だが、いったんヤンチュに転落した者が一般百姓、つまり自分人に戻った例はごく少なかったようだ。

 ヤンチュは豪農に事実上隷属し服従しており、売買もされる存在だった。しかし、制度的には経済的的蓄積によって自由になりうる立場にあり、いわゆる被差別部落として空間的に固定化されることもなった。その意味では時間的にも永続的な存在ではないが、いったんヤンチュに転落した者が農民、つまり自分人(ジブンチュ)に戻った例はごくわずかだった。

◇◆◇

 林家に着物についてのエピソードが残っている。
 林家では白木錦を大島紬の染料になるシャリンバイ(通称テーチ木)で赤く染めた社のない狭く短い着物をヤンチュに一枚ずつ支給した。ちょうど、主家が前織衆のときで、前織衆がヤンチュを自分の書院に招待してご馳走を出したのである。どのヤンチュも支給されたばかりの赤い短い着物を着ている。だんだん酒が回り、三線が入り、シマウタが始まった。すると、一人の老ヤンチュが立ち上がり、唄い踊り出した。

 「ヤンチュ身やあわれ、クミネ(衽)無しや衣(着物)着ち年取りゅんあわれ」
 と唄ってから、
 「クッカルー」
 と、野鳥の鳴き声をまねて踊った。

 これには前織衆はじめ=同のヤンチュ仲間がドッと笑いこけた。クッカルとは奄美に多い全身が真っ赤な羽根の山鳥「リユウキユウ・アカショウビン」のこと。
 何十人というヤンチュが囚人服のような赤い〃正月着物〃を着て、その上酒で顔まで赤くしているのを見て真っ赤な山鳥の群れを連想したのであろうかー。だが、唄い踊るヤンチュの姿を、筆者には単純に笑えない。逆にヤンチュのさだめの切なさ、もの悲しさを覚えてくる。この老ヤンチュは、こんなヤンチュの姿を自虐的に唄い、踊ったのだろう-。

 自嘲的ではあっても現世を越え出る笑いの力をヤンチュも持っていた。アカショウビンの物真似は、動物への擬態という点で奄美的であり、笑いを誘う点では南国的な解放感があった。

 ヤンチュの性は剃那的だった、とみてよかろう。貞操観念は比較的薄く、男女交際は自由だったようだ。私生児も多かった。一人の男が関係している間は、皆が認め合って他の男は邪魔しなかった。それは一時的な関係で、夫婦と決めて子どもがいてもたびたび夫を替え、妾を替えていたようだ。

 ヤンチュはヤンチュ存在である限り、安定的に家族を営むことは難しく、また子も主家によって膝素立として預けなければならなかったので、ヤンチュの男女は永続的な関係を持つのが難しかった。



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