『奄美の債務奴隷ヤンチュ』
名越護の『奄美の債務奴隷ヤンチュ』は、近世期奄美の素顔が見えるようだった。
この本を書いた名越の「モチーフはあとがきに明瞭だ。
人間歳を重ねると故郷が無性に恋しくなる。著者の故郷は奄美大島なので、特に奄美の歴史がもつと知りたい。「奄美の歴史」といえば、まず「債務奴隷ヤンチュ」を思い出す。小さいころから哀れなヤンチュの話を聞いて育ったせいかもしれない。だが、昇曙夢著の 『大奄美史』や坂口徳太郎著の 『奄美大島史』などの郷土史には、その断片が記載されているだけで、ヤンチュ制度を専門に研究する学者も見当たらない。どちらかというと、奄美の「負の歴史」で、誰も触れたがらないようである。ヤンチュのことが知りたいなら、膨大な種の書物をめくらないと分からないのが現状だ。
幕末期には、2~3割をしめた可能性があるヤンチュについて、「薩摩藩の黒糖収奪がもたらした特異な債務奴隷」であるにもかかわらず、これについて書かれたものがない(少ない)。ヤンチュを使用していた衆達(しゅうた)の子孫が現存していることへの遠慮があるとも聞かれる。でもそれでは納得いかない。名越はそう言う。このモチーフは後から学ぼうとするぼくたちにとってはとても有り難い。この実態を知ることは、奄美へのシンパシーと理解が深まるに違いないのだ。
そう言えば、松下志朗も『鹿児島藩の民衆と生活』のなかで、家人(ヤンチュ)の先駆的な研究事例、金久好の『奄美大島に於ける「家人」の研究』に触れながら書いている。
明治初年に至る迄右のの奄美大島に於ひて、人身売買に於ひて生じた、奴隷的色彩の濃濃嘗特殊な奉公人制度がl敗に行はれて居て「家人」なる特殊な、階層を形成して居た。「家人」は或は音読して「けにん」と呼ばれ、身売人、抱者と云はれ又下人下女と性別に呼称された。近世末期に於ける其の数は莫大なもので優に一階層を形成する程の多数に達して居たらしく思はれる。
として、金久はその特異点を挙げている。
第一に、其発生は封建的頁租退散の結果たる身亮に依るもので、後には財物的売買が盛となり、古代からの隷属民とは殆ど性質を異にしたところの、特殊な歴史的、地理的条件に制約された特殊の隷属関係を形成したこと。
第二に、財物的売買関係の結果、其数が多数に達し、豪農の下では大低大農的経営形態が採られて居たこと。尚、家人増加の原因としては、貢租率の高いため百姓の生命たるべき土地への執着が無くなり、好んで身売した者の多かつたことも考へられる。
第三に、大農的経営に従事したのは主として「屋家人」だつたが、作場に居る者でも小作関係ではなく、唯耕作をより生産的ならしめる為で、砂糖賦に依って強制されて居たのである。
第四に、従って彼等は其の労働力と共に、人格其の物も主人に依り所有されて居たのであって、土地を中間に於いての隷属ではなかつたこと。
第五に、併し乍ら一般的には(膝素立を除くと)穢多、非人等の如く永久的な身分関係ではなく原則として其の経済力に依っては何時でも自由になり得る状態にあり、普通農民との区別も絶対的のものではなかった。
この引用のあとに松下は、
この金久好がまとめた昭和初年の卒業論文は、一九八〇年段階でも「丹念な実地調査の結果」であると評価されて、これを超える業績はいまのところ見あたらない。
と評価している。
この整理は、かなり正確に家人(ヤンチュ)存在を捉えているのではないかと思える。
家人(ヤンチュ)存在は、古代からの隷属民でも永続的な最下層の身分でもなく、歴史的な条件によって隷属的な関係を強いられた。しかし、土地への執着を持たず好んで家人(ヤンチュ)になる場合もあったが、土地を持つわけではなく全人格的に所有されてしまっていた。
これを、松下はこう受けている。
この金久論文は島尾敏雄も十分に読んでいたはずであり、その内容について名瀬市史編纂委員会でも議論されたはずであるが、かれの著作でも『名瀬市誌』でも全く触れるところがなかった。それは一種の怖れがもたらしたものかどうか、今は定かでない。そして現在に至るまで研究者の間でも金久好のことは話題に上ることはなく、「家人」の歴史自体が人々の意識から薄らいでいる。
松下の『鹿児島藩の民衆と生活』は、2006年に出されている。家人(ヤンチュ)の歴史が希薄化されているという危機感は、昔のことではない。面白いことに、名越の『奄美の債務奴隷ヤンチュ』は、松下の本と同年同月に出ており、時を同じくして問題意識は重なり共鳴することになった。
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