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2008/08/04

「奄美を語る会」

 和(にぎ)眞一郎さんら奄美出身者たちが鹿児島で「奄美を語る会」を発足させて活動を開始した頃とすれ違うようにぼくは鹿児島を離れている。鹿児島にいてその存在を知っていたら足を運びたかった。81年にスタートして89年までの9年回に、48回も数を数えていて、精力的に開催されているのが分かる。テーマも、「民謡にみる奄美五島の個性について」、「奄美の人の生き方~日本復帰運動を中心に」など、真摯で本格的なものが多い。参加できなかったのは残念だが、こうした活動が鹿児島にあったというのは嬉しくなる。

 古代からの、特に近世以降の奄美の歴史・経済・文化のあらゆる面で語られるとき、奄美が常に犠牲を強いられてきたことが明らかにされてきた。確かに奄美は鹿児島(=薩摩)の社会から、多くは政治的・制荒に戦前まで連綿として差別され続けた歴史を有する。戦後になってもなお、鹿児島の社会の中で奄美に対する差別蓋は消えていなかった。鹿児島で生活する者たちが「奄美出身」と胸を張って生きる環境ではなかったのだろう。その出自を明かすのは身体的な特徴に加えて、奄美独特の一字姓であり、シマの裏やシマの生活習慣、文化そのものであった。このような鹿児島の社会環境の中で奄美の様々な個性を表出ることは困難であったし、シマの出身であることを明かすのはかなり勇気のいることであった。シマのリーダーといわれる人によって、主に教育の場でシマグチヤシマウタをはじめシマの風俗文化は恥ずべきものであり、シマの近代化の障害になるものとして、特に言葉は徹底して矯正されてきた過去の歴史もある。

 和は先の文章でこのことに関わって次のようなことも記している。
 「奄美の人間が、県庁大島支庁のお役人の鹿児島弁をまねると、私は不快だった。『方言を使うな』としかる鹿児島弁の教師に、島の高校生も反発するらしかった。
 「五年前、島を離れて鹿児島市の常盤町に移り住むようになったとき、家主の老夫婦のことばに、ところどころわからないながら、ことばのあたたかさ・美しきを感じた。が、かたくなに私は覚えようとはしなかった。        

 生徒たちとの響き合い、父母とのつながりを、私の共通語が微妙に妨げるのを感じた。地域のことばと人の結びつきとの関係を、頭のうわべで理解はするし、また奄美のことばをすぐ覚える人に親しみを感ずることもあるくせに、鹿児島弁を、私は使おうとはしない。
 薩藩圧政・収奪=奄美の黒砂糖地獄・疲弊という図式化もさることながら、今を生きている島の人の心のひだや感性、まだ生活の中に生きているウタやオドリなどの文化、いいかげんとも見えるおおらかな生き方、等々。これらが私の中ではどうなっているのか、私は自分を見つめる力などはとても持ててはいないのだが、ときほぐしてみたいなどと思うこともある。私の中の若気は、私こそだれにも負けない島の人、島のすべてを背負いたいなどと私を高ぶらせることさえあったのだ」『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 ぼくも、鹿児島弁は「かたくなに」「覚えようとはしなかった」。アクセントすら拒否した。ぼくも、教師や友人たちとのつながりを「私の共通語が微妙に妨げるのを感じた」こともある。それはぼくが偏屈だからと思っているが、同じような人がいたのは嬉しいし親しみが湧く。

 ぼくも、「自分を見つめる力などはとても持ててはいない」のだけれど、それでも、なぜ鹿児島弁をアクセントもろとも拒否したのか内省したことはある。少年の時分でも、奄美の被った歴史について、おぼろげには知っているしし、鹿児島にいると、それが厚い雲となっていつでも空を覆っていると感じたから、それに抗いたかったのだと思う。奄美への差別に対して、それを行使する言葉を拒否するという気持ちだ。しかし、それがすべてかといえば、威勢がよ過ぎる気が自分でもする。

 たとえば、与論でも島の言葉が公然と使われ、それが自然なことだとしたら、かたくなにはならなかったのではないか。自分には禁止されていたものを、ぼくからみれば、与論の言葉と同じようにというか、輪をかけてどぎつく聞こえぼくの耳に意味も不明な鹿児島弁を、地元の少年たちは平気で使い、しかもとがめられない。ぼくはそれに驚いた。

 ぼくにとって、親しみのある言葉は覚えてはいけなかったのに、なぜこの地ではそれが許されるのか。しかも共通語との距離感は相当にあるように思えるのに。ぼくは、自分たちにはそれは許されていなかったことへのやりきれなさから、鹿児島弁を拒否したのだと思う。与論の言葉は自然に身につけていける環境だったなら、鹿児島弁への拒否感も生まれなかったのではないかと思えるのだ。

 話を戻そう。風の便りでは、「奄美を語る会」が再開されるという。いつか話を聞きに駆けつけたいものだ。


「『奄美を語る会』が語ってきたもの-『語る会』から見た鹿児島と奄美の社会-」仙田隆宜
『奄美戦後史』25



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コメント

 鹿児島弁については私も同じ思いをしている。方言を禁止されたことで共通語を覚えるようになって確かに良かったと思うが、教育現場での鹿児島弁のなまりのある授業はもう少し気をつけてもらいたかった。
 浪人時代は鹿児島弁まるだしでちんぷんかんぷんの授業を受けたこともあって、また役場にはいってからは県庁職員の鹿児島弁まるだしには(一部の人)辟易させられた。
 妻には与論方言を話すのを禁じたのは こんな経緯からだ。与論語に親しんでくれるのはありがたいが、間違った使い方を身内にされるのは  たまったものではない。
結局は 子供も方言を話せない家庭教育うぃしてしまった。
方言が話せなくなれば文化の伝承は難しい。
 言葉にはその人の魂がこもっているから・・・。

投稿: awa | 2008/08/05 04:53

awaさん

ぼくは今からでも与論言葉を覚えたいです。
今、4割選手だと思うのですが、
5割以上にはなりたい。

あんまーに、与論言葉でしゃべってもらって
トレーニング中です。

うりゃーぬっちゅーるふとぅが。
と、いちいち聞いてます。(^^;)

投稿: 喜山 | 2008/08/05 22:49

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