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2008/08/27

「琉球支配と幕藩制」

 紙屋敦之の「琉球支配と幕藩制」を見てみる。

 九州は土地生産力の低さに規定されて,在地領主層にとっても経済的基礎を貿易に依存する度合が,大名に劣らず強かった.そのために島津氏は,3ヵ国統一の過程で服属した在地領主層を貿易統制の面から支配強化し,大名権力の編成確立をはかる必要があった.島津氏が構想していた大名権力は,琉球を包摂して編成されるものであったといえよう.しかしそれが具体化されない段階で,島津氏は天正15年5月豊臣政権の軍門に下った.

 九州は土地生産性が低いため、貿易によって大名権力を確立する必要があった。

 朝鮮出兵の際、島津に賦課された軍役は15000。島津はその一部の負担を琉球に求める。琉球は軍役に不慣れだからという理由で、7000人の兵糧一か月分を求めた。

 だが,琉球がこの軍役賦課に応じた形跡はない.また右のことによって琉球が,島津氏の領国になったわけでもなく,琉球は,依然,独立の国家であった.

 ただ、

 島津氏にとって,琉球の与力化が,琉球にたいする島津氏の排他的な地位を確認することになり,長年の宿願であった琉球支配へ一歩接近する契機になったことは確かである.

 与力化というのは、朝鮮出兵に際して、琉球への負担を求める許可を豊臣秀吉に認めさせ、琉球には島津に隷属するという構図を作ったことを指していると思える。

 徳川幕府の対琉球政策は,日明通交(貿易)の復活を企図した対明政策の仲介の労を琉球にとらせるということに尽きる.
「大島入」は慢性的な財政窮乏に喘ぐ島津氏にとって,財政上の急務として計画されたのである.またその機会は,「此時」,つまり琉球征討が許可された同年以外にないといっている.「大島入」は琉球出兵の一端として行なわれるのであり,大名島津氏の独自の海外出兵はありえなかった.その後も島津氏の大島獲得の欲求は衰えず,先の朝鮮侵略の時の軍役の未納を理由に,「徭役被勤哉,大島を割分て給るか否」(「醤安日記」)かと琉球と談判している.「大島入」計画は寛永元年,道之島(奄美大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島)の分轄として実現する・

 大島侵略は、幕府からの許可された琉球侵略時においてないと考えられているということ。また、朝鮮侵略の際の軍役を負担しなかったことを理由に、大島の割譲を談判していること。注目すべきところだ。

島津氏の琉球支配は慶長16年9月以降具体化する.その間,琉球支配階級の不在を機会に,太閤検地を基準にした検地が,道之島を除く琉球諸島に実施された.それが終わって9月,中山王・三司官以下の房の帰国を許したが,その時琉球はいったん島津氏によって破却,のち再興,という形式がとられた.また島津氏が,琉球に幕藩制の支配原理を導入し,支配体制の創出に努めたのは,幕藩封建領主として当然のことであった.慶長18年6月1日の御掟之条々の「琉球之様子昔之風体二不罷成様年々以御使可被仰理事」(「旧記」後編68),また同年9月15日の覚の「其国之儀諸式日本二不相替様可被成法度事」(同上)は,そのことの表明であろうし,琉球の日本同化を打ち出したものとして注目したい.

 琉球に対して、最初は、<大和ではない>と規定したわけではなく、<大和である>という方針を持っていたことが分かる。

 島津氏にとって琉球支配の意義は,琉球の貢納の獲得と貿易の支配の2つにあった.
慶長16年9月19日の掟(「旧記」後鰍;6)は,第1,6,13の各条に「薩摩御下知之外唐江瓢物可被停止之事」,「従薩州御判形無之商人不可有許容事」,「従琉球他国江商船一切被遷間数之革」という貿易に関する規定を含んでいる.’第1条は,琉球に島津氏の注文品以外の買物を禁lじ,進貢貿易を事実上薩明貿易に置き換えることを企図した.後2条は,日本商人の琉球渡航は,島津氏の「判形」=渡航許可証でもって制限し,一万琉球から日本への商船の渡航は全面的に禁止した.ここには,琉球および日本商人の貿易活動を,島津氏の支配下におく意思があらわにされている.島津氏の排他的な琉球貿易の支配体制が成立する契機が訪れたといえる.

 琉明貿易を実質、薩明貿易に置き換えること。また、琉日貿易は薩摩の支配下に置くこと。

明は周辺諸国との貿易には朝貢関係を前提としてしか応じなかったので,明と朝貢関係を結ぶ意思のない幕府が,なおかつ自明貿易を追求する場合,次善の策として,琉球の明との宗属関係を重視したからである.

 幕府は、明の冊封体制に入りたくない。だから、琉球に頼った。

 幕府の対明政策は,日明貿易の復活・独占であるが,それには西南大名領における唐船貿易の禁止が不可欠であった.

 しかし、幕府の対明貿易政策は失敗する。

 幕府の対明政策の失敗後,島津氏の琉球にたいする支配方針は変化した.島津家久は,元和2(1616)年3月11日付の中山王宛の書状(「旧記」後厨72)で,「抑其国政道之儀,以使節串定趣皆同懐之由,不可為国家長久之基平」と,琉球が島津氏の指図に盲従することは,琉球の存立にとって好ましくないと述べている.これは琉球王国の「自立」を問題にしている.ここでいう「自立」化とは,島辞支配の枠内で,中山王に政治的主体性を付与するとともに,日本との異質性を強調するために,琉球にたいし日本風俗を禁止したことを意味している.後者については元和3年,「琉球王国之者,日本人之髭.髪・衣裳に相かゆる事雷雨可為停止,自然此旨を令違背,日本人之なりを仕もの有之者,調之上行罪科事」(「旧琉球藩評定所審競」)と,琉球の住人が日本人のなりをすることが禁じられた.

 幕府の対明政策が失敗して、島津は、琉球を<大和ではない>と規定する。王国が異国として存在する必要が出てきたからだ。

次に王国の「自立」化と道之島分轄は,密接不可分の関係にあった.琉球拝領後の道之島にたいする政策をみると,先述のように,慶長16年の中山王への知行宛行に,道之島分割の意思が明白であった.
道之島は島津氏の蔵人地(直轄地)となった.しかし公的には,道之島は琉球(広義の)一部として扱われた.
 道之畠分轄の目的は,もちろん,そこからの年貢収奪にあるが,他に,常時琉球(申山王支配下の)を支配していくための拠点を確保することと,琉球渡航の商船を監視し,琉球貿易の独占の実を高めるためであった.

 「道之島」は、<琉球ではない>。しかし、対外的には<琉球である>と隠蔽された。

 これまで島津氏は,「琉球知行之高」を幕府に披露せず,また幕府も強いて「琉球之様子」を知ろうとしなかったらしい.だが寛永鎖国の過程で,幕府の琉球にたいする関心が高まるにつれ,島津氏は,早晩幕府から指図があることを予想し,自ら琉球の石高を報告したのである.それにたいし幕府は,島津氏の真意が,①琉球の石高(「異国之知行之高」)を幕府へ報告するだけであるのか,それとも,⑧島津氏の領知高に加増してもらいたいのか,巷間い乱した.島津氏の希望は加増であったが,それはまた幕府の望むところでもあった.

 当初、幕府が「琉球知行之高」に余り関心を払わなかったことは、奄美の蔵入地化を隠密に進める上でも都合よかったに違いない。

 (前略)琉球の島津氏への奉公が疎意になり,そのことを島津氏が危惧しているのである.このことから,島津氏の一大名権力をもってしてでは,琉球にたいする支配を貫徹しえない限界が推察される.幕藩軍役(軍事力)を背景に,琉球支配を展開する必要が痛感されていたに違いない.
 琉球を幕藩制の軍役・知行体系のなかにくみこむことによって,島津氏は琉球の貢的物を軍役として収納する体制を獲得したといえる.

 島津は、琉球支配に幕府の虎の威が必要であった。

 また,琉球が幕藩制の軍役・知行体系のなかにくみこまれたことによって,鎖国体制下にあっても,島津氏の琉球への交通が容認された.それは鎖国体制下に,島津氏が海外貿易を維持する体制を確保したことであった.

 島津は、鎖国体制下に琉球への交通と海外貿易を維持する特殊な藩の相貌を持った。

 次に幕府が琉球を幕藩制の軍役・知行体系のなかにくみ入れた動機である.結論的に述べると,それは,長崎における貿易独占体制を確立するためであった.(中略)鎖国(貿易独占)の成立には、琉球を幕藩制の軍役・知行体系のなかにくみこむことが,不可欠であったと考えざるをえない.

 貿易を独占するには鎖国を完成させる必要がある。しかし、明との直接交易の道は断たれているので、明との交易を保ちながら貿易を独占するには、琉球が幕藩体制のなかに組み込まれている必要があった。

 慶賀使の制度が確立するのは寛永11年であるが,それは琉球が幕藩制の軍役・知行体系のなかにくみこまれながらも,幕藩制下において「異国」として位置づけられていたからである.また,琉球が中国への朝貢を認められたのは,「異国」であるという理由と同時に,日明通交に失敗した幕府にとって,それが確度の高い中国の情報を入手しうるルートだったからである.いわゆる「通信の国」としての位置づけによる.
幕府の琉球問題にたいする原則は,①島津氏の領分であるから同氏から指図すべきである,①だが異国とはいえ日本同前であるから坐視するわけにいかない,という2点であった.島津氏が独自に問題解決に当たることはできなかった.
琉球は「異国」であるが,島津氏の下知ゆえに「日本同前」である.よって,琉球で「悪キ事」発生すれば「日本之環」になる,ということである.つまり,琉球で「悪キ事」が発生すれば,琉球が幕藩制の軍役・知行体系のなかにくみこまれているがゆえに,幕府はその解決のために諸大名を軍役動員せざるをえない事態が起こりうるのである.その意味で,幕藩制下における琉球は,幕藩制国家にたいする動乱の原因となる可能性をはらみながら,幕藩制のなかにくみこまれていたのである.そのことは,幕末,西欧諸国が琉球に開国を求めて接近してきた事態が,幕藩領主階級内部に大きな動揺を引き起こしたことからもわかる.
 琉球は幕藩制の軍役・知行体系のなかにくみこまれながらも,「異国」として明(清)への朝貢が認められていた.それは対明政策が失敗したために,幕府が琉球をいわゆる「通信の国」として位置づけたことによる.だが,このような幕藩制下の「異国」としての琉球は,幕藩制国家を外敵から守る緩衝地帯,あるいは鎖国制の安全弁としての理解のみならず,むしろ幕藩制国家にたいする動乱の原因となる可能性を秘めていたというべきである.

 この認識は重い。この琉球の位置づけは、ある意味で、現在にいたるまで終わっていないからだ。


 この考察は、1976年の『歴史学研究』に発表されているが、「はじめに」を読むと、「国民的規模での沖縄返還闘争の高揚」という言葉が見られる。沖縄復帰運動のさなかにこれだけの分析があったのをぼくは知らなかった。奄美理解にとっても重要な考察だと思う。


「琉球支配と幕藩制」『歴史学研究』別冊特集、1976年。

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