グーグル・アースは世界視線のみに
人は生きていれば二度と行かない場所や会わない人ができる。いままでそれは、その場所に行かないことで守ることができた。ところが、グーグル・アースを使うと、その場所にいながらにして行けてしまう。以前なら、行くには労力も時間もかかるからわざわざ行かないという面もあったのに、自分は動かずともまるでコックリさんみたいに、指先だけで行けてしまう。これは、いままでには考える必要もなかった倫理の課題なんじゃないか。グーグル・アースが登場したとき、そんなことを思った。
でも、行けるといってもそれは、上空の遠点から地上に垂直に降りる世界視線にとどまる。そして世界視線を持ったことのほうが意味は大きかった。グーグル・アースの世界視線は疑似的な画像だが、これをもしリアル・タイムにぼくたちが持つことができて、北朝鮮の核施設の動きやチベットの市街地の様子などを観察することができるなら、それは弾圧や戦争の抑止力になるだろうからである。グーグル・アースの登場は、そんなビジョンを描かせてくれるインパクトがあった。
ところが今回のストリート・ビューの機能は、世界視線だけでなく、ぼくたちの日常的な視線として地面に平行に飛び交う普遍視線を取り込んでしまった。だがこれは余計ではないだろうか。本来、普遍視線は、世界視線からは遮断され世界視線の彼岸のなかで生きる視線だ。またそれだから普遍視線が生きられる。ストリート・ビューの機能は、個人の意思にかかわりなく、プライバシーが公開されるという側面を持ってしまっている。グーグル・アースが世界視線のみにとどまるのであれば、それを使ってどこかへ行く行かないは個人の倫理にとどまったけれど、普遍視線まで内包してしまっては、内面の倫理を飛び越してモラル的な課題を呼んでしまう。
これはグーグル・アースの逸脱ではないだろうか。グーグル・アースは世界視線にとどまるべきではないだろうか。
※「世界視線」「普遍視線」は、吉本隆明の定義によるもの。
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