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2008/08/07

奄振事業の問題点を明らかにし撤回させた最初のとりくみ-百合ケ浜

 薗さんは、奄振に目を凝らす。しかも、奄振の弊害のほうに。

 日本復帰翌年一九五四年六月)、「奄美群島復興特別措置法」(五年単位の時限立法)が制定され国の補助事業が始まった。群島民は「急速な復興」、「産業・生活基盤の整備」、「民政の安定」を目的とした公共事業を、国策として当然のことながらこれを歓迎した。社会資本の整備から放置された歴史を度々経験している群島民は、「産業、生活基盤の整備」に大きな期待をかけ、「本土なみ」、「格差是正」の謳い文句にそれぞれの希望を託した。以後、特別措置法は名称を変え延長をくりかえして半世紀を過ぎた今も続いている(総称して「奄振」と呼ぶ)。二〇〇三年度までの五〇年間の実績は、事業費一兆八三〇〇億円。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 奄振は、「本土なみ」、「格差是正」を謳い文句に掲げ、奄美の島人の希望を託されてきた。しかし、

 奄振事業の弊害がとりわけ目立つようになったのは振興開発事業前期(一九七四~七八年)からである。予算が前期の三・五倍に増え(二八二億→九九三億円)事業は大型化した。基盤整備は建前になり〝土木振興事業″と椰輸されるような事業に変質していった。地場産業や住民の生活に結びつかない無駄な工事、過剰な事業が増え、「こんなはずではなかった」と疑問の声があがるようになった。新聞紙上では「できたのは箱ものばかり」、「コンクリートづけにされた島」という表現がたびたび載るようになった。

 皮肉なことだが、奄美のために行うはずの奄振であるにも関わらず、奄振から島を守ることをしなければならなくなったのだ。その最初に、薗さんは与論の「百合が浜」を挙げている。

百合ケ浜港(与論町)建設問題

 一九八六(昭和六一)年九月、百合ケ浜に漁船やグラスボート、遊漁船の船だまりを五力年計画で建設する計画が持ち上がった(国庫補助一〇分の九で船航路を渡探し、防波堤、護岸、船揚げ場を建設する計画)。
 これを知った住民は一九八七年一月、「百合ケ浜の自然を守る会」を結成し、「防波堤ができたら潮流が変わり、百合ケ浜が消えるおそれがある」と町議会に計画撤廃を求めた(八八年三月)が不採択となり、町負担分を計上した当初予算が可決された。町当局は「地区民の要望」で計画したとし、東京の(株)エコーは「百合ケ浜の港建設に伴う流況及び地形変化予測調査」の結果を「百合ケ浜の存続に及ぼす影響はないものといえる」と報告、初年度分の入札を実施した。
 百合ケ浜の自然を守る会は、「住民説明の前に予算化しており既成事実の押しつけ」、「調査は不十分で納得できない」と、実力阻止も辞さない決意で行動した。町長は一九九〇(平成二)年五月、「百合ケ浜への影響は絶対にないとは言えない」と、船だまり建設を断念する意向を表明した。「百合ケ浜の自然を守る会」は、奄振事業推進の問題点として、①はじめに事業計画があって環境への配慮がない、②行政主導ですすめられ地域住民の声が反映されていない、③環境アセスに問題がある、④百合ケ浜の自然(景観) は与論の貴重な財産であることを指摘し、「半端な気持ちではできなかった。私財をなげうって闘う覚悟だった」 (喜山康三)たたかいは、奄振事業の問題点を明らかにし撤回させた最初のとりくみと言えるだろう。

 百合が浜は与論のなかの与論ともいうべき場所だから、百合が浜が百合が浜でなくなれば、与論が与論でなくなる。つまりアイデンティティにかかわる、これはそういう問題だったと思う。与論は奄美のなかでいちはやく観光化された場所だっただけに「最初のとりくみ」になったのかもしれない。開発というテーマは奄美大島からスタートしているとすれば、その逆のむやみに開発しないというテーマは、南端の、いつもは筆頭にくることはない与論島からスタートしているのが面白い。北進せよ、だ。


「復帰後の奄美の変容-『宝の島』・『捨てられた島』が『利権の島』に-」薗博明
『奄美戦後史』29

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