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2008/08/08

大宅壮一の大島来島

日本に復帰した当時(一九五三年十二月)、奄美はたいへん貧しかった。住民の生活はエンゲル係数八二・七%(当時の日本は六一・五%)が示すとおり「今や窮迫の極限に一日も猶予を許さない状況」(奄美大島即時完全復帰嘆願書、五三年六月)だった。ソテツから採れるでんぷんで粥をつくって飢えをしのいだ。日本復帰直後(一九五四年一月)来島した大宅壮一は「復帰がもう一年おくれたならば、島民の大半は栄養失調で倒れないまでも、肉体的にも精神的にもまた産業面でも、救いがたいまでに荒廃したであろう」と書いた。青年男女の多くは職を求めて沖縄に流れアメリカ軍基地で働き、日本(本土)人の三分の一の賃金、労働三法の適用を受けない劣悪な労働条件下で苦しんだ。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 「復帰がもう一年おくれたならば、島民の大半は栄養失調で倒れないまでも、肉体的にも精神的にもまた産業面でも、救いがたいまでに荒廃したであろう」という大宅の評価を見ると、経済的困窮を脱するためにしゃにむに復帰を望んだ奄美の悲鳴が聞こえてくるようだ。ぼくは、「日本人」というアイデンティティの渇望の側面を強調するきらいがあるけれど、困窮という側面は決して軽く見ることはできない。

 私的なことだけれど、ぼくはもうひとつ驚くことがあった。ぼくの名前は、大宅壮一から採ったものだ。そう、父から聞いていた。大宅壮一が好きだから、と。しかし、とはいっても本好きな父の書棚に大宅壮一の著作が並んでいるわけでもなく、その結果ではないけれど、ぼく自身も大宅の著作を読んだ経験がない。「一億総白痴化」の造語を知っている程度だ。父は大宅がどう好きだったのだろう。それは小さな小さな謎だった。

 しかし、薗さんの文章を読み、ひょっとしたらこれかなと思った。大宅が来島したとき、父は高校生として名瀬にいた。父は、大宅の来島と大島評の言葉を印象深く受け止めたのではないだろうか。

 ぼくには思わぬ収穫で、この引用をしてくれた薗さんに感謝したい気持ちだ。

「復帰後の奄美の変容-『宝の島』・『捨てられた島』が『利権の島』に-」薗博明
『奄美戦後史』28

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