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2008/08/17

琉球への脱島

 薩摩藩の強制的なサトウキビ単作で、台風など自然災害の多い奄美は不作による飢饉に見舞われた。そこで「いまより琉球時代の方が米も野菜も作れてよかった」と昔を懐かしむ島民の雰囲気さえあった。天災地変で飢饉や疫病の発生が多かった徳之島では特にその風潮が強かった。だが、琉球王国は百二十七年前の一六〇九(慶長十四)年に薩摩藩に無条件降伏し、その薩摩のいいなりになっている、とは彼らは知らなかった。そこで「琉球王が薩摩藩主より偉い」と信じていたらしい。『奄美の債務奴隷ヤンチュ』

 二重の疎外をもたらした奄美直接支配と琉球間接支配を、奄美は政治的共同性として認識しているが、島人一般の認識としてあるわけではなかった。島人には、薩摩と琉球とはともに存在する政治的共同性だった。ところが、琉球とは政治的断絶の関係に置かれているので、思慕も起こりやすかったのである。

 そこで、島人の抵抗は、はじめ琉球への嘆願を目的にした脱島となった現われたのである。しかし徳之島の脱島組は沖永良部島で見つかり、説得され、やむなく島へ戻る。


 徳之島前録帳には、

  右栄文仁ハ勇気不敵ノ者、喜志政・能悦ハ強力者二アコレアリ

 と記して、この項を終え、栄文仁らの処分については何も書いていない。ただ、彼らが脱島者として処断され、七島に流罪されたことは民謡「能悦節」に次のように唄われているだけだ。

  栄文仁主と能悦と喜志政主と
  ナーみちゃり(彼ら三人)
  島のことじゆんち(島のことをしようとして)
  トカラかちいもち(トカラに行かれた)

 多分三人はトカラのどの島かに流罪になったのだろう。

 この時期の奄美を知ろうとするとき、記録がないということがいつも障害となって立ちはだかる。この場面も同様のことが言えるが、しかしそれと同時に、島唄は、その欠落を補うように、歴史を保存してきたことも教えている。しかも、この保存には唄であることによって情感も伝えたのである。


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