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2008/08/31

「沖縄単独州」を支持

 沖縄県が主催した「道州制に関するシンポジウム」で、「沖縄単独州」が支持されたらしい。

沖縄県主催の「道州制に関するシンポジウム」が23日午後1時半から琉球新報ホールで開かれ、約300人が参加した。道州制と沖縄の将来像について考えるのが狙い。沖縄を九州に入れるか、それとも沖縄単独州にするか、奄美大島と一緒にするかという3案があるなかで、国会議員・大学教授・弁護士の3人のパネリストは「沖縄単独州」を支持した。

1.沖縄を九州に入れる
2.沖縄単独州
3.奄美大島と一緒にするか
パネリストは沖縄の単独州を支持 沖縄県主催で「道州制に関するシンポジウム」開く

「奄美大島と一緒にするか」という表現の杜撰さは置くとして、よくみると、3人のパネリストが支持したのが「沖縄単独州」で、民意というのではない。

 これだけを見ると、琉球の歴史より沖縄は戦後の歴史に重きをおいて選択しているように見える。

 来年は薩摩侵略から400年目を迎える節目の年で、県民の間で沖縄の将来像についての関心が高まっている。

 でも、「薩摩侵略から400年」という問題意識のあるあたり、戦後に区切っているわけでもないのだろうか。ぼくは、奄美も含めた琉球州の可能性について、奄美でも充分に議論すべきだと思うが、今後の沖縄の動向に注目していきたい。


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「幕藩制下における琉球の位置」4

4.日琉関係の隠蔽

 島津氏による琉球支配は、当初、中国側でも周知のことだった。「島津氏に囚われの身になっている琉球王の帰国を、明帝が中琉関係の継続を条件に請うている」という。

 少なくとも明代は、日琉関係を隠蔽する理由はなかったとみてよい。

 ところが、18世紀に入ると、琉球は日本(薩摩)との関係を隠蔽し、対外的に「独自の王国」を装う。
 琉球は、一時、島津氏の侵略を受けたが、国王の琉中関係の断絶をうれえる訴えが容れられて解放された。そしていまは、日本の属島、宝島とだけ通商している。と、そんな方便を編み出した。

 天和三年(1683年)までの冊封。
 ・宝島は琉球の支配下であるという名目で、日本人が宝島人として封王使と対面。
 享保四年(1719年)の冊封。
 ・琉球は宝島との関係を否定して、日本人の対面を拒否。

すでに日本人を宝島人と偽称する偽装が始まっていたこと、そのために宝島という場が設定され、琉球は中国に対して日琉関係を弥縫することができたことなどがわかる。

 では、隠蔽が始まったのはなぜか?

 日琉関係の「隠蔽」は、中国の明清交替の内乱で新たに覇権を撞った清と琉球がこれまでどおりの朝貢関係を姫持する必要から案出されたと思われる。 

 紙屋は、大事なことは、こうした隠蔽が、薩琉の合意のもとになされていたことで、日本人を宝島人と偽称する偽装をし、ついで宝島との関係も否定する隠蔽は、琉球使節の位置づけの変化と対応していることだ。

 こうして紙屋は、日琉関係の隠蔽を四段階で整理している。

 1.日琉関係が公然であった時期(明代)
 2.日本人を宝島人と偽称した時期(清代、一七世紀後半)
 3.宝島(度佳喇)を日本の属島として日琉関係を隠蔽した時期(一八世紀前半)
 4.中国の海禁政策の復活により隠蔽政策が強化された時期(一八世紀後半以降)

 こうした日琉関係の隠蔽=「独自の王国」の偽装は、琉球が中国との朝責関係を維持するための措置にはかならなかった。
 

 ぼくたちにとって隠蔽の経緯を追うことは、奄美の二重の疎外の背景を踏まえる上で重要だ。


 ところでこの隠蔽政策には落ちがある。

 しかし、この偽装の実態を中国側は先刻承知しており、天和三年の封王便迂栂はその使録のなかで、(中略)宝島(歴任嘲)は日本であることを看破している。

 天和三年は1683年。隠蔽の初期である。

 ふたたび、やれやれ、と言いたくなるというものだ。


『幕藩制国家成立過程の研究―寛永期を中心に』(紙屋敦之、1978年)

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2008/08/30

「幕藩制下における琉球の位置」3

3.幕・薩・琉間の新局面

 宝永度、18世紀から、琉球使節の江戸上りは、幕府の国家体制の一環を構成する位置を与えられることになった。

 まず、島津の琉球使節の江戸上りごとの昇進と拝借金の許可が慣例化する。また、島津は、琉球の中国への冊封のために、「異朝」の行装をすることを命じる。

 異朝、つまり外国の朝廷の格好をせよ、ということである。

しかし日本では琉球の「異国」扱いは周知のことである。この場合は、中国の風俗に似せることを命じた点が重要であり、このことは、風俗画から琉球に、中国の朝貢国としての外見を具備させるためであった、と理解される。
 また島津氏は寛永三年以来、琉球王に島津氏に対して王号を唱えることを禁じ、国司号を称させてきたが、正徳二年、王号を復活させた。この王号復活は、琉球王に琉球の「王権」を容認したことを意味し、島津氏の琉球支配の方針転換を示している。

 琉球が王国であってこそ、薩摩の支配も認められる。これはそのことの反映だということになる。幕府、薩摩、琉球はある意味で互いの存立のため協力しあっていたのだ。

 また、この「島津氏の琉球支配の方針転換」は、奄美にとって、<琉球にもなれ>という隠蔽の強度となって降りかかることになっただろう。
 

『幕藩制国家成立過程の研究―寛永期を中心に』(紙屋敦之、1978年)

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2008/08/29

「幕藩制下における琉球の位置」2

2.宝永度の改革

 では、宝永七年の琉球使節が許可されたのはどのような論理によってか。

 まず、琉球は島津が武力侵攻によって獲得した国で、その国王は将軍からは陪臣、大名の家臣に当たる。で、紙屋によれば、「島津は、中国の冊封体制から自立した幕府が、中国の朝貢国のなかで朝鮮に次ぐ地位の高い琉球を、陪臣として従属させ、かつ使節を参府させることの国家的な名誉を強調したものと推察される」。

 これに対し、幕府は琉球からの使節参府は「日本の御威光」になると意義づけした。

幕府が琉球使節の待遇を改めたことの真意は、①使節を好遇することによって、琉球の宗主たる島津氏の日本における権勢のほどを琉球に印象づけ、島津氏の琉球支配を補強する、⑧使節を冷遇した場合、そのことが琉球から異国へもれ伝わり、そのために日本が異国の批判にさらされることは堪え難い、という二つの点にあったようである。

 島津は幕府に「国家的名誉」と提案し、幕府は「威光」として了解する。琉球にとっても、権力維持の拠り所になっている。琉球の江戸上り使節は、異国支配を印象づける幕府、薩摩が琉球に強制したというより、「従属地にして異国」としての琉球を保つために三者の利害は一致したことになる。なんだかご苦労様と言いたくなってきた。

『幕藩制国家成立過程の研究―寛永期を中心に』(紙屋敦之、1978年)

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2008/08/28

「幕藩制下における琉球の位置」1

1.宝永以前の琉球使節

 宝永度(1704年~1710年)、幕府は当初、琉球使節の江戸上りを無用としていた。
 それはなせか?紙屋によれば、この時期、琉球を幕藩体制的社会編成に組む込み政策が進捗しつつあった。幕府が琉球に対する領有意識を強めつつあったのだという。

1.幕府は薩摩-琉球の取引高を制限し、琉球-中国間にもそれをあてはめ、進貢貿易総体の縮小を図り、琉球を幕藩体制的流通のなかに編成していこうとした。

2.1708年、幕府は初めて、島津氏に琉球国高を含む総石高に賦課を実施し、幕府の琉球に対する領有意識をあらわした。

 では、島津氏にとっての琉球使節の江戸上りの意義は何か?
 もし琉球使節の江戸上りが実施されなかったら、琉球が島津氏の「御威光」に対して疑いを抱くのではないかということを、島津は懸念している。

とするならば、島津氏にとって琉球使節の江戸上りは逆に、日本における自己の権勢を琉球側に誇示する最良の機会であったはずである。そしてそれを琉球支配にはねかえさせる。
琉球にとって使節を幕府へ派遣するということは、幕藩制下にみずからを「異国」として存続させる唯一の拠り所であったはずである。また江戸上りの停止は王府権力の否定につながる恐れがあったわけである。一方、琉球の「王権」を保障してこそ島津氏の琉球支配は成り立つという関係にあった。それゆえに、島津氏にとって琉球使節の江戸上りは、不断に実施される必要があったのである。将軍代替り以外にも慶賀使の参府が企画されているのはそのためである。

 島津にとって、

・日本における自己の権勢を琉球に誇示できる。
・琉球の王権を保障してこそ、島津の琉球支配は成り立つという関係にある。

 琉球にとって、

・使節の幕府派遣が、幕藩制下で自らを異国として存続させる唯一のよりどころ。
・江戸上りの停止は、王府権力の否定につながる恐れがあった。

 幕府は、当初、琉球使節の江戸上りを無用としていた。むしろそれは薩摩と琉球にとって必要だったということだ。


『幕藩制国家成立過程の研究―寛永期を中心に』(紙屋敦之、1978年)


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ため息の与論

 上空からのウフガニクの眺め。

 「与論島の上空」

 はぁ。出るはため息ばかりなり、です。
 ちゅらそー。


 

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奄美の世界自然遺産登録へ向けた動向

 「えらぶしまんちゅ通信」で南海日々新聞の「世界自然遺産の登録推進へ」という記事を見つけて、おやと思った。

 奄美群島世界自然遺産登録推進協議会の幹事会とエコツーリズム推進部会が27日、奄美市名瀬の奄美会館であった。2組織とも同推進協の下部組織で、初会合。組織は県や市町村担当課長、関係団体などで構成するもので、設置要綱や世界自然遺産登録に向けた普及啓発活動などを柱とする初年度の事業計画などを承認した。事務局は奄美群島広域事務組合に置く。

 で、検索してみると、奄美大島で野ヤギ駆除の記事でも「奄美群島は世界自然遺産登録を目指しており」とあって、最近聞かないなと思っていたので、それを目指していることを改めて知った。

 「野ヤギ駆除し希少植物保護 食害受け奄美大島で」

 7月には、「奄美・国立公園化へ骨子案/検討会」という記事もあって、

国立公園化すべき奄美の特徴を
(1)亜熱帯照葉樹林とそこに生息・生育する動植物
(2)サンゴ礁の発達した海岸等
(3)自然資源と密接にかかわりのある地域文化-などと定義。
これに該当する地域で国立公園化を調整するとした。

 「国立公園化は世界自然遺産登録の前提の1つといわれている」とあるから、これも「世界自然遺産登録」を目指した動きのようだ。

 奄振による際限なき開発のイメージがあるので、「世界自然遺産登録」は全く逆の動きのようにも見えるが、後者をもって前者を制したい、もしくは後者で前者の動きを変えたいという欲求もあるのだと思う。

 更新の形跡はないけれど、

 「奄美群島を世界自然遺産へ」

 というページもあり、県も、

 同じタイトルで「奄美群島を世界自然遺産へ」

 というページを持っている。

 それなら、地元でどんな議論がなされているのか、もっと知りたいところだ。

 「山のケンムンどこへ行く@奄美」では、世界自然遺産に登録された知床に実際に住んでいた方が、奄美の世界自然遺産登録への動きについて書いている。

 世界自然遺産って?

今、奄美でも世界自然遺産推薦の話があります。

奄美には世界中でもここにしかいない生き物がいて、
それらの生き物が住める環境がまだ残っているという自然的特徴が
世界的に見ても貴重であるということです。
でも、今はその環境を守る仕組みもないので、
この特徴が永遠に残せる保証があるかというとそうではありません。
また、島の経済は公共事業への依存度が高く、外部から押し寄せる様々なものにより
地域固有の文化だって島民の強い意志がなければ廃れ、消えていくかもしれません。
世界自然遺産はこんな状況の奄美で、何を残すべきで何を改善すべきなのか、
これから先どういう奄美にしていくのかを
島民が皆で真剣に考える最高のきっかけではないかと思います。

 これからの奄美を考える「最高のきっかけ」ということ。それはその通りだと思った。



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2008/08/27

「琉球支配と幕藩制」

 紙屋敦之の「琉球支配と幕藩制」を見てみる。

 九州は土地生産力の低さに規定されて,在地領主層にとっても経済的基礎を貿易に依存する度合が,大名に劣らず強かった.そのために島津氏は,3ヵ国統一の過程で服属した在地領主層を貿易統制の面から支配強化し,大名権力の編成確立をはかる必要があった.島津氏が構想していた大名権力は,琉球を包摂して編成されるものであったといえよう.しかしそれが具体化されない段階で,島津氏は天正15年5月豊臣政権の軍門に下った.

 九州は土地生産性が低いため、貿易によって大名権力を確立する必要があった。

 朝鮮出兵の際、島津に賦課された軍役は15000。島津はその一部の負担を琉球に求める。琉球は軍役に不慣れだからという理由で、7000人の兵糧一か月分を求めた。

 だが,琉球がこの軍役賦課に応じた形跡はない.また右のことによって琉球が,島津氏の領国になったわけでもなく,琉球は,依然,独立の国家であった.

 ただ、

 島津氏にとって,琉球の与力化が,琉球にたいする島津氏の排他的な地位を確認することになり,長年の宿願であった琉球支配へ一歩接近する契機になったことは確かである.

 与力化というのは、朝鮮出兵に際して、琉球への負担を求める許可を豊臣秀吉に認めさせ、琉球には島津に隷属するという構図を作ったことを指していると思える。

 徳川幕府の対琉球政策は,日明通交(貿易)の復活を企図した対明政策の仲介の労を琉球にとらせるということに尽きる.
「大島入」は慢性的な財政窮乏に喘ぐ島津氏にとって,財政上の急務として計画されたのである.またその機会は,「此時」,つまり琉球征討が許可された同年以外にないといっている.「大島入」は琉球出兵の一端として行なわれるのであり,大名島津氏の独自の海外出兵はありえなかった.その後も島津氏の大島獲得の欲求は衰えず,先の朝鮮侵略の時の軍役の未納を理由に,「徭役被勤哉,大島を割分て給るか否」(「醤安日記」)かと琉球と談判している.「大島入」計画は寛永元年,道之島(奄美大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島)の分轄として実現する・

 大島侵略は、幕府からの許可された琉球侵略時においてないと考えられているということ。また、朝鮮侵略の際の軍役を負担しなかったことを理由に、大島の割譲を談判していること。注目すべきところだ。

島津氏の琉球支配は慶長16年9月以降具体化する.その間,琉球支配階級の不在を機会に,太閤検地を基準にした検地が,道之島を除く琉球諸島に実施された.それが終わって9月,中山王・三司官以下の房の帰国を許したが,その時琉球はいったん島津氏によって破却,のち再興,という形式がとられた.また島津氏が,琉球に幕藩制の支配原理を導入し,支配体制の創出に努めたのは,幕藩封建領主として当然のことであった.慶長18年6月1日の御掟之条々の「琉球之様子昔之風体二不罷成様年々以御使可被仰理事」(「旧記」後編68),また同年9月15日の覚の「其国之儀諸式日本二不相替様可被成法度事」(同上)は,そのことの表明であろうし,琉球の日本同化を打ち出したものとして注目したい.

 琉球に対して、最初は、<大和ではない>と規定したわけではなく、<大和である>という方針を持っていたことが分かる。

 島津氏にとって琉球支配の意義は,琉球の貢納の獲得と貿易の支配の2つにあった.
慶長16年9月19日の掟(「旧記」後鰍;6)は,第1,6,13の各条に「薩摩御下知之外唐江瓢物可被停止之事」,「従薩州御判形無之商人不可有許容事」,「従琉球他国江商船一切被遷間数之革」という貿易に関する規定を含んでいる.’第1条は,琉球に島津氏の注文品以外の買物を禁lじ,進貢貿易を事実上薩明貿易に置き換えることを企図した.後2条は,日本商人の琉球渡航は,島津氏の「判形」=渡航許可証でもって制限し,一万琉球から日本への商船の渡航は全面的に禁止した.ここには,琉球および日本商人の貿易活動を,島津氏の支配下におく意思があらわにされている.島津氏の排他的な琉球貿易の支配体制が成立する契機が訪れたといえる.

 琉明貿易を実質、薩明貿易に置き換えること。また、琉日貿易は薩摩の支配下に置くこと。

明は周辺諸国との貿易には朝貢関係を前提としてしか応じなかったので,明と朝貢関係を結ぶ意思のない幕府が,なおかつ自明貿易を追求する場合,次善の策として,琉球の明との宗属関係を重視したからである.

 幕府は、明の冊封体制に入りたくない。だから、琉球に頼った。

 幕府の対明政策は,日明貿易の復活・独占であるが,それには西南大名領における唐船貿易の禁止が不可欠であった.

 しかし、幕府の対明貿易政策は失敗する。

 幕府の対明政策の失敗後,島津氏の琉球にたいする支配方針は変化した.島津家久は,元和2(1616)年3月11日付の中山王宛の書状(「旧記」後厨72)で,「抑其国政道之儀,以使節串定趣皆同懐之由,不可為国家長久之基平」と,琉球が島津氏の指図に盲従することは,琉球の存立にとって好ましくないと述べている.これは琉球王国の「自立」を問題にしている.ここでいう「自立」化とは,島辞支配の枠内で,中山王に政治的主体性を付与するとともに,日本との異質性を強調するために,琉球にたいし日本風俗を禁止したことを意味している.後者については元和3年,「琉球王国之者,日本人之髭.髪・衣裳に相かゆる事雷雨可為停止,自然此旨を令違背,日本人之なりを仕もの有之者,調之上行罪科事」(「旧琉球藩評定所審競」)と,琉球の住人が日本人のなりをすることが禁じられた.

 幕府の対明政策が失敗して、島津は、琉球を<大和ではない>と規定する。王国が異国として存在する必要が出てきたからだ。

次に王国の「自立」化と道之島分轄は,密接不可分の関係にあった.琉球拝領後の道之島にたいする政策をみると,先述のように,慶長16年の中山王への知行宛行に,道之島分割の意思が明白であった.
道之島は島津氏の蔵人地(直轄地)となった.しかし公的には,道之島は琉球(広義の)一部として扱われた.
 道之畠分轄の目的は,もちろん,そこからの年貢収奪にあるが,他に,常時琉球(申山王支配下の)を支配していくための拠点を確保することと,琉球渡航の商船を監視し,琉球貿易の独占の実を高めるためであった.

 「道之島」は、<琉球ではない>。しかし、対外的には<琉球である>と隠蔽された。

 これまで島津氏は,「琉球知行之高」を幕府に披露せず,また幕府も強いて「琉球之様子」を知ろうとしなかったらしい.だが寛永鎖国の過程で,幕府の琉球にたいする関心が高まるにつれ,島津氏は,早晩幕府から指図があることを予想し,自ら琉球の石高を報告したのである.それにたいし幕府は,島津氏の真意が,①琉球の石高(「異国之知行之高」)を幕府へ報告するだけであるのか,それとも,⑧島津氏の領知高に加増してもらいたいのか,巷間い乱した.島津氏の希望は加増であったが,それはまた幕府の望むところでもあった.

 当初、幕府が「琉球知行之高」に余り関心を払わなかったことは、奄美の蔵入地化を隠密に進める上でも都合よかったに違いない。

 (前略)琉球の島津氏への奉公が疎意になり,そのことを島津氏が危惧しているのである.このことから,島津氏の一大名権力をもってしてでは,琉球にたいする支配を貫徹しえない限界が推察される.幕藩軍役(軍事力)を背景に,琉球支配を展開する必要が痛感されていたに違いない.
 琉球を幕藩制の軍役・知行体系のなかにくみこむことによって,島津氏は琉球の貢的物を軍役として収納する体制を獲得したといえる.

 島津は、琉球支配に幕府の虎の威が必要であった。

 また,琉球が幕藩制の軍役・知行体系のなかにくみこまれたことによって,鎖国体制下にあっても,島津氏の琉球への交通が容認された.それは鎖国体制下に,島津氏が海外貿易を維持する体制を確保したことであった.

 島津は、鎖国体制下に琉球への交通と海外貿易を維持する特殊な藩の相貌を持った。

 次に幕府が琉球を幕藩制の軍役・知行体系のなかにくみ入れた動機である.結論的に述べると,それは,長崎における貿易独占体制を確立するためであった.(中略)鎖国(貿易独占)の成立には、琉球を幕藩制の軍役・知行体系のなかにくみこむことが,不可欠であったと考えざるをえない.

 貿易を独占するには鎖国を完成させる必要がある。しかし、明との直接交易の道は断たれているので、明との交易を保ちながら貿易を独占するには、琉球が幕藩体制のなかに組み込まれている必要があった。

 慶賀使の制度が確立するのは寛永11年であるが,それは琉球が幕藩制の軍役・知行体系のなかにくみこまれながらも,幕藩制下において「異国」として位置づけられていたからである.また,琉球が中国への朝貢を認められたのは,「異国」であるという理由と同時に,日明通交に失敗した幕府にとって,それが確度の高い中国の情報を入手しうるルートだったからである.いわゆる「通信の国」としての位置づけによる.
幕府の琉球問題にたいする原則は,①島津氏の領分であるから同氏から指図すべきである,①だが異国とはいえ日本同前であるから坐視するわけにいかない,という2点であった.島津氏が独自に問題解決に当たることはできなかった.
琉球は「異国」であるが,島津氏の下知ゆえに「日本同前」である.よって,琉球で「悪キ事」発生すれば「日本之環」になる,ということである.つまり,琉球で「悪キ事」が発生すれば,琉球が幕藩制の軍役・知行体系のなかにくみこまれているがゆえに,幕府はその解決のために諸大名を軍役動員せざるをえない事態が起こりうるのである.その意味で,幕藩制下における琉球は,幕藩制国家にたいする動乱の原因となる可能性をはらみながら,幕藩制のなかにくみこまれていたのである.そのことは,幕末,西欧諸国が琉球に開国を求めて接近してきた事態が,幕藩領主階級内部に大きな動揺を引き起こしたことからもわかる.
 琉球は幕藩制の軍役・知行体系のなかにくみこまれながらも,「異国」として明(清)への朝貢が認められていた.それは対明政策が失敗したために,幕府が琉球をいわゆる「通信の国」として位置づけたことによる.だが,このような幕藩制下の「異国」としての琉球は,幕藩制国家を外敵から守る緩衝地帯,あるいは鎖国制の安全弁としての理解のみならず,むしろ幕藩制国家にたいする動乱の原因となる可能性を秘めていたというべきである.

 この認識は重い。この琉球の位置づけは、ある意味で、現在にいたるまで終わっていないからだ。


 この考察は、1976年の『歴史学研究』に発表されているが、「はじめに」を読むと、「国民的規模での沖縄返還闘争の高揚」という言葉が見られる。沖縄復帰運動のさなかにこれだけの分析があったのをぼくは知らなかった。奄美理解にとっても重要な考察だと思う。


「琉球支配と幕藩制」『歴史学研究』別冊特集、1976年。

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奄美の五町村議選と離島の消費税減免

 任期満了に伴う奄美群島の町村議選が昨日の26日、告示された。

 奄美の5町村議選告示 総定数60に71人が立候補

定数は、

宇検村  8
龍郷町 12
和泊町 14
知名町 14
与論町 12

 暑い最中の選挙戦、さぞ大変だろう。投票日は31日。明日の島づくりのために、ぜひお願いします、と遠くからも思います。
 
 ぼくは不勉強で知らなかったが、立候補者71人中、68人は無所属だそうだ。保守系政党一辺倒ではなくなったということだろうか? よく分からない。

◇◆◇

 もうひとつ。最近、聞いた島のニュースは、離島の消費税減免に関すること。

 「消費税の特例減免を」鹿県離島振興協、県に要請

与論町の南政吾町長は「離島では物流コストが物価に上乗せされ、本土より余分に税を負担している。将来の税率アップは避けがたく離島経済はさらに疲弊する。免税や減免などの特別措置を国に要望したい」と説明。

 もっともだと思う。



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2008/08/26

『奄美の債務奴隷ヤンチュ』の意義

 自分の関心の赴くままわがままに引用して、名越護の『奄美の債務奴隷ヤンチュ』を辿ってきた。

 この本なしに家人(ヤンチュ)を知ろうとすれば断片的に終わるか膨大な時間を費やす必要があっただろう。誰も手をつけていないテーマを掘り下げたことはこの本の意義として強調したい。名越は肌理こまやかな目くばせもしていて、沖縄や鹿児島に同様の存在はいないか調べていた。また、「島民の抵抗」では、「猿化運動」のように一文の記録しかないものをすくい上げたり、琉球弧の森の精霊ケンムンまで動員したりしているのには、島人を鼓舞したい気持ちが伝わってきて、胸に沁みた。

Photo_2













 最後もわがままに、あとがきへのコメントで終えようと思う。

 資料を集め出したのは〇四年秋ごろだった。県立図書館や同奄美分館、鹿児島市立図書館に何度も通い、資料になりそうなものは手当たり次第収集した。本格的に現地奄美大島入りしたのは〇五年一月で、出水市の元高校教諭の田頭寿雄さんの運転で一週間、全集落をくまなく回り、写真撮影から始めた。結局、奄美には三回渡った。徳之島や沖永良部島でも現地苦した。さらに同じ薩摩藩の侵攻を受けた沖縄や宮古島にも飛んで「ヤンチュとの比較」を試みた。やはり沖縄もヤンチュと同じ“ンザ”という奴隷身分の人たちが苛、人身売買か存在したのをつかんだ。宮古島など先島諸島は、薩摩藩が奄美を見るように沖縄本島から差別されていたことも分かった。

 この本の足を使った考察のおかげで、ぼくたちはヤンチュをめぐるエピソードを身近なものに感じることができるのだ。

 結論としていえることは、藩政時代に薩摩藩が奄美で行った植民地政策が、ヤンチュ大量発生の根本原因ということだ。薩摩は奄美侵攻当初は自立農家の育成を第一に掲げてヤンチュの増大を防いでいた。そのうち大坂市場で高く売れる砂糖の魅力に傾き、四十万両という「宝暦治水」の莫大な出費や島津重豪の開化政策などで藩財政が火の車になった。この財政改革のため、一八三〇(天保元)年の調所笑左衛門広郷の「天保の財政改革」が実施されて、「黒糖は改革之根本」と位置づけられて奄美の人々の岬吟がさらに増した。

 これを受けると、薩摩の植民地政策は、家人という債務奴隷を生むほどの砂糖収奪により自立経済力を奪い、二重の疎外によりアイデンティティを奪った、と整理することができる。

 薩摩藩は膨大な藩財政を立て直すには奄美島民が犠牲になってもやむをえないとでも考えたのだろう。当初の志を捨てて自立農民の育成より、衆達層の大規模租放経営で手っ取り早く砂糖を生産できる道を選んだ。一方、衆達層は薩摩藩の与える一字姓と郷士格身分をめざして砂糖献上をせっせと続ける行為が幕末期には顕著になる。

 「犠牲になってもやむをえない」も何も、もともとそれが狙いで侵略しているのである。ぼくたちは、侵略後の3世紀をかけてその目的が実現するさまを振り返っているわけだ。

 そのため、奄美の耕作地はサトウキビ一色にされ、島民が作った砂糖は一片さえも島民の口にされず、すべて藩が独り占めした。奄美島民は山奥の「隠し畑」で収穫するサツマイモで餓えを凌ぐ毎日だった。ひとたび台風や日照りが続くと、ソテツや山野の草の根で命をつなぐ。それでも数年も続くと大量の餓死者を出すのだった。決められた量の砂糖が上納できない農民は衆達から借財して債務が拡大、ヤンチュ身分に転落するしかなかった。

 ヤンチュの大量発生は、収奪の強度に比例しただろう。

 もちろん、藩もヤンチュの増大に手をこまねいていたわけではない。幕末期の一八五五(安政二)年に「三十歳に達した膝素立は身代糖千五百斤で自由になれる」という藩命も出している。しかし、それは遅きに失した。その実効はほとんどなかった。奄美の郷土史研究者の弓削政己さんによると、この四年後の安政六年に身代糖を支払ってヤンチュ身分から自由の身になったのはたったの男女三百四十九人だけだった。逆に十九人がヤンチュに転落しており、差し引き減少したのは三百三十人だった。

 1500斤は、900kgである。そんな量、そうそう用意できるわけはない。349人はむしろ多く見えるくらいではないだろうか。

 薩摩藩の台所は、奄美の黒糖収奪で赤字財政から見事に立ち直り、幕末には逆に余禄が三百万両にもなり、京都、江戸、国元にそれぞれ百万両ずつ積み置かれた。国元の百万両は西南戦争の軍資金に充てられた、という。つまり明治維新も、国内最後で最大の内乱といわれる西南戦争も、奄美の黒糖がなければ実現できなかったのである。日本の近代化は奄美の犠牲の上に成り立っているといっても過言ではなかろう。

 奄美は日本近代の縁の下を支え、近代幕開けの舞台を用意したのである。

 なのに、明治の世になっても鹿児島県は奄美の砂糖を手放さず、「大島商社」をつくって封建の世そのままの〝専売制″を続けた。それを続けさせたのは何と西郷隆盛の提案だった。「勝手販売」を訴える嘆願団は谷山の監獄にぶち込み、挙句の果ては若い嘆願団員を強制的に西南戦争の西郷軍に従軍させて八代の戦いで六人を戦死させている。さらに渡辺千秋知事は一八八七(明治二十)年、県議会に「大島郡経済分別に関する議案」を上程し、これが可決された。これは「県予算から奄美分を切り離す」という〝奄美切捨て政策″で、この不条理な県政は約五十年間も続き、奄美の近代化はさらに遅れてしまった。

 西郷は、大島商社を提案したというより、大島商社の提案に、大蔵省の干渉に注意せよというアドバイス付きで賛意を表した、あるいは後押ししたというのが正確だと思う。砂糖収奪と二重の疎外の永続化を図ったのは、渡辺千秋である。

 このように奄美の歴史をみると、その根底に「島差別」を感じるのは著者だけだろうか。県政の平等な発展のためには、差別された島民の声をもっと謙虚に聞く耳が必要だと痛感した。〇九年は薩摩藩の「奄美侵攻四百年」にあたる。それに向けて今後、各種の奄美論も活発化するだろう。この拙本がその〝きっかけ″の一つになれば、望外の喜びだ。

 「島差別」と呼ばれているものは、<琉球ではない、大和でもない>という二重の疎外として抽出することで、関係の構造として捉え直すとができる。差別は、二重の疎外の一態様である。

◇◆◇

 さて、『奄美の債務奴隷ヤンチュ』には奄美の年表(「薩摩藩の黒糖支配とヤンチュ関連年表」)がついている。また、第一次定式買入や換糖上納制などの解説もあり、これらは他の奄美関連書との重複も多い。けれどそれでいいのだと思う。名護は家人(ヤンチュ)の具体像を浮かび上がらせることで奄美の歴史像を更新しているのだ。ぼくたちはこうしてその都度、新しい知見を加えながらくり返しくり返し語ることによって、明るみにしていかなければならない。何をか。知られざる奄美の歴史を、だ。



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2008/08/25

収奪の永続化と抵抗

 大島商社の設立と解体が、砂糖収奪の永続化とそれへの抵抗の最後の舞台ではなかった。

 一万、商人同士の争いもあって騒然としていた世相であった。その代表的な争いが南島興産商社と阿部商会の抗争である。奸商から島民側を守ろうとする新納支庁長と、南島興産商会側擁護の渡辺千秋県知事が対立。新納支庁長は突然解任され、一八八七明治二十)年四月に「砂糖は鹿児島商人以外に売ってはならない」という「県令第三九号」の知事通達が出た。このため、阿部商会は商いができず、店じまいして引き揚げてしまった。これに憤慨した県議の麓純別は有志らとはかって「県令三九号撤廃」 の運動を起こして、発布からわずか一年でこれを撤回させている。

 渡辺知事はさらに奄美にとってあくどい政治もしている。一八八七(明治二十)年九月の臨時県読会で「大島郡経済分別に関する議案」を上程して、可決させているのだ。“経済分別”とは「鹿児島県の予算から奄美分を切り離して独立させる」ということだ。独立とは体のいい言葉だが、「自前でやって行け」という荷厄介の離島の〝奄美切捨て政策″だ。原井一郎さんは著作『苦い砂糖』 のなかで「すでに砂糖という金の卵を産まなくなった奄美を廃鶏にした方が得策という計算から、薩摩藩閥の政治要路に取り入って根回しした結果だというのだ」と憤慨している。(『奄美の債務奴隷ヤンチュ』

 象徴的にいえば、砂糖収奪の永続化とそれへの抵抗は、第一幕が知事の大山綱良と丸田南里のあいだでなされたとすれば、第二幕は、渡辺千秋と新納忠三、麓純別、そしてここに岡程良も加えるべきかもしれない、彼らの間で演じられた。そしてヤンチュ解放運動もそうだが、抵抗の戦列に新納忠三という鹿児島出身者が加わってくる。

 それにしても、「県令三九号」と「大島独立経済」は同一人物の政権下でなされているのに目を見張る。渡辺千秋は、砂糖収奪永続化の象徴的人物かもしれない。「県令三九号」と「大島独立経済」に共通するのは、<琉球ではない、大和でもない>という二重の疎外の視線だと思う。<琉球ではない、大和でもない>から、収奪の対象とすることも予算の対象外と見做すこともできるのだ。

 こう書いて思うのは、二重の疎外の規定は、砂糖の収奪の実行を容易にしたのではないかということだ。薩摩は、<琉球ではない、大和でもない>という規定による空虚を、薩摩の利益のための存在として埋めたのである。



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2008/08/24

奄美近代の第一声

 イギリスで過ごし近代の何たるかに触れて帰国した丸田南里は、故郷奄美の実態を見て立ち上がる。よく知られたそのときの第一声がこれだ。

 人民が作るところの物産はその好むところに売り、また人民が要する品物はその欲するところに購入すべきはこれ自然の条理なり。なんぞ鹿児島商人一手の下に拘束をうくる理あらんや。速やかにこれを解除し、勝手商売を行うべし。

 大島商社の設立とその解体は、ある意味では西郷隆盛と丸太南里の闘いだったかもしれない。この丸太の第一声は、二重の疎外を解放せよ、とも聞こえてくるのだ。

 丸太南里の第一声は、奄美の近代を告げたのである。この声はまだ意味を失っていない。



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蛍星

 島嶼の内発発展の議論は、どこかで人間の欲望の抑制を組み込んでいるように見える。けれど人間の欲望に際限はない。そのことを組み込まないと、島嶼の理論も成り立たない。あるいは、島から都市に出ていくことを止められない。

 では、島嶼は食われるがままにされるしかないのか。そうではないと思う。それを食い止めるのに、欲望の抑制を求めるのではなく、欲望の臨界点を見ることが要るのではないだろうか。

 一つには、空腹感は止められなくても胃袋には限界がある。量が決まっていて無際限ではない。所有の欲望は無限ではない。二つには、欲望は喚起されて増幅していく。島に帰ると、都市にいる時の欲望が削ぎ落とされるように消えてゆくのを感じる。島嶼の圧倒的な自然は、人間の欲望をリセットする。三つには、都市と島嶼的自然との距離が増大するにつれ、島嶼で満たされないから都市に出ることでは終わらずに、都市だけでも満たされないことが起きるようになっている。人間の欲望が都市に向かうというより、都市と島嶼的自然との往復を求めている。

 酒井卯作さんは、『南島研究48号』のあとがきでこう書いている。

そして思うのは、観光業者が作り上げた底の浅い美しい沖縄に生きて、十年先に破滅するか、それとも素朴で悲しい昔の沖縄に戻るか、さて、どうでしましょう。

 「底の浅い」のは嫌だけれど、「悲しい」のも嫌だと、そう思うんじゃないだろうか。第三の道を作りたいと思うところだ。

手を広げたら 欲張るだけで
いらないものまでも掴む
両手ですくう それくらいでいい
小さく光るもの 逃がさずに
落とさずに
蛍星

 「自由、平等、相互扶助」。こう並べてみれば、「自由」は都市が先導したが、「相互扶助」が枯渇してしまった。それが生き生きと保たれているのは、島嶼的自然のほうだ。島嶼的自然が、「相互扶助」に関する限り「持てる者」であるということは、いまますます明らかになっているように見える。元ちとせの「蛍星」は、「自由」の世界にいて、「相互扶助」の世界を見失うまいとしている視線が通ってゆくところで、聴く者が治癒されてゆくようだ。その曲は、「相互扶助」の世界に出自を持つ者が歌うことで成り立っている。島嶼的自然は元ちとせを生んだが、島嶼的自然が元ちとせになってもいいんじゃないだろうか。

 『蛍星』
Photo

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2008/08/23

二つの西郷

 奄美の近代は、砂糖収奪の永続化とそれへの抵抗が顕在化する。面白いことに、あの西郷はその永続化にも抵抗にも一役買っている。

 奄美諸島の専売制を廃止し、商社をつくって商売を独占し、その利益で士族を救済する件を、伊集院兼寛から聞いたが、その方策はもっともなことだ。(中略)いろいろなところで売り広めると大蔵省からその利益を占められかねないから、よくよくその辺りは注意すべきだ。(明治四年十二月十一日。桂四郎宛て)

 これは砂糖収奪の永続化にかかわるものだ。悪名高い大島商社の設立に西郷が士族救済のために賛意を表したと言われている箇所である。大島商社の設立に当たっては、「こいで維新はなりもした」と西郷に言わしめたという。『奄美の債務奴隷ヤンチュ』では、「鹿児島の士族救済を最優先する西郷の『視野の狭さ』が露呈している手紙の内容だ」として批判されているところだ。

 ところが、西郷はこの2年後、沖永良部島で信頼関係を結んだ土持正照の嘆願に心を動かされる。

 沖永良部島の与人、土持正照が、嘆願のために訪れた。土持は流罪中、大いに世話になった者で至極の恩人の人物だ。話を聞いていると(中略)、もしやこれまでの交換値段で砂糖を上納しているとしたら実に無理な扱いである。鹿児島県では数百年代の恩義もあり、島人も安心すべき道理もあったから無理な交易もできたが、これからはとても無理が出来る話ではない。ただいまも過酷に苦しむ島人であれば、よほど難渋を免れたく思うのはあるべきことと察せられる。島は不時凶行が到来しやすいところだ。その時は飛脚船を仕立てて救うこともできたけれど、今日ではそれも頼みにできなくなった。砂糖現物で上納しても、米八合と砂糖一斤の割合で納めるとか、これまでの交換より少しは仕組みを変えないと、人気を損し先行き必ず不都合を生む、これまで通りでは不条理である。県庁の申し立てであってもそのことを問いたださないと済まないことである。あと後、大きな害になることもあるから、条理が立つように世話をしてくれるよう、私からもお願いしたい。土持正照もここまで来てはっきりしないまま帰ったのでは、島中の人々にも申し訳ないことだと配慮しているので、どうか聞き入れてもらうようお願い申しあげる。(明治六年六月十九日。松方正義宛て)

 二つの手紙ともぼくの私訳なので精度は上げなければいけない。我ながら腑に落ちないところもある。特に、「鹿児島県において数百年代の恩義もこれあり、島人共にも安心致すべき道理もこれあり」の意味がよくわからない。ここではそれは置くとして、土持の嘆願に対して、奄美への砂糖収奪は不条理なものだから、続けてはいけないと言っている。

◇◆◇

 この二つの手紙には、約1.5年の間隔はあるが、何か、舌の根も乾かぬうちに正反対のことを言っているようにも見える。そして、この二通について、どちらが本来の西郷であるかというように議論されている印象を受ける。もっといえば、どちらが本来の西郷かという議論は、これだけにとどまらず、大島遠島の初期に、島人に蔑視を加えた西郷と、その後、酷い扱いに憤る西郷や、維新をなした西郷と西南の役を起こした西郷、敬天愛人と征韓論の西郷のように、西郷隆盛という人物につきまとっている。これは西郷的問題なのだ。

 ぼくは、これはどちらが本来の西郷かということではなく、どちらも西郷であると思う。たとえば「敬天愛人」はそれをよく示した言葉ではないだろうか。

 農耕社会を基盤にした政治形態の特徴は、天皇と民衆がそうであったように、専制君主と民衆との距離が無限大化されることと民衆相互の相互扶助の理想的な関係が共存するところにある。君主の専制も無限大の距離によって無関係化される一方、身近な人間関係は理想的な側面を持つ。西郷の言う「敬天」は、政治権力のことではないだろうが、無限大の距離を介して「天」と政治権力とは接近する。また、「愛人」はそのまま相互扶助の世界に通じるだろう。

 そうとらえると、「敬天愛人」は農耕社会型の政治形態と人間関係を素直にトレースしたものだ。しかしそこには西郷の特徴があり、西郷はそれを、「天」からではなく「人」に視点を置いて言ったことだ。ここで、視線は天から民衆に下ろされるのではなく、民衆と同じく天を仰ぐ方に向けられている。だから、「敬天愛人」は農耕社会型の政治形態と人間関係を、民衆の側から素直になぞったものだ見なせる。そしてここに西郷の魅力や人気の根拠があると思える。

 だが、西郷が政治権力者として自分を擬すれば、逆「敬天」の視点を持つことは想像に難くない。そしてそれは矛盾ではない。一方は、政治家としての西郷であり、一方は人間あるいは私人としての西郷なのだ。そしてこのあり方を支えたのはあまねく広がる農耕社会だった。ぼくは、西南の役は、そのあり方がもはや生きてはいけない政治形態としての死の始まりであったと思う。

 そうみなせば、桂宛ての手紙の西郷は政治家であり、松方宛ての西郷は私人である。実際、土持の嘆願を受けた西郷の手紙には、焦りが感じられる。しまったと、内心、思ったのではないだろうか。

 あるいはこうも考えられる。農耕社会型を基盤にした政治家は、地元への利益誘導を根拠にしている。西郷は奄美にとどまる時間が短かったにせよ、「愛人」を知った地である奄美には「地元」としての愛着を抱いただろう。西郷には薩摩と奄美という二つの「地元」があったのだ。そう考えれば、最初の手紙は、薩摩士族という地元を考え、次の手紙は奄美という地元を考えたものだ。しかし、ニ者は、利益誘導という視点からは矛盾した存在である。結局、西郷は薩摩士族に殉じることで最後の利益誘導を図ったのだ。

 どちらにしても、相反する二つの相貌は、どちらかが西郷なのではなく、どちらも西郷隆盛と捉えるべきだと思える。



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2008/08/22

三島物語-ウラトミ伝説

 名護は、「島民の抵抗」としてウラトミ伝説を挙げている。

 ウラトミは瀬戸内町加計呂麻島の生間の農家の生まれ。当時は薩摩藩の支配が始まったばかりで、代官の権力は絶大だった。十八歳の娘盛りのウラトミは島一番との評判が高かったので当然、代官(竿入奉行だったという説もある)の目に留まった。さっそく島役人が代官の「上意」を伝えにきた。ところがウラトミは一言のもとにこれを拒絶する。いくら口説いても首をタテに振らない。
 この代償は余りに大きかった。面目の潰れた代官と島役人はウラトミ一家だけでなく、地区全体に過酷まりない重税を課し、あらゆる圧迫を加えた。娘の貞操は守りたいし、世間への申し訳に困った両親は、愛娘を生きながら葬ることとし、わずかの食糧を載せて、泣きわめくウラトミを小舟に乗せて流した。

(中略)
 数日後、幸運にもウラトミの舟は喜界町小野津に漂着した。やがてウラトミは村の青年と結婚、愛娘ムチャカナも生まれ、人もうらやむ幸福な日々を送った。ムチャカナも母にも優る美人だった。やがてムチャカナは島の男たちの評判を一身に受けるようになった。これが他の娘たちの妬みを買った。ある春の日、娘たちはムチャカナを誘って青海苔摘みに行った。そうして無心に摘むムチャカナを激流に突き落とした。これを知った母ウラトミは、娘の後を追って自らも入水自殺を遂げ、悲劇に包まれた運命の幕を閉じた。

(中略)
 娘ムチャカナの遺体は数日後、対岸の奄美市住用町青久の海岸に流れ着き、青久の人たちが墓碑を建ててねんごろに弔った(後略)。(『奄美の債務奴隷ヤンチュ』

 代官の横暴に端を発するが、閉鎖共同体の嫉妬で幕を閉じる。痛ましいのは、代官の横暴に追われただけではなく、嫉妬によっても追われ、結局は共同体から弾き出されたことだ。

 ぼくが心惹かれるのは、この説話が世代をまたぎ、加計呂麻島、喜界島、奄美大島の三島を舞台にした物語だということだ。加計呂麻島が代官の横暴に追われる舞台、喜界島は難を逃れたウラトミが幸福を手にするが、娘のムチャカナが、ウラトミと同じ女性美によってふたたび難を受け死に追いやられる舞台、そして奄美大島は、ムチャカナを引き取り鎮魂する舞台になっている。ウラトミ伝説は、三島を世代をわたってつなぐ奄美物語でもある。外からの強制でしか奄美という共同性を見つけるのは難しいなかにあって、複数の奄美を語れる、これは話なのだ。

 この説話の痛ましさが消えないのは、奄美大島の青久で弔われるのはムチャカナだが、ウラトミはそうではないことだ。ウラトミの鎮魂は、この話を聞くひとりひとりに託されているのだと思う。



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2008/08/21

ケンムンは奄美人のいちばんの馴染み

Kenmun_2

















(『南島雑話』)

奄美の人々が「ケンムン」という名で登場させた妖怪は、砂糖地獄の抑圧からの解放と自由を求めて人跡未踏の地に逃避を切望してやまなかった多くの人々の願望を象徴したのだろうか。そうすると、ガラッパにも似た妖怪の「ケンムン」は、砂糖地獄の副産物だったことになる。言いすぎだろうか。『奄美の債務奴隷ヤンチュ』

 これは、昭和五十年代にあったという奄美郷土研究会での「ケンムンは実在するか」という論争を受けた名護の言葉だ。ぼくはヤンチュをすくい上げようとする名護さんの考察に異を唱えるつもりは全くないのだけれど、ここはケンムンの名誉のために書いておきたい。

 ケンムンは黒砂糖が登場するより遥か昔から奄美にいる。沖縄のキジムナーと同様、古くから奄美人と付き合ってきた。砂糖地獄の副産物がケンムンなのではなく、奄美人の副産物がケンムンと言ってもいいくらいだと思う。ケンムンは奄美人のいちばん旧い馴染みなのだ。

 ただ、薩摩支配下にあったとき、この妖怪が、そうなりたい願望の対象になったとしても不思議ではない。そういう意味では、ケンムン的になりたいという願望を、猿化騒動に見る気がする。




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2008/08/20

ヤチャ坊よ、永遠なれ

 薩摩藩政下に、奄美人の原像を告げ知らせてくれたのはヤチャ坊だ。

ヤチャ坊は木の皮のフンドシを締め、昼間は海近くの洞窟の中や山中の木の枝に隠れていて、夜になると里に出てきて人家を荒らし回り、手のつけようがなかった。ある夜に海岸に繋いでいる舟を失敬して単身喜界島に渡り一晩で帰ってきたこともあったという。
ヤチャ坊は力が強く、動作も敏捷で超人的な「ターザン」のような男だったという。ごうごうと山の水音のとどろき以外に何も聞こえない。ここは彼の住むにふさわしい場所だ。
 ヤチャ坊はあるとき、漁師三人が舟揚げに困っていると手伝ってくれたらしい。ヤチャ坊は舟を運びながら、舟の中の一番大きな魚に日をつけて、素早くかっぱらってこれを足で砂の中に埋め、漁師たちが帰った後何食わぬ顔でこの魚を取り出し山中に持ち帰った。それ以来、彼がかっさらった魚の名前が「ヤチャ」(カワハギの一種)だったため、彼は「ヤチヤ坊」と呼ばれるようになったらしい。
 だが、ヤチャ坊は悪さばかりしているのではない。気が向けば病苦に喘ぐ村人に、こっそり盗品を配ったり、路傍で泣いている子に大きな握り飯を与えたりする義人的な優しい一面もあった。
 目に余るヤチャ坊の農作物荒しに困り果てた農民たちが「ヤチャ坊狩り」をしたこともあったが、農民たちは彼の一夜に二十里 (八十キロ)も駆ける超人的で敏捷な行動になすすべがなかったという。しかし農民たちは本気で「ヤチャ坊狩り」をしたのだろうか。「可哀想なヤチャ坊」と、いまもシマウタで歌われているほど親しみを込めて語られる彼だから、きっと本気の追跡劇ではなかったのではと思われる。

 「砂糖収奪」の激しい時代だからヤチャ坊のような現実逃避型の人物が現れても不思議ではない。素っ裸になってすべての拘束から逃れ、ヤチャ坊のように思うままに生きてみたいと思うのは誰でもあること。そうした庶民の夢を叶えたヤチャ坊に奄美島民が憧れたとしても当然だろう。奄美島民はいつまでも「ヤチャ坊節」を歌うことで、薩摩藩の砂糖収奪の厳しかった昔を、いまに反すうするのだろうか。(『奄美の債務奴隷ヤンチュ』

 ヤチャ坊伝は、実在の人としても伝説の人としての、似た人を知っているような身近な感じがする。たとえば与論には与論のヤチャ坊がいると思う。島全体が強いられる生き難さがあるからこそ、その束縛を離れた存在があってほしいという願望がヤチャ坊を生みだす。その願望があるから、ヤチャ坊狩りをしても追い詰めるまでにはいたらない。島唄にもなる。ヤチャ坊よ、永遠なれ、だ。

 あるいは、ヤチャ坊に愛着を感じるのは、彼が大島でいえばケンムン、与論でいえばイシャトゥのような土地の精霊に似ているからかもしれない。悪さもするが憎めない。ヤチャ坊が醸し出している雰囲気はどこか妖怪だ。人間化した妖怪がヤチャ坊なのだ。




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あちゃの夢を見た

 ふだん見ない夢を見た。どこか与論の家にぱらじが大勢集まってた。
 夜、みんな横になると足の踏み場もないほどだった。寝ることもできなそうだと諦めたらビールが飲みたくなったので、弟三人とお酒を探した。
 お袋は、夜中なのに親戚まわりをしてくると言うから、それに付いていってお酒を飲ませてもらおうかと思ったら、
 「あっしぇ、びーねーびしちから、ちゃーきむどぅちきゅーくとぅ」
 と言われて止めた。
 で、弟たちと酒飲んでいるところに、気づくと父ちゃんもいて一緒に飲んでた。
 父ちゃん!と思って、触ったら、あったかかった。


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2008/08/19

猿化騒動

 名護は「島民の抵抗」として、猿化騒動を挙げている。ただ、これは誰が何をしたのかはっきりしない、「猿化騒動」が起こったという記述があるだけなのだという。

猿化騒動はどうして、どんなように起こったのかは不明だが、ただ「大島代官記」には、一八三三(天保四)年の項に、

  此年何国ヨリ出デ来タル侯ヤ猿化騒動ト名付シ書見得タリ、按ズルこ百姓之窮(状)ヨリ出デ来タリト見ユ、後年見合二書記

 とのみあるだけだ。「俺たちは人間でない、猿だ」と踊りくるったのだろうかー。ところが、奄美にはサルはいない。猿がいないのに「猿化騒動」というのはおかしい。それはどういう「書」に書かれていたのだろうか。諸国を巡る山法師が伝えたのだろうか。疑問点はいくつも出てくる。

 南海日日新聞の専務だった故籾芳晴さんの著『碑のある風景』は、「ここでいう書について"書本"という人もいるが、簡単な回覧用の書きつけではなかったか」と、想像している。

 藩命による砂糖収奪は少しも変わらず、空腹のままの農作業、強制労働は続く。このようなとき、祖先たちは見たこともないまでも〝山野を自由にかけめぐるサル〟に自分たちを擬し、俺たちはサルだ″といい切ったのではないか。居住を制限されたまま、ただ額に汗することだけが生涯の総てだった人々が、収奪する側も、自分たちも含めて〝サルだ〟といい放ったとき、悲しいまでの開き直りを感じる。まさに、最下層の人々が野に棲むサルに解放の姿を見たとしても、何ら不思議でない。それほど厳しい日々の積み重ねがあったということは知られてよいことだろう。『奄美の債務奴隷ヤンチュ』

 この話は、シャリンバイで赤く染めた着物を着た老ヤンチュが、酒が進んだところで、クッカルと、アカショウビンの鳴き声を真似たというもうひとつの話を思い出させる。ただし、老ヤンチュはアカショウビンという身近な鳥に自分を擬したのだけれど、猿は奄美にいない。猿は物語や伝聞のなかでしか知られていない動物だった。人を離れ、自分を動物に擬するのは、現世超出の願望だが、見たこともない猿に擬したのは、何というか、動物というよりケンムンになりたかったのかもしれない。言ってみれば、妖怪化である。妖怪は、身近な異界の存在であり、人間に親しまれたり恐れられたりする。ケンムンと化して自分たちの存在を保ちたい。それが、猿化(さるばけ)の意味だったかもしれない。

 名護さんが、「猿化運動」を島人の抵抗として挙げる気持ち、分かるなあ。



 

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「与論島まるごと博物館」、開設

 盛窪さんの「与論島まるごと博物館」が開設された。嬉しい。
 これは、ブログではなく、ブログもついたウェブサイトだ。

 メニューにある「与論島体験ツアー」。こういう案内を作ってほしいとひそかに思ってきたので、待ってましただ。与論に行って見たい方で、青い海、白い砂ばかりじゃない与論を味わってみたいなら、盛窪さんを訪ねるのがいい。歴史と民俗の深さを伝える語りと、望めば島の言葉も繰り出せる口調と、島人の祈りの姿が伝わってくる挙措と、忘れずにやってくるユーモアは、余人を持って替えがたいと、ぼくなどは思っている。

 「与論島ウンパル学校」、「パーマカルチャー農法」は盛窪さんのライフワークだと思うし、「昆虫」「植物」とか、島の自然を生き生きと教えてくれるだろう。写真を撮るだけではない。盛窪さんは、オオゴマダラだって、植生に配慮しながら復活させてくれたのだ。

「与論島まるごと博物館」
Yoronmarugoto

























 遠き地で勝手なことを書いているぼくなどには、どこまでも歩いてゆける脚力で、大事な場所を訪ね、古老の言葉に耳を傾け、島の時間の奥行きを紐解いてくれる盛窪さんのような存在は、頼みの綱なのだ。酒に負けてほしくはないけれど、盛窪さんの文章は、薄暮の与論というか、あの、夢か現かわからぬところへ誘ってくれる。遠野には佐々木喜善という語り手がいたからこそ、柳田國男の『遠野物語』はできたとすれば、与論の佐々木喜善は盛窪さんだと思う。

 「与論島まるごと博物館」のこれからの展開が楽しみだ。


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2008/08/18

大島への脱島

 徳之島では台風などの自然災害と相次ぐ疫病の流行で、生き抜くために奄美大島へ脱島する者が多かった。『奄美の債務奴隷ヤンチュ』

 1755年 飢饉で、徳之島の農民3200人余が亡くなる。
 1772年 熱病などの流行で、徳之島の農民1700人が亡くなる。

 1753年の徳之島の人口は、22400人というから、1755年の餓死者は、約14%。当時の世帯人数は分からないけれど、7人に1人が亡くなるというのは、家族や身近な人が誰かいなくなるという割合で、すさまじい事態だ。

 こうした窮地を大きな引き金にして、徳之島からは大島への脱島が相次いでいる。脱島は重い。行政的には隣の町でも、ちょっと隣町までというのとは訳が違う。島は世界であり宇宙なのだから、島を抜けるというのは、世界が変わるに等しい断絶感があるはずだ。島に絶望しなければ、ありえない事態である。

 1745年に米ではなく黒砂糖で納める換糖上納制が敷かれる。ぼくたちはそのあとの、1777年の第一次専売制を砂糖収奪の大きな契機とみなしているけれど、第一次専売制を待たず、換糖上納制の10年後の1755年に3200人もの島人が亡くなっているのをみると、1722年以降の定式買入と換糖上納制による砂糖きびの単作が、農としての奄美の弱体化を招いたのが分かる。収奪だけではない、農の弱体化も被ったのだ。



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2008/08/17

琉球への脱島

 薩摩藩の強制的なサトウキビ単作で、台風など自然災害の多い奄美は不作による飢饉に見舞われた。そこで「いまより琉球時代の方が米も野菜も作れてよかった」と昔を懐かしむ島民の雰囲気さえあった。天災地変で飢饉や疫病の発生が多かった徳之島では特にその風潮が強かった。だが、琉球王国は百二十七年前の一六〇九(慶長十四)年に薩摩藩に無条件降伏し、その薩摩のいいなりになっている、とは彼らは知らなかった。そこで「琉球王が薩摩藩主より偉い」と信じていたらしい。『奄美の債務奴隷ヤンチュ』

 二重の疎外をもたらした奄美直接支配と琉球間接支配を、奄美は政治的共同性として認識しているが、島人一般の認識としてあるわけではなかった。島人には、薩摩と琉球とはともに存在する政治的共同性だった。ところが、琉球とは政治的断絶の関係に置かれているので、思慕も起こりやすかったのである。

 そこで、島人の抵抗は、はじめ琉球への嘆願を目的にした脱島となった現われたのである。しかし徳之島の脱島組は沖永良部島で見つかり、説得され、やむなく島へ戻る。


 徳之島前録帳には、

  右栄文仁ハ勇気不敵ノ者、喜志政・能悦ハ強力者二アコレアリ

 と記して、この項を終え、栄文仁らの処分については何も書いていない。ただ、彼らが脱島者として処断され、七島に流罪されたことは民謡「能悦節」に次のように唄われているだけだ。

  栄文仁主と能悦と喜志政主と
  ナーみちゃり(彼ら三人)
  島のことじゆんち(島のことをしようとして)
  トカラかちいもち(トカラに行かれた)

 多分三人はトカラのどの島かに流罪になったのだろう。

 この時期の奄美を知ろうとするとき、記録がないということがいつも障害となって立ちはだかる。この場面も同様のことが言えるが、しかしそれと同時に、島唄は、その欠落を補うように、歴史を保存してきたことも教えている。しかも、この保存には唄であることによって情感も伝えたのである。


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2008/08/16

『五十度の講演』の「南島論」

 糸井重里が発行した吉本隆明の『五十度の講演』を聞き始めている。

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 なにしろぼくはここに収められている「南島論」をまず聞きたかった。吉本隆明の南島論を知って、わが故郷が語るに値することを教えてもらったようなものだから、吉本の南島論の展開はいつも楽しみにしてきた。

 1970年に行われた「南島論」自身は、『敗北の構造』に講演録として収められているので読んでいる。けれど吉本の講演は、本人も言うとおり、繰り返しが多くお世辞にもうまいとは言えない。ぼくはだからなおさら、その繰り返しの多い肉声で「南島論」が聞いてみたかった。いまだにわかりにくいと思っていることもあるからだ。5時間近くある講演でまだ聞き終えてないが、早速気づくことがあった。

・「非常に暑い盛りで、なおさら熱い話になりそうなんですけど」というのが語りのはじめ。もちろんこれは、講演集には収録されていない。

・昇曙夢を「のぼりあけむ」と読んでいる。

・吉本は、「南島」という言葉あるいは定義を昇曙夢の『大奄美史』から採ったと話している。よく、「南島」という言葉は中央からの視線なので抵抗があるという意見を聞くことがある。ぼくは、言葉の響きが好きで抵抗は全くないので、使い続けているが、案外、昇曙夢の『大奄美史』に目を通し、そこの定義にしたがっているという吉本の姿勢に共感してきたのかもしれない。

・南島を描いた地図を指してだと思う。「こちらはまだ日本ではないそうで。こちらの人から見ると、こっからこっちはバラ色に見えるわけで」と、沖縄を紹介している。そこで会場にも笑いが起こっている。復帰という課題を抱えていない場所で呑気なことを言っていると聞こえるかもしれない。あるいは会場の笑いのなかにはそういう要素もあるかもしれない。けれどぼくは、南島あるいは沖縄を対等にみている、なめていない姿勢を見るように思った。沖縄の復帰について、「行くも地獄、帰るも地獄」と言い切った人の弁の延長で、ぼくはそう感じる。

・パプア・ニューギニアには石器時代さながらに暮らしている人がいるという話をうかうかと真に受けて聞いてしまうことがあるが、自分はそんな人を檻に入れて観察するような視点を、「人間的にも、思想的にも、また理論的にも」採ることはできないというところで、ぼくは人類館事件を思い出した。吉本も念頭にあったかもしれない。吉本は、そのパプア・ニューギニアだって、現在の文明が殺到すれば数十年を待たずに世界史的現在に到達するだろうことは全く疑いえない、と言い切っている。ここで、吉本は明治の日本もそれに近い経験だったというが、同じことは奄美にも言える。

・「指向変容」という造語を「インテンシブ・モディフィケーション」と言い換えるところがある。講演録では、ここは、「<インテンシブ・モディフィケーション>とでもいっておきます。」とやや衒った風なのだが、実際聞いてみると、「インテンシブ・モディフィケーション」と消え入るような声で言って後は聞こえない。吉本らしいと思った。

 まだこんなところだ。「南島論」の感想は聞き終えたら、また書きたい。




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なぜ家人(ヤンチュ)は大量に生み出されたのか

 なぜ家人(ヤンチュ)存在は大量に生み出されたのか。

藩政時代のヤンチュ大量発生は、奄美の植民地的な黒糖専売制そのものが原因だったのだ。台風などによる不作や他の借財が重み、規定の上納量を上納できない島民は、自らの身体を豪農に売ってヤンチュに転落するしか道はなかった。薩摩藩は砂糖を増産して藩の財政を立て直すには、個別の百姓の尻を叩いて増収を図るよりも、転落した農民を衆達と呼ばれる豪農に吸収させて、彼らの大規模農業による増収を期待した方が得策と考えたのだろう。ヤンチユは藩政時代に奄美諸島で普遍的に発生した債務奴隷的な「農奴」だったのだ。『奄美の債務奴隷ヤンチュ』

 なぜ、家人(ヤンチュ)は大量発生したのか。それは難しことはではない。1745年の「換糖上納制」により年貢を黒砂糖で納めることになり、1777年には、奄美大島、徳之島、喜界島の三島で、第一次惣買入制により、砂糖は全て薩摩藩が買い上げることになる。このとき砂糖の売買も禁止される。つまり、定められた量の年貢も生活の物資も全て黒砂糖によって交換するしかなくなった。黒砂糖が足りなければ手も足も出なくなる。要求される黒砂糖の量が容赦なくなれば身売りは必然化される。そして、それは労働力の低コスト化を意味するから、薩摩藩もその事態を黙認したのだ。

◇◆◇

 名護は、ヤンチュの日常を、社会的地位、呼称、住居、食生活、労働、性などの項目で実態を浮かび上がらせようとしている。ぼくはここで、ヤンチュの実態について、自分ならどう書くかという問題意識で、名護の考察を受けようと思う。

 ヤンチュは一般百姓に対して身分的な関係ではなくて借財の有無という偶発的な経済的原因によって生じたのである。だから一般百姓はヤンチュを幾分蔑視はしても、いつ自分がヤンチュになるかもしれないので、厳しい差別はなかったようだ。だから八月踊りなどの祭日にはヤンチュも仕事を休み、村人たちと一緒になって踊り、心ゆくまで無礼講で楽しんだようだ。

 ヤンチュは固定的な身分ではなく借財という経済的原因によって生じる。だから農民はヤンチュを軽蔑するが、両者の世界が交流の場面を持たない隔絶された差別はなかった。八月踊りなどの祭日にはヤンチュも仕事を休み、農民たちと一緒にな踊っていたようだ。

 ただ封建的な偏見が強く残ったといわれる大和村大和浜では、大正年間までヤンチュを所有していた豪農のユカリッチュ(由緒人)と、普通の百姓である自分人(ジブンチュ)、それにヤンチュの三階層に身分が分かれており、ヤンチュと自分人が、ユカリッチュに路上で会うときは、土下座してあいさつを交わしていた、という。

 むしろ農民の内部で、もともとの上流階級である豪農のユカリッチュ(由緒人)との隔たりのほうが大きく、ヤンチュと自分人(ジブンチュ)が、ユカリッチュに路上で会うときは、土下座してあいさつを交わしていた、という。

 ヤンチュは村全体の寄り合いなどに出席する資格はなかった。しかし、ヤンチュの多い集落では多勢に無勢で、普通の百姓の方がヤンチュに気兼ねしていたようだ。
 I集落では五十戸の約半分が実家のヤンチュだった。ある日、ヤンチュが百姓のところに小舟を借りに行き、断られたので、腹いせにヤンチュみんなで小舟を山の上に運ぶ〝いやがらせ″をしたらしい。また旧八月十五日の相撲大会のとき、百姓とヤンチュの東西対抗戦があったが、百姓側は故意に負けて相手側に〝ハナ″を持たせた、という。ヤンチュには荒くれ者が多かったので、負けた恨みに何をされるか恐れたためだった、といわれる。

 また、「金久好さんの祖父が子どものころ、遊んでいると、ヤンチュの子どもが通るので喧嘩して泣かせたことがあった。それを見ていた祖父の父がヤンチュの仕返しを恐れて祖父を怒ってそのヤンチュの子が泣きやむまで、棒切れで祖父を叩いた」というエピソードを金久好さんは家の者から聞いている。

 このようにヤンチュは同じ境遇の仲間が多く、命知らずの者もいたので普通の百姓や豪農からも恐れられていたはどで、社会的差別にはなかったようだ。

 ヤンチュは永続する身分関係ではなかったので、ヤンチュの多い集落では、ヤンチュが寄り合いに出席することがあった。農民が、十五夜の相撲大会でヤンチュに勝たせるように気遣うこともあれば、小舟を貸してもらえなかった腹いせにヤンチュが小舟を山の上に運ぶような抵抗を企てることもあり、関係は固定化されなかった。

 ヤンチュは豪農に事実上隷属し、絶対的服従であり、また売買も豪農側の自由にされた。しかし、自分に経済的実力さえあればいつでも建前上、自由になりうる立場にあり、本土の被差別部落に比べ幾分身分的差別要素の希薄なものといえそうだ。だが、いったんヤンチュに転落した者が一般百姓、つまり自分人に戻った例はごく少なかったようだ。

 ヤンチュは豪農に事実上隷属し服従しており、売買もされる存在だった。しかし、制度的には経済的的蓄積によって自由になりうる立場にあり、いわゆる被差別部落として空間的に固定化されることもなった。その意味では時間的にも永続的な存在ではないが、いったんヤンチュに転落した者が農民、つまり自分人(ジブンチュ)に戻った例はごくわずかだった。

◇◆◇

 林家に着物についてのエピソードが残っている。
 林家では白木錦を大島紬の染料になるシャリンバイ(通称テーチ木)で赤く染めた社のない狭く短い着物をヤンチュに一枚ずつ支給した。ちょうど、主家が前織衆のときで、前織衆がヤンチュを自分の書院に招待してご馳走を出したのである。どのヤンチュも支給されたばかりの赤い短い着物を着ている。だんだん酒が回り、三線が入り、シマウタが始まった。すると、一人の老ヤンチュが立ち上がり、唄い踊り出した。

 「ヤンチュ身やあわれ、クミネ(衽)無しや衣(着物)着ち年取りゅんあわれ」
 と唄ってから、
 「クッカルー」
 と、野鳥の鳴き声をまねて踊った。

 これには前織衆はじめ=同のヤンチュ仲間がドッと笑いこけた。クッカルとは奄美に多い全身が真っ赤な羽根の山鳥「リユウキユウ・アカショウビン」のこと。
 何十人というヤンチュが囚人服のような赤い〃正月着物〃を着て、その上酒で顔まで赤くしているのを見て真っ赤な山鳥の群れを連想したのであろうかー。だが、唄い踊るヤンチュの姿を、筆者には単純に笑えない。逆にヤンチュのさだめの切なさ、もの悲しさを覚えてくる。この老ヤンチュは、こんなヤンチュの姿を自虐的に唄い、踊ったのだろう-。

 自嘲的ではあっても現世を越え出る笑いの力をヤンチュも持っていた。アカショウビンの物真似は、動物への擬態という点で奄美的であり、笑いを誘う点では南国的な解放感があった。

 ヤンチュの性は剃那的だった、とみてよかろう。貞操観念は比較的薄く、男女交際は自由だったようだ。私生児も多かった。一人の男が関係している間は、皆が認め合って他の男は邪魔しなかった。それは一時的な関係で、夫婦と決めて子どもがいてもたびたび夫を替え、妾を替えていたようだ。

 ヤンチュはヤンチュ存在である限り、安定的に家族を営むことは難しく、また子も主家によって膝素立として預けなければならなかったので、ヤンチュの男女は永続的な関係を持つのが難しかった。



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2008/08/15

『奄美の債務奴隷ヤンチュ』

 名越護の『奄美の債務奴隷ヤンチュ』は、近世期奄美の素顔が見えるようだった。

 この本を書いた名越の「モチーフはあとがきに明瞭だ。

 人間歳を重ねると故郷が無性に恋しくなる。著者の故郷は奄美大島なので、特に奄美の歴史がもつと知りたい。「奄美の歴史」といえば、まず「債務奴隷ヤンチュ」を思い出す。小さいころから哀れなヤンチュの話を聞いて育ったせいかもしれない。だが、昇曙夢著の 『大奄美史』や坂口徳太郎著の 『奄美大島史』などの郷土史には、その断片が記載されているだけで、ヤンチュ制度を専門に研究する学者も見当たらない。どちらかというと、奄美の「負の歴史」で、誰も触れたがらないようである。ヤンチュのことが知りたいなら、膨大な種の書物をめくらないと分からないのが現状だ。

 幕末期には、2~3割をしめた可能性があるヤンチュについて、「薩摩藩の黒糖収奪がもたらした特異な債務奴隷」であるにもかかわらず、これについて書かれたものがない(少ない)。ヤンチュを使用していた衆達(しゅうた)の子孫が現存していることへの遠慮があるとも聞かれる。でもそれでは納得いかない。名越はそう言う。このモチーフは後から学ぼうとするぼくたちにとってはとても有り難い。この実態を知ることは、奄美へのシンパシーと理解が深まるに違いないのだ。


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 そう言えば、松下志朗も『鹿児島藩の民衆と生活』のなかで、家人(ヤンチュ)の先駆的な研究事例、金久好の『奄美大島に於ける「家人」の研究』に触れながら書いている。

 明治初年に至る迄右のの奄美大島に於ひて、人身売買に於ひて生じた、奴隷的色彩の濃濃嘗特殊な奉公人制度がl敗に行はれて居て「家人」なる特殊な、階層を形成して居た。「家人」は或は音読して「けにん」と呼ばれ、身売人、抱者と云はれ又下人下女と性別に呼称された。近世末期に於ける其の数は莫大なもので優に一階層を形成する程の多数に達して居たらしく思はれる。

 として、金久はその特異点を挙げている。

 第一に、其発生は封建的頁租退散の結果たる身亮に依るもので、後には財物的売買が盛となり、古代からの隷属民とは殆ど性質を異にしたところの、特殊な歴史的、地理的条件に制約された特殊の隷属関係を形成したこと。
 第二に、財物的売買関係の結果、其数が多数に達し、豪農の下では大低大農的経営形態が採られて居たこと。尚、家人増加の原因としては、貢租率の高いため百姓の生命たるべき土地への執着が無くなり、好んで身売した者の多かつたことも考へられる。
 第三に、大農的経営に従事したのは主として「屋家人」だつたが、作場に居る者でも小作関係ではなく、唯耕作をより生産的ならしめる為で、砂糖賦に依って強制されて居たのである。
 第四に、従って彼等は其の労働力と共に、人格其の物も主人に依り所有されて居たのであって、土地を中間に於いての隷属ではなかつたこと。
 第五に、併し乍ら一般的には(膝素立を除くと)穢多、非人等の如く永久的な身分関係ではなく原則として其の経済力に依っては何時でも自由になり得る状態にあり、普通農民との区別も絶対的のものではなかった。

 この引用のあとに松下は、

 この金久好がまとめた昭和初年の卒業論文は、一九八〇年段階でも「丹念な実地調査の結果」であると評価されて、これを超える業績はいまのところ見あたらない。

 と評価している。

 この整理は、かなり正確に家人(ヤンチュ)存在を捉えているのではないかと思える。
 家人(ヤンチュ)存在は、古代からの隷属民でも永続的な最下層の身分でもなく、歴史的な条件によって隷属的な関係を強いられた。しかし、土地への執着を持たず好んで家人(ヤンチュ)になる場合もあったが、土地を持つわけではなく全人格的に所有されてしまっていた。

 これを、松下はこう受けている。

 この金久論文は島尾敏雄も十分に読んでいたはずであり、その内容について名瀬市史編纂委員会でも議論されたはずであるが、かれの著作でも『名瀬市誌』でも全く触れるところがなかった。それは一種の怖れがもたらしたものかどうか、今は定かでない。そして現在に至るまで研究者の間でも金久好のことは話題に上ることはなく、「家人」の歴史自体が人々の意識から薄らいでいる。

 松下の『鹿児島藩の民衆と生活』は、2006年に出されている。家人(ヤンチュ)の歴史が希薄化されているという危機感は、昔のことではない。面白いことに、名越の『奄美の債務奴隷ヤンチュ』は、松下の本と同年同月に出ており、時を同じくして問題意識は重なり共鳴することになった。



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世界はさざ波のように訪れる

 八月一五日戦争が終結、日本は負けた。しかし沖永良部の住民も兵士たちも終戦を知らされていなかった。「八月一七日、本日、名瀬支庁からきた人より変な噂が立ち始めた、それは敵と講和条約が成立したと言う話であった。我々には日本が負けたとは夢想もしない、さりとて敵が手を挙げたとも考えられない……」 (沖永良部守備隊未松則雄衛生兵の手記から)。兵士や住民が終戦を知ったのは一週間も過ぎた頃からであった。(「復帰運動史の中の南二島分離問題」川上忠志『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』)

 8月15日は敗戦の日だが、奄美では必ずしもそうではなかった。ここにある川上さんらの経験が奄美一般であるとは思わないが、いかにも奄美的な到来だと思う。敗戦も明治維新も大和朝廷の席巻も、リーフで一度くだけて、時間を置きおだやかなさざ波のように、世界の変化は告げられる。でも、その到来後の世界は過酷だった。敗戦も、そうだ。

 敗戦は天皇の途切れがちな声で断絶として訪れたわけではなく、ひょっとしたら噂としてやってきた。敗戦は断絶ではなかったが、しかしその後、日本復帰を課題になったため、敗戦の意味を受け取りにくくさせたと思える。




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2008/08/14

治療薬としての郷土史

大山 こういった、鹿児島とのいくつもの重層した関係を、小さいときからつぎつぎと知らされたわけですから、私はそれらから解放されるのに、ひじょうに苦労しました。私のばあい、そのひとつの治療薬として郷土史を追求したようなものです。
 そうやって郷土史を探っているうちに、だんだん鹿児島をも、身丈だけにみるという歴史感覚が自分のなかに養われてきて、どうにか公平に歴史をみれるようになったわけです。そうなると、奄美支配が沖縄から鹿児島に移ったことによるプラス面もみえてきた。正直いって、奄美は近世の洗礼も鹿児島によってはじめて受けることができたわけです。鹿児島は初期にはあきらかにヤンチュ制度も制限しようとしているし、稲作も赤米から真米に変わるように一生懸命やっている。もちろん、集落の統制も強化しましたけど、生産力もずっと増大しています。そういうことをありのままにみれるようになることによって、自分のなかにあったしこりがだんだん溶けてきて、鹿児島だから憎いというようなことがしだいになくなってきたわけです。『沖縄・奄美と日本(ヤマト)』

 「鹿児島とのいくつもの重層した関係」というのは、岡程良を祖父に持ち、それ以外にも奄美の知識人を親族の系譜に持つこを指している。かつそれは沖縄からの流れと鹿児島からの流れを両方から来る血筋としてあるのだ。この複雑な系譜の末裔としての生には「苦労」がつきまとっただろう。それはぼくにも想像がつく。「治療薬としての郷土史」というのは、切実で止むに止まれぬ選択だったに違いない。

 しかし、にもかかわらず、大山さんの「ありのまま」は、ありのままとして伝わってこない。薩摩の奄美支配の実勢がありのままに視野に収められていると感じられない。

 しかし、その途中の段階で鹿児島の役人などが島へやってきて、いろいろとかき乱すんですよ。戦後の新しい教育を受けた人はいいんですが、むかしの教育を受けた人は、「島へいったら、まず最初のやつをけとばせ。そうすればあとの人間はみんないうことをきく」式の、先輩から受けついだやりかたでくるんです。たとえば、私が竜郷村の農業委員のとき、農務課長がかわったころ陳情にいったことがあるんです。そのときは四月で奄美にしては暖かかったんですが、ネクタイをしていたら、「へェー、ネクタイなんかして」と私のネクタイを鉛筆でつっついたりはねあげたりしたあげくに、ひっぱって首をしめるんです。初対面の人間にたいしてですよ。これはむしろ初対面だったからでしょうけどね。
谷川 ネクタイなどは身分不相応でぜいたくだっていうことですか。

大山 おマエらがネクタイをしめるなんておこがましいということなんでしょうかね。あるいは、こんなに暖かいのにネクタイなんかいらないという気持だったかもしれません。とにかく「初対面の島人はけっとばせ」主義です。でも、そうされると島の人間はおそれいって、「今晩どうぞ」と宴会を設け、親分・子分の関係になるんです。そうなると、あとはつきあいがスムーズにいくというしきたりになっているわけです。私はそんなことできませんから、どうしてもむかしのことを思い出してしまって、やっぱり鹿児島とはたたかわないとしょうがないなという気になる。そういうことから抜け出すのに何年もかかりましたね。

 こういうことから抜け出すには、ふざけた行為をする輩がいなくなることが必要なのではないだろうか。そうでなければ大山さんが言う「抜け出す」は、それこそ個人的な気持ちの問題だろう。

 それには、いまいったように郷土史の研究が役に立ったわけですけど、もうひとつ種明かしすると、自分のなかにある遠島鹿児島人、先祖の系譜を追及することにより、鹿児島を加害者一色に単純化することから自由になったこともあります。薩摩における非主流派の系譜をたぐることで彼らの悩みや憤りがわかり、自分のなかの薩摩の血に乗って薩摩内部から薩摩の出口をさがす心情も出て、深層心理的に内部から私のコンプレックスを慰籍する作業をしてくれたこともありますね。

 ここは正直な述懐で、大山さんの郷土史研究のモチーフをよく教えてくれる。しかし、このモチーフは、大山さんの限界にもなっているように見える。自分に流れる鹿児島遠島人の血に具体的に配慮することが、大山さんの郷土史の中身になってしまっているのだ。そこでは、鹿児島遠島人の心理や奄美人の心理が理解すべきこととなるため、郷土史が奄美全体を覆うように広がっていかない。現に、いま思い返してみれば、高良さんに促されて総括した奄美270年に唐突に登場した、本田孫九郎や伊地知季安も、大山さんの親族の系譜のなかに登場する人々なのだ。大山さんの郷土史はそこでは、郷土史というより一族史である。

 出自の呪縛が強力な分だけ、大山さんの郷土史は、出自の近傍を抜け出せない。抜け出せたと思った場所とは、奄美、薩摩それぞれの立場の心理理解のことなのだ。そこで、奄美の薩摩支配の全体像は見えてこず、代わりに、プラス面、マイナス面のバランスシート整理がやってきている。しかしこのプラス面、マイナス面はとりもなおさず、大山さんの心のバランスの問題にしか過ぎなくなってしまう。大山さんは、この両者への配慮で、自身の治療薬にはなったかもしれないが、それは郷土史として普遍化することはできないのである。

 大山さんの心理劇のなかで、しこりは溶けても、関係の構造としては溶けずに残る。ぼくたちはそれを溶かさなければならない。

 ※「奄美だけ特別じゃない」という声」『沖縄・奄美と日本(ヤマト)』


 

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与論と大牟田の子どもたちの交流

 「ヨロンパナウル少年の船」の一行が、大牟田を訪れ、移住者の子孫と交流したそうです。

 与論島の少年ら大牟田訪問 移住者子孫と交流 島民の苦難の歴史学ぶ
 炭鉱移住者の労働思う・・・与論島の小中生が三池港見学

 与論の子どもたちが大牟田の子どもたちと交流するって、無条件にいいですね。こちらまで気持ちがあたたかくなります。



 

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2008/08/13

言外に云う奄美直轄

 紙屋敦之は、『幕藩制国家の琉球支配』で、こう書いている。

「悪鬼納井諸島」 は、同月一〇日に定められた琉球特産物の貢納裁定によると、「沖那波・けらま・与部屋・いぜな・伊恵島・となき島・粟島・久米・やえま・宮古島」である。慶長検地の高は二万三、〇四一石九斗六升余だったから、この知行宛行状は中山王の支配領域以外の地域、つまり道之島(奄美諸島)二万三、九五五石は島津氏の側で支配するという同氏の方針を言外に示していた。この道之島分轄によって島津氏は、一六〇六(慶長一一)年以来の琉球に対する領土拡張の野心を実現した。

 その貢納規定は、こうだ。

 沖那波 けらま 与部屋 いぜな 伊恵嶋 となき嶋 栗嶋 久米 やえま 宮古島
  右嶋ゝより毎年可被相納物敷之目録
 一 はセを布三千端
 一 上布六千端
 一 下布壱萬端
 一 から苧千三百斤
 一 綿三貫目
 一 しゆろ綱吉方眞なし
    但長六十ひろツ、
 一 くろ網百方眞なし
    但長六十尋ツ、
 一 莚三千八百牧
    内三百枚ハ長むしろ
 一 うしの皮弐百枚
     以上

 慶長拾六碑年九月拾日
        三原諸右衛門尉
             重種(花押)
        伊勢兵部少輔
             貞昌(花押)
        町田勝兵衛尉
             久幸(花押)
        比志島紀伊守
             國貞(花押)
        糀山権左衛門尉
             久高(花押)

    琉球國
       三司官

 たしかに、「琉球國」として貢納すべき範囲を、沖縄島から八重山列島と規定している。ぼくは、ここで奄美(道之島)支配を、言外に示すことによって表明していることに目を奪われる。薩摩の奄美支配は、琉球に対しても言外によってなされる。触れないことによって指し示すという扱われ方は、まさに奄美的である。薩摩支配の初期から奄美は奄美的に規定されていたのである。



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「奄美だけ特別じゃない」という声

大山 昭和三十年ごろ、東京にいて組合運動なんかをしていたんですが、いろいろあって朝も夜も祖母から聞いた昔話とか島の夢をみるようになったんです。これじゃ島に帰らなくてはどうしようもないということで帰って百姓をしていたわけです。そのうちさっきもいったように為栗委員になって、鹿児島からくる役人と接していると、彼らは奄美から収奪した加害者意識があるから、それを否定してかかろうとするわけです。たとえば、そういう被害者意識をもつのはつまらん人間だとか、あるいは、奄美の農民は砂糖で苦しめられたが、鹿児島の百姓も櫨で苦しめられた、苦しめられたことはみんなおなじであって、これは封建制の社会における一般的なことである、奄美だけ特別じゃない、といういいかたですね。最初はそれに反駁できないんです。『沖縄・奄美と日本(ヤマト)』

 どうやらこれは近代奄美が直面した声として普遍的なのではないだろうか。
 弓削政己さんも、

学生時代、後輩に「奄美の歴史は鹿児島藩(通称薩摩藩)による砂糖収奪で、大変島民は苦しんだ」と発言したら,弓削さん、大阪出身の学生は、「大坂だって大塩平八郎の乱にみられるように大変だったのよ」と反論された。(「奄美諸島の歴史認識--奄美史は近現代の歴史である--」

 そして、大山さんが反駁できなかったように、弓削さんも「何も言えなかった」という。

それは、百姓・町民、いわば「民衆」と把握される人々の収奪される側面という点では、どこの地域でも存在する「収奪された・差別された」という点での「競い合い」では、科学的な歴史認識・意識を獲得できないことを示していると言えよう。これが宿題であった。

 この問いが普遍的ではないかと思うのは、ぼくも突き当るからだ。そしてぼくの場合、それを言うのは、大山さんと同じく、鹿児島の人である。ここで、この声に突き当たるのには普遍性があるとしても声の発信者が、鹿児島の人かそうではないかには本質的な差がある。ぼくたちが問題を抱え込むのは、それが鹿児島の人から発せられるときだ。鹿児島から「みんなおなじ」と言われるとき、聞き流せない。その理由は単純で、そういう身も蓋もない同一化によって薩摩藩の所業が不問に付されていると感じるからだ。

 ともあれ、大山さんはどう答えるのか、見てみよう。

 それで砂糖と櫨の問題を調べだしたわけですが、その結果、櫨が農業にたいしてもった役割と、砂糖がもった役割とではぜんぜんちがうことがわかったんですよ。
 というのは、この鹿児島の櫨はもともと奄美から移入した琉球ハゼで、本土の伝来の山櫨とくらべて実も大きく生産性もずっと高かったので、薩藩時代のはじめにきた代官がもちかえったものなんです。だから、最初は奄美も櫨を一人一五本ずつ植えることを強制されていた。ところが、砂糖のほうが儲かるので、途中で切。かえさせられているんですね。それも畑にできる田はすべて畑にさせ、稲を追い出してサトウキビを植えさせている。水田としてのこされたのは畑にできないような湿田だけなんです。それにたいし鹿児島では、櫨をやはり強制的に植えさせられるけれども、それはすべて田んぼのアゼに植えるんです。稲作のじゃまにはなるかもしれないけど、それにとってかわるものじゃない。しかるに奄美では主作が稲から砂糖キビに強制的にかえさせられた。鹿児島の櫨と奄美の砂糖では性格が根本的にちがうわけです。

 ようするに、前にもいいましたが、日本ではほとんどが稲作中心であったのに、奄美ではそれが追求できなかったわけです。それが奄美の進歩を遅らせた最大の原因です。というのは水稲作増強のための地盤整備への社会資本の投下もなく、農民のあいだに「土つくり」の体質も育たなかったということです。だから、ユリやフリージアという商品作物も奄美で最初に入ってきたのは北大島ですが、大島の農民はそれを作物体系のなかに採り入れることができなかった。ところが、沖永良部島はそれを組み入れて、いまでは日本のユリとフリージアの相場は沖永良部で決まるほどです。こういう商品作物消化にたいする差はどこからくるかというと、けっきょく砂糖なんです。沖永良部は、安政四年(一八五七)に島津斉彬が砂糖をつくらせるまで、ずっと稲作中心でしたから、農民としてのたくましい消化力というか、近世農民としての体質ができていた。ところが、北三島では砂糖のためにそれができなかったわけです。
 そういう差がだんだんわかってきて、自分が歴史的な広い視野をもてるようになると、鹿児島からきている連中にもいろいろいえるようになり、いい争って自分の怨念を押しつけようという気にならなくなったんです。

 大山さんはどうも、収奪が激しかったことを言っているのではないようだ。「奄美の進歩を遅らせた最大の原因」を作ったことを、反駁の根拠に置いているようだ。では、「進歩」とは何か。それは、稲作であり、奄美は砂糖きびのみにさせられたために進歩できなかったという。なぜ稲作は進歩であり、砂糖きびは進歩ではないのか。それは、砂糖きびは粗放でもできるため、「土つくり」が育たないからである。

 ぼくは徳之島の松山光秀さんを思い出す。松山さんも、砂糖きび畑になり、水田が消えたために「手入れ」の思想が育たなかったと嘆いていた。

 確かにこの「土つくり・手入れ」の技術が育たなかった側面はあり、反駁の中身にもなりうるだろう。でも、大山さんの反駁は、反駁すべき立場の者として納得しにくい。なんというか、言うべきことがまず言われていないのに個別のことが言われているような感触を受ける。

 どうしてそうなるのだろう。大山さんの「進歩」が単線的かつ絶対的で、かつ進歩の根拠が生産活動に限定されてしまっているからだ。大山さんはやはり、下部構造が上部構造を決定するという思考モデルと進歩史観に依存しすぎているのではないだろうか。ぼくの考えでは、これでは薩摩藩の所業の全貌を押さえることはできない。

 「奄美だけ特別じゃない」。これにどう答えることができるだろう。
 ぼくは、いまなら単純に、奄美は植民地化されたのだ、と答えるだろう。

 言葉も文化も異なる勢力に征服され、政治的・経済的に完全に隷属を強いられ、二重の疎外を受けてきた。その点で、「同じ」ではありえない。だいたい、大島に遠島された西郷も、「砂糖」と「櫨」が同じなら、「5倍の商法」と言って驚くことはなかっただろうし、現地の薩摩の役人の横暴さに憤ることもなかっただろう。「同じ」は、これらの固有性を「苦しみ」として抽象化したとき、初めて言えることだ。そうではないだろうか。

 ※『沖縄・奄美と日本(ヤマト)』


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2008/08/12

「掟十五条」と「大島置目之條々」

 琉球を規定した1611年の「掟十五条」と奄美を規定した1623年の「大島置目之條々」を参照のために挙げておきます。 


   掟

一 薩摩御下知之外、唐江誂物可被停止之事、
一 従往古由緒有之人たりといふ共、當時不立御用人知行被遣間敷之事、
一 女房衆江知行被遣間敷之事、
一 私之主不可頼之事、
一 諸寺家多被立置間敷之事、
一 従薩州御判形無之商人不可有許容事、
一 琉球人買取日本江渡間敷之事、
一 年貢其外之公物、此中日本之奉行如置目可被致取納之事、
一 間三司官、就別人可為停止之事、
一 押賣押買可為停止之事、
一 喧嘩口論可令停止之事、
一 町人百姓等二被定置諸役之外、無理非道之儀申懸る人あらは、到薩州鹿児府可被致披露事、
一 従琉球他國江商船l切被遣間敷之事、
一 日本之京判舛之外不可用之事、
一 博突僻□有間敷之事、
    右條ゝ於違犯之輩有之者、速可被虜厳科之者也、仂下知如件、
    慶長十六年辛亥九月十九日
             (伊勢良昌)兵部少輔(花押)
             (比志嶋国貞)紀伊守(花押)
             (町田久幸)勝兵衛尉(花押)
             (樺山久高)槽左衛門尉(花押)




    大島置目之條々

一 島中田島之名寄帳、可被書調事、付、荒地並仕明地、可相記事、
一 おはや、向後相やめらるべき事、付、御扶持米、被下問敷事、
一 ウハ木の興人・目指、可被止事、
一 一郡ニ、興人三人宛、相定候事、
一 一村ニ、掟壹童人相定、壹人工付、切米壹石、可被下候、
一 一郡ニ、筆者壹人ヅツ、相定侯、但、壹人ニ付、切米壹石ヅツ、可被下候、
一 興人壹人ニ付、切米五石被下、知行可召上侯事、
一 興人・筆子並諸役人之敷、御定之外は、停止たるべき事
一 かつら・米・道・布・酒、男女によらず、出間敷こと、
一 興人・筆子、百姓を色々召仕儀、皆為停止事、
一 おつるの方こ、御百姓を、人々内之孝二相成侯儀、曲事侯間、元和元年より以来の者、相かへすべき事、
一 島中におゐて私二人を致成敗儀、堅可為停止、但、殺し候ハで不叶科人は、可得御意事、
一 諸役人、百姓ニ對し、私二検断致儀、可為停止事、
一 島中諸役人、百姓をやとひ、供につれまじき事、
一 かいせん作まじき事、
一 日本衆、其島へ被参候共、致進物間敷事、
一 折目祭、夫々仕米・すくるやふ忙しやうに取納可致事、付、島中之者、百姓等二至迄、草履はくべき事、
一 赤津久・黒つぐ・馬之尾・牛皮、不残御物を以、可買取事、
一 島中麥之内、小麥を、専二可仕事、
一 からを・莚・芭蕉・わた、御物を、買取可的事、
一 牛馬、年々ニしるし、役儀可仕事、
一 諸百姓、可成程焼酎作、可相的事、
一 追立莚之儀、人敷付之上を以、可相納事、
一 納物、不依何色、百姓二請取を可出事、
一 敷年百姓未進事、
一 百姓手前より、役人共色々出物仕供、向後、何色によらず、可為停止候間、田畠之納、相かさむべき事、
一 米、此地仕上せ之時分、二月より船を被遣、三月此方へ着船之事、又四月より六月迄、先は上下可仕事、
一 七月より明ル正月迄は、仕上せ船之上下、可為停止事、
一 興人、御算用可参刻は、主従三人可罷登候、多人敷召列侯儀、可為停止、付、滞在中、飯米可被下事、
一 右御算用ニ付、可罷上刻ハ、興人壹人二付、御船間弐拾石、可被下険、
  右條々、若於相背は、稠敷可有其沙汰事、
   元卸九年癸亥八月廿五日
                備中守印
                宮内輔印
                兵部輔印
                揖津守印
                下野守印

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『沖縄・奄美と日本(ヤマト)』

 20年ほど前、沖縄・奄美・日本の三つ巴のテーマに惹かれて『沖縄・奄美と日本(ヤマト)』に飛びついたのだけれど、ピンと来なくて放っておいてきた。ただ、書名の切実さに変わりはないから、時折、覗き込むのだけれど、読み込み切れないままだった。

『沖縄・奄美と日本(ヤマト)』

谷川健一、大山麟五郎、高良倉吉
1986年、同成社

Photo_4














 どうして響いてこないのだろう。

大山 奄美について藩政期二七〇年を大ざっばにくくれば、元禄初年までは近世的上昇期で生産も高まり人口も増え、また琉球王朝以来の債務奴隷も原則的には禁止され、むしろ部分的には下人からの自立農民化もおこなわれて社会的にも前進している。元禄初年に製糖法が藩の政策で沖縄から導入され水田稲作未熟の段階で領主的商品作物としての砂糖キビ作がしだいに比重をまし、生産面から社会をゆがめていった。同時に幕藩体制の成熟のなかで薩摩が窮乏し、それに応じて身分制が強化されて城下士族と外城士族の身分差ができ、こういう藩の硬直化が奄美対策にも反映して、初期にあった徳川中央縫政の指導性をとりつぐ導体としての役割も失っていった。ただし体制動揺のなかで起こる数次の 「崩れ」が、多数のすぐれた人材を奄美に遠島人として送りこみ、奄美の教育水準を高めた。

 いっぽう鹿児島からくる役人のなかにも、従来の硬直的朱子学だけでなく、室鳩巣学の民主主義的思考と、本居宣長や伴信友の国学の影響を合せもつ人物が登場するようになり、なかには南島に日本古代の祖塾を発見したといって感動する役人さえ出てきた。本田孫九郎の『大島私考』や伊地知季安の『南聴紀考』もそういう流れのなかで書かれ、こういう新しいタイプの学者が当時の奄美の青年を啓発していった。
 しかしそれも束の間、こういう多彩な超薩摩的人材は相つぐ〝崩れ″で粛正されて公的な場からは消え、天保改革以後の専売制が最終的に奄美の社会をゆがめていった。島民の三割割以上がヤソチュという債務奴隷に転落し、砂糖キビは稲作にかわって主作となり、土地改良事業への社会資本の投下は省略され、奄美は近世欠落のまま明治社会に放り出された、ということになると思います。
 こういう経過のなかで歴史的なプラスとマイナスとを厳密に仕分し、今後の奄美の進路をさぐっていくのが郷土史家の役割といえるでしょうね。『沖縄・奄美と日本(ヤマト)』

 大山は出自の周辺に拘泥し、高良は必要以上に薩摩との関係、影響を無かったとしその分、奄美にも無関心に見え、二人をとりもつ谷川は、「プライドは?」、「誇りは?」と、理解や認識よりは感情を喚起する、見ようによっては挑発的問いかけが目立つという、その三者の構図がいらだちのもとだったのかもしれない。

 上の大山の見解は、奄美も沖縄も薩摩に支配されたことのみに目を奪われて近世を見損ねているのではないかという高良の発言に対して応答したものだ。

 ぼくはこの大山の270年総括にうなずくことができない。解きほぐしにくいのだが、うなずけない要点を挙げるとすると、奄美の困難を抽出し切れていないということと、奄美の歴史が薩摩の主要人物の動向によって語られていることから来ているように思える。

 まず、元禄初年に「生産面から社会をゆがめていった」というのは、生産面のみしか見ていない視点がなければ言えない。元禄初年といえば1688年で、侵略から80年近く経っている。この80年近くは「社会的にも前進している」という視点は不思議である。侵略という行為自身が充分にゆがんでいるし、しばらく期間はあったにしても、それは薩摩の支配体制の内実の逡巡の期間であり、それは社会的にみて、初期からゆがんだものであった。たしかにこの270年間は、締め上げるように苛酷さは増す期間だったに違いないが、二重の疎外は初期から構造化されていたのである。

 またなぜ、コンパクトに奄美の270年を総括するなかに、本田孫九郎や伊地知季安という固有名詞が出てくる余地があるのだろう。ここは、遠島人による教育や奄美理解者を過大に評価していると思える。彼らを評価しないというのではない。真っ先に描かれるべき島人の記述ではなく、彼らを選択する視点に、まっすぐでないものを感じるのだ。

 そして、天保改革以降の専売制にきて、ゆがみの巨大化が語られる。しかも、その結論は、「奄美が近世欠落のまま明治社会に放り出された」なのだ。欠けていたのは近世どころか中世だって十分ではないのに、なぜことさら近世をこと挙げするのだろう。この総括からは、島人の困難の中身が伝わってこない。

 大山は、「歴史的なプラスとマイナスとを厳密に仕分し、今後の奄美の進路をさぐっていくのが郷土史家の役割」と言っているけど、ここには、厳密さの前に、中途半端なプラスとマイナスが差し出されていて、解かれるべきものが未決のままにされているように感じる。それが苛立ちを感じる点だと思う。

 こう書いて思い至るのは、大山はもしかしたら、下部構造は上部構造を決定するというモデルを下敷きに、270年を理解しようとしているのではないだろうか。だからこそ、生産面の評価の主たる対象となり、初期80年は前進というすっとぼけた評価が生まれている。しかし、ここからは島人の困難が見えてこない。奄美の苦楽の音色が聞こえてこないのではないだろうか。




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2008/08/11

コミュニケーションの島づくり

 奄美一四市町村の財政力指数をみると、平均〇・一五。最も高い名瀬市でさえ、〇・三一。住用村に至っては〇二〇という状況だ(〇三年度)。国の平均が〇二年度で〇・四一、県平均が〇・二五、沖縄県の平均が〇・二八だから、よくいわれる「三割自治」の下をいく。奄美の自治体がいかに貧しく、交付税や補助金に頼る、国や県におんぶに抱っこの財政運営をしているかが分かる。国、地方合わせた借金が七〇〇兆円を超え、交付税をはじめ地方への配分が減少する中、自治体財政は苦しくなることはあっても好転する要素は見当たらない。特例法の期限が迫るにつれて県の圧力も増してきた。通常なら、「合併」に駆け込みそうなものだが、ここまで「反対」が噴出したのはなぜか。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 「3割自治」と同じ言い方をすれば、

 0.15自治 奄美
 0.41自治 平均
 0.25自治 鹿児島
 0.28自治 沖縄

 これをみても、奄美の自治力がいかに低いか分かるが、それでも「合併」に殺到しなかったのはなぜか、として久岡さんは、「海越え」合併であることを理由のひとつに挙げている。
 

 「一島一町」は住民生活にかかわる多くの部分を町内(島内)で完結させなければならない。ごみ処理施設しかり、空港や製糖工場、病院、特別養護老人ホームしかりである。火葬場もそうだ。「燃えるごみ」を他の島に持っていくことはできないのだから……。二島一町」が他の島と合併するということは、自分たちの島のことを決められなくなるということであり、「合併のメリットが見出せない」と多くの住民が反対した。

 これはその通りだが、「自分たちの島のことを決められなくなるということ」は、もっと本質的に言えば、島はそのひとつで世界であり宇宙であるという世界観があるから、合併は島を島でなくすことにつながるからである。「海越え」合併は、そのことを理解しない地図視点の為政者発想の産物でしかない。喜界島もそうだと思う。

 そういえば名瀬市はもうない。奄美市なんだよなと、時々思い出す。久岡さんの考察を読むと、奄美市もずいぶん乱暴なステップで合併している。あの飛び地合併のさまを見れば、それだけで何か歪みを感じさせるには充分なのだが、奄美市は大丈夫だろうか。気がかりだ。

 明確などジョンを示したところはまだないが、実は与論町の取り組みに注目している。住民投票の結果、「海越え合併」を拒否し、単独で歩むことを決めた町は行革を進める一方、地域再生計画による自立(自律)を目指す。  計画は「タラソテラピー(海洋療法)」 「情報の畠づくり」の二本立て。
 与論には「天然のプール」といわれる豊かなリーフが広がっている。町側は島の持つ海洋、島峡環境を生かして健康と食、有機農法、郷土史、生活習俗を活用して、人的交流の拡大、観光客の増加につなげたいと考えている。
 タラソを推進するためには裏付けとなるデータが欲しい。研究機関を誘致したところ、鹿児島大学が手を上げた。タラソに医学的な裏付けができれば、アトピーやアレルギー、自律神経失調症に悩む全国の人々を島に呼び込むことができる。町側はタラソによって「観光客が一〇%増える」と試算する。〇三年度の入り込みが七万二二二人だったから、七万七〇〇〇人を超えることになる。町は再生計画で休止中の町立診療所の用途変更を申請、認可を受けた。

 ハコモノを造らないことも特徴だ。行政は往々にしてハコモノを優先したがるが、与論の場合、財政状況を考慮して関連施設の整備をやめ、リーフやホテルのプールなどを活用することにした。「今ある施設を生かす。ハコモノを作る気はない」(南政吾町長)「情報の島づくり」は県内離島に先駆けて導入したADSLを生かした情報発信、企業誘致を旦削む。インターネット時代である。情報に格差がなければ畠で仕事ができる。そうなれば与論の自然、気候は魅力だ。実際、IT関係企業が試験的に操業を始めようとしている。こうした発想は「合併しない」ことが引き金になった。
 行革にも触れておきたい。
 単独を決断した南町政がまず手をつけたのが教育委員会。これまで学校教育、社会教育、図書館、給食センターに担当や部門が分かれ、それぞれに課長級を配置していたが、これを統合し、事務局体制にした。次に職員定数の削減。現在の一三一人を将来的には八〇人体制にする方針。収入役も廃止した。
 職員が減る分は住民参画を募る。自立化戦略会議がそれで、観光問題や地域の課題を町民と職員が一緒になってけんけんごうごうの議論を重ねている。「一島一町」ならでは、「住民一人ひとりの顔の見える」小さな町ならではのメリットを生かした新たな地域づくりが始まっているといえよう。

 せっかくわが島に注目してくださっているので、長いけれど引用させてもらった。
 ぼくはのポテンシャルを生かすのは、コミュケーション力だと思う。顔を合わせた後のコミュニケーション力のことではない。それだったら、分け隔てない抱擁力はピカ一だし、ゆきすぎの与論献捧も極度の人見知りが瞬時に親密感を深めるたに編み出したものだ。ここで言いたいのは顔を合わせるまでのコミュニケーションのことだ。ネットを主な舞台とした顔を合わせるまでのコミュニケーション力は、与論のポテンシャルを現実化する最大の武器だと思う。


「奄美市誕生の軌跡-平成大合併の舞台裏-」久岡学
『奄美戦後史]32

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2008/08/10

原告、アマミノクロウサギ

 日本初の奄美「自然の権利」訴訟

 環境ネットワーク奄美は、1995年、鹿児島県知事を相手に奄美「自然の権利」訴訟を起こしている。その際の原告は、なんと、「マミノクロウサギ、オオトラツグミ、アマミヤマシギ、ルリカケス」だった。
 動物たちを原告にしたのは、「長老」のため息まじりのつぶやきだったという。

「カシガレィ イゥンクトウ キカンパ トウリニディン ウッタエラソヤ(こんなにまで言う事を聞かないなら鳥にでも訴えさせようか」と。みんな思わず笑ったが、長老の発言は単なるジョークではなかった。「人間は自然に生かされている」という先人たちの自然観に根ざした奥の深い発言だった。みんな本気で考えた。それでも決断するまでには三年近くの時間がかかった。

 悩む甲斐のある三年間だったと思う。ぼくは、この訴訟はとても奄美らしい、奄美的なやり方だったと思う。原告が「マミノクロウサギ、オオトラツグミ、アマミヤマシギ、ルリカケス」なのは、近代法の何たるかを無視しているが、奄美らしさの何たるかに応えている。それは、ここに、人間と動物とは等価な存在であり、人間は動物とも話ができるということが、奄美の身体に眠る記憶を呼び覚ますのだ。

 訴訟は、裁判所からの動物の背後には人間がいるはずだ、住所氏名を明らかにせよ、との補正命令を受け、「アマミノクロウサギこと00」と訂正して受理された。

 この間、原告団が主張した基本姿勢は原告弁護団団長が「この裁判は国際的な関心を集めている。野生生物とその生息地を確保することについては、法と正義を実現していくべき裁判所も無関心、無関係の立場をとることはできない。本件訴訟は原告、被告、そして裁判所による共同作業にょって、名実ともに裳の自然保護の前進に向けたよりよい方向と結論を探っていく作業である」と述べた。原告団はアマミヤマシギを代弁して「私たちは人間のじゃまをしません。ですから私たちを殺さないでください」、「環境ネットワーク奄美の願いはただ;、すべての生き物たちがにぎわう健康な環境の中で、ヒトと自然が、人間と人間が共に生きる社会の実現です。その中に奄美の個性を位置づけているのです。環境を守る運動はこれからが正念場です。この訴訟の結果いかんにかかわらず歩み続けなくてはなりません」と訴えた。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 判決は「これまでに立法や判例等の考え方に従い、原告らに原告適格を認めることはできない」と、資格がないので却下というものだったが、判決には原告の主張が相当に反映され、当初の期待をはるかに上回るものだったため、上告しなことにしたという。

 ぼくは、この自然の権利訴訟は、奄美の思想のオリジナリティが宿った底力があると思う。この発想ができるということが、奄美の力ではないだろうか。


「復帰後の奄美の変容-『宝の島』・『捨てられた島』が『利権の島』に-」薗博明
『奄美戦後史]31


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方言論争と琉球の妖怪

 沖縄文化研究所の連続講座「沖縄を知る」を偶然サイトで見つけて、行ってきた。

 □中俣均  沖縄方言論争の意味するもの
 □酒井卯作 琉球の妖怪

二つの演題だった。沖縄方言論争は、いまこのテーマを取り上げる意味に関心があり、「琉球の妖怪」は、テーマ自体もさることながら、昨年、「幻の島─琉球の海上信仰」が印象深かったので、いちどお話をお聞きしたいと思ったのだ。

 中俣さんは、方言論争の経緯をたどるなかで、「愛玩県」という記事を、これは現在にも通じるものがあるとして取り上げた。ぼくも久しぶりに読んで思い当たることがあった。

「愛玩県」
近頃来県される民芸家達は、本県の各方面に対し、独特の鋭い観察を下し、我々を啓発して貰うことは洵に感謝にたえない所であるが、うかうかと彼等の観察そのままを無条件で受け容れてしまってはとんでもないことになる。例えば標準語励行運動を笑殺したり、墓地或いは琉装の改善を否定したりするが如き見当違いの判断とも涌さねばならない。‥・
 それでも真面目な見解ならば吾々としても十分耳を傾け、教を受くるに吝かでないが時には無責任な言辞を弄する手合も少なくない。彼等の云う所はいつもこうだ。
「わざわざ遠くまでやって来たのだから奇らしい面白いものを残して貰わないと困る」
 彼等は余りにも県をその好奇心の対象にしてしまっている。好奇心の対象にする位ならまだしもである。もっとひどいのになると観賞用植物若くは愛玩用動物位にしか思っていないものである・・・
吉田嗣延「愛玩県」1940年1月10日 沖縄朝日新聞

 わたしたちはあなた方の愛玩のために存在しているわけではない。

 この言い方は、現在、

 わたしたちは、あなたを癒すために存在しているわけではない。

 という言い方で生きていると思う。たとえば、仲里効は書いていた。

 やっかいなのは、こうしたリゾート化した沖縄像を 沖縄の人たち自身が内面化していくようになったことである。疲れた日本のナショナリズムの幻影を 沖縄人自身が模倣し、演じる、これはもはや喜劇以外のなにものでもない。
 忘れてもらっては困るのである。 癒やしを求められたリゾート沖縄の対極で、高い失業率や自殺率を記録する現実を生きている沖縄の人が、リゾートを享受することは決してない、ということである。九・一一以降、落ち込んだ観光客の穴埋めのため「沖縄の人だってリゾートしたい」という地元誘客をねらったキャンペーンは、痛烈な皮肉になって沖縄自身を笑った。(「地元は癒やされぬ『喜劇』」仲里効)

 「愛玩県」という記事は、同時代に読んだわけではないので、どう受け止めたらいいだろうと考え込んでしまうところがあるが、仲里の文章は同時代の分、すぐに言えることがある。それは、沖縄の人だって沖縄に癒されている面があるということだ。「沖縄の人が、リゾートを享受することは決してない」と仲里は書くけれど、享受することはあると思う。それは、ぼくにしても与論に癒されることがあるし、また、沖縄の人が沖縄の自然に癒される声を、ブログを通じて身近に聞いている。沖縄の人だって享受しているのである。

 そこには、リゾート化した沖縄像を沖縄の人自身が内面化してしまうという側面があるのを、ぼくも知らないわけではない。でも、それはやっかいであると同時に、気分を楽にもさせてくれる。ぼくも、与論がリゾート化されることで、癒す島としてのイメージがすでに共有化されてあるからだ。でもそれ以上に大事なのは、沖縄の人がリゾート化した沖縄像を内面化することがあっても、それに自身の沖縄像がすべて根こそぎ回収されてしまうわけではないということだ。リゾート化した沖縄像を内面化しながらも、失業率や自殺率とまで言わなくても矛盾を感じたり、リゾート像の圏外の沖縄像に気づくこともある。仲里効の文章を、去年、ぼくはそう受け止めたのだが、それは今も変わらない(「沖縄問題」とは何か 1」)。

 仲里の文章を「愛玩県」の記事の現在形として受け止めるなら、「愛玩県」の記事もひとつの判断をすることができそうだ。本土からの視線を「愛玩」のように受け止めてしまうのは、そのとおりである面と沖縄の人に、貧困と非日本人への恐れがあるという面があるからだと思う。貧困と非日本人から脱出したい。そして、「墓地あるいは琉装」として言われているものは「貧困と非日本人」の象徴になっているから、「貧困と非日本人」から脱出するには、「墓地あるいは琉装」を否定しなければならないと考えている。だから本土からの視線は、「愛玩」と映ってしまう。

 でも本当は、「愛玩」という視線に抗うのではなく、「墓地あるいは琉装」と「貧困と非日本人」を等号とみなしてしまう観方に抗わなければならないのではないだろうか。これは現在だから言える呑気さを含んでいるだろう。でも、いまだから言えることだから、いま言うのである。「愛玩県」という観点が現在も続いているのだから、なおさらだ。

◇◆◇

 「幻の島」を読んだとき、人柄が彷彿としてきたが、実際の酒井さんもその通りの方だった。ノーネクタイのシャツでベルトには手ぬぐい。しかもその手ぬぐいは雪女のデザインであり、演題の「妖怪」のテーマに重ねたもの。マチとひも付きの封筒から取り出した書類は、チラシの裏側の白紙に書き込んだものだった。年配の方に、講義室のような場所で教えてもらうのは、久しぶりで気持ちよかった。最後の質問で、ちょっと抽象的な内容だったりすると、「最近耳が遠くて、難しい質問は聞こえないのです」という切り返しも粋だった。齢を重ね、こんな飄々とした雰囲気が出せるのはいいなと思う。

 天狗の考察は面白かった。天狗について、柳田國男は、山人への怖れに由来するとし、折口信夫は、星の流れるさまに由来を求めるけれど、自分はそうではないのではないかと思う。与路島(与論ではないですよ、と断っていたのがよかった)にはこんな話がある。年老いて病に伏せっていた母がある夜、突然いなくなった。便所を覗いてもどこを探してもいない。翌日、島中を探しまわったら、ガジュマルの木の上にいた。自分でも何でこんなところにいるのかわからない、と言った。また、加計呂麻島では宿の主人に、昔、ここから見える桑の木の上をノロ神さまが飛んでいるのを見たことがある、という話を何度もしてくれた。これらの話を聞いて思うに、天狗は、山人や星ではなく、突然発狂して山に行ってしまったり木に登ったりした女性への怖れが元になっているのではないだろうか。こんな話なのだ。

 当たっているかどうかということもあるけれど、考える順番が素直で自然で確かで、いいなあと思った。

 酒井さんは、奄美のケンムンと沖縄のキジムナーを自然に横断しながら話を進める。その視線の流れが、ぼくなどにはとても嬉しい。たとえば、「標準語励行運動」なども、沖縄の問題として語られる。奄美に出自を持つぼくは、ここで奄美を含んだこととして語られないのはいつものことだから、話自体に真剣に入り込むことはできるのだけれど、やっぱり疲れが残る。というより、いつもは気づきもしないが、酒井さんの話は楽に聞けるのを感じて、疲れに気づく、そんな順番だった。

 昨日は、連続講座の最終日ということで、懇親会もあり、沖縄文化研究所に縁のある方々ともお話させてもらった。楽しかった。




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2008/08/09

護岸堤とゴルフ場

 薗さんは、奄美の主だった住民運動を挙げている。

用安(笠利町)の消波ブロック設置問題 1989

・護岸堤が張り巡らされてから後の1960年代、リーフ内の離岸堤、消波ブロックの建設が目立つようになる。
・用安の消波ブロック反対は、奄美大島の初の反対運動。

ヒン浜(大和村)の護岸堤問題 1990
徳之島(花徳の里久浜)護岸とモクマオ植樹 1990
呑之浦の遊歩道・桟橋建設問題 1990
・加計呂麻島呑之浦の島尾敏雄文学碑と震洋艇格納壕を結ぶ遊歩道計画
・「原風景」を残すことを根拠に反対。現在、遊歩道は縮小して建設。おおむね以前の風景は残された。

 これはぼくも訪れたことがあるので、よく分かる。

市理原(龍郷町)ゴルフ場建設反対運動 1990
市埼(住用村)ゴルフ建設反対運動 1992
 「自然でメシは食えない」という声。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 護岸堤、消波ブロック、ゴルフ場、反対運動の場所はそれぞれ違うが、どれにしても、自分の島で問題になった場所や出来てしまった場所を思い出すことができる。似たりよったりなことを一斉に行ったことがよく分かる。

 ちなみに与論にもゴルフ場がある。それを聞いたときには、与論に?ゴルフ場所?どこに?何のために?不思議で仕方なかった。


「復帰後の奄美の変容-『宝の島』・『捨てられた島』が『利権の島』に-」薗博明
『奄美戦後史]30


 

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2008/08/08

大宅壮一の大島来島

日本に復帰した当時(一九五三年十二月)、奄美はたいへん貧しかった。住民の生活はエンゲル係数八二・七%(当時の日本は六一・五%)が示すとおり「今や窮迫の極限に一日も猶予を許さない状況」(奄美大島即時完全復帰嘆願書、五三年六月)だった。ソテツから採れるでんぷんで粥をつくって飢えをしのいだ。日本復帰直後(一九五四年一月)来島した大宅壮一は「復帰がもう一年おくれたならば、島民の大半は栄養失調で倒れないまでも、肉体的にも精神的にもまた産業面でも、救いがたいまでに荒廃したであろう」と書いた。青年男女の多くは職を求めて沖縄に流れアメリカ軍基地で働き、日本(本土)人の三分の一の賃金、労働三法の適用を受けない劣悪な労働条件下で苦しんだ。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 「復帰がもう一年おくれたならば、島民の大半は栄養失調で倒れないまでも、肉体的にも精神的にもまた産業面でも、救いがたいまでに荒廃したであろう」という大宅の評価を見ると、経済的困窮を脱するためにしゃにむに復帰を望んだ奄美の悲鳴が聞こえてくるようだ。ぼくは、「日本人」というアイデンティティの渇望の側面を強調するきらいがあるけれど、困窮という側面は決して軽く見ることはできない。

 私的なことだけれど、ぼくはもうひとつ驚くことがあった。ぼくの名前は、大宅壮一から採ったものだ。そう、父から聞いていた。大宅壮一が好きだから、と。しかし、とはいっても本好きな父の書棚に大宅壮一の著作が並んでいるわけでもなく、その結果ではないけれど、ぼく自身も大宅の著作を読んだ経験がない。「一億総白痴化」の造語を知っている程度だ。父は大宅がどう好きだったのだろう。それは小さな小さな謎だった。

 しかし、薗さんの文章を読み、ひょっとしたらこれかなと思った。大宅が来島したとき、父は高校生として名瀬にいた。父は、大宅の来島と大島評の言葉を印象深く受け止めたのではないだろうか。

 ぼくには思わぬ収穫で、この引用をしてくれた薗さんに感謝したい気持ちだ。

「復帰後の奄美の変容-『宝の島』・『捨てられた島』が『利権の島』に-」薗博明
『奄美戦後史』28

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2008/08/07

グーグル・アースは世界視線のみに

 人は生きていれば二度と行かない場所や会わない人ができる。いままでそれは、その場所に行かないことで守ることができた。ところが、グーグル・アースを使うと、その場所にいながらにして行けてしまう。以前なら、行くには労力も時間もかかるからわざわざ行かないという面もあったのに、自分は動かずともまるでコックリさんみたいに、指先だけで行けてしまう。これは、いままでには考える必要もなかった倫理の課題なんじゃないか。グーグル・アースが登場したとき、そんなことを思った。

 でも、行けるといってもそれは、上空の遠点から地上に垂直に降りる世界視線にとどまる。そして世界視線を持ったことのほうが意味は大きかった。グーグル・アースの世界視線は疑似的な画像だが、これをもしリアル・タイムにぼくたちが持つことができて、北朝鮮の核施設の動きやチベットの市街地の様子などを観察することができるなら、それは弾圧や戦争の抑止力になるだろうからである。グーグル・アースの登場は、そんなビジョンを描かせてくれるインパクトがあった。

 ところが今回のストリート・ビューの機能は、世界視線だけでなく、ぼくたちの日常的な視線として地面に平行に飛び交う普遍視線を取り込んでしまった。だがこれは余計ではないだろうか。本来、普遍視線は、世界視線からは遮断され世界視線の彼岸のなかで生きる視線だ。またそれだから普遍視線が生きられる。ストリート・ビューの機能は、個人の意思にかかわりなく、プライバシーが公開されるという側面を持ってしまっている。グーグル・アースが世界視線のみにとどまるのであれば、それを使ってどこかへ行く行かないは個人の倫理にとどまったけれど、普遍視線まで内包してしまっては、内面の倫理を飛び越してモラル的な課題を呼んでしまう。

 これはグーグル・アースの逸脱ではないだろうか。グーグル・アースは世界視線にとどまるべきではないだろうか。

 ※「世界視線」「普遍視線」は、吉本隆明の定義によるもの。


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奄振事業の問題点を明らかにし撤回させた最初のとりくみ-百合ケ浜

 薗さんは、奄振に目を凝らす。しかも、奄振の弊害のほうに。

 日本復帰翌年一九五四年六月)、「奄美群島復興特別措置法」(五年単位の時限立法)が制定され国の補助事業が始まった。群島民は「急速な復興」、「産業・生活基盤の整備」、「民政の安定」を目的とした公共事業を、国策として当然のことながらこれを歓迎した。社会資本の整備から放置された歴史を度々経験している群島民は、「産業、生活基盤の整備」に大きな期待をかけ、「本土なみ」、「格差是正」の謳い文句にそれぞれの希望を託した。以後、特別措置法は名称を変え延長をくりかえして半世紀を過ぎた今も続いている(総称して「奄振」と呼ぶ)。二〇〇三年度までの五〇年間の実績は、事業費一兆八三〇〇億円。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 奄振は、「本土なみ」、「格差是正」を謳い文句に掲げ、奄美の島人の希望を託されてきた。しかし、

 奄振事業の弊害がとりわけ目立つようになったのは振興開発事業前期(一九七四~七八年)からである。予算が前期の三・五倍に増え(二八二億→九九三億円)事業は大型化した。基盤整備は建前になり〝土木振興事業″と椰輸されるような事業に変質していった。地場産業や住民の生活に結びつかない無駄な工事、過剰な事業が増え、「こんなはずではなかった」と疑問の声があがるようになった。新聞紙上では「できたのは箱ものばかり」、「コンクリートづけにされた島」という表現がたびたび載るようになった。

 皮肉なことだが、奄美のために行うはずの奄振であるにも関わらず、奄振から島を守ることをしなければならなくなったのだ。その最初に、薗さんは与論の「百合が浜」を挙げている。

百合ケ浜港(与論町)建設問題

 一九八六(昭和六一)年九月、百合ケ浜に漁船やグラスボート、遊漁船の船だまりを五力年計画で建設する計画が持ち上がった(国庫補助一〇分の九で船航路を渡探し、防波堤、護岸、船揚げ場を建設する計画)。
 これを知った住民は一九八七年一月、「百合ケ浜の自然を守る会」を結成し、「防波堤ができたら潮流が変わり、百合ケ浜が消えるおそれがある」と町議会に計画撤廃を求めた(八八年三月)が不採択となり、町負担分を計上した当初予算が可決された。町当局は「地区民の要望」で計画したとし、東京の(株)エコーは「百合ケ浜の港建設に伴う流況及び地形変化予測調査」の結果を「百合ケ浜の存続に及ぼす影響はないものといえる」と報告、初年度分の入札を実施した。
 百合ケ浜の自然を守る会は、「住民説明の前に予算化しており既成事実の押しつけ」、「調査は不十分で納得できない」と、実力阻止も辞さない決意で行動した。町長は一九九〇(平成二)年五月、「百合ケ浜への影響は絶対にないとは言えない」と、船だまり建設を断念する意向を表明した。「百合ケ浜の自然を守る会」は、奄振事業推進の問題点として、①はじめに事業計画があって環境への配慮がない、②行政主導ですすめられ地域住民の声が反映されていない、③環境アセスに問題がある、④百合ケ浜の自然(景観) は与論の貴重な財産であることを指摘し、「半端な気持ちではできなかった。私財をなげうって闘う覚悟だった」 (喜山康三)たたかいは、奄振事業の問題点を明らかにし撤回させた最初のとりくみと言えるだろう。

 百合が浜は与論のなかの与論ともいうべき場所だから、百合が浜が百合が浜でなくなれば、与論が与論でなくなる。つまりアイデンティティにかかわる、これはそういう問題だったと思う。与論は奄美のなかでいちはやく観光化された場所だっただけに「最初のとりくみ」になったのかもしれない。開発というテーマは奄美大島からスタートしているとすれば、その逆のむやみに開発しないというテーマは、南端の、いつもは筆頭にくることはない与論島からスタートしているのが面白い。北進せよ、だ。


「復帰後の奄美の変容-『宝の島』・『捨てられた島』が『利権の島』に-」薗博明
『奄美戦後史』29

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2008/08/06

喜界島の「象のオリ」

 2006年に運用が開始された喜界島の「象のオリ」は、そもそも1985年に計画が公表されたものだが、そこには21年間にわたる反対運動があった。

喜界島「象のオリ」運用へ 防衛庁の通信傍受施設

 通称、「象のオリ」とは何のことなのか。

 そもそもOTHはオーバー・ザ・ホライズンの略語で、電離層に反射する短波を使い、電離層を経て目標に当たり、再び電離層を経て返ってくる電波をとらえるシステムで、約三〇〇〇キロという広い地域を監視することができる最新鋭のレーダー施設である。防衛庁は中期防衛力整備計画の目玉の一つとして同レーダー基地の建設を挙げ、一九八六年夏から米軍と協力して候補地の検討を急いでいた。候補地の条件としては、①監視域②用地取得の可能性③造成工事の難易度③補給⑤電波障害-などについて評価を行った。候補地としては、硫黄島、喜界畠、沖縄・伊江畠をそれぞれ中心とした三つのグループが検討された。
 その中で、喜界島と馬毛島が有力候補地として予定された。しかも残念ながら候補地としての条件が十分に整っていたのである。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 「象のオリ」は軍事施設である。そこで、反対運動が起こるが、それには喜界島ならではの思いがあった。

喜界島は、奄美で一番最初に飛行場が出来るなど、第二次世界大戦のときは軍事基地化しており、大変な戦災を受けたのである。巨大円形アンテナ「象のオリ」は、核戦争を想定した米軍と自衛隊の最新鋭の軍事施設である。戦争になったら、喜界島は真っ先に攻撃される危険がある。

 喜界島は、大戦時に軍事基地化しており、そのため米軍の攻撃を受けている。そんな歴史が、「象のオリ」反対に切実さを加えているのだ。

 「象のオリ」反対運動に立った丸山邦明さんが、「どうしても奄美の社会運動の歴史を学ぶ必要を痛感させられた」として歴史を紐解いている。それは、「ヤンチュ解放運動」、「日本復帰運動」、「石油基地反対運動」、「使用済核燃料再処理工場反対運動」と並んでいるが、ぼくは奄美の歴史から指針を見出そうとする姿勢がとても大切なことに思えた。自らの歴史を失ってきた奄美であれば、この態度はとりわけ重要なものだと思える。

 それにしても、社会運動の系譜を追ってゆくと、いかにも辺境的課題が押し寄せているのがよく分かる。そして、軍事拠点としての役割として目をつけられる、古代から変わらない喜界島の宿命も。

 ぼくたちは、上空から「象のオリ」を監視しよう。喜界島を軍事拠点化する地図の視線を無意味化してくために。


大きな地図で見る


「軍事基地問題と奄美」丸山邦明
『奄美戦後史』27

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2008/08/05

『揺れる奄美、その光と陰』

 稲野慎さんの『揺れる奄美、その光と陰』は、奄美の現在形を追体験できる。

『揺れる奄美、その光と陰』
Photo











 たとえばこんな記事。

 白いチョウが舞い降りてきた。「おばあちゃんかもしれない」
 昨年9月、長崎大4年の福山愛里さん(21)が長崎市の自宅近くを歩いていると、羽を揺らして寄り添ってきた。与論島(鹿児島県与論町)で祖母の龍千代さんが92歳で亡くなって約3カ月。祖母の魂が宿っているように感じた。
     *
 「おばあちゃんが危ない」。昨年5月、連絡を受けた福山さんは島に向かった。千代さんの次女の母親も北九州市から駆けつけていた。
 祖母は親類に囲まれながらベッドに寝ている。  「ぱーぱ(おばあちゃん)」。呼びかけても反応がない。顔は青白く、腹部に悪性の腫瘍ができていた。幼いころから島を訪れるたびに抱きしめてくれた祖母を見ながら、不安と恐れで胸がしめつけられた。死はドラマで見るイメージしか知らなかった。
    *
 時折、祖母は目を開けた。弱々しく「あんた、大きくなったねえ」。福山さんが笑顔でうなずくと、また目を閉じた。
 4日目の夜、祖母は「『芋の時代』を聞きたい」とつぶやいた。食糧難の時代の母子を措いた沖縄民謡。1人が歌い出した。
 ♪わったー まんゆー ちがきにそーち しんめいなびに いもにてそーち (お母さんが身支度をして大きい鍋で芋を煮て、子どもたちの朝ご飯をつくってくれたよ)……
 祖母は突然、カッと目を見開いた。寝たままで声を出して手踊りを始めた。付き添う人たちが手をたたき、囲んで踊り始めた。20人ほどの輪は庭まであふれた。
 ♪サイサイサイ サイムチク (酒だ、酒だ、酒持ってこい)……
 ほかの歌声も響き、真夜中まで2時間、泣きながら踊り続けた。福山さんは涙を流しながら思った。「最後の命の炎を燃やすおばあちゃんに、みんなが魂をぶつけている」
 翌日から祖母は意識がもうろうとしてきた。手を握られ、声をかけられると「幸せだ。ありがとう、ありがとう」と何度も声を振り絞って言った。
 福山さんが駆けつけてから7日後の5月17日、静かに息をひきとった。

 ぼくの母と叔母も、家に訪れる鳥を見て、祖父が来たと言ったりしている。そういう感覚はいいなと思う。ここに挙げられているエピソードも、最高にいい。JRで読んでいて涙があふれてきて困った。まあ、「サイサイサイ サイムチク」の曲は実はとても優しく、訳は女性言葉(死後?)が合うので、「酒だ、酒だ、酒持ってこい」という勇ましい訳には、思わず笑ってしまうのだけれど。

 島の在宅死を見守るように寄り添う医師、古川さんはこう話す。

 -在宅死を通して何が見えてきますか
 人間が死んでいくときに人に感動を与えるというのは、明らかに人間のスピリチュアルな部分に刺激を与え、シグナルを送っているわけだから、死を乗り越えているわけですよ。死ということを通して(看取る人は)学んでいるわけですよ。その人が人間として生きるから(死にゆく人は)メッセージを送っているわけですよ。人が死ぬときにありがとう、と感謝して死ぬからスピリチュアルな部分にメッセージを送るわけだから、(看取る人の)人生に影響を与えるわけですよ。メッセージを送られた人がお年寄りみたときに、どういう気持ちで接するかというと、感謝の気持ちですよ。これが一番大事だと思うんですよ。そういう教育ができるわけですよ。絶対人に優しいですよ。死というものを通じて死を超えて次の世代に教えているわけですよ。在宅死の価値というのはこのあたりが大きいですよ。

 スピリチュアルという言葉に躓かなければ、与論の在宅死の核心に触れている。死に行く者が、ありがとうと言うことで、看取る側の人生に影響を与える。看取る側にも感謝が伝わる。優しさが死を通じて伝わってゆく。

 永良部ではこんなエピソード。

 春日さんは3人の子どもを連れて、知名町の実家に帰った。
 畑でのんびりと花の世話をしているお年寄り、笑いながら道端で1時間も立ち話をする人々、「子どもにでも食べさせて」と自家製の野莱を持ってくる人たち……。以前は何とも思わなかった島の日常に心がなごんだ。周りの人の柔らかい表情がうれしかった。
 夜、砂浜でサンゴが砕けた粒を布団がわりに寝転がってみた。満天の星空遠の音が心地いい。ゆったりと時が流れ、体の内側から解放されていく感覚があった。
 「母性愛があふれてくるのを感じるんです。心が繚んだからでしょうか。穴のあいた服を子どもに着せても気にならないですしね」
 今は子どもたちが家で騒いだりしても、ぎゅっと抱きしめるだけだ。
 畠では保育士として働いている。休みには、島唄の名手のジャージャー(おじいさん)を訪ね、唄を習う。唄も自分を支える大切なものとなってきたcこんな詞が気に入っているという。
 ♪石ぬ上に花構いてい/朝に夕に水けーてい/うりが花咲きば/わぁ子にくりら(サンゴの石垣の上に花を植えて、朝夕水をかけ、それが花咲けば、我が子にあげよう)

 これだって、読むだけで充分にいい。稲野さんは、「人間力」を問いながら書くのけれど、確かにある意味では、奄美は人間力回復島なのかもしれない。

◇◆◇

 稲野さんは、「奄美史のダイナミズム」として、奄美の歴史にも接近している。ここでも、高梨さんらの考古学の成果を引用して、喜界島、奄美大島北部の活発な動きを望見しており、かつ、漏らさず要点を押さえるように辿っていて、奄美の歴史が更新されているようで気持ちよく読めた。

 奄美群島という呼び名から、共通する歴史・文化をもったひとまとまりの島々といった印象を受けるかもしれないが、実は、島ごとに随分、歴史や文化が異なる多様性がある。ただ、大きく分けるとするならば、奄美群島は、奄美大島、喜界島、徳之島の群島北部と、沖永良部、与論島の群島南部に二分できるだろう。北部と南部を分けるのは琉球の影響の強さの有無だ。南部は明らかに琉球色が強い。それは琉球に近いという地理的な影響と、琉球王朝の時代に南部の2島は早くから統治下に置かれたことが関係している。
 一方、これまで見てきたように群島北部は古代、中世は、本土の勢力範囲が及ぶ境界位置にあったとも推察され、歴史的にみて本土の影響が残ることが否定できない。
 こうした歴史的につくられた奄美群島南都と北部の境界は、そのまま文化の境界として現代にも引き継がれているようだ。音階や踊りに違いが見られるのだ。
 音階については、この境界を境に「島唄」 の音階が突然、変わる。群島北部の島唄は本土の民謡と同じ「ドレミソラド」 の律音階が主だが、南部は沖縄民謡と同じ「ドミファソシド」の琉球音階になる。ドミファソシドを適当にひいてみると、明るめの琉球的な雰囲気が醸し出される。音階が違うと曲調も変わるから、北部と南部の島唄は雰囲気が随分違う(ただ、徳之島の南部には琉球音階が残っているという菅開いたことがある)。徳之島と沖永良部島の間はわずか響。このお互いの島が見えるほどの短い間に音階の境界があるから不思議だ。

 ぼくも、この音階の境界には思わず立ち止まってしまう。端的にいえばぼくもカチャーシーには血が騒ぐが、六調ではそうはならない。それは理屈ではないからどうしようもない。この境界を越えるには、元ちとせの歌唱力のような別の理屈ではない力がいる。でも元ちとせの越境力は、南奄美と北奄美の境界だけででなく、大和との境界も踏み越えてゆくので問題が無意味化されてしまう。でも、思いなおせば、北奄美も南奄美も沖縄も島唄が盛んであるには違いない。鹿児島では、うるさいと蔑視の対象になるほどに盛んだ。この基底はやはり共通しているのだと思う。

 愛加郡とは仲むつまじかったように見えたにもかかわらず、彼女との緑を完全に絶った西郷。黒糖の搾取に憤慨していたにもかかわらず事実上、黒糖収奪の継続を是認した西郷。奄美で見せた正義感が強く、器の大きさを感じさせる西郷像と無慈悲で冷酷にも見える西郷像。相反するように見えるこの二つの人物像をどう切り結べばいいのか。

 まだ付け加えることができる。敬天愛人を謳うその同じ人物が征韓論を唱えるだろうか、と。これは西郷的謎とでもいえばいいだろうか。
 けれどぼくは、これは敬天愛人に比重をかけて評価する場合に征韓論を虚偽と言いたがるように、どちらかに傾斜をかけて受け止めることは要らないと思う。農耕社会型の政治は、天皇がそうであったように絶対君主的な存在であることと、そのもとの共同体が、親和にあふれた理想的な人間関係を持つこととは矛盾しない。薩摩の場合、武士として政治的共同性の首長存在と農耕民の距離は圧倒的に近かった。あるいはそれは、政治的共同体の内部で、専制的なものと親和的なものとが共存しているのかもしれなかった。西郷は、それを一身に体現した存在だったのだと思う。だから、奄美で黒糖収奪を行う役人に憤ることと、大島商社の設立に寄与し黒糖収奪の延命を図ることとは矛盾しない。より身近な者に弱いのである。田中角栄だって、地元の橋づくりは真っ先に行っている。

 政府の地方制度調査会は06年2月末、道州制について小泉首相に三つの再編案を提出した。いずれの案でも沖縄は九州とは別に単独州とされた。
 与論町総務課の竹沢敏明係長は「役場の飲み会では道州制がよく話題にのぼるんです。要するに、将来、鹿児島を含む九州に組み込まれるのか、沖縄と一緒になるのかという話です」。
 奄美群島の人々には微妙な感情がある。北部ほど沖縄への親近感は薄く、鹿児島本土との関係が深まるが、同時に抵抗感も強まる。奄美大島や徳之島では薩摩藩時代にサトウキビ栽培で搾取された記憶が引き継がれているからだ。その抵抗感から、道州制をきっかけに沖縄と一緒になることを望む人もいる。
    *
 奄美大島で20年間暮らした作家、島尾敏雄(1917~86)は奄美群島から沖縄、八重山諸島までの弧状に連なる島々を「琉球弧」と呼んだ。そして「いろいろな地方のなかでもことに強く独自性をもった地方」と位置づけてみせた。
 道州制の議論を機に、琉球弧のイメージが人々の間に浮かび上がってくるのだろうか。与論島で島の将来に向けて発言を続ける電器店経営、喜山康三さん(56)は言った。「当然きっかけになるでしょう。遠い晋から奄美・沖縄は海を舞台に交流し、中国・韓国とも付き合ってきました。(沖縄との)県境という線は人為的に海にひかれているだけですから」

 この本でいちばん教えてもらったのはこのニュアンスだ。つまり、

北部ほど沖縄への親近感は薄く、鹿児島本土との関係が深まるが、同時に抵抗感も強まる。

 ということ。
 ぼくは、琉球意識は南から北へ低減し、大和意識は北から南へと低減するとみなし、琉球と大和の二重意識はその加算であらわされると考えているけれど、この大和意識は同時に薩摩への抵抗感とパラレルであるという視点は、はっとさせられてた。たしかにそうかもしれないと思う。 

 (稲野)方言というのは生活そのものですし、地域の歴史そのものです。そして、その人そのものですね。言葉はまず口語から発するわけですから。これからの日本のヒントをあえて探すとすればやっぱり方言も含めてそういうのが残っている地方だと思うんですよね。もし救いがあるとすれば地方なんでしょうね、おそらく。
 (石牟礼)あなた奄美に行かれてよかったですね。
 (稲野)そうですね。奄美にいっていろいろと気づかされるんですね。方言のすばらしさも改めて実感しましたね。私が好きなのは「会う」という方言ですね。奄美ではウガムと言います。「拝む」という意味であなたにあったことをカミに拝みたいです、それくらいありがたいことです、という意味なんです。
 (石牟礼)豊かですね。あなたにあったのは神様のおかげで拝みたいって。なんて美しい言葉でしょうね。人間を一番大切にしてくれる言葉ですね。

 この本の最後、水俣市に転勤して、石牟礼道子さんを尋ねたインタビューもいい。大島でも「ウガム」という言い方をするのかというのは嬉しい発見だし、何より、「あなた奄美に行かれてよかったですね」という石牟礼さんの切り返しが素敵だ。

 この本は、「アマシンと縁を切りましょう」という薗さんの、奄美内部からのものだけに重みある声も入っている。繰り返せば、奄美の現在形を知るには、とてもいいガイドだ。

追記
 この本は、与論島、永良部と、南から北へと渡っていくようにエピソードが紹介されている。稲野さんは優しい方だと思った。


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2008/08/04

「奄美を語る会」

 和(にぎ)眞一郎さんら奄美出身者たちが鹿児島で「奄美を語る会」を発足させて活動を開始した頃とすれ違うようにぼくは鹿児島を離れている。鹿児島にいてその存在を知っていたら足を運びたかった。81年にスタートして89年までの9年回に、48回も数を数えていて、精力的に開催されているのが分かる。テーマも、「民謡にみる奄美五島の個性について」、「奄美の人の生き方~日本復帰運動を中心に」など、真摯で本格的なものが多い。参加できなかったのは残念だが、こうした活動が鹿児島にあったというのは嬉しくなる。

 古代からの、特に近世以降の奄美の歴史・経済・文化のあらゆる面で語られるとき、奄美が常に犠牲を強いられてきたことが明らかにされてきた。確かに奄美は鹿児島(=薩摩)の社会から、多くは政治的・制荒に戦前まで連綿として差別され続けた歴史を有する。戦後になってもなお、鹿児島の社会の中で奄美に対する差別蓋は消えていなかった。鹿児島で生活する者たちが「奄美出身」と胸を張って生きる環境ではなかったのだろう。その出自を明かすのは身体的な特徴に加えて、奄美独特の一字姓であり、シマの裏やシマの生活習慣、文化そのものであった。このような鹿児島の社会環境の中で奄美の様々な個性を表出ることは困難であったし、シマの出身であることを明かすのはかなり勇気のいることであった。シマのリーダーといわれる人によって、主に教育の場でシマグチヤシマウタをはじめシマの風俗文化は恥ずべきものであり、シマの近代化の障害になるものとして、特に言葉は徹底して矯正されてきた過去の歴史もある。

 和は先の文章でこのことに関わって次のようなことも記している。
 「奄美の人間が、県庁大島支庁のお役人の鹿児島弁をまねると、私は不快だった。『方言を使うな』としかる鹿児島弁の教師に、島の高校生も反発するらしかった。
 「五年前、島を離れて鹿児島市の常盤町に移り住むようになったとき、家主の老夫婦のことばに、ところどころわからないながら、ことばのあたたかさ・美しきを感じた。が、かたくなに私は覚えようとはしなかった。        

 生徒たちとの響き合い、父母とのつながりを、私の共通語が微妙に妨げるのを感じた。地域のことばと人の結びつきとの関係を、頭のうわべで理解はするし、また奄美のことばをすぐ覚える人に親しみを感ずることもあるくせに、鹿児島弁を、私は使おうとはしない。
 薩藩圧政・収奪=奄美の黒砂糖地獄・疲弊という図式化もさることながら、今を生きている島の人の心のひだや感性、まだ生活の中に生きているウタやオドリなどの文化、いいかげんとも見えるおおらかな生き方、等々。これらが私の中ではどうなっているのか、私は自分を見つめる力などはとても持ててはいないのだが、ときほぐしてみたいなどと思うこともある。私の中の若気は、私こそだれにも負けない島の人、島のすべてを背負いたいなどと私を高ぶらせることさえあったのだ」『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 ぼくも、鹿児島弁は「かたくなに」「覚えようとはしなかった」。アクセントすら拒否した。ぼくも、教師や友人たちとのつながりを「私の共通語が微妙に妨げるのを感じた」こともある。それはぼくが偏屈だからと思っているが、同じような人がいたのは嬉しいし親しみが湧く。

 ぼくも、「自分を見つめる力などはとても持ててはいない」のだけれど、それでも、なぜ鹿児島弁をアクセントもろとも拒否したのか内省したことはある。少年の時分でも、奄美の被った歴史について、おぼろげには知っているしし、鹿児島にいると、それが厚い雲となっていつでも空を覆っていると感じたから、それに抗いたかったのだと思う。奄美への差別に対して、それを行使する言葉を拒否するという気持ちだ。しかし、それがすべてかといえば、威勢がよ過ぎる気が自分でもする。

 たとえば、与論でも島の言葉が公然と使われ、それが自然なことだとしたら、かたくなにはならなかったのではないか。自分には禁止されていたものを、ぼくからみれば、与論の言葉と同じようにというか、輪をかけてどぎつく聞こえぼくの耳に意味も不明な鹿児島弁を、地元の少年たちは平気で使い、しかもとがめられない。ぼくはそれに驚いた。

 ぼくにとって、親しみのある言葉は覚えてはいけなかったのに、なぜこの地ではそれが許されるのか。しかも共通語との距離感は相当にあるように思えるのに。ぼくは、自分たちにはそれは許されていなかったことへのやりきれなさから、鹿児島弁を拒否したのだと思う。与論の言葉は自然に身につけていける環境だったなら、鹿児島弁への拒否感も生まれなかったのではないかと思えるのだ。

 話を戻そう。風の便りでは、「奄美を語る会」が再開されるという。いつか話を聞きに駆けつけたいものだ。


「『奄美を語る会』が語ってきたもの-『語る会』から見た鹿児島と奄美の社会-」仙田隆宜
『奄美戦後史』25



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2008/08/03

奄振はアキレスと亀

 桑原季雄さんの整理を参照して、あの、奄振を追ってみる。

■1954年 奄美群島復興特別措置法

目的
「復帰に伴い、同地域の特殊事情にかんがみ、その急速な復興を図る七ともに住民の生活の安定に資するために、特別措置としての総合的な復興計画を策定し、及びこれに基づく事業を実施すること」

目標
「奄美群島における住民の生活水準を概ね戦前(昭和九年)の本土並に引き上げる」ために、必要な産業、文化の復興と「公共施設の整備拡充」を図ること。

■1958年 10カ年計画

「群島経済の自立化を促進する」

郡民一人当たりの所得も、一九六三(昭和三八)年度は八万八〇〇〇円(国一八万五〇〇〇円、県一一万一〇〇〇円、対国四七・五%、対県七九二一%)となり、目標とされた戦前の本土並みの生活水準への引き上げもほぼ達成されたが、全国平均との比較でみれば、その半分にも満たない状況であった。

■1964年

「奄美群島振興特別措置法」(「振興法」)

目標
本土の著しい経済成長と群島の特殊事情を考慮して、復興事業を補完整備するとともに、主要産某の育成振興を重点として「群島の経済的自立を促進」し、計画終了年次における「群島住民の生活水準を、概ね県本土の水準に近づける」こと。

群島の農業経済に主要な位置を占める糖業の振興を最も票的な事業として、品種改良、耕種改善、大型機械の導入等が強力に実施されたほか、大型分露工場の誘致増設が促進された。
所得水準の格差は是正されつつあったものの、実質的生活水準においては県本土との間に著しい格差(昭和四三年度一九万二〇〇〇円(国四二万三〇〇〇円、県二三万円、対国四五・五%、対県八三・五%)が存在していた。

■1969年 改定10カ年計画

特に奄美群島の亜熱帯的特性を最大限に活用して、主要産業の育成振興を図るため、「産業基盤の整備」を霊的に推進し、「群島経済の自立的発展」のため必警金融対策の強化拡大を図り、地域社会の変動に即応しっつ、長期的な展望の下に社会基盤施設の効率的な整備を行うこととされた。

近年の観光ブームにより増大しっつあった観光客に対応するため、受け入れ体制の整備として、貨客船の大型化や貨客輸送のスピード化、港湾整備も図られた。

しかし、県本土との諸格差を是正するには至らなかった(昭和四八年度四六万七〇〇〇円〔国八六万八〇〇〇円、県五九万八〇〇〇円、対国五三・八%、対県七八・一%〕)。

■1974年 「奄美群島振興開発特別措置法」 (「振興開発法」)

目標

復帰に伴い、奄美群島の特殊事情にかんがみ総合的な奄美群島振興開発計画を策定し、その「基礎条件の改善」ならびに地理的及び自然的特性に即した奄美群島の振興を図り、もって住民の安定及び福祉の向上に資すること。

「1道路、港湾、空港等の交通施設及び通信設備の整備に関する事項、2生活環境施設、保険衛生施設及び社会福祉施設の整備並びに医療の確保に関する事項、3防災及び国土保全施設の整備に関する事項、4地域の特性に即した農林漁業、商工業等の産業の振興に関する事項、5自然環境の保護及び公害の防止に関する事項、6文教施設の整備に関する事項」であり、奄美群島の特性と発展可能性を生かし、環境の保全を図りつつ、積極的な社会開発と産業振興を進め、「本土との諸格差を是正」し、明るく住み良い地域社会を実現すること。

昭和五一年に与論空港が開港し、各島に空港が整備されたほか、民間テレビ放送の基幹中継局が完成し、各島において視聴できるようになった。昭和五三年度の郡民一人当たりの所得は九九万三〇〇〇円(国一四四万九〇〇〇円、県二〇万五〇〇〇円、対国六八・五%、対県八九・九%)であったが、「奄美群島の後進性」を克服するには至らず、「県本土との諸格差を是正」するには至らなかった。

■1979年

「観光の開発に関する事項」が加えられ、「振興開発計画の実施に当たっては、必要に応じて環境影響評価を行うこと等により、公害の防止及び自然環境の保全について適切な考慮を払う必要がある」とされた。

■1984年

振興開発法が一部改正され、「新奄美群島振興開発計画」が策定された。 「本土との諸格差を是正」し、豊かでぬくもりに満ちた地域社会を重視することが目標とされた。昭禦三年葉の国・県道改良率は八六・四%、舗装率は九八・四%と整備が進み、奄美空港もジェット化され、交通基盤整備が大幅に進んだが、

成果報告は、「わが国の社会経済が持続的発展を続ける中で、群島をめぐる要件は依然として厳しく、本土との間にはなお格差が存在し、その後進性を克服するには至らなかった」と評価する。

■1989年

新振興開発計画では、五〇〇〇トン~一万トン級の船舶が接岸可能な港湾整備が進み、またバイパスやトンネルの開通が相次ぐなど交通基盤整備が大きく前進したが、群島をめぐる厳しい自然的・社会的条件を克服するには至らず、「所得をはじめとする諸格差」を是正するには至らなかったとされた。一九九四(平成六)年度の第三次奄美群島振興開発事業でも、「本土との諸格差」に加えて、若年層を中心とする人口流出や高齢化が進むなど、依然として解決すべき多くの課題が残されていることが指摘された。

■1999年

「第三次奄美群島振興開発計画」(改定一〇カ年計画)では、本土から遠く隔絶した外海離島、台風常襲地帯という厳しい自然的・社会的条件下にあるため、「本土との間にいまだ所得水準をはじめとする諸格差」が警れており、また、若年層を中心とする人口流出や高齢化が進み、活力ある地域社会の維持に多くの課題を抱えている一方、「奄美群島は、広大な海域にまたがって亜熱帯地域に位写るなど恵まれた自然的・社会的特性を有しており、これらの地域特性を生かした新たな産叢興による島おこしの機運がたかまりつつある」とみる。これまでにない新しい指摘としては、「隣接する沖縄との連携や国際化の進展に対応した東南アジア等との交流・協力をも考慮しつつ、積極的な振興開発を進め、奄美群島の発展可能性を最大限に活用することによって、群島経済の自立的な発展と群島住民の福祉の向上を図ることが重要」だとする。

目標

「奄美群島の特性と発展可能性を生かし、産業の振興と社会資本の整備を図り群島内外との交流・連携を進め、本土との諸格差を是正しつつ、自立的発展の基礎条件を整備することにより、住民が希望を持って定住することができ、充実した人生を送ることのできる地域社会を実現する」ことにあった。また、基本方針のなかには、「必要に応じた環境影響評価を行うこと等により、公害の防止および自然環境の保全について適切な対策を講ずること」が示されている。部門別構想では、「観光・リゾートの振興」にこれまでになく多くの計画が盛り込まれている。

自然回帰型の観光拠点の整備、自然や風俗、文化等の観光資源との調和を図り、観光客の周遊を促進することや、「県際交流の促進等により、沖縄と連携した観光ルートづくりを進めるとともに、スポーツ合宿の誘致やアイランドテラピー構想を促進する」、「魅力ある特産品や郷土料理の開発、見学・体験が可能な工場等の整備を促進し、観光と地域産業との緊密な連携を図る」、「接客研修等によるホスピタリティーあふれるサービス提供体制づくりやマリンスポーツ教室などの体験・研修システムの整備を促進するとともに、地域おこし運動との連携を園りつつ、観光客も参加できる多彩な伝統芸能等の各種イベントの開催等ソフト面の充実強化を促進する」とあり、従来になく踏み込んだ内容が盛り込まれている。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

「21世紀奄美へ期待するもの~奄美が奄美であるために~」

「奄美人の目からみた格差社会」

 こうして奄振の経緯を振り返ってみると、南島開発の工場、客船の大型化、空港など、島の光景を一変させたものが、奄振とともにもたらされたものだということが分かる。それだけでもどれだけ島の生活に影響が大きいのかも分かる。

 ついでに、でも忘れずに付け加えておかなくてはならないのは、これ何のために?と思う漁港やいわゆるハコモノも、奄振の産物だ。

◇◆◇

 奄振の成果は、福永法弘さんの「21世紀 奄美へ期待するもの~奄美が奄美であるために」に数値化されていたのを参照したことがあった。

            【対県】  【対国】
1963年(昭和38年) 8割弱  5割弱
1978年(昭和53年) 9割   7割
1998年(平成10年) 9割   7割
「奄美人の目からみた格差社会」

 これでみると、70年代までは成果が顕著だが、それ以降は停滞しているようにみえる。
 ここで、それぞれの段階での評価をたどってみると、「その半分にも満たない状況であった」、「実質的生活水準においては県本土との間に著しい格差が存在していた」、「諸格差を是正するには至らなかった」、「『奄美群島の後進性』を克服するには至らず、『県本土との諸格差を是正』するには至らなかった」、「格差が存在し、その後進性を克服するには至らなかった」と、「至らなかった」がお決まりの述語と化している。

 この、「格差を克服するには至らなかった」という言い回しを連なりをみると、奄振は、アキレスと亀だと思う。アキレスは亀の2倍の速さで走るとする。亀はアキレスの10メートル先を走っているとして、アキレスが亀のいたところまで辿り着いたとき、亀はアキレスの5メートル前を走っている。次にアキレスが亀のいたところに辿り着いたときは、亀はアキレスの2.5メートル前を走っている。次にアキレスが亀のいたところに辿り着いたときも亀はアキレスの前にいる。こどんなに繰り返しても、アキレスは亀を永遠に追い越せない。

 奄振は、この、アキレスと亀のパラドクスを地でいっている。亀を基準にする限り、アキレスは亀を追い越すことはできない。と同じように、奄振は、本土(日本)を基準にする会議、永遠に追い越すことはできない。

 本土との格差是正をテーマとする限り、アキレスと亀のパラドクスにはまってしまいやすい。それは、このテーマで奄振の永続化を目論もうとするならいざ知らず、奄美の豊かさを実現することが目標なら、パラドクスからは抜け出なくてはいけない。抜け出るには、本土との比較を止めることも選択肢になるが、それは目標そのものを見失うと映るかもしれないから、現実的にいえば、所得以外の指標をいくつも持たなければならない。

 去年は、「山原(やんばる)率」など、林野の占める割合などを考えてみたが、同様に、珊瑚率なども設定してみるといい。通勤時間率とか、海水浴率とかもある。自然では食えないと言われてきたけれど、でも実態はそうじゃなかった。実際、珊瑚礁の海の畑の恵みで島は潤っていたのだから。いままで「島にないもの」を基準にしてきただろうが、逆に、「本土にないもの」を指標にしたらいい。いま、それは本土の人が切実にほしいと思っているものが多くなっているのだから。そして交流人口を同時に取り、山原率、珊瑚率との相関を見ていく。


「奄美開発再考」桑原季雄
『奄美戦後史』24


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2008/08/02

中沢新一さんと糸井重里さんが吉本隆明さんのことを話す

 吉本さんの『芸術言語論-沈黙から芸術まで-』の続きのように思って、糸井重里さんと中沢新一さんの対談を聞きに行ってきた。なにしろ、テーマは「吉本隆明と東京」だったから。

 「吉本隆明と東京」

 「夏の文学教室」という冠のおかげか、前のコマが、詩人、吉増剛造さんの「水の都市-龍之介と鏡花 新作シネマ」というテーマだったせいか、『芸術言語論-沈黙から芸術まで-』のときに比べて会場は、おじいちゃんおばあちゃんも多く、吉本さんの本来の読者は今日のほうが多いような気がした。

 吉増さんの話も興味深かったものの、疲れの出る週末で昼にランチビールを飲んだせいもあって、いやいちばんは吉増さんのおしゃべりが流暢で抑揚も心地よかったおかげ?で、仮眠になってしまった。奄美にも関心を持ってくれる吉増さんなのに、ごめんなさい、である。

 中沢新一さんも『芸術言語論-沈黙から芸術まで-』は、あの場で聞いていたようで、その時の吉本さんの印象を交えた話から始まった。吉本さんは、冒頭、1945年の8月15日以降、自分は死ぬための準備はしてきたけれど、世界を認識する方法は全く分かっていなかった。そのことがつかめなければ生きている意味がないじゃないか、とそれくらい思って考えてきたことが今日、話したいことだと切り出したのだけれど、そのことを受けて、糸井さんは、自分が学生の頃や以前に、こんな風に吉本さんの背景を紹介する人がいてくれたら、もっとはやく吉本さんの本を読めていたのにと投げかけた。それに中沢さんは、自分も学生のときから読んでいたけれど、いまのようには読めていなかった。それだけノイズが多かったんだと思う。80年代になってようやくノイズが取り払われて、吉本さんの思想自体が見えるようになってきたと応えた。

 お二人より年代がひとまわり後で、学生のときから夢中で読んできたので、ぼくにはこのノイズの払われ方をゆっくり観察してきた気がするのだけれど、そこには二つの契機があったと思う。80年代のそれは何といっても、作家よしもとばななのデビューだった。ぼくはそれまで、中沢さんの言うノイズのなかでしか受け止めてもらえないだろうと思い、吉本隆明を読んでいると人に言うことがなかったのだが、ばななが広く受け入れられたので、そのあとは、「ばななのお父さん」と紹介できるようになったのだ。実際、そんな風に世の中でも言われているのをみると、吉本さんがこれで孤独から解放されるならよかったですね、と思ってきた。

 で、次は、でも何といっても、先日の『芸術言語論-沈黙から芸術まで-』を見てもわかるように、糸井さんのおかげだと思う。糸井重里が、敬愛するように紹介してきたこと。それが、吉本さんのノイズを取り払ってきた。ばなな効果が受動的なものだったとしたら、糸井効果はそれを念頭に置いているだけ、積極的なものだ。ぼくにしても、ばななのお父さんと言わなくても、吉本さんと人に言えるようになっているくらいだ。

 二人の対談はゆるい感じ進み、またそれが心地よく、時間オーバーになっても、会場のみなさんの了解を得て、時間延長で話を続けてくれて楽しかった。糸井さんは、口紅を塗る女の子がいるとして、「口紅とはけしからない」と、今、ますますそう言いそうな風潮になっているけれど、そういうとき、「口紅、いいね」と言ってくれる長老がいるかいないかは大きな違いがある、として吉本さんのことを紹介する。

 中沢さんは、東京は不思議なところで、京都では1200年を超えて考えることはできない、パリもヨーロッパの歴史を超えて考えることができる場所ではない。ところが東京は、縄文に遡って考えることができる数少ない不思議な都市だと言っていたが、ぼくは自分の感じ方と共通するようでうれしかった。ぼくは与論と東京はつながっていると思っているし、ときどきそう書いたりもするのだが、うまく伝わった気がすることがない。そこに補助線を引いてくれる気がしたのだ。

 ゆるい話のおかげで話題は多岐にわたり楽しかった。ぼくが特に印象に残ったのは、中沢さんの手振りや口調がときおり、吉本さんに似ることだった。好きなんですね、きっと。




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2008/08/01

アイデンティティの問い直し

 沖永良部島は、二〇〇三年に復帰五〇周年を迎えた。日本復帰のために沖縄との差異を強調し日本復帰を果たした時期から半世紀が経過した。奄美群島日本復帰五〇周年記念式典には、天皇皇后両陛下が臨席した天皇の奄美大島行幸に郡民は大いに歓喜した。他方、沖縄は一九七二年に日本に復帰した後も米軍基地問題などを抱え、本土との間に確執を持ち続けている。歴史の中で、帰属の変更を余儀なくされてきた狭間の島であるがゆえに、沖縄に属しても本土に属しても、奄美は、沖永良部島は、「周辺」であり続けた。

 奄美各地や本土では、復帰五〇周年にちなんだイベントが開催された。例えば、二〇〇三年三月元日には大阪市中央公会堂で、沖永良部出身の古村好昭が会長を務める関西奄美会主催の「奄美群島日本復帰五〇周年記念奄美サミットin関西」が、そして二〇〇三年九月五、六日には名瀬市の「奄美文化センターで第二回「世界の奄美人(アマミンチュ)大会」が開催された。奄美の人々は今アイデンティティを問い直している。日本復帰後、激しさを増した本土化にもかかわらず、なくなることのない「大和」との違和感と、修復困難な沖縄との精神的別離に、奄美の人々はヤマトンチュでもウチナンチュでもない「アマミンチュ」としてのアイデンティティを見出そうと
している。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 「天皇の奄美大島行幸に郡民は大いに歓喜した」というのが、戦前のことではなく復帰五〇周年であることに、ぼくは愕然とする。ぼく個人の感じ方からすれば、同じあまみんちゅでも隔絶感を覚えるところだ。

 どうして「天皇の奄美大島行幸に郡民は大いに歓喜」するのだろうと考えて、ぼくが思うのは、奄美はきちんと敗戦に出会っていないのではないかということだ。敗戦の詔勅もまともに伝わらず、どこかからの風聞のように聞き届け、その意味を受け取る間もなく、米軍占領下に置かれ、あとは日本復帰に躍起になっていった。だから、日本人意識が戦前のまま復帰後の世界へ地すべり的に入っていったのだ。そうでなければ、この「歓喜」は理解できないのではないだろうか。

 奄美は、復帰の相対化がなされていないのと同じように、天皇の相対化がなされていないのだ。

◇◆◇

 「奄美の人々は今アイデンティティを問い直している。」

 ぼくもこの問いに答えたいのだと思う。
 復帰後、獲得した「日本人」意識を、ぼくは国家と社会を分けて考えることができる近代市民社会の自己意識として捉え返して大事なものとするとともに、一方でゆんぬんちゅとしてのアイデンティティを掘り下げながら、大和と沖縄との対話により、ゆんぬんちゅのよりよい形を編んでゆけたらと思う。

「沖永良部島の戦後史から現在をみる」高橋孝代
『奄美戦後史』23


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