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2008/08/14

治療薬としての郷土史

大山 こういった、鹿児島とのいくつもの重層した関係を、小さいときからつぎつぎと知らされたわけですから、私はそれらから解放されるのに、ひじょうに苦労しました。私のばあい、そのひとつの治療薬として郷土史を追求したようなものです。
 そうやって郷土史を探っているうちに、だんだん鹿児島をも、身丈だけにみるという歴史感覚が自分のなかに養われてきて、どうにか公平に歴史をみれるようになったわけです。そうなると、奄美支配が沖縄から鹿児島に移ったことによるプラス面もみえてきた。正直いって、奄美は近世の洗礼も鹿児島によってはじめて受けることができたわけです。鹿児島は初期にはあきらかにヤンチュ制度も制限しようとしているし、稲作も赤米から真米に変わるように一生懸命やっている。もちろん、集落の統制も強化しましたけど、生産力もずっと増大しています。そういうことをありのままにみれるようになることによって、自分のなかにあったしこりがだんだん溶けてきて、鹿児島だから憎いというようなことがしだいになくなってきたわけです。『沖縄・奄美と日本(ヤマト)』

 「鹿児島とのいくつもの重層した関係」というのは、岡程良を祖父に持ち、それ以外にも奄美の知識人を親族の系譜に持つこを指している。かつそれは沖縄からの流れと鹿児島からの流れを両方から来る血筋としてあるのだ。この複雑な系譜の末裔としての生には「苦労」がつきまとっただろう。それはぼくにも想像がつく。「治療薬としての郷土史」というのは、切実で止むに止まれぬ選択だったに違いない。

 しかし、にもかかわらず、大山さんの「ありのまま」は、ありのままとして伝わってこない。薩摩の奄美支配の実勢がありのままに視野に収められていると感じられない。

 しかし、その途中の段階で鹿児島の役人などが島へやってきて、いろいろとかき乱すんですよ。戦後の新しい教育を受けた人はいいんですが、むかしの教育を受けた人は、「島へいったら、まず最初のやつをけとばせ。そうすればあとの人間はみんないうことをきく」式の、先輩から受けついだやりかたでくるんです。たとえば、私が竜郷村の農業委員のとき、農務課長がかわったころ陳情にいったことがあるんです。そのときは四月で奄美にしては暖かかったんですが、ネクタイをしていたら、「へェー、ネクタイなんかして」と私のネクタイを鉛筆でつっついたりはねあげたりしたあげくに、ひっぱって首をしめるんです。初対面の人間にたいしてですよ。これはむしろ初対面だったからでしょうけどね。
谷川 ネクタイなどは身分不相応でぜいたくだっていうことですか。

大山 おマエらがネクタイをしめるなんておこがましいということなんでしょうかね。あるいは、こんなに暖かいのにネクタイなんかいらないという気持だったかもしれません。とにかく「初対面の島人はけっとばせ」主義です。でも、そうされると島の人間はおそれいって、「今晩どうぞ」と宴会を設け、親分・子分の関係になるんです。そうなると、あとはつきあいがスムーズにいくというしきたりになっているわけです。私はそんなことできませんから、どうしてもむかしのことを思い出してしまって、やっぱり鹿児島とはたたかわないとしょうがないなという気になる。そういうことから抜け出すのに何年もかかりましたね。

 こういうことから抜け出すには、ふざけた行為をする輩がいなくなることが必要なのではないだろうか。そうでなければ大山さんが言う「抜け出す」は、それこそ個人的な気持ちの問題だろう。

 それには、いまいったように郷土史の研究が役に立ったわけですけど、もうひとつ種明かしすると、自分のなかにある遠島鹿児島人、先祖の系譜を追及することにより、鹿児島を加害者一色に単純化することから自由になったこともあります。薩摩における非主流派の系譜をたぐることで彼らの悩みや憤りがわかり、自分のなかの薩摩の血に乗って薩摩内部から薩摩の出口をさがす心情も出て、深層心理的に内部から私のコンプレックスを慰籍する作業をしてくれたこともありますね。

 ここは正直な述懐で、大山さんの郷土史研究のモチーフをよく教えてくれる。しかし、このモチーフは、大山さんの限界にもなっているように見える。自分に流れる鹿児島遠島人の血に具体的に配慮することが、大山さんの郷土史の中身になってしまっているのだ。そこでは、鹿児島遠島人の心理や奄美人の心理が理解すべきこととなるため、郷土史が奄美全体を覆うように広がっていかない。現に、いま思い返してみれば、高良さんに促されて総括した奄美270年に唐突に登場した、本田孫九郎や伊地知季安も、大山さんの親族の系譜のなかに登場する人々なのだ。大山さんの郷土史はそこでは、郷土史というより一族史である。

 出自の呪縛が強力な分だけ、大山さんの郷土史は、出自の近傍を抜け出せない。抜け出せたと思った場所とは、奄美、薩摩それぞれの立場の心理理解のことなのだ。そこで、奄美の薩摩支配の全体像は見えてこず、代わりに、プラス面、マイナス面のバランスシート整理がやってきている。しかしこのプラス面、マイナス面はとりもなおさず、大山さんの心のバランスの問題にしか過ぎなくなってしまう。大山さんは、この両者への配慮で、自身の治療薬にはなったかもしれないが、それは郷土史として普遍化することはできないのである。

 大山さんの心理劇のなかで、しこりは溶けても、関係の構造としては溶けずに残る。ぼくたちはそれを溶かさなければならない。

 ※「奄美だけ特別じゃない」という声」『沖縄・奄美と日本(ヤマト)』


 

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