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2008/08/13

「奄美だけ特別じゃない」という声

大山 昭和三十年ごろ、東京にいて組合運動なんかをしていたんですが、いろいろあって朝も夜も祖母から聞いた昔話とか島の夢をみるようになったんです。これじゃ島に帰らなくてはどうしようもないということで帰って百姓をしていたわけです。そのうちさっきもいったように為栗委員になって、鹿児島からくる役人と接していると、彼らは奄美から収奪した加害者意識があるから、それを否定してかかろうとするわけです。たとえば、そういう被害者意識をもつのはつまらん人間だとか、あるいは、奄美の農民は砂糖で苦しめられたが、鹿児島の百姓も櫨で苦しめられた、苦しめられたことはみんなおなじであって、これは封建制の社会における一般的なことである、奄美だけ特別じゃない、といういいかたですね。最初はそれに反駁できないんです。『沖縄・奄美と日本(ヤマト)』

 どうやらこれは近代奄美が直面した声として普遍的なのではないだろうか。
 弓削政己さんも、

学生時代、後輩に「奄美の歴史は鹿児島藩(通称薩摩藩)による砂糖収奪で、大変島民は苦しんだ」と発言したら,弓削さん、大阪出身の学生は、「大坂だって大塩平八郎の乱にみられるように大変だったのよ」と反論された。(「奄美諸島の歴史認識--奄美史は近現代の歴史である--」

 そして、大山さんが反駁できなかったように、弓削さんも「何も言えなかった」という。

それは、百姓・町民、いわば「民衆」と把握される人々の収奪される側面という点では、どこの地域でも存在する「収奪された・差別された」という点での「競い合い」では、科学的な歴史認識・意識を獲得できないことを示していると言えよう。これが宿題であった。

 この問いが普遍的ではないかと思うのは、ぼくも突き当るからだ。そしてぼくの場合、それを言うのは、大山さんと同じく、鹿児島の人である。ここで、この声に突き当たるのには普遍性があるとしても声の発信者が、鹿児島の人かそうではないかには本質的な差がある。ぼくたちが問題を抱え込むのは、それが鹿児島の人から発せられるときだ。鹿児島から「みんなおなじ」と言われるとき、聞き流せない。その理由は単純で、そういう身も蓋もない同一化によって薩摩藩の所業が不問に付されていると感じるからだ。

 ともあれ、大山さんはどう答えるのか、見てみよう。

 それで砂糖と櫨の問題を調べだしたわけですが、その結果、櫨が農業にたいしてもった役割と、砂糖がもった役割とではぜんぜんちがうことがわかったんですよ。
 というのは、この鹿児島の櫨はもともと奄美から移入した琉球ハゼで、本土の伝来の山櫨とくらべて実も大きく生産性もずっと高かったので、薩藩時代のはじめにきた代官がもちかえったものなんです。だから、最初は奄美も櫨を一人一五本ずつ植えることを強制されていた。ところが、砂糖のほうが儲かるので、途中で切。かえさせられているんですね。それも畑にできる田はすべて畑にさせ、稲を追い出してサトウキビを植えさせている。水田としてのこされたのは畑にできないような湿田だけなんです。それにたいし鹿児島では、櫨をやはり強制的に植えさせられるけれども、それはすべて田んぼのアゼに植えるんです。稲作のじゃまにはなるかもしれないけど、それにとってかわるものじゃない。しかるに奄美では主作が稲から砂糖キビに強制的にかえさせられた。鹿児島の櫨と奄美の砂糖では性格が根本的にちがうわけです。

 ようするに、前にもいいましたが、日本ではほとんどが稲作中心であったのに、奄美ではそれが追求できなかったわけです。それが奄美の進歩を遅らせた最大の原因です。というのは水稲作増強のための地盤整備への社会資本の投下もなく、農民のあいだに「土つくり」の体質も育たなかったということです。だから、ユリやフリージアという商品作物も奄美で最初に入ってきたのは北大島ですが、大島の農民はそれを作物体系のなかに採り入れることができなかった。ところが、沖永良部島はそれを組み入れて、いまでは日本のユリとフリージアの相場は沖永良部で決まるほどです。こういう商品作物消化にたいする差はどこからくるかというと、けっきょく砂糖なんです。沖永良部は、安政四年(一八五七)に島津斉彬が砂糖をつくらせるまで、ずっと稲作中心でしたから、農民としてのたくましい消化力というか、近世農民としての体質ができていた。ところが、北三島では砂糖のためにそれができなかったわけです。
 そういう差がだんだんわかってきて、自分が歴史的な広い視野をもてるようになると、鹿児島からきている連中にもいろいろいえるようになり、いい争って自分の怨念を押しつけようという気にならなくなったんです。

 大山さんはどうも、収奪が激しかったことを言っているのではないようだ。「奄美の進歩を遅らせた最大の原因」を作ったことを、反駁の根拠に置いているようだ。では、「進歩」とは何か。それは、稲作であり、奄美は砂糖きびのみにさせられたために進歩できなかったという。なぜ稲作は進歩であり、砂糖きびは進歩ではないのか。それは、砂糖きびは粗放でもできるため、「土つくり」が育たないからである。

 ぼくは徳之島の松山光秀さんを思い出す。松山さんも、砂糖きび畑になり、水田が消えたために「手入れ」の思想が育たなかったと嘆いていた。

 確かにこの「土つくり・手入れ」の技術が育たなかった側面はあり、反駁の中身にもなりうるだろう。でも、大山さんの反駁は、反駁すべき立場の者として納得しにくい。なんというか、言うべきことがまず言われていないのに個別のことが言われているような感触を受ける。

 どうしてそうなるのだろう。大山さんの「進歩」が単線的かつ絶対的で、かつ進歩の根拠が生産活動に限定されてしまっているからだ。大山さんはやはり、下部構造が上部構造を決定するという思考モデルと進歩史観に依存しすぎているのではないだろうか。ぼくの考えでは、これでは薩摩藩の所業の全貌を押さえることはできない。

 「奄美だけ特別じゃない」。これにどう答えることができるだろう。
 ぼくは、いまなら単純に、奄美は植民地化されたのだ、と答えるだろう。

 言葉も文化も異なる勢力に征服され、政治的・経済的に完全に隷属を強いられ、二重の疎外を受けてきた。その点で、「同じ」ではありえない。だいたい、大島に遠島された西郷も、「砂糖」と「櫨」が同じなら、「5倍の商法」と言って驚くことはなかっただろうし、現地の薩摩の役人の横暴さに憤ることもなかっただろう。「同じ」は、これらの固有性を「苦しみ」として抽象化したとき、初めて言えることだ。そうではないだろうか。

 ※『沖縄・奄美と日本(ヤマト)』


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コメント

 お早うございます。
何となくわかりますね・・。
植民地化されたのであったなら、早いところ自立して独立しなければならないが、依存体質がぬけきらないのではないだろうか。奄美復興事業の本質をもっと島民自身が考えるべきだと思う。作文を書き直しただけではたいして変えられないだろう。

 自分自身に問うてみる・・・。
昨日、シニグ道の聞き取り調査をしながら記録に残しておくべきことが沢山あることを改めて知った。
琉球大学の津波教授一行(人類社会学)に負けてはいられないと腰を上げた次第です。
やりたいことが多くて中途半端になりそうで怖いが、雑記帳としてでも残して置きたい。

投稿: awa | 2008/08/14 03:43

awaさん

ぼくは「奄美復興事業の本質」は植民地補償として捉えるべきではないかと考えています。奄振は54年ですが、この半世紀は、植民地的状況約280年、実質放置約60年という3.5世紀のあとに来ます。

だから長期になるのは当たり前というのではなく、打開しなければならないものは根が深いから、付け焼刃的なことではうまくいかないことが分かるという意味です。

盛窪さん、与論記録を応援いたします。

投稿: 喜山 | 2008/08/14 08:43

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