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2008/08/12

『沖縄・奄美と日本(ヤマト)』

 20年ほど前、沖縄・奄美・日本の三つ巴のテーマに惹かれて『沖縄・奄美と日本(ヤマト)』に飛びついたのだけれど、ピンと来なくて放っておいてきた。ただ、書名の切実さに変わりはないから、時折、覗き込むのだけれど、読み込み切れないままだった。

『沖縄・奄美と日本(ヤマト)』

谷川健一、大山麟五郎、高良倉吉
1986年、同成社

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 どうして響いてこないのだろう。

大山 奄美について藩政期二七〇年を大ざっばにくくれば、元禄初年までは近世的上昇期で生産も高まり人口も増え、また琉球王朝以来の債務奴隷も原則的には禁止され、むしろ部分的には下人からの自立農民化もおこなわれて社会的にも前進している。元禄初年に製糖法が藩の政策で沖縄から導入され水田稲作未熟の段階で領主的商品作物としての砂糖キビ作がしだいに比重をまし、生産面から社会をゆがめていった。同時に幕藩体制の成熟のなかで薩摩が窮乏し、それに応じて身分制が強化されて城下士族と外城士族の身分差ができ、こういう藩の硬直化が奄美対策にも反映して、初期にあった徳川中央縫政の指導性をとりつぐ導体としての役割も失っていった。ただし体制動揺のなかで起こる数次の 「崩れ」が、多数のすぐれた人材を奄美に遠島人として送りこみ、奄美の教育水準を高めた。

 いっぽう鹿児島からくる役人のなかにも、従来の硬直的朱子学だけでなく、室鳩巣学の民主主義的思考と、本居宣長や伴信友の国学の影響を合せもつ人物が登場するようになり、なかには南島に日本古代の祖塾を発見したといって感動する役人さえ出てきた。本田孫九郎の『大島私考』や伊地知季安の『南聴紀考』もそういう流れのなかで書かれ、こういう新しいタイプの学者が当時の奄美の青年を啓発していった。
 しかしそれも束の間、こういう多彩な超薩摩的人材は相つぐ〝崩れ″で粛正されて公的な場からは消え、天保改革以後の専売制が最終的に奄美の社会をゆがめていった。島民の三割割以上がヤソチュという債務奴隷に転落し、砂糖キビは稲作にかわって主作となり、土地改良事業への社会資本の投下は省略され、奄美は近世欠落のまま明治社会に放り出された、ということになると思います。
 こういう経過のなかで歴史的なプラスとマイナスとを厳密に仕分し、今後の奄美の進路をさぐっていくのが郷土史家の役割といえるでしょうね。『沖縄・奄美と日本(ヤマト)』

 大山は出自の周辺に拘泥し、高良は必要以上に薩摩との関係、影響を無かったとしその分、奄美にも無関心に見え、二人をとりもつ谷川は、「プライドは?」、「誇りは?」と、理解や認識よりは感情を喚起する、見ようによっては挑発的問いかけが目立つという、その三者の構図がいらだちのもとだったのかもしれない。

 上の大山の見解は、奄美も沖縄も薩摩に支配されたことのみに目を奪われて近世を見損ねているのではないかという高良の発言に対して応答したものだ。

 ぼくはこの大山の270年総括にうなずくことができない。解きほぐしにくいのだが、うなずけない要点を挙げるとすると、奄美の困難を抽出し切れていないということと、奄美の歴史が薩摩の主要人物の動向によって語られていることから来ているように思える。

 まず、元禄初年に「生産面から社会をゆがめていった」というのは、生産面のみしか見ていない視点がなければ言えない。元禄初年といえば1688年で、侵略から80年近く経っている。この80年近くは「社会的にも前進している」という視点は不思議である。侵略という行為自身が充分にゆがんでいるし、しばらく期間はあったにしても、それは薩摩の支配体制の内実の逡巡の期間であり、それは社会的にみて、初期からゆがんだものであった。たしかにこの270年間は、締め上げるように苛酷さは増す期間だったに違いないが、二重の疎外は初期から構造化されていたのである。

 またなぜ、コンパクトに奄美の270年を総括するなかに、本田孫九郎や伊地知季安という固有名詞が出てくる余地があるのだろう。ここは、遠島人による教育や奄美理解者を過大に評価していると思える。彼らを評価しないというのではない。真っ先に描かれるべき島人の記述ではなく、彼らを選択する視点に、まっすぐでないものを感じるのだ。

 そして、天保改革以降の専売制にきて、ゆがみの巨大化が語られる。しかも、その結論は、「奄美が近世欠落のまま明治社会に放り出された」なのだ。欠けていたのは近世どころか中世だって十分ではないのに、なぜことさら近世をこと挙げするのだろう。この総括からは、島人の困難の中身が伝わってこない。

 大山は、「歴史的なプラスとマイナスとを厳密に仕分し、今後の奄美の進路をさぐっていくのが郷土史家の役割」と言っているけど、ここには、厳密さの前に、中途半端なプラスとマイナスが差し出されていて、解かれるべきものが未決のままにされているように感じる。それが苛立ちを感じる点だと思う。

 こう書いて思い至るのは、大山はもしかしたら、下部構造は上部構造を決定するというモデルを下敷きに、270年を理解しようとしているのではないだろうか。だからこそ、生産面の評価の主たる対象となり、初期80年は前進というすっとぼけた評価が生まれている。しかし、ここからは島人の困難が見えてこない。奄美の苦楽の音色が聞こえてこないのではないだろうか。




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