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2008/07/25

奄美は沖縄軍事拠点化のためのカードか

 「実質復帰」論の「勝利」は、実は米国が望んでいたことでもあった。というのは、米国(軍)にとって「北緯二九度」以南の島々の中で最も重要だったのは沖縄島の確保であって、基地の島・沖縄で復帰運動が燃え上がっては困ることだったからだ。激しさを増す奄美の復帰運動が沖縄に波及することは何としても避けなければならなかった。三条撤廃のスローガンを下ろして旧鹿児島県大島郡の復活を強調する運動が望ましかったといえる。

 折しも、一九五二年六月五日、沖縄で「日本道路会社争議」が起きた。軍政下で初の組織的な労働争議だ。那覇市の琉球立法院前にテント小屋が出現、ハンガーストライキに突入した労働者たちは「貸金をよこせ」 「生活を保障せよ」と訴えた。主体になったのは奄美出身者たち。指導したのも非合法の奄美共産党メンバーだった。
 争議の背景には、このころ沖縄で恒久的な基地建設が始まり、膨大な「軍作業」が発生したことがあった。それは四九年一〇月の中国共産党政権の誕生、五〇年六月の朝鮮戦争勃発を契機としていた。本土へは行けない、働く場所もない奄美の人々は競って沖縄に出た。「五〇年から五二年にかけて、毎月一千人近い男女の働き手が島から消え、その数はついに五万名余に達した」。奄美の人口の四人に一人が流出した勘定だ。
 この基地建設には鹿島建設、清水建設、間組、大成建設などの日本本土大手土建会社が乗り込んできていた。インフレ抑制策のもとで不況にあえぐ本士土建資本にとって沖縄基地建設は願ってもない再生のチャンスだった。言い換えれば、本土土建資本の1部は沖縄を足掛かりに復興したわけだ。日本道路会社も清水建設の子会社だった。

 争議のもう一つの背景には、貸金や労働条件には明らかな差別があり、奄美や宮古・八重山から来た労働者は最低の扱いを受けていたということもあった。米国人それも白人が最上で、フィリピン人、本土からの出稼ぎ者、沖縄本島人と続き、その下が奄美・先島の人々だった。
 結局この争議は琉球立法院、住民などの強い支持を得て、争議団の全面勝利となり、軍政下での労働法制整備の要求に発展していくことになった。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 ここから気づくことをメモしておこう。

・アメリカは、奄美が沖縄と一体になって「三条撤廃」を主眼とする復帰運動を展開されるのを避けたかった。奄美はその思惑にまんまと乗った。思惑を勘定に入れる余裕はなかった。

・この面からは、アメリカが、沖縄島だけでなく奄美も軍政下に置いたのは、沖縄島を軍事拠点化するためのカードとして奄美を用いるためだったのかもしれない。

・薩摩は奄美を喰らって明治維新を果たした。日本は沖縄を喰らって独立を果たした。

・沖縄のなかでも奄美は差別された。それが沖縄に対する反発心の要因のひとつになっている。

・本土のゼネコン資本は、沖縄の軍事基地建設によって生き延びた。

・沖縄の軍事基地建設は、奄美の生活を助けた。

「『北緯三〇度』とは何だったか-奄美の分離と復帰を考える-」杉原洋
『奄美戦後史』16




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