ジョージさんのトラック
南二島分離報道後の運動を盛り上げたのに小中学生や高校生、教師たちの熱い闘いがあった。その中で教職員や生徒たちが果たした役割も大きい。沖永良部高校の教職員や生徒たちも、貧苦にあえぎながらも運動に燃えに燃えた。また各小中学校でも生徒たちが集会や断食に参加したり、作文集で全国に発信、島の実情を訴えた。
「な~んでかえさぬーエラブとヨロン、同じはらから奄美島、友よ~うたおう復帰の歌を我ら血をはくこの思いー」。沖永良部高校では「この緊急事態に勉強どころではない」と教師ともども「復帰の歌」を歌いながら街宣活動を行った。現在のような広報手段がなかった当時、高校生の街宣活動は大きな威力を発揮し、たちまち島内に二島分離は伝わった。
沖永良部にはトラックが四台しかなかったので、その二台を借りて全島を回った。その時、面白いことが起きた。他にレーダー基地の米軍兵士ジョージさんが運転する一台が参加して高校生を乗せ島内を回ったのだ。
日ごろから米軍兵士と高校生たちは野球の交流で親しかった。彼らは「復帰の歌」を歌い、トランペットを吹きながらシュプレヒコールを叫んだ。その楽器も米軍から貰ったのであった。ここにも復帰連動に軍政府の監視の日が厳しい名瀬あたりとは想像もつかない大きな違いがあった。 『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』
アメリカが日本への復帰運動を後押しするなんて、他では見られなかった光景ではないだろうか。もちろんこれは国家の行為ではなく、アメリカ軍人の人柄と沖永良部島民との交流があって生まれたものだ。それは例外的なものだろうが、これが現実という意味では重要な意味を持っている。こういうことがあったと記すこと自体に価値がある。
「復帰運動史の中の南二島分離問題」川上忠志
『奄美戦後史』10
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