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2008/07/11

『奄美戦後史』へ

 戦後の与論から、こんどは戦後の「奄美」。
 ぼくは、1609年起点の奄美の困難を「二重の疎外とその隠蔽」と考えているが、それが近代以降はどのように変容していったかを追ってみたい。

『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』
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 まず、大橋愛由等さんの「“阪神”復帰運動に至る奄美出身者の慟哭」。
 大橋さんは、敗戦から復帰までの「阪神」の奄美出身者の動向に照らして4期に分けている。
 
 第1期 敗戦の混乱~「祖国分離」
 郷土会の乱立期      1945.08-1951.01
 第2期 対日講和条約へ
 署名運動の展開      1951.02-1951.09
 第3期 復帰運動の再建      
 低迷期を経て運動の高揚 1951.10-1952.08
 第4期 二島分離反対運動
 「もうひとつの復帰運動」  1952.09-1953.12

 その第1期。

 当時の日本社会は、日々の生活物資も事欠く状況であり、配給だけではとても生活できる状態ではなかった。「神戸の治安は乱れ三国人が暴れに暴れて、日本人の買出し部隊の物品を横領していたのですが、警察は全く手が出せず、彼等のなすが儘になっていた」ために、連盟もそうした買い出し行為の擁護に乗り出すことになったのである。東の証言を続けよう。「当時奄美連盟では、ある人脈の依頼で三越百貨店の六階のフロアを提供して頂き、そこを事務所にして県の依託事務の他に悪い三国人の鎮圧と治安維持に一役も二役もかっています。青年隊二〇〇人を組織して毎日三〇人を動員して、神戸駅周辺一五人三宮周辺一五人と割りあてをしてそこの治安と警備に当らせました」。いまはすでにない神戸市中央区の元町通商店街の西端に位置していた三越百貨店を拠点として、警察組織が弱体化した敗戦直後の混乱期に、奄美出身者ばかりではなく、日本人擁護を使命と考える奄美連盟の動きが見えてくる。「三国人が奄美の人や内地の人の品物をかすめ取る時は断固としてこれを阻止しなさい(但し警察がするのは邪魔しない)。万一言う事をきかない時は三越の本部に連絡しなさい。いつでも予備の応援隊を派遣するから。その結果は日を追うて彼等の暴動がなくなりました」と語っている。(『奄美戦後史』

 大橋さんは、差別的な意味ではなく、この時期の奄美人との関係で重要な意味を持つので、「第二次大戦前および大戦中、日本の統治下にあった諸国の国民のうち、日本国内に居住した人々の俗称。敗戦後の一時期、主として台湾出身の中国人や、朝鮮人をさし」た言葉として「三国人」を使っている。そして、

 当時の神戸における奄美出身者にとって、「三国人」を否定的にとらえ、彼らと自らを峻別することが、自己規定作業の重要な案件であった。

 いわゆる2・2宣言で、奄美が沖縄とともに米軍統治化に入ったことは、

 奄美は日本ではない。

 という規定を受けとったことを意味している。そのときの奄美の反応が、「三国人」との区別という形で現れている。「奄美は日本ではない」という規定に対して、

 奄美は外国ではない。
 奄美人は外国人ではない。

 という自己主張と行動が表出されたのだ。それは、「日本人擁護」という形すらとった。


 第1期では、もうひとつ読み取れることがあった。
 奄美連盟の幹部が昇夢曙などの東京の奄美出身者に連盟への賛同の話しを持ちかけると、お前たちの活動は「三国人的」だから共鳴できいないと一蹴されてしまう。そこで結成者の東は東京に乗り込み、「奄美三〇万の同胞がアメリカの占領下で途方にくれている時、東京のあなた方はどんな気持ちでおられるのですか?」と詰めより、東京奄美連盟発足の第一歩になったという。

 同じ奄美人同士の応答にも、中央からの距離によって「日本人」のグラデーションが認識の下敷きにあるような印象を受ける。中央にいる奄美人のほうがより日本人らしいという下敷きだ。


「“阪神”復帰運動に至る奄美出身者の慟哭」大橋愛由等
『奄美戦後史』1


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