「与論二世」というアイデンティティ
この文章を書くにあたっていろいろ資料を集めた後で、豚足やナリみそなどを買いに行きながら三和町界隈を歩く機会があった。改めて歩く街は、県庁移設などですっかり変わったが、奄美出身者には欠かせない物産店などで聞く鹿児島弁ではない「標準語」を開きながら変わらないものも依然としてあると思った。そして知識をえた後に歩く街がいつもと違って見えたことは、言うまでもない。花見の風景であったように、それぞれの島々/シマがそれぞれに存在し、それでいてそれらが同時に交差し、ノイズを出す鹿児島市のシマ。そのなかで多様なものが交差する音を開き続けること、そしてその音が作り出す空間が鹿児島市で過ごした「二世」のシマなのかも知れないと歩きながら思った。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』
ぼくは生粋のゆんぬんちゅは自分で終わるしそれはそれで仕方ないと思ってきた。それに、生粋と思うこと自体が思い込みで、ゆんぬんちゅだって、北から南から来た人たちの交流の産物に過ぎないからと考えたりして。けれど、本山さんのエッセイを読み、「与論二世」というアイデンティティのあり方があるのを知る。それは新鮮な驚きだった。
ぼくは、ぼくで終わるとあまり思いつめずに、子どもたちにも与論のことを、与論の子でもあることを伝えていきたい。そう、思い直そう。
「鹿児島市のシマ」本山謙二
『奄美戦後史』21
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