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2008/07/08

『鹿児島戦後開拓史』 2

 引き揚げ者は伊敷収容所からのちに鴨池収容所に移った。当時は伝染病がはやり、せっかく日本に帰りながら栄養失調と過労から命を落としたケースは数えきれない。ただ、いつまでも収容所にとどまってはいられない。やがて与論に帰る者、大牟田市の親せきを頼って出て行く者、それぞれ身のふり方が決まった。
 そのなかで挫折を乗り越え再び開拓で生きようと決心した人は七十五戸に達した。県開拓課、開拓日興会とも相談、入植地探しがはじまる。これらの指導機関は土地条件や人情など総合的に判断して、はじめ種子島行きを勧めた。甑島や坊津などの種子島移住が成功していることが大きな理由であった。

 けれど、与論開拓団の代表は首を縦にふらなかった。何でも相談してきた野村県諌宅で、町団長らは次々に訴えた。「与論島に比べ種子島は本土に近く面積も広いことは確かです。でも緊急を要するとき、未永い子孫の繁栄を願うとき、本土にしたいのです」「総合的に判断して、入植地は肝付郡の田代にしたいと思いますので、その線で県との折衝を願います」
 それほどまでなら…と県議も了承、政治折衝を約束してくれた。実は、郷里でも満州でも水と燃料(マキ)に恵まれずに苦労した与論開拓団の人たちは、再出発に当たり水とマキの豊富な入植候水が田代入植の決め手に補地として田代を選び、関係者の協力を求めたのだった。
 鹿児島には離島が多い。離れ島は自然の美しさとそこで暮らす人たちの厚い情けがかけがえのない宝だ。半面、教育・医療・娯楽面などは都会の尺度では測れないほど立ち遅れている。
 いまでこそ与論~鹿児島間は飛行機で九十分で結ばれるが、当時は船で五日もかかっていた。これでは親が危篤との知らせを受けたとしても、子どもは死に目にもあえない。本土であれば、こんな悲しい思いをしないですむ。〈肉親に会いたいとき、本土にさえ住んでいれば)これは島の人たちに共通した切実な気持ちなのだ。『鹿児島戦後開拓史―荒野に生きた先人たち』

 なぜ、与論開拓団は命からがら満州から本土へ戻った後、与論へ帰らなかったのだろう。一旗揚げようと出た手前、島の人に会わせる顔がないと思ったからだろうか。満州で事態が急変したため、開拓精神がくすぶっていたからだろうか。『鹿児島戦後開拓史』は、答えはそのどちらでもなく、いわゆる離島苦を避けるためだったように見える。であればこそ、種子島への移住も断り、田代に決めたのだった。

 この決断をぼくたちは軽んじられない。大型船ができ、TVが出来、航空機ができ、インターネットが出来、島と九州島や本州島との距離は格段に縮まっている。それでも離島の不安が根こそぎにされるわけではない。まして交通、交流手段が限られていた段階では、島の孤絶感、不安は現在と比べ物にならないくらい大きかったのだ。ぼくの父も退職後は島に帰らなかった。身体にひと一倍不安のある父も、離島苦あるいは離島不安を避けたかったのだと思う。



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