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2008/07/13

二重の疎外からの解放

第1期 敗戦の混乱~「祖国分離」
郷土会の乱立期      1945.08-1951.01
第2期 対日講和条約へ
署名運動の展開      1951.02-1951.09
第3期 復帰運動の再建
低迷期を経て運動の高揚 1951.10-1952.08
第4期 二島分離反対運動
「もうひとつの復帰運動」  1952.09-1953.12

 第3期は、サンフランシスコ講和条約で奄美・沖縄が米国の施政権下に置かれることになり、奄美・沖縄はさらに追い詰められ、それは復帰に対する態度の違いとなって浮かび上がってきた。そしてその態度の違いは一方的なものではなく、双方ともに協調できないことを言明する過程だった。

 まず、沖縄から奄美へのメッセージ。

沖縄出身者にとって、日本から分離された同じ運命を共有する者として、奄美出身者と共同歩調をとることはやぶさかではないものの、組織の一体化については疑問が出され、互い尊重しながら連帯していこうということとなった。その際に「薩南諸島から八重山群島までを総称するための組織名称(大橋注=南西諸島」のこと)では総ての連動で主体性と迫力が著しく減退すること」といった理由が「沖縄人連盟兵庫県本部」から挙げられている。“沖縄”という名辞が持つ磁力と象徴性にこだわっているのだ。

 ここで沖縄は奄美とのつながりについて、「日本から分離された同じ運命を共有する者」という消極的な根拠を挙げ、たとえば琉球王国の同胞としてなどのような積極的な根拠を挙げていない。沖縄は「南西諸島」という他者からの呼称ではなく、自家製の言葉で対置しようとしたのではなく、「沖縄」にこだわったのだ。奄美とのつながりを、同じ日本から分離させられた者という消極的な理由しか見出せないなら、「沖縄」という県を根拠にするのはある意味、当然だろう。

 二重の疎外により奄美は、「琉球ではない」という規定を受け取るが、それは沖縄にとっても、「奄美は琉球ではない」という規定として現れたはずだ。その規定は、時を経て、もはや自明になってしまったのかもしれない。しかし、「南西諸島」ではなく「沖縄」を選ぶとき、疎外されたのは奄美だけではなく、宮古、八重山も含まれるのかもしれなかった。「沖縄」は、「日本」という中心に対して、「沖縄」という中心で対抗しようとしているのかもしれなかった。

 次は、奄美から沖縄へのメッセージ。

指定された会場に赴いてみると、沖縄出身の若者が集まっていて、「奄美の青年と沖縄の青年が共に協力して復帰遥動を進めたい」という申し入れだった。これに対して京田は、「沖縄と奄美は共通した立場にあるので、復帰連動の協力を抱否するものではない」と連帯意識を披涯するものの、「奄美群民の九九%以上が祖国日本への復帰を悲顧とし熱望している。それに対して沖縄県民の間では、(1)祖国日本への復帰を希望する。(2)一定期間米国の統治も止むを得ない。(3)少数ながら沖縄県の独立を希望する。以上三派に分かれているとの情報がある」と分析して、奄美が一丸となって祖国復帰を目指している立場の違いを伝え、「したがって沖縄県民の重心が、祖国日本への復帰に統一されていない状況下で、復帰運動を共にする事は、結果的に私達の運動が束縛される危険がある。以上の理由で現時点での協力は不可能である」と答えたのである。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 ふつうに考えれば、復帰から独立までの議論の幅があるのが健全である。それが奄美にはなかった。なぜなのか。ぼくは、二重の疎外により奄美のアイデンティティはいつも不安定で、より追い詰められていたからだと考えるしかないと思う。

 大橋さんによれば、この両者は、アメリカへの態度にも違いが認められるという。

 この二つ目の事例について言い得ることは、沖縄側からの「南西諸島」という名辞への反発と、奄美側の「祖国日本」への求心力と復帰を保証するための(親米〉の態度である。これは「アメリカの反目をかいたくない」といった意味にも還元できよう。

 ここには反米の態度は復帰に差し障るという奄美の切迫した心情が伺える。けれどそれだけではなく、奄美に親米の態度があったとしたら、それはアメリカの統治が二重の疎外からの解放を意味する面があったからである。二重の疎外は、「奄美は琉球ではない。大和でもない」というカタチをしていた。これに対して、アメリカの統治下では、「奄美は琉球ではない」という疎外が外的な強制力のたまものとはいえ解かれる。また、「大和でもない」という規定は、同一に見えるが、それは日本から受けた規定ではなく、アメリカから受けたものであり、かつ日本との交流が絶たれることにより、二重の疎外の構造がいったん宙吊りにされたのである。ここには、その事態を深呼吸する余裕はなかったはずだが、二重の疎外からの解放という意味を確かに持ったのであり、それが親米という態度になって表出されたのだと思える。


「“阪神”復帰運動に至る奄美出身者の慟哭」大橋愛由等
『奄美戦後史』3


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