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2008/07/16

南二島からみた復帰史

 『奄美戦後史』。次は、川上さんの「復帰運動史の中の南二島分離問題」。
 川上さんの問題意識は、

 奄美諸島の日本復帰運動史の記録は奄美大島、ことに名瀬市中心に書かれたものが多く周辺離島の話は少ない。復帰運動に対する各島々の温度差があり、沖永良部島や与論島(以下、沖永良部、与論)二島分離問題などは悲しいかなどこか片隅に追いやられている。「奄美大島だけが奄美ではないよ、周辺離島のこともちゃんと書いてよ……」と末の弟たちのごとく見栄に駄々を言いたくなる。

 というもので、嬉しい限りだ。駄々をこねましょう(笑)。

四五年四月、米軍は沖縄に上陸した。沖永良部や与論は沖縄に近い。南西の空が赤々と燃え上がり砲弾の音が聞こえてくる。島の住民たちは次はこの島に米軍が上陸するのではないかと不安にかられ、最後の「その日のために」第三避難壕と呼ぶ数百ヵ所警カ所ほどの集団自決壕も掘った(九九年、和泊町越山周辺で私がその一部の壕を発見した)。幸い戦争が早く終わり米軍の上陸もなく沖縄のような悲劇は起こらなかった。

 沖縄島を見つめながら固唾を呑んだのは、与論だけではなく沖永良部もそうだった。ぼくは沖縄島での地上戦の上に自分の命があるのを知っておきたいと思う。「集団自決壕」を掘っていたことも。

 戦争は終わった、わが家でも長兄は船員で軍属であったが北海道千島列島で戦死した。もう一人の兄も栄養失調死という悲劇をかかえながら戦後復興にとりかからなければならない。それは子だくさんゆえ、来る日も来る日も食糧増産に追われていた。芋を植え、根っこまで食べつくしたソテツを植え直し、海水を炊き塩を作った。海も陸も山も、ありとあらゆる物が食料となる時代の到来であった。から芋(サツマイモ)を構えても太るまで待てないから収量が少ない。常食はヤラブ(ソテツの実)のおかゆ。食べてもすぐお腹が減る。次兄は食べ盛りの弟や妹たちの残飯を食べた(お米の残飯でなく芋の皮を丸めて)。  「これではいけない、弟や妹に飯を食べさせたい」と思い、沖縄に出稼ぎに出た。沖縄ではいくつかの転職の後、運よく米軍の消防隊に入れて故郷の病弱な母親の薬代と家族の食糧代の足しに仕送りを続けた。

 徳之島の浅間飛行場建設に徴用された父親たちは、家庭での「黒糖酒」作りを学んできて、簡単な仕掛でソテツの実の粉でお酒を作っていた。子供の私たちは酒釜の前で番をさせられ、時々なめて顔を赤くしていた。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 ここでは、戦後の食糧不足と、それを補うための近隣の島への出稼ぎの様子が分かる。でも、川上さんの人柄だろう。苦しい状況を伝えていても、「子供の私たちは酒釜の前で番をさせられ、時々なめて顔を赤くしていた」というユーモラスな表現が素敵だと思う。


「復帰運動史の中の南二島分離問題」川上忠志
『奄美戦後史』6



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