« 「与論二世」というアイデンティティ | トップページ | アイデンティティの問い直し »

2008/07/31

奄美内部からの日本復帰相対化の声

 高橋さんの沖永良部学に触れて、杉原さんや黒柳さんのように奄美の日本復帰を相対化する考えを、奄美内部からも聞くことができた。

 日本復帰後の約三〇年間は、本土への応化が進み、「中心主義」に発展する。この時代には島民の意識に大きな変化がみられた。日本への復帰運動の中で、沖永良部島民は「本土」か「沖縄」かという二者択一を迫られた。本土と沖縄を両極(中心)として、その狭間で生きてきた沖永良部島民は、復帰運動の勃興とその結果達成された復帰という歴史的事実により、自らのアイデンティティを大きく揺さぶられた。漠然と捉えられていた生活習慣や芸能は、この復帰を境に、それらが「本土」のものであるのか「沖縄」のものであるのかということが意識され、その正統性を追求するという「中心主義」に発展する。しかし、これは同時に、自ら固有のアイデンティティの存在に目を背けてしまうことに他ならなかったのである。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 高橋さんは戦後の沖永良部島を3つに区分している。まず、第一期は敗戦から復帰までの米軍施政権下の時代で、特殊な状況のなかで芸能が盛んになった。第二期が、引用した箇所で、本土への「中心主義」に傾斜する時期である。だがこの時期は、本土に目が向くことは「自ら固有のアイデンティティの存在に目を背けてしまうことに他ならなかった」としている。復帰が相対化されていると感じられるのはこういう箇所だ。日本復帰をして日本人になったということだけが結論の文脈のなかからはこの言い方は出てこない。

 そして第三期は、1980年代後半で、高橋さんによれば、

この頃になると、標準語推進運動の成果により標準語を話せる子供は多くなったが、反対に方言を話せる子供が少なくなり、教育者たちは島の方言が消滅してしまう可能性に気づき始めた。方言を話せない子供たちが親になる時代を想像し始めた。現時点では方言を話せる老人もいるが、次第に少なくなることは明らかで、子供に方言を伝承できる者がいなくなれば、方言の消滅は必然であると容易に推測できるからである。島の文化である方言消滅に強い危機感をもったため、学校や社会での方言使用禁止の方針はなくなり、逆に方言の大切さが説かれ始めた。

 与論でもいまでは、学校の教室で「方言」の授業がある。方言を徹底的に禁じたその同じ空間で方言を教えるというのだから、隔世の感があるというものだ。

 郷土の再評価の時代の影響もあり、沖永良部島民の多くは、島の文化に誇りをもっている(中略)。そしてまた、島民は、復帰運動では、日本人、鹿児島県民であることを主張したが、文化的には鹿児島より沖縄の文化に愛着や親近感を強く感じている。その中でも歴史的に長期にわたって島民が志向し続けた沖縄の芸能は、特に島民には愛着があるようである。(中略)地域や地方の足元の文化を見つめ直す中で、改めて沖縄との文化的繋がりが再認識され始め、沖縄との交流も盛んになってきている。

 これは与論もそうだと思う。沖永良部や与論にとっては、「沖縄との交流」は自己回復という側面を持っている。それは理屈ではない。高橋さんが冒頭に書いているように、沖縄の民謡を聞いて「血が騒ぐ」のだ。


「沖永良部島の戦後史から現在をみる」高橋孝代
『奄美戦後史』22



|

« 「与論二世」というアイデンティティ | トップページ | アイデンティティの問い直し »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 奄美内部からの日本復帰相対化の声:

« 「与論二世」というアイデンティティ | トップページ | アイデンティティの問い直し »