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2008/07/29

帰りを待つ島人の街

 1946年の2・2宣言の後、本土から引き揚げる島人は、まず「非日本人」登録をしなければならなかった。

そうした「非日本人」登録をふまえながら復興史をみていくと「終戦を機に大島を主として、種子島、屋久島、沖縄方面の離島復帰者が、どっと鹿児島港へ詰めかけた。しかし各離島の領土帰属問題がはっきりしないうえ、就航船舶の手当てもつかない状況であったため、状況待ちの人々が同港付近に滞留した。(中略)しかもこの滞留者は九月以降も次第に増え、期間も長期化し、市は天保山に収容施設を決めて、沖縄帰還者を中心に収容した。」という「状況待ち」という記述など深く理解できる。このように鹿児島市は、戦災都市のなかでも、米軍占領が決まったトカラ、奄美、沖縄方面へ帰還する人々が、鹿児島港から出る船便を頼り、港周辺へ集まり「状況を待つ」という側面をもった都市だったのである。そして米軍占領下に置かれると、「目的の島々は、米軍占領地のために帰国できない。当然集結してきた人々は、焼け跡地にバラックを建て、雨露をしのぐことになる。さらに生活の手段として、そこでなんらかの仕事をはじめる。このため鹿児島市ではいわゆるブラック・マーケット『ヤミ市』の中にこれらの人々が含まれる結果となった。この露天形式のものや、路上に品物を並べただけの風呂敷商売が、鹿児島駅から朝日通り界隈まで続いていた。小川町・易居町一帯である。」と米軍占領により帰る事ができなくなった人たちが小川町や易居町周辺で生活し始めたことを記している。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 恥ずかしながら、ぼくは本山さんのエッセイで、初めて小川町、易居町に奄美出身者が多い理由を知った。そこは戦後、思うように島へ帰れなかった「トカラ、奄美、沖縄」の島人が集う場所だったのだ。

 そういえば、6月、南方新社の向原さんに連れて行ってもらったのは、あれは易居町の居酒屋だった。鹿児島にもちょっと懐かしい場所があると思うと、嬉しい。

「鹿児島市のシマ」本山謙二
『奄美戦後史』20


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