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2008/07/17

「低調で大らかな運動」

 米軍基地のあった沖永良部島は基地経済で賑わっていた。そして、同じ奄美でも大島とは違う現実があった。

米軍兵士が百人前後駐留、地元の作業員や米軍兵士のポケットマネーで働く人たちなどがいて知名の街は基地経済で賑わっていた。  沖縄と文化や経済的にもつながりが深く距離も近い沖永良部や与論の一般住民にとっては現実的には名瀬市民のような切実感はなかった。それは島の若者たちは日本本土のかわりに沖縄に出稼ぎに出て仕送りを続けた。

 沖縄とアメリカとのつながりが、この二島に余裕を生んでいる様が見て取れる。

 名瀬市の軍政府と違い沖永良部のレーダー基地は後方支援の兵士たちだ。住民との融和政策を取ったのか比較的に兵士と住民は仲が良かったという。基地建設当初から基地の真ん中を町道が通り、住民の生活道路で自由に往来していた。クリスマスには島民を招いてのクリスマスパーティーも基地内であった。
 それに貧苦のどん底にあっても自給自足的な農村地帯。食糧値上げも直接の影響は少なかった。名瀬市という中央から離れた離島という背景もあり、名瀬市民のような軍政府による締め付けもあまり及ばないので復帰運動が大衆運動にまでは発展していなかった。
 情報不足という側面もあった。新開はもちろん、ラジオすらも家庭にはない時代。島民の情報入手は電報だけだった、それは役場とか限られた場所にしか届かない (復帰運動期間中の役場の電報は八百通を超えた)。一般住民は戦後の混乱と生活に精一杯で復帰運動への関心が薄かった。
 復帰協議会支部傘下の和泊町青年団長の大脇達夫氏や知名町の石山栄川氏、与論町の福富雄氏などが名瀬に参集し、密航陳情団に参加。苦労しながら東京に陳情に出かけている。しかし教職員や青年団などを除いて運動は低調で大らかな運動だった。『奄美戦後史―揺れる奄美、変容の諸相』

 アメリカとの交流がある。自給自足で食糧不足も深刻ではない。軍政府の締め付けもあまり及ばない。情報も不足している。こうした背景は、沖永良部島と与論島が呑気である条件になった。この事実は重要だと思う。これはことアメリカ占領期だけでなく、薩摩藩占領期にも同様のことが言えて、それが現在の島民性に影響していると思えるからだ。

 この事実は、奄美史をトータルに見据える上でも、南奄美としてのぼくたちが北奄美を思い遣る上でも大切だと思う。


「復帰運動史の中の南二島分離問題」川上忠志
『奄美戦後史』8



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